風が、白いワンピースの裾を静かに撫ぜる。
つばの広い白い帽子で日光を遮りながら、モモンガは湖面に釣り糸を垂らしていた。
釣果はなし。
そういった
見上げれば、呑気な雲が揺蕩っている。湖面を魚が時折跳ねる。
モモンガはそんな景色を眺めながら、今までのことを思い出していた。
──王都での動乱から、既に一年もの月日が経過していた。
……あれからの日々も、モモンガは濃密な時間を過ごしていた。
『蒼の薔薇』と親交を深めた彼は、
それから程なくして元々興味があったモモンガは、ツアレとクレムをカルネ村へ託し、帝国へと赴いた。そこで帝国そのものの存続が危ぶまれる大事件に巻き込まれることになるのだが、これはまた別の機会に話すとしよう。
冒険者モモンはそうして、人類史に燦然と輝く大英雄となった……なってしまった。
今や王国と帝国でモモンの名を知らぬ者はいない。遠い法国や聖王国でも、その名は広く知らしめられている。
大英雄の肩書きは一般人鈴木悟に対しては余りにも過分なものだ。故にこの様な余白のできるゆったりとした時間が、モモンガにとってはとても大切なものに思えてしまう。
(幸せ……とはこういうものなのだろうか。満ち足りてる感覚はあるけど……)
ぼんやりと、雲を眺める。
なんにもない休暇。釣り糸を垂らし、ただただ空の蒼さや風の滑らかさを感じるだけの空白の時間。
こんな時、幸せとは何かを考えてしまう。
社畜時代を思えば、明らかに今の方が暮らしは豊かだ。
睡眠時間の少なさや激務に心身を削ることはまずない。『蒼の薔薇』や『漆黒の剣』……カルネ村の住人とも心を通わせ、リアルで友人がいなかった頃と比べると余程健康的だ。まともな飲食ができることは日々の楽しみだし、豊かな自然と触れ合えることもまた心を穏やかにしてくれる。
……しかしこの生活がモモンガにとっての最上級の幸せかと問われれば、疑問が残る。
それ以上の幸せの時間が彼にはあったからだ。
「……」
モモンガは白魚の様な細指で、『リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』を弄んだ。日光を受ける赤い宝玉の光に、美しい形の目が細ばんだ。
『アインズ・ウール・ゴウン』で過ごした日々は、まさにモモンガにとっての幸せそのものだった。
あの頃と比べると、何もかもが霞んで見えてしまう。素の鈴木悟を露わにして、素の感情を曝け出して、本当の意味での仲間と笑い合ったあの黄金の記憶は、今もモモンガの心を縛りつけていた。大英雄と持て囃される中で、彼は喧騒の最中にひっそりと孤独感を感じてしまっている。
「……」
細く息を吐いて、ぼんやりと釣り糸の先を見つめる。魚はまだ掛からない。ゆったりとした時間だけが、過ぎていった。
「幸せ、ですか……?」
幸せとは何か。
そう問われたイビルアイは、不思議そうにモモンガの顔を見上げた。
クラシカルな雰囲気のバーカウンターで隣り合う二人の前には、カクテルが置かれている。モモンガのものは目減りしているが、飲食のできないイビルアイのものは当然出されたままの量を保っていた。
イビルアイは先の質問を噛み砕くと、しどろもどろに答えた。
「わ、私の幸せは、今こうしてモモン様と二人でいることで──」
言葉が尻すぼみすぎて何を言っているのか分からない。モモンガがきょとんとしていると、イビルアイは邪気を払う様にぶんぶんと頭を振った。
「モモン様は幸せではないのですか?」
「幸せ……」
「ほ、ほら。モモン様はとてもお強いですし、名だって近隣諸国にまで轟いているほどではないですか。不思議なマジックアイテムだって沢山持っていますし、ぶっちゃけて言えばお金にだって困らないでしょう?」
富、名声、力。そして、美貌……。
持てるものは全て持っている。
そう言いたいイビルアイに、モモンガはうーんと唸った。幸せだと彼自身思う。言葉を正せば、幸せでなければならないと。
この世界には死がありふれている。
貧困、飢え、病、モンスターに殺されることだって
そんな厄災を全て払い除け、安全圏で温かい飯が食べれるモモンガはきっと幸せでなければいけない。
……しかし満たされない。
瞼を落とすとき、モンスターと出会ったとき、未知を体験したとき、知人と言葉を交わすとき……どうしても『アインズ・ウール・ゴウン』が脳裏を掠めるのだ。
あの頃は良かった、と。
あの頃には戻れないのだ、と。
