【備忘録】加齢後の世界。

加齢とともに価値が見えてくるものがある。その一つが「ディナーショウ」
若い時は、最盛期を過ぎた歌手のショウになぜ大人は何万円も払うのか疑問だった
今ならその価値がよく分かる
 自分の青春時代のスターと近くのホテルとかで会えるのだ
スタンディングじゃなく座っていていいしご飯も食べられる

「ディナーショー」ではなく「ディナーショウ」と表記したい。 行きたいなー、ディナーショウ。

「演歌歌手は一曲当てれば一生食える」って聞いたことがあるけどすごいわかる。 自分ちの近くで生「津軽海峡冬景色」とか生「天城越え」とか聴けるならお金払うもの。生「俺ら東京さ行くだ」聴けるなら大枚はたくかも笑
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加齢とともに価値が見えてくるものがある。その一つが「パック旅行」
若い時は、お仕着せのスタンプラリーみたいなパック旅行になぜ大人は何万円も払うのか疑問だった
今ならその価値がよく分かる
もうさー自分で飛行機の格安チケット取って宿とってあちこち気合い入れて回ったりするの面倒なんすよ…

「老い先短い」とまでは言わないすけど、たとえば南米とかってこれからの人生何度も行けるわけじゃないから、もし行くなら名所旧跡ぜんぶいっぺんにだれかに連れてってもらいたいんすよねえ。こんな気持ちになるとはねえ。
 
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加齢とともに価値が見えてくるものがある。その一つが「いわゆるアメリカ映画」
若い時は、単純な勧善懲悪ものになぜ大人はお金も払うのか疑問だった
今ならその価値がよく分かる
もうさー複雑な人間心理とか絡み合う人間ドラマとか悪には悪の事情があるとかそんなの現実生活でお腹いっぱいなんすよ
 
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加齢とともに価値が見えてくるものがある。その一つが「白湯」
若い時は、味も何もないものをなぜ大人は飲むのか疑問だった
今ならその価値がよく分かる
カフェインもカロリーも、これ見よがしの香料も味も何も要らないからぬくい水分だけを体が必要とする日がみんな来るんやで
 
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加齢とともに価値が見えてくるものがある。その一つが「タクシーの指名」
若い時は、わざわざ迎車料金をなぜ大人は払うのか疑問だった
今ならその価値がよく分かる
流しのタクシーで横柄にされてもイヤだし不愉快な目にあうくらいなら迎車料金払っても気持ちよく乗せてくれるドライバーさんに頼みたい
 
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加齢とともに価値が見えてくるものがある。その一つが「料理屋の個室」
若い時は、個室料をなぜ大人は払うのか疑問だった
今ならその価値がよく分かる
せっかく久しぶりに友人に会えるのにガチャガチャしたところではじっくり話もできない。なんなら他人に聞かれたくない話もあるのが大人です
 
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加齢とともに価値が見えてくるものがある。その一つが「ちょっとええとこの店」
若い時は、気取った店になぜ大人は何万円も払うのか疑問だった
今ならその価値がよく分かる
ゆっくりご飯食べに行く機会って限られていて、そんなとき丁寧な料理を丁寧にサーヴされると自己肯定感が生き延びるんすよねえ
 
 
 
なぜ一生懸命「加齢後の世界」を語ってるのかは不明だが、このまま「加齢ソムリエ」「加齢の王子様」として生きていきたい。嘘だけど。

 

 

「勢い」考。

「勢い」とはなんだろうか。
先日、友人Aと話していてそんな話になった。
僕は不可知論者/agnosticなので、できるだけ超自然以外のものに答えを求める。
誰かが「勢いに乗っている」状態はどのようにして作られるのか。考えながら書いてみたい。
 
 「勢いに乗っている」人のまわりを見回してみる。
まず第一に、人間は「勝ち馬に乗る」生き物であることを指摘したい。なんだかうまく行っている人には、ついていきたくなるのだ。
だから一個仕事がうまくいった人には、次の仕事が舞い込む。そうやって、仕事がうまく行っている人には雪だるま式に仕事が舞い込む。
人気者はますます人気者になっていく構図だ。
人間の、「勝ち馬に乗る」という習性は「失敗したくない」という性質と表裏一体だ。
 
