三田キャンパス図書館旧館八角塔脇の小高い丘(通称文学の丘)に小山内薫の胸像が建っている。一高、東大出身で築地小劇場を興し日本における新劇の父である薫の胸像が三田山上に建つまでの経緯を紹介する。

小山内薫胸像(三田キャンパス)
出生から演劇活動の開始、眞砂座跡
薫は、明治十四(一八八一)年、陸軍軍医であった小山内建(玄洋)と、小栗忠順の分家にあたる旗本三河小栗氏の出の母?の長男として、父が赴任していた広島県広島市細工町(現中区大手町)で生まれた。五歳のとき父が三十八歳で早逝、東京へ移った。母親が芝居好きだったこともあって、少年時代から演劇に親しんだ。府立一中在学時、狂歌や詩作にはげんだ。この狂歌の会で、後の盟友となる歌舞伎役者二代目市川左団次と知り会うことになった。明治三十二年第一高等学校に入学、失恋をきっかけに内村鑑三の門に入り、『聖書之研究』の編集助手を務めた。東京帝国大学英文科に進学。英語教師ラフカディオ・ハーンの解任に対する留任運動に加わったため、一年留年したといわれている。
東京帝国大学在学中から、亡父のかつての同僚でもある森鴎外の知遇を得て、舞台演出に関わり、詩や小説の創作をおこなった。明治三十七年十一月、森?外の実弟である、劇評家の三木竹二の紹介で、薫訳の「ロメオとジュリエット」を日本橋中洲にあった眞砂座で、川上一座から独立した新派俳優伊井蓉峰が座長を務める劇団が上演した。大学卒業直後の明治三十九年十一月三日から三十日にかけて、同じく眞砂座で、薫の脚色による夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』が伊井らの出演で上演された。現在、日商岩井日本橋浜町マンションの脇に、「漱石「猫」上演の地」の添え書きのある、平成十六年一月建立の「眞砂座跡」の石碑がある(中央区日本橋浜町五の一)。早稲田大学第十四代総長奥島孝康による説明板が添えられている。碑文には、「夏目漱石の「我輩ハ猫デアル」は、小山内薫によって脚色された。伊井蓉峰らが出演し、日本橋中洲の眞砂座跡で明治三十九(一九〇六)年十一月三日から三十日にかけて上演された。平成十五年十月吉日 早稲田大学 第十四代総長 奥島 孝康 識」とある。

真砂座跡.
翌明治四十年、薫は同人誌『新思潮』(第一次)を刊行し、近代演劇の確立者イプセンをはじめとする海外の自然主義戯曲の紹介を行い、演出の機能を理論化したゴードン・クレイグの研究をすすめた。潮文閣から六冊刊行されたこの第一次『新思潮』は、新劇運動の先駆をなした雑誌であった。同四十二年、二代目左団次と共に西欧に倣った自由劇場を興し、以降大正八年まで、『どん底』などの西欧近代劇の翻訳による「新劇」を上演した。
義塾との係わりと急逝
明治四十三年、薫は義塾大学部文学科の講師として迎えられ、劇文学の講義を受け持った。その年は義塾文学科に大きな刷新が加えられた時で、殊に教授陣容の充実を図ったことが注目される。即ち文学専攻では、永井荷風、小山内薫、戸川秋骨、小宮豊隆といった新進気鋭の士が、教授スタッフとして加わっている。また同年五月には『三田文学』が創刊されている。爾来大正十二年三月までの十三年の長きに亙り、義塾文学科と三田文壇の流れのなかで薫の果たした役割はきわめて大きなものがあった。学生の中には薫が選考を務めた懸賞戯曲でデビューした久保田万太郎や、佐藤春夫ら三田派の新進作家たちがいた。
さらに教壇を辞してからも、薫の名を不朽のものとした築地小劇場の発足は、実にその一カ月前の大正十三年五月二十日、義塾大学演劇研究会主催の三田大講堂での講演が、直接の発端となったものである。薫は「日本の既成作家の脚本には何ら演出欲をそそられるものはない。われわれの劇場では当分翻訳劇のみを上演する」と宣言した。
また薫が昭和三年の十二月二十五日、築地小劇場の公演作「晩春騒夜」打上げの会に招かれた席上で、四十七歳の若さで心臓麻痺により急逝すると、夫人とその三人の遺児のために教育基金の募集を行ったのは、慶應義塾社中の人々であった。その結果募金総額は九百九十一円に達し、その内諸経費を差し引いて八百六十三円四十四銭を、昭和五年二月二日、薫の遺族に贈った。亡骸は多磨霊園に葬られた。戒名は「蘭渓院献文慈薫居士」。府中市多磨霊園の五区一種一側三七番にある墓石正面には、左団次の筆により「小山内薫之墓」と刻まれている。
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