「ディナーショー」ではなく「ディナーショウ」と表記したい。 行きたいなー、ディナーショウ。
「老い先短い」とまでは言わないすけど、たとえば南米とかってこれからの人生何度も行けるわけじゃないから、もし行くなら名所旧跡ぜんぶいっぺんにだれかに連れてってもらいたいんすよねえ。こんな気持ちになるとはねえ。
コロナ禍でマスク着用やワクチン接種をネット上でお勧めしていると、「◯◯という論文がありますよね。知らないんですか(笑)」というような言葉をかけられることがある。
理にかなった反論もあるが、多くの場合は思い込み先行のいわゆる反マスク、反ワクチンの方たちだ。
こうした反マスク反ワクチンの人たちが知らないのは、世の中探せばたいていのことは質を問わなければ論文になっていることだ。
たとえばAという主張する論文があり、それに対する反論をする論文Bがあり、AとBを比較した論文Cがあり、という形で科学は進んでゆく。
その研究分野が盛り上がってくると、「Aだ!」「Bだ!」とさまざまな主張が飛び交い、「ほな確かめてみまひょ」と追試験が行われたり「nが少ないからもっと数集めてみました!」と規模拡大した論文が出たりする。
そうして主張Aを補完する論文A'や、Bを補完する論文B'や、Cを補完する論文C'も出てくる。
AとBを比較した論文Cや、A'とB'を比較した論文C'(理想的にはAとA'とBとB'を比較したものか)が出てきて、さらにはCとC'を比較した論文Dもあり、そうやって右往左往行きつ戻りつしながら科学は真理に近づく。少しずつ。
右往左往行きつ戻りつして、「だいたいここらへんが科学的真理っぽいですなあ」とコンセンサスが作られていくのだ。
だから「◯◯という論文もあります!」とか言われても、ひとまずは「so what?」と言わざるを得ない。 質が悪くてもよければ、探せばたいていのことは論文になっているから、論文があるだけでは科学的真理かどうかわからないのだ。
そういう科学的論証の“お作法”がわからないと、簡単にだまされてしまうから注意をしたほうがよい。
古人いわく、<一疑一信して相参勘し、勘きわまりて知をなさば、その知はじめて真なり>(洪自誠『菜根譚』)。
疑ったり信じたりして考え抜いて、考え抜いて最高に達してはじめてその知は真なるものになるという意味だという。
こんなツイートを見かけた。
いろいろ思うところがあるので備忘録として。自ツイートのコピペなので論理の飛躍や検証の薄さはご容赦ください。
・「Egalitarianのパラドックス」仮説を考えたのでご報告する。
アメリカ社会の行動原理がLibertarianismならば日本社会の行動原理はEgalitarianismだ、とTさんが言った。
Egalitarianismにもとづきこの2,30年日本社会はいわゆる「既得権益」を片っ端から引き剥がしてきた。 仮説だがきっかけの一つは
・1998年の大蔵省接待汚職事件(「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」)ではないか。 ああしたことをきっかけに、「何かあいつらオレたちの知らないところでウマい汁吸ってやがる」という国民感情が沸騰し、官僚バッシングが始まった(仮説。良い悪いの価値判断はしない) だが、明治以来、
・「持たざる者が懸命に努力して成り上がる」パスウェイの一つが「官」だった。天下りシステムは非常に非効率的だが、「成り上がり」を支える仕組みの一つだった。 天下りの監視を強め、現役官僚の給与を据え置き、下げ、いまだに「カチカチ」の風呂に象徴される劣悪な待遇を放置した結果、
・官僚が「実家の太い」人の名誉職となったとすれば何が起こるか。
実家が太く優秀な官僚の子ども時代を想像すると、多くの人は受験ゲームだけに専念できる環境だったのではないか。「努力すれば報われる」世界だ。
「努力すれば報われる」世界では、「報われていない者は努力していない」と解釈される。
・もし「努力すれば報われる。報われない者は努力していない」という価値観を持つ者が官界というルールメイキングの世界でマジョリティになればどうなるか。
そこにノブレス・オブリージュ精神が無ければ、Egalitarianismに反するルールが増えるだろう。
かくてEgalitarianismにドライブされたバッシング
・に端を発したここ2,30年の「既得権益」剥がしが、反Egalitarian的社会をつくる。これを「Egalitarianのパラドックス」と呼ぼう。
同様に、Egalitarianismに基づき国立大学の学費は私立に近づけられ、アカデミズムの雇用も破壊された 成り上がりパスウェイとして 「末は博士か大臣か」はもう成り立たない。
・令和の世に、成り上がりパスウェイとして残されたのはボカロでコツコツと打ち込み音楽をやってYoutubeとかに上げるかスポーツか。スポーツも金かかるしな。
あとは回転寿司にワサビ乗せたりして迷惑系YouTuberとしてバズるのを狙うとか。
This is「東京ブロンクス」。やれやれ。
「明日死ぬかもしれないから、後悔しないよう好きに生きる!」。
医者稼業をやっていると時々そんな人に出会う。
その都度、そうですねと言いながら曖昧な笑みを浮かべる。
だが人生100年時代、明日死ぬリスクとともに、これから数十年「生きてしまうリスク」というのもある。
「明日死ぬかも」と言って大酒を喰らいタバコを吸いまくったりして不摂生をし、それも影響して病気となり闘病生活を送る場合だってある。
「明日死ぬリスク」と「長生きリスク」の間を、ぼくらは生きているのだ。
禅の高僧が体調を崩し、死に瀕していた。
「お加減はいかがですか?」と尋ねられたその高僧はこう答えた。
「日面仏、月面仏(にちめんぶつ、がちめんぶつ)」
(末木文美士『『碧巌録』を読む』岩波現代文庫 2018年 p.155-170)
上掲書によれば、日面仏とは1800歳の長寿の仏、月面仏というのは一日一夜の短命の仏だという。
高僧がどういう思いで臨死の場で「日面仏、月面仏」と言ったかは不明だが、「明日死ぬリスク」と「長生きリスク」を同時に背負う我々もまた、日面仏であり月面仏であるのかもしれない。
中国古典『荘子』逍遥遊編では朝菌(ちょうきん)や蟪蛄(けいこ)、冥霊(めいれい)や大椿(だいちん)の話が出てくる。
朝菌は朝の間に死んでしまうきのこ、蟪蛄は蝉でともに短命。冥霊は500年を春とし500年を秋とする大木であり、大椿は8000年を春とし8000年を秋とする大木である。
(森三樹三郎訳『荘子Ⅰ』中公クラシックス 2001年 p.7)
古代人から見れば現代日本人は永遠に生きるといってもいいほど長寿だ。
しかしまた、新型感染症や事故などであっという間に世を去るかもしれない運命でもある。
我々はまた、朝菌であり蟪蛄であり、そして同時に冥霊であり大椿であると言えよう。
新しい年が始まった。
2023年もまた、「明日死ぬリスク」と「長生きリスク」の端境を、よくわからぬまま歩んでいくことになるのだろう。