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診療科紹介

Medical Info

婦人科部長の闘病記

病院便り
〜患者さんの身になって考える

原三信病院 婦人科 片岡 惠子

思えば子宮筋腫と私の闘いは長い。医師としてもいろいろと大きな筋腫、頑固な筋腫、癒着している生意気な筋腫などなど見てきたけれど、私自身も随分長いこと悩まされてきた。よく、外来に来る患者さんたちが
「気がつかなかったんですー。太ったかと思ってましたー」
などと信じられないことを言って大きなお腹をゆすりゆすりやってくるが、私の場合もかなり大きくなってきてから見つかった。彼女たちを笑う資格は私には、ない。

まずは36歳、浜の町病院勤務の時で、腰痛と下腹部痛が主訴であった。少し前からおかしい、おかしいと思っていたのだけれど、腹腔鏡手術を覚えるのに必死で病気なんてしてられなかった上、いろんなやんごとない事情が絡んで休ませてくださいとは言いづらかった。が、手術中に立っていられないほど激痛がくるようになり、そこで初めて骨盤MRIを撮影した。不良患者である。

いや〜患者さんのだと冷静に分析するのだが、自分の骨盤MRIとなると、筋腫よりお腹の脂肪の厚さの方に目がいってしまって、直視できない。当時浜の町病院産婦人科部長であられたN先生に、患者名を伏せて相談差し上げると
「ま、開腹だね」
あっけらか〜ん、とおっしゃったので、ですよね〜と諦めて正直に全てを打ち明けた。

しかし、N先生はフェミニストである。しかも部下にとことん優しい。身を挺して部下を庇い、合併症や様々なクレームから部下を救う方である。・・・よって、私の術式はそこで腹腔鏡になった。

できるだけ休みたくないという私の我儘を聞き、N先生は、年末のくそ忙しい12月26日に腹腔鏡で2時間半かけて7センチの筋腫を4個も摘出してくださって、私は激しい腰痛とおさらばした。私は感謝の気持ちを込めてびっくりするようなお高いビンテージ・ワインを贈ったが、先生はワインの名前も確認せず
「正月にがぶ飲みしたよ〜」というなんともN先生らしいオチもついた。ワインに詳しくない私がそれを入手するのは本当に大変だったので、もっと感動して欲しかったが、ワインはうまければそれでいい。

手術はどこかを切る行為で、やっぱり確かに痛かったのであるが、膀胱留置カテーテルの気持ち悪さや硬膜外麻酔の吐き気に比べればなんでもなかった。私の最近定かでない記憶によれば元旦からオンコールにも入ったし、1月の当直もあんまりサボらなかったし、良い年末年始であった。

オットには
「割と元気でよかったよかった」
と喜ばれ、かわいい毛糸の帽子を買ってもらった。なぜ白い毛糸の帽子だったのかはわからないが、うちのオットにセンスは求めてないので、いいのである。

周囲は忘れているようだが私は経腟分娩もしたことがある。

大抵の羞恥心は胎盤と共に剥がれてしまうと固く信じているが、お産のあとより腹腔鏡下子宮筋腫核出術の方がうんと楽で、恥ずかしさも半分くらいだった。くにゃくにゃした寄る辺なき赤子のお世話もないし、鎮痛剤も忙しすぎてつい飲むのを忘れてしまうくらいで、何より腰痛が治ってしまったのでほくほくしていた。それから私の子宮は数年の間、沈黙した。

次の症状は私が泣く泣くフランクフルトに連れてこられるハイジのように浜の町病院から引き剥がされて大学病院へ召喚された42歳。実は36歳の時は二人目を諦めていなかったので、子宮は温存ということにしていたが、結局うまく授からず高度生殖医療にも手を出さず、このまま閉経でもすればホルモン補充療法も経験できていいな、婦人科医として大人の階段を上る?などと気楽に構えていたら・・・

