このブログを開設し、8年が経った。 このブログを閲覧しにやって来る人は、少ない日で200人、多い日はそれ以上、読みにやって来る人の8割はリピーターである。このブログに何を求めているのか、書いている人は恐怖を感じている。 月末になると、次の記事を書こうか否か、迷う。毎日やって来る数百人の期待に応えるべきか、毎日やって来る数百人の期待に背くべきなのか、迷う。 SF界の巨匠・筒井康隆が「日本てんかん協会」から抗議を受けたことで、「日本てんかん協会」へ対し、筒井は明確な返答を避けた。筒井は明確な返答をできる準備をしていたが、返答をしなかった。14歳だった私は、この理由が理解できなかった。返答はできるのに、あえて、返答はしない。これは、どのようなことなのか理解できなかった。 しかし、40歳をすぎた私は、この意味を、骨の髄まで理解できる。私が同じ立場でも「日本てんかん協会」に返答はしない。あえて、返答しないという形の返答の仕方がある。年をとるって素晴らしいことだと、SFファンの私は思います。SFは「純文学」に匹敵する美しき文学の世界です。私が今日もこのブログを更新する原動力は、そこにあるのかなと。皆さんには理解できないと思いますが、私には骨の髄まで理解できるので、それを根拠に、今日もこのブログを更新します。 ブログ開設から8年を期に、500件の投稿のうち、半数に当たる260件を削除した。 8年・500件の投稿の中で最も閲覧数の多かった「東大附属 銀杏祭に行ってみた」も、削除した。毎年400名が受験し、合格者は75名、倍率5.5倍と、中学受験生には狭き門である東大附属の文化祭を3回に渡り掲載したが、このブログに残す役割りは終わったと判断し、すべて削除した。そのため、過去の投稿を検索しても、その記事に辿り着けない。当該記事に辿り着けないときは、そのような事情があることを、ご理解いただきたい。私は意地悪で当該記事を削除したわけではなく、自分の過ちを認め削除したわけでもなく、ここに残す意味を感じていないことが当該記事を削除した理由である。 その一方で、「NZESCニュージーランド教育サポートセンター」代表の伊藤 博秀(ヒロ・伊藤)さんの個人名を用いて掲載した記事は残してある。伊藤さんの名前をモロに出して書いた記事のため、伊藤さん本人か、伊藤シンパから痛烈な批判が来るかと期待していたが(?)、誰からも批判は届いていない。 ミスター伊藤は、アンウェル(体調不良)でホスピタルにイン(入院)しているので、まだ、アーティクル(記事)をリードして(読んで)いないのかもしれません。 他方、このブログに子供の名前を記載し、通学する学校と、(大まかな)住まいを掲載したことで、このブログの運営元である「シーサー」に苦情を入れた「私」と称する在留邦人については、未だに「私」が誰なのか特定できていない。 改めて当該記事のどこに問題があったのか自己検証をしたが、苦情を入れる理由が特定できない。 そもそも、当該者を特定できるだけの個人情報は記載しておらず、当該者は日本人でありながら日本語の読み書きができない在留邦人の子女なので、このブログも読むことはできず、苦情を入れることもできない。 そーなると、子供の母である「ヘリコプターママ」が苦情を入れたのではないかと、性格の悪い私は疑ってしまうのだ。 しかし、性格の悪い私は「ヘリコプターママ」の氏名を記載していないので、「私」を称る人の個人情報を記載していない。 個人情報を記載していない人が「私」を名乗り、苦情を入れてくる。そして、当該記事を削除しろと言ってきた。運営元の「シーサー」も、削除しないと強制削除すると脅してきた。たとえ、運営元による強制削除であっても、そこには明確な「著作権」が存在し、強制削除は明確な権利侵害であり、法律違反である。 ここを、どのように捉えるべきか。「ヘリコプターママ」のご主人である「匡(ただし)氏」は、どう、思いますか? 『私、アスペ(ルガー症候群)だから、人の気持ちがわからない』と言うヘリコプターママなので、『それなら、徹底的に叩いてやろう』『二度と再起できないほど、灰になり、塵(ちり)となるまで叩き潰そう』と思った。しかし、このブログを日常的に読みに来る数百人の読者はわかると思うが、私はとてもやさしい人間なので、そこまでの暴挙に出ることなく、子供の名(姓は記載していない)、通学する学校、(大まかな)住まいを記載しただけである。この情報だけでは、とてもではないが、個人の特定はできない。 それも嫌なのであれば、インターネットはやらなければ良い。インターネットなんか「百害あって一利なし」ですから。「ヘリコプターママ」のご主人である「匡(ただし)氏」も、そう、思いませんか? ニュージーランドには、特殊な考え方、極めて偏りある一方通行の人しか住めない。理由はどーあれ、「実の母」から逃げ、ニュージーランドへやって来た日本人ほど、日本へ対する偏見が強い。「実の父」に対する不満を語る人はおらず、他方で、「実の母」に対する不満を語り出すと100時間は話し続ける。人間の「怒り」は、凄まじいエネルギーだ。 私がニュージーランドに残っていても、邦人女性からは実母の悪口を永遠に聞かされ、実母からは娘を(日本へ)帰国させるよう、説得される。なぜ、それを、部外者の私に言うのか。「母 対 娘」の対立を避けたい理由もあるが、日本・NZ双方の考え方を間違うことなく正確に理解し説明できる人物が、私以外にいないからである。これは実際に、私が受けた仕打ちである。 在留邦人は日本に感謝すべきであり、ニュージーランドに感謝すべきことは1つもない。 日本での失敗があり、それゆえに、ニュージーランドで成功を掴んだとなれば、成功の秘訣は失敗した日本にあったからだ。