あの人と出会ったのは、私がまだ聖王と呼ばれる前のことでした。
かつて世には六十の世界があり、私はその内の一つの片隅、辺境に生まれた村娘に過ぎませんでした。
しがない一介の、と言いたいところですが、当時から私が抜きん出た存在であったのは素直に認めるところです。大地を耕し、森を切り開き、田畑を育む。人々が懸命に力を合わせて初めてできるそれを、私はただ一人、ほんの少しの時間で済ませられたのですから。
最初は異様な子供として近寄りがたかったらしく、寂しい思いもいたしました。けれど私には生まれ故郷を守りたいという思いがあり、どんな言葉を投げられてもそうし続けた結果、皆に受け入れられることができました。
聖女様。昔はそのように呼ばれたものです。誰かを治す力、誰かを蘇らせる力。流石に天寿を全うする方はどうしようもありませんでしたが、それ以外の方々を余さずお助けする力が、私にはありましたから。
転機が訪れたのは、世界の滅びを感じたあの時でしょう。
ヴァルガリエ・ディエラ・ドゥン・リエンジスカ。世界の隅々にまで雷名を轟かせる、【煌天女帝】と恐れられし竜王。彼女が浮かべた『暁の微笑』によって、五十七もの世界が崩壊しました。
今ならば分かります。彼女は必要に駆られ、世界に君臨する唯一の竜王として、それを為したのだと。そしてまた――ほとんどの知性体が住まう世界を私が守ることとなったのも、また天命であったのでしょう。
それは並大抵のことではありませんでした。結果的に私は六十の内、たった二つの世界しか守れなかったのですから。
けれどそれも、あの人が――多くの民を率いていた私に、最初に剣を捧げてくれたエルフの真祖がいなければ、きっと為し得なかったと今も思っております。
あの人は常に、私の矛でありました。
未熟であった私の指揮を支え、有事あらば常に皆の先頭に立ち真っ先に前へ突き進む、勇敢なる戦士でした。
あの人は常に、私の盾でありました。
私のミスで起こるはずだった取り返しの付かない事態を未然に防ぎ、私の目の届かぬところを常に見定め、寡黙に守り続ける
ええ……矛盾とは、よく言ったものですね。本来同時に成立し得ない、攻守の極み。けれどあの人はそれを為しえる、私の一番の騎士だったのです。
それは私が一つの世界を統べ、『流星海嘯デモエス・レウス・ラピス』を打ち立て、初代聖王となってからなお、変わることはありませんでした。
そろそろ腰を落ち着けてはどうか。
幾世紀もの平穏が過ぎ、けれど常に最前線にあり続けたあの人にそう声をかけたのは、何度目だったでしょう。
あの人はとうに、聖王の勇士とはかくあるべし、偉大なる騎士の鑑と歌われるようになっていました。
けれど、私は……正直に言いましょう。寂しかったのです。苦楽を共にしたあの人が、聖王として民を治める私の側にいない、その事実が。
だから、その功績に報いるためと都合の良い口実を並べ立て、あの人が私の側にいるように促しました。けれどあの人は優しく、けれど頑として首を縦に振らず……結局は千年前、最前線から身を引いて親衛隊の団長に就任するまで、それが叶うことはありませんでした。
そんな寂しい日々も、もうおしまい。私を守るため自主的に集い、選び抜かれた精鋭である親衛隊の長となったあの人は、私の側にいて当然の肩書きを得たのです。
それからの千年は、色々なことがありました。けれどその度に、あの人と頭を悩ませ、懸命に働き、共に解決して参りました。
聖王の右腕。いつしかそう呼ばれるようになったあの人を、誰よりも誇らしく思ったのは私です。あの人の活躍が大いに報われていることが――あの人が私の半身であるかのように扱われるのが、とても、そうとても、嬉しかった。
あの人と共に歩む日々は、千年もの間続きました。私はこれまでも、これからも、その安寧の日々が続くと無邪気に信じておりました。
想像すら、できなかったのです。
私たちの関係が一変するその時が、ひそやかに、刻一刻と、蛇のように迫っているだなんて。
『猊下、私は猊下の処女を頂きたく存じます』
運命の夜。あの人の口から放たれた一言を、私は理解することができませんでした。
『ど……どうしたの、ですか? 急にそのような……その、おっしゃるなんて。何か悪い物でも食べたのですか? 体調が優れぬのであれば、すぐにでも癒やして差し上げますが』
私はしばらく、なにも答えることができず、かろうじて絞り出せたのはそんなとぼけた言葉でした。
そんな私にあの人は見たこともない顔で笑って、騎士としての姿勢を崩さぬまま、
『猊下。私は猊下に出会ったあの日から、いいえ、猊下を知ったその日から、貴方様が欲しいとずっと思っておりました』
『今の今まで秘めていたのは、今宵を待っていたからです。誰にも邪魔されず、猊下と私、ただ二人きりで過ごせる、この時を』
『申し訳ありません。私は貴方様の右腕にふさわしい者ではないのです。騎士の鑑などと、そんな大それた言葉に値する男ではないのです』
