21歳弟を姉が殺す悲劇生んだ異様な家族事情
弟を殺害し、バラバラに解体してしまった姉の言い分とは?(写真:ipopba/iStock)
「家族」だからといって、すべての人が仲良く、手を取り合って暮らせるわけではありません。中には親子や兄弟同士で激しく憎しみ合い、争いの末、裁判や事件にまで発展してしまう家族もいます。
本記事では、裁判の傍聴を通じて、「現代の家族が抱える問題」に焦点を当てます。執筆するのは、傍聴ライターとして10年以上法廷に足を運び続ける高橋ユキさんです。
2016年9月12日、千葉県酒々井町(しすいまち)の一軒家に住む竹内諒さん(当時21歳)が遺体で発見された。諒さんと連絡が取れなくなっていたことを不審に思った友人たちが家を訪れ、110番通報。警察官が室内から、バラバラに切断された彼の遺体を見つけた。翌日、死体損壊と死体遺棄の疑いで逮捕されたのは、この家で諒さんと2人で住んでいた、姉の竹内愛美(えみ)さんだった。
公判は2年後の2018年2月に千葉地裁で開かれた。愛美被告は死体損壊と死体遺棄に加え、諒さんを刃物で殺害したという殺人罪と、諒さんが亡くなった後に彼のクレジットカードを使いフリマアプリで洋服を購入したという電子計算機使用詐欺罪でも逮捕起訴されていた。
逮捕当時、諒さんが生前更新していたSNSが注目され、「2人暮らしだけど冷蔵庫も掃除機もオーブンもベットも2つあります」「これだから姉は嫌なんだ」といった書き込みから、姉弟の仲は必ずしも円満とはいえないことが推察されていた。とはいえ仲の悪い姉弟など珍しくはない。だが、冒頭陳述や証拠から浮かび上がってきたのは、この姉弟の厳しい生育歴だった。
調書で明らかになった異様な家族関係
愛美被告は1991年4月に、両親の間に長女として生まれた。下には次女、そして諒さん、三女がいる。後に6人で、酒々井町の家に住み始めたが、2008年ごろに父親が精神疾患により休職し、自宅で療養生活を送るようになった。自殺未遂を図り救急車で搬送されたこともあったという。2011年には両親が離婚し、母親が出て行く。その2年後、三女も家を出て母親のもとへ。4人で暮らしていたが、2014年に父親が死亡し、次女も出て行った。以降事件まで、この家に愛美被告と諒さんとで暮らす。
両親の離婚当時、父親に経済力はなかった。だが、きょうだい4人とも母親について家を出ることを拒み、父親と酒々井町の自宅に残った。それはかねてからの母親の虐待行為が大きく関係していた。証拠によれば母親は子どもたちが小さい時から体罰を加えており、特に諒さんに対しては顕著だったという。生前に諒さんから母親の虐待について聞いていた元交際相手は法廷でこう述べた。
「(諒さんは)母親のことは『あの人』と呼んでいました。ご飯を作ってくれないとか、掃除機でたたかれたとか、小さい時は頻繁に暴力を受けていたと言っていました」母親の弟であり、愛美被告や諒さんの叔父にあたる人物も調書でこう語る。
「姉は愛美や諒くんなど子どもたちに対して、理由はよくわからないがよく怒っていた。次女と諒くんはよく怒られていて毎回ではないが頭をたたいたりしていた。自分の母は姉のことを『いちばん育てるのが大変だった。アイロンでいすを壊したり、タンスを壊したり、モノに当たって大変だった』と言っていた。子どもたちは姉を嫌っていたと思う。離婚した時も自分についてくると姉は思っていたらしいが、実際は誰もついて行かず、父のもとに残った。父親が亡くなっても子どもたちは姉に連絡することなく、葬儀の手続きを自分たちだけでやった。姉は『たまに電話しても出てもらえない』と言っていた」
しかも当の母親も、法廷にこそ現れなかったが、調書で自分のこうした言動が事実であると認めていた。
「小さい頃から諒は口答えが多いと思っていた。体操服は下の妹や弟に順番にお下がりとして着せていた。男女兼用で着せており諒には破れた体操服を縫って着てもらっていた。裕福ではなく夫も会社を休みがちだった。子どもが多い家はこういうことをどこでもやっている。諒の高校時代、私との関係は冷え切っていた。妹をいじめたり言うことを聞かないので、ビンタなどたたくしつけは、ほかの姉弟よりも多かった。わが家のルールとして自分で食器を洗うというものがあったが、諒はしばらくしてやらなくなったので、私はその皿を洗わず、前の食事の汚れがついたままの皿に食事を盛り付けていた。言うことを聞かないので、食事を抜いて2日程度諒だけ食べさせないこともあった」
