北谷まり

きたたに 眞利

くらしの声を市政に届ける

日本共産党横浜市会議員

プロフィール

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略歴

1961年横浜市鶴見区生まれ
横浜女子商業学園中学校・高等学校 、産業能率大学(通信)卒
海外旅行コンダクター、ロイタージャパン,、日本共産党に勤務
2015年4月横浜市会議員初当選
市会における現在の所属常任委員会などはこちらをご覧ください。
趣味:旅行、芸術鑑賞

私の原点

ひとり親として、仕事と子育ての責任をひとりで担っていたからこそ、「限界を超えた自助努力が求められるのはおかしい」と実感しています。誰もが将来の不安なく暮らしを楽しめる、自分の可能性を諦めなくてよい公平な社会を実現したい、これが私の思いです。

北谷まりのあゆみ

横浜生まれの横浜育ち

1961年12月8日横浜市鶴見区で生まれました。幼稚園・小学校では超内気で、何を言われても聞かれても、ただ首を縦横に振るだけしかできませんでした。我が家は「手に職を」と、「教育には最良の環境を」という親の方針で、横浜女子商業学園中学校に入学しました。高校生と一緒に部活や学校行事を行うので、将来の自分の姿がイメージしやすく、どんな女性になりたいかをじっくり考えられる中学時代でした。校舎の窓から、たびたび横浜に寄港する「クイーンエリザベスⅡ」を眺めて過ごし、「仕事で世界を飛び回る自分」を目標に定めた高校時代でした。

平安小プレート そのためには外国語ができることが必須条件。英語を使うアルバイト(貿易会社で英文タイプや国際ホテル・見本市での接客)をしながら語学学校に通いましたが、就労分野を決めなければ職業に結びつかないと考え、当時、成長産業だった旅行業界を目指すことにしました。そしてツアーコンダクターという新しい職業に興味を持ち、業界で実績のある、トラベルジャーナル旅行専門学校(現校名:ホスピタリティツーリズム専門学校)で学びました。

ツアーコンダクターとしてデビュー

当時、男性中心の仕事だった海外添乗業務につきました。、最初の仕事はは台湾、米国西海岸でしたが、中国旅行が大ブームとなり、その後しばらくは日中を往復する日々でした。当時の中国ツアーはいつもトラブル続きで、「皆さんの今夜のホテルは最新のホテルです。」と言われ、喜んだのもつかの間、まだ工事中だったなんていうことを、いっぱい経験しました。今でも記憶に残っている中国での出来事は、昔、旧満州に住んでいた日本人と一緒にハルビンに行ったとき、牡丹江に行く汽車の中で、現地の老人に「あなたは日本人か。これを見てくれ、これは抗日戦線で戦ったときの傷だ」と話しかけられたことでした。

豪華客船飛鳥 ヨーロッパツアーでは、長時間の飛行機移動と時差ボケで、体力的にきつくなりますが、それでも毎日が新鮮で学ぶことが多くありました。
観光を経済の重要な位置づけにしている欧州では、観光の仕事は専門職として確立されており、日本との違いを感じる日々でした。また労働者の権利がとても強く、ツアー中にストライキに遭うこともありました。あるとき、英国航空でロンドンからアテネに移動中、突然、機内のアナウンスが始まりました。「ただいま、アテネの空港はストライキに入りました。着陸できないため、キプロス島にまいります。」英国航空によるキプロス滞在時のケアーがしっかりしていたため、1日遅れでアテネに到着することができました。

治安も日本とは大違いです。ヨーロッパには観光客が多く来るため、観光客を狙った犯罪集団が出稼ぎに来ているのです。スリや置き引きは当然のこと、通りすがりにカバンがナイフで切られないよう、手でしっかりと押さえておく必要がありました。

ロイターへ転職

湾岸戦争(1991年)をきっかけに仕事量は激減しました。語学力を生かせる、ロイタージャパン㈱編集部で働くことができました。
多国籍スタッフで構成された編集部の多様なニーズに、バイリンガル(二ヶ国語)で迅速に対応する仕事は、世界とつながっていることを実感できるものでした。

空爆の跡地 インターネットがまだない時代、世界の隅々までをカバーするニュースに囲まれ、グローバルに活躍するジャーナリストと一緒に働けたのは、幸運だったと思います。ニュースの仕事を通じて、現在を軸にして過去から未来まで見つめることを学びました。また、金融・株式・商品などのマーケット動向から世界を見るという視点も持つことができるようになりました。しかし、ヘッジファンドなどの動き、「グローバル・スタンダード」という名の英米流の押しつけに疑問を感じるようにもなりました。このようなことに視野・興味を広げつつも社会の変化と自分の将来を考え、社会での実務経験が生かせる産業能率大学通信教育部で学ぶことに決めました。(写真:イランとイラクの国境の街、爆撃を受けた建物)

働きながら子育てする

子育て 子どもがいることのハンディを真っ先に感じたのは、自分のキャリアや意欲とは関係なく、労働市場から排除されるか、せいぜい半人前にしか扱われないということでした。正社員での仕事を新たに探しても、小さな子がいるというだけで門前払いされ、やっとみつかった仕事は、翻訳専任の派遣社員でした。しかしそこの仕事は1年半で雇い止めにあいました。子どもがいることがメリットになり、息子の英語教育にも役立つ児童英語講師に転身しました。が、収入はパート程度にしかならず、子どもの小学校入学に合わせて、再度、正社員での再就職を目指しました。激戦を経て、外資系保険会社の女性管理職候補生として採用されたものの、子育てとの両立は不可能で、再び、翻訳専任の派遣社員として働き始めました。(写真:飛行機好きな息子と整備工場見学で)

日本共産党に出会う

西口志位委員長と北谷まり候補 リーマンショックにより、派遣で働いていた大勢の人が不当解雇され路頭に迷う姿が報道され、派遣で再び働き始めた私は大きな不安に包まれました。そして、たまたま国会中継で見た、志位委員長が派遣労働者への理不尽な扱いを追求する迫力あるシーンに目が釘付けになりました。「弱い立場の非正規で働く人を守るのは、ここしかない」と感動し、神奈川県委員会にメールを送りました。そして、地元の市会議員と地区委員から連絡をいただき、とても温かくしていただいたことが、入党のきっかけとなりました。(写真:志位委員長と一緒に訴える北谷まり候補)

労働環境の悪化の中で

二俣川 派遣先として働いていた会社は、ほんとにひどい会社でした。私が雇い止めされるまでの3年半の間に、どれだけの正社員がクビを切られたことか。クビ切りになれてしまうと、それが不当なことであるという感覚が鈍ってしまいます。そして、それまで正社員が担っていた仕事を派遣に置き換えていくという、労働条件の切り下げが蔓延しています。どんなに能力と実績があっても、正当な処遇を受けられるわけでなく、使いすてにされる派遣労働は規制すべきです。一方、正社員の名のもとに、過労死するほど働かなければならないなんて、どう考えてもおかしいと思います。「人間らしい生活ができる労働をよこせ」と声を大にして、言いたいです。(写真:街角演説会。雨の中近所の人が出てきて聞いてくれました。)

県委員会に勤務、そして市会議員に初当選

総選挙本番 2013年5月からは日本共産党神奈川県委員会 総務部に勤務しました。そして、2015年4月、横浜市会議員として初当選させていただきました。子育てと仕事の間で苦労してきたこと、仕事を通じて学んできたことを生かして、市民本位の市政のために働きたいと考えております。

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