考えながら書いているのでどんどん横道にそれる。
以前に、大物詐欺師と会ったことがある(本当)。
アメリカの大学の医学部を出ながら医師にならず、テクノロジー系の会社を興し、日本の政府のアドバイザーなどを歴任したと称する人物だ。
この人は山本一郎氏などに「経歴詐称である」と筆鋒鋭く追及されて表舞台から姿を消した。
 
ほかにも「海外の名門大学を複数出て今は投資会社を経営している」という触れ込みの日米ハーフタレントという人もいた。この人は文春砲で消えたが、はたからみると「よくそんな経歴詐称してバレずに大舞台まで来たな」という詐欺師はチラホラいる。
 
こうした経歴詐称系詐欺師も、前述の「勝ち馬に乗りたい」「失敗したくない」という人間心理を利用しているといえる。
雪だるま式に膨れ上がる高評価というものの核となる最初の雪玉さえ作ってしまえば、あとはそれをうまく転がして大きくしていくことが可能なのだ。
 
なんとかして最初に小さな詐欺仕事を成し遂げれば、「前にこんな仕事しました」と実績になる。
その実績をもとに、「なんだか“勝ち馬”っぽいな」と思わせる。ある程度実績が出来ると「仕事の依頼先を探しているが、“どこの馬の骨”か分からないような未経験者に任せて失敗したくないな。最近名前が売れてきたあの人は“勝ち馬”っぽいから依頼しよう」というふうに大企業や大組織から仕事が舞い込んで来る。
 
勝ち馬といえば先行逃げ切り型と追い込み馬というのがいるが一般的にどちらが有利なのだろうか。そもそも競馬では
 
閑話休題。
「勢い」の話をするつもりが「詐欺師」と「馬」の話しかしていない。
こういうのを、筆の「勢い」というのだろう。

配膳ロボは優良顧客の夢を見るか。

ネットで、年配の人がファミレスで店員に注文しようとして何度も「タブレットでご注文ください」と言われちゃうエピソードを読んだ。
切ない気持ちはわかる。
すごくわかるんだけど、徹底した無人化によってコスト抑えて実現した低価格と、人件費かけた人的対人サービスの両方のいいとこどりしようとしてるんだよなあ…。
 
 人的サービスを期待するならその人の時給分などなどが上乗せされた料金を負担しないといけないし、低価格を期待するなら無人化サービスを甘んじて受け入れないといけない。
トレード・オフ&ノー・フリー・ランチ。
 
その年配の人を責める気は毛頭ありません。「ゲーム」のルールが急に変わったら誰だって戸惑います。
 
ただ、「人間の情はどこへいった」とか「ファミレスは心のこもった温かいサービスを」みたいな「お気持ち」主義には非常に反発を覚えます。
 
「タブレットに慣れない人に対応するのも店員の仕事」というご指摘もある。その通りだと思う。
一方で、店側は「『長くお付き合いいただきたいお客様』と、『そうでないお客様』がいる」という認識に基づき、消極的な顧客の選別を始めているのだと思います。
定常社会では、良質な顧客を囲い込む。
 
新規の「太客」が期待しづらい定常社会では、 既存の良客を囲い込みます。
運営コストが上がったり既存客が逃げるような顧客は遠ざける戦略を取ります。
オシャレな店が「隠れ家」みたいな場所にあったり。
 
定常社会の顧客囲い込み&未知数の新規客を遠ざける戦略の極北が古都の「一見さんお断り」。
そんなことを考えているうちに、今日もヤツが来た。

帰りがけに見たら寝てました笑
このシステム設計した人たちは天才的だよなあ。ネコならなんでも許されるってことを知り尽くしてる笑

「注文→調理→配膳→下膳→会計」という業務を研究し尽くして、「ネコが運べばお客も許してくれんじゃね?配膳ロボからテーブルに下ろすとこくらいやってくれるんじゃね?」という結論に達したんでしょうね。
 研究してみたら下膳は無人化難しかったということなのでは。