一方の父親は病気になるまでも、母親の調書によれば、「あまり話をせず、育児にまったく無関心で、子どもの名前を呼ばない、抱かない、話をしない。自分の部屋にこもっていた」という。愛美被告をはじめとする4人の姉弟たちは、そんな両親に育てられた。
長女だった愛美被告は両親の離婚後、大学を中退。経済力を失っていた父親の代わりに仕事についた。未成年で学生だった妹たちや諒さんにスマホや服などを買い与えていたという。事件当時までスーパーのレジ打ちの仕事を続けていた。
母親の虐待が子どもたちに与えた影響
精神鑑定を担当した鑑定人は、愛美被告を「機能不全家族で育ったサバイバー」だと評した。「機能不全家族」とは、家庭内に育児放棄や虐待などが存在し、無意識的に子どもが抑圧されてしまう家族のことを指す。こうした環境で育った子どもは、成長の過程で愛情を得る機会が乏しく、自尊心や自己愛、他者への共感などが欠けることがあるといわれている。事件の被害者である諒さんも同じサバイバーであり、また母親から特に暴力を受けていた。
成人してからの愛美被告は、それまで親代わりにと節制してきた反動か、買い物におカネをつぎ込み、バレエやドラムなど、興味を持った習い事をいくつも始めた。一方、かつて母親から食事を抜かれていた諒さんは料理を独学で学び、わざわざ千葉から京都まで出向いて包丁を購入。それを使って友人らに手料理を振る舞うことを楽しみにしていた。それぞれに、親との暮らしでは得られなかったものを充足させようと生活していたように見える。
だが、愛美被告はなぜ諒さんを包丁で刺したのだろうか。初公判の罪状認否(被告人が起訴状に書かれた罪状を認めるかどうかについて行う答弁)で彼女は諒さんの殺害について、「身を守るために包丁を手に取り、体を被害者のほうへ向けたら太ももに刺さったので部屋を出て庭に出た。その後しばらくして部屋に戻ると諒さんが死んでいた」と、正当防衛であり殺意はないと主張した。殺すつもりがなかったというのだ。しかも、被告人質問では一貫して“記憶がない”という趣旨の供述を繰り返した。
「あっ、はっきり覚えてないです」
「はっきり覚えてないです、すみません」
「あっ、えーっと、えとー、あっ、座って、何してたか忘れてしまったんですけど、はっきり覚えてないです」
「異世界に急に飛んだような……カーテンっていうか、離れているような、薄い膜のようなものが張られているみたいな……」
終始このような調子で、愛美被告から事件についてはっきりとした話は出ることがなかった。それでも言い分をなんとか要約すれば、「父の遺産のことや生活費のことで言い合いになり、諒さんが自分に向かって来たため、とっさに刃物を持ったところ、太ももにそれが刺さった」のだという。
姉はなぜたった1人の弟を殺したのか?
多くの公判ではこうした証言であっても客観的な証拠から殺意が認定されるが、なんと判決では、愛美被告の主張が一部認められた。裁判長は「被告が急所を狙うなどした合理的な証拠がない」として、殺人罪を認めず傷害致死罪を適用。懲役10年の判決を言い渡したのだ(求刑懲役18年)。検察側は控訴を見送ったが、さらに驚くことに、被告側がこの判決を不服として控訴した。
愛美被告はこの一審では「殺人については無罪」を主張していたからか。もしくは「弟の命を奪った加害者」としての自分よりも「母親からの不適切な養育の被害者」としての自分が勝り、控訴を止められなかったのか。控訴の理由はいずれ開かれる控訴審で明らかになる。
愛美被告が事件の経緯を明確に話すことはなかったが、1つ、事件の火種になる要素があるとすれば、それは父親の遺産を愛美被告が1人で相続していたことだろう。年金型で年に1度、150万円が振り込まれていたというが、それを諒さんに伝えていなかった。
「知らなかった。本来なら折半だし、1人で受け取るなら家を出て1人で暮らしてほしい」と事件の数カ月前、諒さんは友人に打ち明けていた。しかも父の遺産を1人で受け取っていながら、愛美被告はカネには困っている様子で、折半するはずの生活費も滞納し、諒さんがこれを肩代わりしていたという。「父の遺産や生活費のことで言い合いになり」というのは、諒さんから家を出て行くよう迫られ、激しい言い合いをして事件に発展した可能性がある。
「子どもたちの年齢の合計が100になるまでに打ち解け合うことができたらと思っていたが、それもかなわなくなった」
かつて子どもたちに暴力を加えていた母親は、調書でこう語った。しかし、機能不全家族を形成した中心人物に、この結果の責任はまったくなかったと言えるのだろうか。