ホームページ・メッセージ081109            小 石  泉

へりくだりなさい


 信仰とは一言でいえば神と人に対してへりくだることです。
 最近、私は幾人かの自称預言者の話を耳にしました。その人々はみんな女性でした。言っていることは、およそ馬鹿げた、下らない話ばかりでした。自分は神から特別な霊感を受けていると言います。そして、危なっかしい預言をします。そして、決まって言うのは、この教会や自分から日本のリバイバルが起こり、それは世界のリバイバルとなるというものです。この自分中心のリバイバルの話は必ずといって良いほど話されます。私は何度、耳にしたことでしょうか。そして、そんなことは一度も起こりませんでした。この手の人々に共通するのは、自分が何か“大きな者”であるということへの期待です。
 恐らくこういう人は過去に何らかの屈辱や満たされない自意識があったのではないかと思います。それはトラウマとなり、逆に自分を大きな者と考えたいのでしょう。
 自分を他人と比較して大きな者としたいという期待は、人間にとって抜きがたい誘惑のようです。イエス様と行動を共にした弟子たちでさえこう言っています。

それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。ルカ22:22~:26

 これは弟子たちがイエス様と三年半一緒に居て、イエス様が十字架に掛かる直前の出来事です。イエス様はどんなにがっかりされたことでしょう。そして、それは今でも同じです。私たちはなかなかこの誘惑には勝てないのです。ある牧師先生が、何度も「日本一の牧師」としきりに言うのを聞いて、自分も若いころ有名になりたい、日本一の牧師になりたいと思っていたことを思い出しました。日本一という言葉の持つ競争心が実はとても恥ずかしいことだと気がついたのは、私の場合はそれから十数年経ってからです。

何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。ピリピ2:3

 「互に人を自分よりすぐれた者」とする、というのは、実に難しいことですが、キリスト教信仰の真髄です。もしこれが出来たら、クリスチャンのほとんどの問題は解決してしまうのです。
 私が神学校に居たある日、祈るために友人とチャペルの講壇の前にひざまずきました。するとかつて無い感覚に襲われました。それは神様の臨在が私に近づいて来られたのです。その時、私は飛び上がるほど驚きました。そして、瞬間的に自分の醜さ、空しさ、小ささを感じました。私は風で飛んでゆく枯葉よりも、塵や灰よりも、空しく、無価値な自分に恥じ入りました。私は思わず叫びました。「ああ、神様、それ以上近づかないでください!私は消え去ってしまうでしょう。」体はぶるぶると震え、隣に居た友人は「小石、どうしたんだ、落ち着け。」と支えてくれました。
 私たちは神の臨在の前には、全く無価値な存在なのです。怒ることも、不平を言うことも、悩むことさえ許されないほど小さく、空しく、哀れな存在です。それは神様の前に出れば分かります。あのイザヤさえこう言っています。

ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。イザヤ6:1~5

 この最後の言葉は、私には少しだけ分かります。本当に畏れと恐怖と自分への失望が襲ってくるのです。しかし、どうぞ私が何かを誇っていると思わないでください。それどころか私は罪深い、汚れた、もろい土の器に過ぎません。そして、そのような経験の後でも、すぐに、自己愛、弁解、競争心、利己心、罪から離れることはできませんでした。人間とは、悲しいものです。
 私たちが神のみ前に出た時、この世で、もし、神が語られたのではない預言を語っていたら、どんなに恥ずかしい思いをすることでしょうか。これは自分の弱さによって犯してしまう罪ではなく、しなくてもいいことなのです。ただ、自分を大きな者としたい虚栄心からやることなのです。女性の美徳は何かすごいことをすることではなく、次の御言葉のような姿勢です。

婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。Ⅰテモテ13:11

 もちろん、これは女性だけではなく、男性も同じことです。へりくだり、静かに他人の足を洗う人。人の失敗を責めず、暖かく包む人。そのような人こそ神の前に価値あるクリスチャンです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。Ⅰテサロニケ5:16~18

 この御言葉が実践できる人は、本当にへりくだった人です。私たちは、いつも悲しんでいるし、祈らないし、全てのことに不平不満で一杯でいないでしょうか。私もなかなか実践出来ません。
 ルシファーがサタンになったのは、神のようになりたいという高慢からです。高慢はサタンの性質なのです。イエス様はその反対に、僕となられました。高慢はサタンの性質、謙遜はキリストの性質です。もし、私たちが本当にキリストに似る者となりたいなら、まず何よりも、へりくだりを学ぶことです。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。ピリピ2:6~8

 イエス様は自分についてこう言っています。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。マタイ11:29

 もし、私たちがへりくだりを学ばないなら、どんな大きな業や預言をしても、何の価値もありません。これは長い学習と訓練だけで到達できるものです。私にも遠い、はるかな目標です。しかし、これを学ばないなら、私たちはキリストの僕とはなれません。
 へりくだりなさい。自分に何か賜物があるとうそぶく前に。塵のように灰のように、へりくだりなさい。もう一度言います。へりくだりなさい。

http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

上記の文章と無関係ですが入院中に創価の会員の方で、聖教新聞を取り読んでいるという方がいましたが、この方は何と、幻聴で題目が聞こえたために入院させられたとのことでした。一見悪人には見えず、人がよさそうで目も優しい方でした。この場合はきっと会員なのに、体よくだまされて医療費を取られているのだと思いましたが、一般の集団ストーカー被害者のほうがきっと荒唐無稽なひどい目にあっているとは思いますが、会員もだまして利を得ようとするというのは分からされた気がしました。

ーーーーーーーーーーーーーーー

上記のメッセージは「へりくだること」を教えていますが悪態なども所詮は高ぶりの一種かと思うと絶望します。一昨日より具体的な自殺法を考えていましたがあの荒唐無稽な苛め方を味わっていると存在を消したくなるというのはよく分かります。

私のいる地域ではこの数ヶ月間に数件の飛び込み自殺と思われることがありました。(電車への飛込みによる人身事故です)

後は地域中が異様な感じになり荒れた家や空き家や逆に新築のマンションや建売住宅が次々と急増しています。ゴミの不法投棄もひどくやりきれない惨状を呈しています。

私自身は毎日続く異常粘着いじめに苦しむ状態です。