 

 

「〇〇という論文があります!」という人へ。

コロナ禍でマスク着用やワクチン接種をネット上でお勧めしていると、「◯◯という論文がありますよね。知らないんですか(笑)」というような言葉をかけられることがある。

理にかなった反論もあるが、多くの場合は思い込み先行のいわゆる反マスク、反ワクチンの方たちだ。

こうした反マスク反ワクチンの人たちが知らないのは、世の中探せばたいていのことは質を問わなければ論文になっていることだ。
たとえばAという主張する論文があり、それに対する反論をする論文Bがあり、AとBを比較した論文Cがあり、という形で科学は進んでゆく。

その研究分野が盛り上がってくると、「Aだ!」「Bだ!」とさまざまな主張が飛び交い、「ほな確かめてみまひょ」と追試験が行われたり「nが少ないからもっと数集めてみました!」と規模拡大した論文が出たりする。

そうして主張Aを補完する論文A'や、Bを補完する論文B'や、Cを補完する論文C'も出てくる。

AとBを比較した論文Cや、A'とB'を比較した論文C'(理想的にはAとA'とBとB'を比較したものか)が出てきて、さらにはCとC'を比較した論文Dもあり、そうやって右往左往行きつ戻りつしながら科学は真理に近づく。少しずつ。

右往左往行きつ戻りつして、「だいたいここらへんが科学的真理っぽいですなあ」とコンセンサスが作られていくのだ。

だから「◯◯という論文もあります!」とか言われても、ひとまずは「so what?」と言わざるを得ない。 質が悪くてもよければ、探せばたいていのことは論文になっているから、論文があるだけでは科学的真理かどうかわからないのだ。

そういう科学的論証の“お作法”がわからないと、簡単にだまされてしまうから注意をしたほうがよい。

古人いわく、<一疑一信して相参勘し、勘きわまりて知をなさば、その知はじめて真なり>(洪自誠『菜根譚』)。

疑ったり信じたりして考え抜いて、考え抜いて最高に達してはじめてその知は真なるものになるという意味だという。

 

 




Egalitarianのパラドックス~「官僚が金持ちの息子の名誉職になりつつある」

こんなツイートを見かけた。

いろいろ思うところがあるので備忘録として。自ツイートのコピペなので論理の飛躍や検証の薄さはご容赦ください。

・「Egalitarianのパラドックス」仮説を考えたのでご報告する。

アメリカ社会の行動原理がLibertarianismならば日本社会の行動原理はEgalitarianismだ、とTさんが言った。

Egalitarianismにもとづきこの2,30年日本社会はいわゆる「既得権益」を片っ端から引き剥がしてきた。 仮説だがきっかけの一つは

・1998年の大蔵省接待汚職事件(「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」)ではないか。 ああしたことをきっかけに、「何かあいつらオレたちの知らないところでウマい汁吸ってやがる」という国民感情が沸騰し、官僚バッシングが始まった(仮説。良い悪いの価値判断はしない) だが、明治以来、

 

・「持たざる者が懸命に努力して成り上がる」パスウェイの一つが「官」だった。天下りシステムは非常に非効率的だが、「成り上がり」を支える仕組みの一つだった。 天下りの監視を強め、現役官僚の給与を据え置き、下げ、いまだに「カチカチ」の風呂に象徴される劣悪な待遇を放置した結果、

・官僚が「実家の太い」人の名誉職となったとすれば何が起こるか。

実家が太く優秀な官僚の子ども時代を想像すると、多くの人は受験ゲームだけに専念できる環境だったのではないか。「努力すれば報われる」世界だ。

「努力すれば報われる」世界では、「報われていない者は努力していない」と解釈される。

・もし「努力すれば報われる。報われない者は努力していない」という価値観を持つ者が官界というルールメイキングの世界でマジョリティになればどうなるか。

そこにノブレス・オブリージュ精神が無ければ、Egalitarianismに反するルールが増えるだろう。

かくてEgalitarianismにドライブされたバッシング

・に端を発したここ2,30年の「既得権益」剥がしが、反Egalitarian的社会をつくる。これを「Egalitarianのパラドックス」と呼ぼう。

 

