前回、東京芸大・大浦食堂名物の「バタ丼」を食べてみました。おなかがいっぱいになったところで、店長の北澤悦雄さん(61)に、バタ丼の知られざる?エピソードを聞いてみました。
■男子学生のリクエストがきっかけ
元々、バタ丼は「豆腐のバター焼き」という一品料理。食堂の名前にもなっている初代店長の大浦英一さんが考案したそうです。大浦さんは老舗料亭の総料理長を務めたという経験もある方だったそうで、豚バラ肉の網焼きに大根おろしをのせた「みぞれ焼き」などいろいろなメニューを開発。その中でも一番人気だったのが「豆腐のバター焼き」で、北澤さんが勤め始めた昭和46年当時、豆腐のバター焼きは45円でした(ご飯は25円)。
そんなある日のこと。大学祭実行委員の男子学生から「時間がないので一緒にのせて」と頼まれたことがバタ丼の始まり。おいしさが評判を呼び、たちまち学生に広まったのが、昭和50年ごろだったそうです。「バタ丼」というネーミングも学生から。ただ、あくまで裏メニューで、正式にメニューにしたのは最近。一品一品作るので、昔は混雑するお昼時には注文できなかったんだとか。
■「食堂の食器譲って」
ドイツやオーストリアへ留学する学生も多い芸大。バタ丼が盛られたお膳が原風景となったのか、「海外へ留学している友人へ食堂の名前入り食器を贈りたい」というリクエストもあるそう。この名前入り食器、譲ったり割れたりして、今ではほとんど残っていないそうです。ただ、それでも食器は必ず陶器。割れない金属やプラスチックにしないのは北澤さんの「少しでもおいしく食べてもらいたい」という思いから。
出入りする生徒の顔はすべて覚えていたという北澤さん。今でこそ、調理場にいることが多いですが、学生の服装や雰囲気でどの科の学生かわかるんだそうです。
アーティストの日比野克彦さんやミュージカルなど舞台で活躍する石丸幹二さんや井上芳雄さんも学生時代、顔を出していたという大浦食堂。北澤さんは「芸術って自己主張するものなんだから、おとなしくなんかなくていい。もっともっと食べて元気になってほしいね」とエールを送りながら、今日も調理場で鍋を振るっています。