ギルメンと話したい。またあの頃に戻って皆と未知を求めて冒険をしたい。そう思ってしまう。
故に今モモンガが感じる幸せとは、あの頃の劣化に成り下がってしまう。
憐れで、不幸せだとモモンガは思う。
「……私にとって幸せとは、結局過去のものでしかないのかもしれません」
「……モモン様。それはどういう──」
「すみません。せっかくの休暇にこんな暗い話をしてしまって」
申し訳なさそうに、疲れた笑みを浮かべるモモンガの横顔を見ていたイビルアイの心臓が収縮した。彼女は膝の上の拳を固めると、控えめに言葉を投げかける。
「差し出がましいようですが、モモン様」
イビルアイは言葉を選びながら、仮面の下でモモンガの瞳を真っ直ぐに捉えていた。
「……幸せとは呪いの様なものでもあります」
「……呪い」
「ええ。過去の幸せが眩しければ眩しいほど、今の自分が惨めに思えてしまう。もう自分は幸せにはなれないのだと思えてならないのです」
「イビルアイさんも……?」
そういった過去があるのか。
イビルアイは静かに頷いた。彼女にも忘れられない幸せの記憶があった。もうどうあっても取り返せない、幸せだった時間が。
「なくなった幸せは取り戻すことができません。しかし……時間が、解決してくれますよ。私も過去に色々……本当に、色々とありましたが、冒険をして、『蒼の薔薇』に入って……モ、モモン様とこうして過ごす時間を幸せだと思える様には、私はなりました」
「……そうですか」
モモンガは淡い緑色のカクテルに視線を落としながら、控えめに下唇を噛んだ。果たして時間が解決してくれるのだろうかと、彼は素直に思う。あの記憶を忘れない自信があるからだ。薄まることも、それを何かで上書きできるような気も起きない。
あの頃の記憶にノイズが掛かることは、モモンガにとっては不幸なことでもあるから。
「……強いですね、イビルアイさんは」
「そんなことはありません。それが『普通』……人間とは、そうやって生きていくしかないのですから。傷ついて、それでも前を向くしかない。モモン様にだって、きっとできますよ」
「そうでしょうか……」
「で、できます! モモン様は、とても強いお方ですから……」
モモンガは少し笑って、沈黙を保った。
イビルアイはその沈黙と笑みが否定の意味だと感じて、小さな拳を再び握り込んだ。
「今日はありがとうございました」
夜の王都を並んで歩く。
軽く頭を下げるモモンガに、イビルアイはとんでもないと首を振った。
「こちらこそありがとうございました……! というか、約束を取り付けたのは私ですから礼を言うのはこちらの方です」
「そうでしょうか。最後なんかは私の愚痴ばかりで……」
「愚痴ならいつでも聞かせてください。気の利いたことは言えませんが……聞くだけなら私は得意ですから」
「ふふ、優しいですねイビルアイさんは」
「……あぅ」
優しくするのは、優しい気持ちになれるのは貴女が好きだから……という言葉をイビルアイは言えない。愛を告白しなくとも、今はこの距離感がとても心地よい。
こんな毎日がずっと続けばいいと、イビルアイは小さな幸せを噛み締めて──
「なんだ!?」
──目の前に、白金の鎧が降ってきた。
着地を取ることもできずに石畳に激突したそれは、至る所が破損している。空洞を晒しているそれは、僅かな沈黙の後にやがてむくりと起き上がった。
警戒の態勢を取るモモンガと、仮面の下で目を丸くするイビルアイ。彼女は、その鎧の名を知っていた。
「ツ、ツアー……? もしかして、ツアーか?」
ツアー。
そう呼ばれた鎧はやがて立ち上がると、モモンガを見据えてこう言い放つ。
「モモン、助けて欲しい」
言葉の割には、語気は弱々しくない。
困惑を示すモモンガに、彼は立て続けにこう言った。
「アーグランド評議国が、一体のアンデッドに滅ぼされた……」
小さな幸せの連続は、そうして終わりを迎えることになる。
イビルアイとモモンガは、目を見開いてその場に立ち尽くしていた。
第五章 動乱 終了です。
次回……
最終章 the goal of all life is death を開始します。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
そしてここからがまた長くなりますので、最後まで何卒よろしくお願いします。
※帝国編は完結後DLC要素にでもしようかなと思ってます