同様に、Egalitarianismに基づき国立大学の学費は私立に近づけられ、アカデミズムの雇用も破壊された 成り上がりパスウェイとして 「末は博士か大臣か」はもう成り立たない。

 

・令和の世に、成り上がりパスウェイとして残されたのはボカロでコツコツと打ち込み音楽をやってYoutubeとかに上げるかスポーツか。スポーツも金かかるしな。

あとは回転寿司にワサビ乗せたりして迷惑系YouTuberとしてバズるのを狙うとか。

This is「東京ブロンクス」。やれやれ。

 

 

日面仏、月面仏ー「明日死ぬリスク」と「長生きリスク」のはざまで。

「明日死ぬかもしれないから、後悔しないよう好きに生きる!」。

医者稼業をやっていると時々そんな人に出会う。

その都度、そうですねと言いながら曖昧な笑みを浮かべる。

だが人生100年時代、明日死ぬリスクとともに、これから数十年「生きてしまうリスク」というのもある。

「明日死ぬかも」と言って大酒を喰らいタバコを吸いまくったりして不摂生をし、それも影響して病気となり闘病生活を送る場合だってある。

「明日死ぬリスク」と「長生きリスク」の間を、ぼくらは生きているのだ。

 

禅の高僧が体調を崩し、死に瀕していた。

「お加減はいかがですか?」と尋ねられたその高僧はこう答えた。

「日面仏、月面仏(にちめんぶつ、がちめんぶつ)」
(末木文美士『『碧巌録』を読む』岩波現代文庫 2018年 p.155-170)

 

上掲書によれば、日面仏とは1800歳の長寿の仏、月面仏というのは一日一夜の短命の仏だという。

高僧がどういう思いで臨死の場で「日面仏、月面仏」と言ったかは不明だが、「明日死ぬリスク」と「長生きリスク」を同時に背負う我々もまた、日面仏であり月面仏であるのかもしれない。

 

中国古典『荘子』逍遥遊編では朝菌(ちょうきん)や蟪蛄(けいこ)、冥霊(めいれい)や大椿(だいちん)の話が出てくる。

朝菌は朝の間に死んでしまうきのこ、蟪蛄は蝉でともに短命。冥霊は500年を春とし500年を秋とする大木であり、大椿は8000年を春とし8000年を秋とする大木である。
(森三樹三郎訳『荘子Ⅰ』中公クラシックス 2001年 p.7)

古代人から見れば現代日本人は永遠に生きるといってもいいほど長寿だ。

しかしまた、新型感染症や事故などであっという間に世を去るかもしれない運命でもある。

我々はまた、朝菌であり蟪蛄であり、そして同時に冥霊であり大椿であると言えよう。

 

新しい年が始まった。

2023年もまた、「明日死ぬリスク」と「長生きリスク」の端境を、よくわからぬまま歩んでいくことになるのだろう。

 

 

 

非メモの魔力。

「若い時に工場の管理を任された。定期的に工員の面談をするんだ、一人一人。全員やると半年くらいかかる」
「はあ」
「“何か問題はないか”、“困ってることはないか”、1対1で面談する。それを全員やる。そうすると、工場全体の問題が浮かび上がってくる」
「なるほど」
「ここで重要なのが、“メモを取らない”ことだ」
 「メモを取らない?メモを取るんじゃなくて?」
「メモを取ってはいけない。少なくとも、面談しながらメモを取ってはいけないんだ。どうしてもメモを取りたければ、面談が終わってから、一人でこっそりメモを取るんだ」
日本を代表する企業の元トップ、Sさんから昔聞いた話である。
 