『私はただ、貴方が欲しくて、欲しくて、その欲求を抑えらず、ここまで飢え、走り続けた――一匹の獣に過ぎないのですよ』
あの人は何度も私に言いました。私が少しでも否定する素振りを見せると、懇切丁寧に逃げ道を塞いでいきました。
私は……私は、信じたくなかった。優しい顔、勇ましい顔、微笑む顔、彼方を見る顔――これまで見てきたどんな顔とも違う、あの人の湿り
それを直視できなかった私は、「嘘だ」と呟くことしかできず……追い詰められ、悟ることしか許されませんでした。
ああ――だから私は、あの人の願望に従うことにしたのだ。
共に戦場を駆け抜けた悠久の友へ、それは手向けの花のつもりであった。たとえ聖王の名のもとに、あの人を断罪する必要があるとしても。
その前に、あの人の働きに報いる義務が、私にはあるような気がしたのだから。
私は自ら衣服を脱ぎ、あの人の上にまたがった。そういった経験は微塵もないが、何も知らぬ純真無垢を気取るつもりもない。生娘であっても、また耳年増であった私は、そうした方があの人を喜ばせると知っていた。
内心で、小さく謝罪した。私には天より
私はあの人に処女を捧げる気はなかった。少なくとも、自らの欲を明かし、ニヤニヤと下劣な笑みを浮かべるあの人には。
最後に見るあの人の顔がそんな下衆のそれであることに耐えられず、私は目を閉じ、処女を捧げ――
――そして、体を貫いたあの感覚に、何の抵抗もできなかった。
何が起こったのか分からなかった。ぶるりと震える肌、パチパチと視界に弾ける火花。鼓動のように、けれど自らのそれとは違う焼け付く感覚に、私は疑問符を浮かべることしかできなかった。
そして、生肉を放られたケダモノのように食らいつくあの人に、抵抗もできず貪られた。
分かっていなかったのだ。『星の加護』はあの人も知るところ、ならば対策の一つ二つ立てていてもおかしくないと、分かっていなかった。
私の行いは、飢えた狼の前に自ら飛び込んだ小兎も同然であり――その結果は、あまりにも必然だった。
私はその夜、あの人に――快楽とは何であるかを教え込まれた。
夜が明け、目を覚ました時。私の体は快楽の残り香と、気怠い心地よさに包まれていた。まだ半ば夢から覚めていない私は、何一つ隠さぬあの人が、至近で、私を抱いて横になっている事実に、はしたない声を上げた。
すぐに私は正気を取り戻した。そして自らの為すべきことを為そうとした。それが私の責務。聖王たる力ある者の務め。天より与えられし聖剣を手に、あの人を裁こうとしたその時。
あの人の涙が、私の手を止めていた。
あの人は懺悔した。こんなことをするつもりはなかったと、一生ひた隠しにするつもりだったと、涙を零して後悔していた。
そして私に謝り、自刃しようとした。それを止めたのは、はたして聖王としての慈悲からだったのだろうか。
いいや……いいえ。私はただ、信じたかったのです。あの人の儚げな笑みを、後悔の涙を。ただ信じたかったがゆえに、私はあの人に問いかけ、その行いを許しました。
それで元の関係に戻れると信じた私は、傲慢でしょうか。一度足を踏み外したら、二度と戻れないと思わないのは、私に力があったからなのでしょうか。
私には分かりません。確かなのは数ヶ月の間平穏は続き……ある日の夜、私が目撃したという事実だけです。
所用があって訪れたあの人の部屋。手前勝手に開けて、そっと中を覗き込んだ時に見た――憎々しい悪魔を必死に抑え込むような表情で、
自らを慰めるあの人は、ただ痛ましかった。風車を竜と思い込み挑む騎士のように、それはまるで自罰のように見えたのです。
だから私は、あの人の前に姿を表し、提案しました。鎮めるのを手伝うのも、
……正直に言って、恥ずかしい思いを抱いていたのは否めません。このような提案を私からするなんて、まるで私がそれを望んでいるかのようではありませんか。
ええ、私はただ、あの人の力になりたかっただけなのです。……ええ、
…………じくじくと肌を犯す、下半身に流れ落ちる熱を、ないものとして扱いながら、私はそう思い込んだのです。
それから、私とあの人の秘密の関係が始まりました。聖王とその右腕という関係を表向き保ちながら、裏ではあの人の欲望を鎮める行為を繰り返しておりました。
段々と、
胸、お腹、太もも、足先。流石に口でするのはどうかと思いましたが、熱心に必要だと論じる彼に押されて、ついやってしまいました。
嫌な気持ちはしなかったのです。むしろ……いいえ、詮無きことでしょう。体中にあの人の匂いが染み付いていって、どんどん深みにハマっていく自覚はありましたが、私は誰かに押されるように……その暗がりの奥へ、足を踏み入れていきました。
あの人の日記を見つけたのは、そんなある日のことです。
私はあの人を呼び出しました。あの人はいつも通りでした。それは日記を見せても変わりませんでした。
