ニュージーランドは世界でも数少ない「安楽死」を認める島であるが、これも宗教と、強靭な信仰心が、その土台に存在する。キリスト教徒は生命は地上に舞い降り、生命が肉体を離れると天へ戻ると信じている。キリスト教ではこれを「帰天」または「召天」と表記する。日本で40年間、ニュージーランドで20年間、JCF(Japanese Christian Fellowship)で、日本人にキリスト教を布教したケン・ラウンドヒル先生と、ベティー・ラウンドヒル先生もお亡くなりになった際は「召天」という言葉をもち追悼された。ケン先生・ベティー先生がニュージーランドの宗教離れ・信仰心の欠如を知ることになれば、酷く、悲しまれることでしょう。私は、ケン先生・ベティー先生が悲しまれる姿を、見ることはできない。
「日本人でもなければ外国人でもない在留邦人」は、ニュージーランドのことを何も知らないので『ニュージーランド人は、家族と過ごす時間を最優先に考える』と、トンチンカンなことを言い出す。平均的なニュージーランド人は家族と過ごす時間の前に「宗教」を優先する。すべての前に「宗教」が存在する。社会は宗教を基準に動く。自分も宗教を基準に動かないと生きていけない。これが、ニュージーランド人の DNA に刷り込まれていると解釈して間違いない。間違っても、在留邦人が言っているトンチンカンな発言は、信じてはいけない。
「同性婚」は、法的に認められることになっても、同性愛者の結婚式を認める教会は1つも存在しない。『神に祝福されない結婚を歓迎する者は存在するのか』と、プレスビテリアン(スコットランド長老派教会)も、アングリカン(英国国教会)も、バプテスト教会も、ローマカトリック教会も、イスラム評議会も認めない。これ、信仰心のない在留邦人に言っても『だから何だ』となるが、「宗教と信仰」が DNA に刷り込まれているニュージーランド人には、痛く響く。『神に祝福されない結婚は結婚ではない』と。これが、在留邦人が永遠に、永久に理解できない、ニュージーランドの「宗教と信仰」の関係性である。「宗教と信仰」は、目に見えないが、確実に、そこに存在している。だから、ニュージーランド人には響くが、在留邦人には響かない。響かない在留邦人は、ニュージーランド人の心の様子がわからないので、いつものお得意の「妄想」で、この世に存在しないお話しをでっち上げるわけだ。
私の疑問点は、シーモア議員が「福音派」なのか否かという点にある。福音派であれば伝統的なキリスト教徒、そうでなければキリスト教の中でも「新興派」と呼ばれる新興宗教(New life Church)に属する。「新興派」と呼ばれるグループの代表格が「エホバの証人」「モルモン教」「統一教会」である。「新興派」は、ニュージーランド国内でもデリケートな扱いで、福音派は決して、新興派と関わりを持たない。「新興派」は、キリスト教の名を掲げるも、その活動はキリスト教とは無縁なのである。自分たちが理想とする世界を幻想的に描くだけで、そこにキリスト教の概念は存在しない。どこかの島に居住する在留邦人と、本質は同じです。宗教立国・ニュージーランドでも「新興派」の存在は無視できないほど大きな勢力になっている。大きな勢力になるほど、政治への意見は厳しく、大きなカネが動く。
ニュージーランドは「ミーハー」なところがあり、白人主体の国で新しい動きがあると、それに追随する動きが強い。近年では「アイス・バケツ・チャレンジ」(←意味のわからない人は Wikipedia で調べてください)は、その代表例である。白人の国で人種差別が起きると同じことはニュージーランドでも必ず起きる。アメリカで特定人種を狙い撃ちした人種差別「ヘイト・クライム」が起きると、ニュージーランドでも同じことが起きる。