もちろん、メモには魔力がある。
前田裕二氏によれば、メモを取ることには
①アイディアを生み出せるようになる(知的生産性の向上)
②情報を「素通り」しなくなる(情報獲得の伝導率向上)
③相手の「より深い話」を聞き出せる(傾聴能力の向上)
④話の骨組みがわかるようになる(構造化能力の向上)
⑤曖昧な感覚や概念を言葉にできるようになる(言語化能力の向上)
という利点がある(前田裕二『メモの魔力』2018年 p.27-38。ものすごい良書。特に前半部分は、将来教科書に載ってもおかしくない内容)。
 
「メモの魔力」を十分認めた上で、「メモしないことの魔力」の話をしたい。
 
冒頭の、工場の個別面談の話に戻る。
人間社会では、問題の多くは人間関係だ。
Sさんは、個別面談のときになぜ“メモを取ってはいけない”と思ったかは語らなかったが、おそらくこういうことではないか。
工員A氏が「最近同僚Bが怠けていて」みたいなことを言ったとする。
真偽は不明だが、その話をもとにB氏の面談になると、管理者としてはこう聞かざるを得ない。「最近サボってるらしいじゃないか」。
B氏としては当然こう聞き返すだろう、「誰が言ったんですか?」。
 
話がこじれそうになった場合、メモを取っていなければ、「誰が言ってたのか忘れちゃったな」とか「すまんすまん、聞き違いや記憶違いだったみたいだ」。
メモを取らないことで、お互いに退路を保つことが出来る。
良し悪しの意見は分かれるだろうが、メモを取らないことで、面談を受ける側の心理的安全性を高め、あえてなあなあで収める道が残されるのだ。
 
メモには魔力があるが、メモを取らないこと、すなわち「非メモ」にも魔力がある。そんな「非メモの魔力」について話している。
ちなみにこの話には、おそらく今まで誰も思いついたことのないオチを用意している。早くそのオチを書いてしまいたいが、我慢して論を進めたい。
メモを取ることの利点は無数にあるが、世の中にはメモを取らないほうがよい場合もある。
 
外交官として活躍し、文化庁長官として富士山の世界遺産登録に尽力された近藤誠一氏の著書にこんな一節がある。
 〈手元に「文化庁日誌」のコピーがある。長官になったその日から、欠かさず書いてきたものだ、外務省時代は、外交官は日記をつけてはいけないという先輩からの教えを守った。私的なものを書いていた時期はあったが、すべて廃棄した。〉(『FUJISAN 世界遺産への道』毎日新聞社 2014年 p.12-13)
国家に関わることの記録は可能な限り残し後世に役立ててもらいたいとぼく自身は思うが、記録を残さない、メモすら残さないことで生まれる相手国との信頼関係もあるのかもしれない。
「外交官は日記をつけてはいけない」という教えが今も引き継がれているのか、機会があればこっそり教えてください。
 
メモや記録を残さないほうがよいのは、主に相手のある場合だ。
注意が必要なのは、感情、特にネガティブな感情のやり取りだ。
ネガティブな感情のやり取りを含むメールやLINEは、原則としてしないほうがよい。
こうしたものが記録やメモとして流出すると、取り返しのつかないほど禍根を残すことがある。
ある年代以上の人は、あまりに無頓着にこのネガティブな感情のやり取りをメールやLINEで行うので困惑することがある。
 
話がそれた。
他にもメモを取らないことの魔力はあって、メモを取らないことで話に集中できる、メモしていなくても記憶に残ることだけを覚えておくことになるので重要度の高いことだけを覚えておけるなどだ。
 
つらつらとメモを取らないことの魔力、「非メモの魔力」を述べた。
いよいよ前代未聞のオチに取り掛かりたい。
このオチを読んだら誰もが抱腹絶倒間違いなしだ。抱腹絶倒間違いなしなのだが、えーとあれですよ、オチはあんな感じのやつです。ほらあれ、あれです。ダメだどうしても思い出せない。
なんということだ。自信作のこの話のオチ、非常に残念ながらキレイさっぱり忘れてしまった。
 
こんなことならメモしときゃよかった。