私が日記の真偽を問いただしてようやく……そう、ようやく、あの人は今まで見たこともない、ぞんざいな態度を見せました。それは優しく礼儀正しい、騎士たるあの人のそれではなく……荒野に佇む、荒れ果てた一匹の雄のようでした。
なぜだか、ドキリと胸が高鳴ったのを覚えています。それが何なのか私には分かりませんでした。
ただ……ただ、裁かなければならないと思った。不思議と騙されていたことへの悲しみはなかった。正さなければならないという空虚な意志が、そこにあるだけだった。
私は最後の慈悲として、あの人の進退を決めた。それに従わなければ即刻斬るつもりだった。
けれどあの人は従わず、私の渾身の一振りを柳のように受け流し――私の唇に、その雄々しい唇を重ねた。
その瞬間、体から力が抜け落ちていった。何が起こったか分からず、振りほどこうとしてもどうにもならなかった。
舌を入れられ、口腔を無遠慮に
あの人は笑った。もはや私の体は私の物ではないと。私がそれを否定すると、あの人はその猛々しい指をじっとりと滑らせ、私の体を蹂躙した。奇しくもそれが、証明となった。
もう腰に力が入らず、崩れ落ちそうになる私を抱きとめ、あの人は優しい笑みを浮かべていた。けれどそこには、暗い喜びが見え隠れしていて……せめても言葉で抵抗する私は、服を脱いだあの人の雄から目を離せなかった。
そうして、私自身の提案から始まった秘密の関係は、完全に逆転したのだ。
あの人はところ構わず私を貪った。教会、聖堂、執務室、寝所。聖王としての務めを果たす私の生活圏で、あの人は匂いを塗りたくる犬猫のように私に欲望をぶつけた。
私が最も嫌がったのは、遮る物のない空の下であの人に貪られることだ。いくら木々が邪魔をするとはいえ、いつ誰に見つかるかも分からない状況はあまりにも恥ずかしく、生きた心地がしなかった。
『やはり猊下は、こういった状況がお好みのようですね』――羞恥に耐える私にいつもより反応が良いと囁くあの人の言葉を、決して信じたくなかった。
あの人が最も好んだのは、民の前で演説する前に私に欲望を解き放つことだった。あの人は何も言わなかったが、きっと見抜かれていたのだろう。
壇上に上がり、私を聖王と称える純真な民の前。私は清らかと歌われる笑顔の下で、
その、体をいたく苛む煮え滾った熱が。私の精神をも犯すような、胎の奥に溜まったあの人の歪んだ欲望の塊が。私には、私には……
いつしか私からは、抵抗の意志すらなくなっていた。ただあの人に貪られる毎日を、廊下の絵画を眺め歩くように無為に過ごしていた。
『つまりは猊下――貴方様はまだ、処女なのでございます』
あの人が事実を明かしたのは、そんな時だ。あの人は『星の加護』を無効化し、私の渾身を受け流せた理由を説明した。
その上で、私から手を引くと言ったのだ。『後任に団長を任せ引かなければならない身の上ですので』とあの人が苦笑した時、嫌にズキリとした痛みが胸に走ったのを覚えている。
私は無言で出ていった。信じるつもりはなく、もはや信頼にも値しないが、その日あの人が手を出さなかったのは確かだった。
次の日も、その次の日も、あの人は私に手を出さなかった。あの言葉が真実であったと知ったのは、何日も経たあとだ。
私はホッとした。これで終わると。やっと元に戻れると。
――あの輝かしい日々に、聖王である私とその右腕であるあの人の関係に戻れると、何の疑いもなく信じたのだ。
一月後。私はあの人の部屋へ自ら押し入った。
もう耐えられなかった。肌を巡る感覚の波に、胎の底に渦巻く衝動の熱さに。私はあの人が何か仕掛けを施したに違いないと糾弾し、しかしあの人はそれを否定した。
『要するに、猊下は発情なさっているのですね』
何気ないあの人の一言に、カッと顔が熱くなった。強い勢いで否定した途端、あの人は私の寝衣を捲くり上げ、その下に隠していた真実をさらけ出した。
私はもう、黙りこくるしかなかった。認めるわけにはいかなかったからだ。プライドや、聖王であるからという問題ではない。
ただあの人に。そのことで失望されるのが、怖かった。
『こうなったのは全て私の責任です。猊下がお望みであれば、いくらでも手助け致しましょう』
満足そうに頷いて、あの人は続ける。
『私の望みを叶えてくだされば、の話ですが。猊下――私に貴方様の処女を、捧げてくださいますか?』
その言葉の意味が分からないほど、私は愚鈍ではなかった。いいや、正直に言えばあの時だけは愚鈍でいたかった。
それは、受け入れるということだったからだ。あの人が私にしたこれまでを、あの人が私にするこれからを――私自身の意志で、受け入れるということだったから。
私は迷った。逡巡した。その時点でもう戻れない場所にいるのだと訴える理性は、ことごとく無視した。
そうしている間にあの人はため息をつき、身を引こうとした。それに思わず手を伸ばした私は、愚かなのだろうか?