きましたきました。過多月経です。

多い日も安心!なんて大きなナプキンがCMでクローズアップされているが、しみじみと宣伝に見入り、ためつすがめつナプキンを選ぶ日が自分の身に来ようとは思いもしませんでしたよ。大学病院のカンファレンスは長い。異様に長い。その間、あの頼りない、吸収性は確かに抜群だが所詮単なる綿に何ができようというのか。ここで日本のナプキンの性能の良さと限界を知ることになる。ちなみにこの時私の血色素量は12くらいで、大学のカンファレンスでは鼻で笑われる程度の値である。貧血なんぞなかろう、過多月経なんぞは大袈裟だろうと手術の予定枠から抹消されかねない。・・・だが、もともと私のHbは14くらいで、血の気が多い。これが月にたった一回の出血で2も下がるということがどれほど生活に支障を来すのか考えてみてもらいたい。過多月経は奥が深いのである。男性諸君も月に一回、500mlほどお尻から出血してみれば良いのだ。さぞかしびっくりすると思う。

大学病院では腹腔鏡システムを立ち上げろと言われていた私はそれを真に受け、粛々と任務を遂行していたため、それを最優先し、過多月経とは向き合わないでいたが、そうは言っていられない事情が出てきた。

平成26年6月、今度は原三信病院で腹腔鏡を立ち上げてきて、と拝命した私はやっぱりそれを真に受け、真面目に取り組んでいた。もともとやや引きこもりの性分で、人と仲良くする距離感がイマイチな私には少々荷が重かったが、藩医の流れを組むここ原三信病院は全体的にのんびりとしていて、まったくちっとも営利的でなく、こちらが心配するほど大らかであった。大学病院ではあっちこっちでぶつかり、同意書一つ作成するのも2年かかったが、こちらでは誰も私を止めないのであっけなくシステムは構築された。平成26年度は腹腔鏡114例、平成27年度は年末のこの原稿を書いている時点で170例(開腹、腟式などを含めると280例)と伸びてきており私も一安心しているのだが、平成27年4月、事件は起こった。

なんと、外来中に流血沙汰になったのだ。日本のナプキンの、これが限界である。ユニチャーム、王子製紙各位にぜひ情報を提供したい。

そこまで「臭いものにはふた」をしていた私であるが、ようやくここで腹を括り、数年ぶりの骨盤MRIを撮影した。・・・まあ、ここまで見事に再発すると、ぐうの音も出なかった。筋層に7センチの筋腫がちりばめられ、内腔には3センチの粘膜下筋腫が鎮座していた。腹腔鏡手術を受ける時、再発については十分理解したつもりでいたし、だいたいこれが専門なので当たり前の日常茶飯事であるはずだが、それでも精神的ダメージは大きかった。原三信病院には放射線科医師が3人いらして、うち一人が若い女性の先生で日頃から原三信病院女医の会で仲良くしているのだが、くだんの画像を読影したらしい彼女が、ちらりちらりともの言いたげに私を見るのをまったく無視してしまうほど、余裕はなかった。
まあ、でもなんとかするしかあるまい、と気を取り直す。

私はしおらしく計画を練り、とりあえず伝家の宝刀、リュープリン(GnRHアナログ)を抜くことにした。粘膜下筋腫には却って出血量を増やすこともあるが、ディナゲスト(第4世代プロゲスチン)のだらだら出血よりはよかろう。そう考えた私は、もはや私の右腕となった腹心の看護師に頼み、臍の右横にぽすっとリュープリンを打ってもらった。私の子宮は割合素直で一発でまた沈黙し、過多月経の恐怖から免れた。リュープリンが効き始めた患者さんがよく、
「もう手術はしなくてもいいかもしれない」 と、言いだすが、私もちらりとそれを考えた。やっぱり不良患者である。

ちなみに、リュープリン的裏技であるが、投与中止後だいたい2ヶ月くらい月経再開までかかるので、最大2ヶ月の連続した非投薬期間を設けることができる。もちろん、術前に徹底的に子宮を縮小したいときは別であるが、私はその効果を利用して4〜6月と投与し、暑くて汗をかきやすい7〜8月は投与を止め、9〜10月と打って、12月の手術に臨んだ。結果として12月中旬頃、排卵したらしい気配は見たが、見事に月経は来なかった。こういうふうに手術時期をコントロールできることも特筆しておきたい。この方法も実は外来の患者さんから学んだことである。患者さんとの無駄話が往々にして役に立つ。