十代後半から二十代前半は年齢が持つ危うさから、一生取返しのつかない失敗をしてしまう人はいくらでもいる。「失敗は成功のもと」とはよく言ったもので、適切な失敗の積み重ねがない人に、未来の成功は訪れて来ない。何の結果も出していないニュージーランドを「成功の地」と絶賛することは間違っているにも関わらず、そのことに永遠に、永久に気がつかない。それが、トンチンカンな言動につながるので、ニュージーランドの民は当然のごとく、日本にいる母親にも通じない。故に、両方の意見が正確に伝わる私に文句を言いに来る。 ニュージーランドの邦人社会は、約30年前、私が世界の僻地で惨めな高校生をやっていた当時と、何も変わっていない。人間の歴史など、100年程度では何も変わらない。その中の30年なんて、どーでもいい話しです。 在留邦人は、最下層の最下層、人間のクズ、クズの中のクズ、核廃棄物以下の存在である。 在留邦人に人権が存在することが、私には理解できない。「自由の国・ニュージーランド」の民であれば、『神様が間違って作った人間』と、差別されることは間違いない。これは、ニュージーランドの民が同性愛者に対し投げかける差別的発言である。同性愛者であることが判明し、職場を解雇された実例は無数に存在する。そのため、ニュージーランド社会はこの問題に敏感に反応する。日本人が想像できない、凄まじい差別社会だからだ。 在留邦人に、子供の手本となる人物は、1人として存在しない。手本となる大人に出会えないニュージーランド在住の子供たちを哀れに感じるのだ。なぜなら、私もそのうちの1人だからである。そこに「キラキラ」したニュージーランドは実在しない。まさに「悲劇」である。 この8年間の最大の変化は、ニュージーランドを批判する在留邦人が増えたことにある。 このブログに感化されたわけでないと信じているが、「キラキラ」一辺倒だったニュージーランド生活を内部から批判する日本人が増えた。在留邦人は貧しい人しかいないので、生活保護(Benefit)を受けることを、何とも思わない。『もらえるものをもらい、何が悪い』という考えだ。外国人(正確には「外国籍」の外国人)に生活保護を給付することを、もう少し細かく説明すると、出産費用や医療費、年金を日本人を含む外国人に給付することを、ニュージーランドの民はよく思わない。ニュージーランドは裕福な国ではないので、外国人に給付できるだけのカネはない。ニュージーランドの民は、誰も、口(くち)に出しては言わないが、内心では外国人批判をしている。この批判が、人種差別を引き起こす「ヘイト」につながる。 現地での生活に深くコミットした私には、この深層心理が骨の髄までわかるが、現地に住んでいても現地生活に深く入り込んでいない在留邦人には、永遠に、永久にわからない。「夢の中のニュージーランド」に「ヘイト」は存在しないが、世界の僻地にあるド田舎の島国に「ヘイト」は、確実に存在するのだ。オークランドを中心に東洋系住民を狙い撃ちした襲撃事件は、その一端である。 私は、「NZESCニュージーランド教育サポートセンター」代表の伊藤 博秀(ヒロ・伊藤)さんに、『ニュージーランドに長く住んでいたので、ニュージーランドの良いことばかりは言えない』と伝えた。伊藤 博秀(ヒロ・伊藤)は不満を感じつつ、私の発言を理解してくれたと思う。真面目に、まともに住んでいれば、どのような環境でも、その地を絶賛することはできなくなる。「全体として良い方向」「全体として悪い方向」という流れを掴むだけで、「ニュージーランドのすべてが正しく、日本のすべてが間違っている」など、決して口(くち)にすることはできない。そのような発言をする前に、そのような考えを持つことが「差別」である。 それを立証する根拠として、夢を抱き、ニュージーランドへやって来た日本人の完全帰国は増えている。手間とおカネを掛けて取得したニュージーランドの永住資格をあっさり捨て去り、日本へ完全帰国してしまう。そして二度と、ニュージーランドへ戻ることはない。日本へ帰国後に、ニュージーランドを思い出し語る人は、1人もいない。それなりに流暢に話していた子供たちの英語も、綺麗サッパリ、消えてなくなる。ニュージーランドの記憶も、すべて消えてなくなる。 大嫌いな母親、殺したいくらい憎んでいる母親がそこにいても、日本人にとって日本という地は特別な土地なのである。それを知るためにニュージーランドへ行ったことに価値があった、人生の経験となれば美談であるが、私はそのような美談を聞いたことは、1度もない。 ニュージーランドを絶賛にする日本人は、ニュージーランドを売り物に巨万の富を稼ぐ、日本人の留学エージェントだけである。 このブログには、ニュージーランドで生き抜くために必要なニュージーランドと宗教の関係性について、多々、記述しているが、それらの閲覧数は非常に少ない。限定的に、ニュージーランドの政治体制についても記述しているが、それらの閲覧数も非常に少ない。他方、特定の在留邦人に関する個人情報、邦人女性と母親との関係について記述した内容の閲覧数は極めて多い。このブログを読みにくる人たちが考えていることが手にとるようにわかってしまうので、性格の悪い私は「気持ち悪い」と思った。それを思うたびに、『ニュージーランドに住む人は人間のクズ』と思うことが、今後も、永遠に、永久に変わらないと断言できる。これは私の経験であり、私の過去である。あなたの経験でも、あなたの過去でもない。そのため、私は「あなた」から批判される理由はないのである。 『ニュージーランドは、日本とは異なり、多様性を受け入れる自由な社会』と豪語する在留邦人にこそ、私の経験と過去を受け入れてもらいたい。それを受け入れても、あなたの過去も、現在も、未来も、何も変わりません。