手術に際して私は3人の先生に術者をお願いした。福岡大学のS先生、浜の町病院のO先生、そして原三信病院のT先生である。彼女たちの腕前を信頼していることは大前提であったが、とにかく仲良しなので、万が一私の腹の中が真っ黒でも、その友情からきっと黙っていてくれるだろう、という魂胆である。術式はいろいろ迷ったが、腹腔鏡と開腹の違いを経験するのもよかろうと思い、敢えて腹式子宮全摘術を選択した。麻酔は原三信病院女医の会でやっぱり仲良くしているH先生に是非にとお願いした。彼女は年若い麻酔科医であるが、非常に腕がよく、一緒に手術をしていてやりやすいと感じていたからである。

私が自分の持てる全てのコネと人脈を駆使して設定した手術は平成27年12月25日に粛々と執り行われた。

自分が作った手術期日程(クリニカルパス)なので誰にも文句は言えないが、入院前日にプルゼニドを2錠飲み、入院時にラキソベロンを1本飲み、その午後にマグコロールを1本飲む、という念には念を入れたプロトコールになっている。このメニューで行くと、ちょうど剃毛処置のときに腸蠕動の亢進が襲ってくることに気がついた。しかも、縦切開の予定であったので、臍処置をするという。

病院の冷たい処置台の上で、腸蠕動の亢進に震えつつ、敏感な臍をオイル綿棒でぐりぐりされ、辛抱たまらない状況だったのであるが、さらに、処置を新しく配属されてきた年若い看護師さんがしてくれたため、とても可愛らしい、困ったような笑顔で
「先生、ダブルチェックいいですか」
・・・おおう。しかし、否、と私が言えようか?

そのあと、先輩看護師さんが彼女を指導しながら追加で臍処置。
私は私の尊厳のため、必死に耐えていたが、あそこで何かしらコトが起こったら永遠に原三信病院で語り継がれていたに違いない。
私は、クリニカルパスについて全面的に見直す方針を心に誓った。腹腔鏡で皮様嚢腫だけ取る人に、人間の尊厳を踏みにじるような拷問を受けさせられない。

当日の朝は6時に叩き起こされ、看護師さんの温情によりお部屋で浣腸を受け、術衣に着替えて手術に向かう。手術の前にS先生、O先生、T先生が病室に顔を見せに来てくださって心強かった。原三信病院婦人科は歩いて手術室に向かう。ここから硬膜外麻酔を行うところまで、患者さん用に手術の案内DVDを作成することにしていて、オペ室の看護師さんがずっとカメラを回しているのにちょっと緊張した。
H先生が
「背中をまあるくしますよ〜」とおっしゃったのを聞いたのが最後で、硬膜外麻酔中に既に投与されていたプロポフォールのせいで気が遠くなり、次に目が覚めたのはリカバリールームであった。

・・・・

開腹術も腹腔鏡も傷が小さいだけで腹の中でやることは一緒でそんなに変わらないですよ〜などと思っている皆さんに物申す。絶対に腹腔鏡手術がいいですよ。

術直後は違和感だけだったのであるが、硬膜外麻酔(エピ)が術後疼痛管理に変わった頃からなぜか
「右の傷の横っちょ」
だけ、そこにまるで犬が噛み付いているかのごとく激痛に変わったのである。

心配したベテラン看護師さんが
「せんせ、エピをフラッシュしてみます?」
と、知恵をつけてくれたため、必死にボタンを押してみる。

すーっと背中が冷たくなり、どうやら薬液が体内へ注入されたことが判明したが、左半身、特に臍横から大腿部までがじーんと痺れるだけで右のわんこがぎゃんぎゃん噛み付いているのは離れない。・・ここで、もしやの「硬膜外片効き」疑惑が持ち上がる。

それでも必死に理性をかき集め、忙しい看護師さんの手を煩わせつつ座薬を入れてもらったり湿布をしてもらったり鎮痛剤を飲ませてもらったりと様々な処置を試みるが狂った様に犬が噛み続け、一睡もできない。

以前の手術で、ペンタジンで吐くことがわかっていたため、どうしてもペンタジンを投与されることが怖かったのであるが、明け方3時、どうしても我慢できなくなり、
「・・・ペンタジンお願いしますぅ」
という情けない顛末になった。きっと笑われていたと思う。

いや〜ペンタジン、魔法の薬ですね。恐れていた嘔気も全く出現せず、つかの間平和に睡眠をむさぼることができた。捻転なんかの痛みをペンタジン打って落ち着いた、と安心してはいけない、とつくづく思う。あれはあくまで最終手段までの待機的治療なのだ。人間は、どんなに犬に噛み付かれていても、ペンタジンで一休みができる。

術翌日、リカバリーに我らのT.T先生が様子を見に来てくださったがダンディーTが油の中にゆらゆらと浮いているように見えた。つまり視界が定まらず。ここで私は自分が要介護5であることを悟り、もはや自分の言っていることに責任が持てない事態になった。前回の手術よりは遥かにマシなものの、それでも次々と襲い来る吐き気と戦い、周囲の医療関係者を慌てさせるほどしょげていた。年明けすぐに復帰をする予定を、本当は心の中で悔いていた。患者さんにはあれほど口を酸っぱく
「無理しちゃだめですよ、余裕を持って計画を立ててね」
と訳知り顏でいうにも関わらず、無謀にも私は1月8日に新年早々執刀すべき患者さんの予約を入れていた。これを、医者の不養生というのだったか。

しかし、術2日目、前日まで座薬だの魔法のペンタジンなどお世話になっていたのであるが、
「あれ・・・?」
急に痛みが嘘のように引いた。気まぐれなわんこがボールか何かが飛んできて、そちらの方に急に興味が湧いた、とでも言うかのように。

もともと何かストレスがかかると食べられなくなる体質なので、術翌昼から全粥、夕から常食が出てしまう私の恐怖のクリニカルパスを全く無視して一口も食べられなかったが、術2日目は半分くらい、食べることができた。食べる、というのは人間にとって生きるための必要十分条件らしい。ガソリンが切れた車にオイルを入れ、新しくガスを入れたあの瞬間のように、猛然とエンジンがかかり始めた。T先生が心痛のあまり増やした点滴を、我儘を言って抜いてもらい、興奮冷めやらぬうちからこの原稿を書き始めた。

少し蛇足になるが、平成10年、お産になるにあたり私は遺書を書いた。今流行りの「コウノドリ」ではないが、お産は死ぬかもしれない大きな偉業であり、ドラマである。私のコンピュータにあった、ちょっと感傷的な遺書を見つけてオットは大笑いしたけれど、私の同僚や助産師さんたちは皆、その話をしてもにこりともしなかった。その緊張感が、現場にはある。今は原三信病院ではお産を取り扱っていない。それでも、今でも散々な目に遭った夜や、お母さんたちと一緒に泣いたあの日を、寄せては返す波のように夢に見る。

今回、子宮摘出を受けるにあたり、オットは
「遺書、書かないの?」
と大真面目に尋ねた。

・・いや〜書かないでしょうね、婦人科の良性疾患の手術では。これくらいの手術では銀行の暗証番号をオットに預けるに足らず。

実は私は最悪、人工肛門や膀胱皮膚瘻までは考えたが(失礼)、死ぬことまでは考えなかった。そして人工肛門になっても腹腔鏡くらいはできるだろう、くらいに受け止めていた。ここらへんが他科と産婦人科の認識の違いだと思いますがどうでしょう。

今、病室には各方面から届いたお花がいっぱいで、気遣いと優しいいたわりの中に私の筋腫との戦いは終わりを告げようとしている。が、医療の知識もなく頼める知り合いもなく、単なる一般人として原三信病院に来る患者さんたちをこのように快適になんの心配もなく受け止め、そして送り出せているか?私はこれからもこれを自問自答し、「痒いところに手が届く医療」を目指していきたいと思う。

今春から新しい外来、新しい病棟に移転してリニューアルオープンする。それに先立ち、私もリニューアルを終え、一息ついた。また気を取り直して、「明日世界が終わろうとも今日、このりんごの木を植え」るような偉大な仕事ではなくても、誰かの人生にそっと脇役で登場するような、ささやかで丁寧な役目を担いたいものである。