……ああ、きっと愚かなのだろう。私を陵辱し、思うままに貪り、尊厳をも奪おうとする男に、自らすがりつく私は。
言い訳のしようのない、どうしようもない、淫売だった。
――そして、その時が訪れる。
私が信仰する神の御前。夫婦の契りを交わすためだけに存在する大聖堂の深奥で、私は婚姻の衣装をまとっていた。
ただの衣装ではない。淫靡で、はしたなく、男を誘う娼婦のそれだ。こんな夜でなければ――あの人と二人だけの今でなければ、とても婚礼装束とは呼べない代物。
あの人は優しく微笑んでいて、けれどその目だけはギラギラとしたケダモノのそれであった。私は思わず恐怖を抱いたが……それ以上の期待を胸に秘めていたのは、間違いない。
あの人と共に神の御前に倒れ込む。私が真に操を捧げる直前、あの人は私の名を呼ぶ許しを求めた。
私は長く沈黙し、結局は頷き……あの人に名を呼ばれた瞬間、雷鳴のような情動が全身に走り、涙した。
そして、神に見守られし神聖な場所で。私は、あの人に――
こうして私とあの人は、正式な夫婦となりました。
そうでしょう? いくら神に許しを乞うても、あの人に強く貪られた時、私は愛を叫びながらあの人を受け入れたのです。
元よりあの場所はそういう聖なる祭祀場であり、そこへ連れて行ったあの人もまた、そのつもりだったのでしょう。私はもうあの人の物……それは一生変わることのない、不変の真実となったのです。
……ええ。私は受け入れています。過程はどうあれ、私はこうなることを望んでいたかもしれません。最初から、私にとってあの人は特別でした。ならば夫婦となるのなら、あの人でも仕方ないと、そう思えたのです。
正式な夫婦となってからも、私はあの人と関係を持ちました。夫婦なのですから当たり前です。時には私から求め、動き、あの人を喜ばせ……事後の奉仕に幸せを感じ、穏やかに過ごしておりました。
これからもこんな日々が続くと、私はあの人の側で微笑んで――
「お初にお目にかかります、猊下! 新たに親衛隊団長を仰せ付かることになった――です!」
……え?
「前団長、ですか? 猊下の命によって引退するとのお話ではないのですか? そうおっしゃられておりましたが……」
…………どうして?
「もしや、体調が優れないのですか? 大変です! 今すぐにでも医師を……本当に大丈夫なのですか? あ、はい、分かりました。私はこれで失礼いたします……」
新たに親衛隊団長を名乗った女性騎士を下がらせて、私は一人私室に閉じ籠もりました。あの人を、そう、あの人を探すためです。
結果は……もうこの世にいないことが分かりました。何を調べても、どうやっても、何度繰り返しても、あの人の魂が存在しないという結果だけが示されました。
……なぜ? どうして? あの人が亡くなっている? もうこの世にはいない?
…………私を置いて、永遠に手の届かない場所へと逝ってしまった?
「っっっ!!!」
思わず、魔法の水晶を私は切り払っていました。水晶はただ厳然たる結果を指し示していただけなのに、私は当たらずにはいられませんでした。
なぜ、なぜ、なぜなぜなぜなぜ。私の頭にはそれだけしか浮かびませんでした。息が苦しく、鼓動が早くなり、視界の端が明滅します。
何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も私は考えました。そうしてようやく、思い知ったのです。
――あの人は初めから、こうするつもりだったのだと。
「……ふふ、あはは」
ふらり、と私は体勢を崩しました。
最初から、騙されていたのです。言葉も、心も、全て嘘。あの婚姻の儀ですら、あの人にとっては欲望を満たすための手段でしかなかったのでしょう。
私はただの道化。あの人が欲望を満たすために選んだ、都合の良い女。それだけでしかなかったのです。
「あはは、あははははははは」
笑い声だけが勝手に湧き出ます。壊れた水晶を放置して、私はふらふらと歩きました。
「あはは、はは…………」
顔を伏せたまま、私は立ち止まります。しばらく立ち尽くして、やがてゆっくりと顔を上げれば、そこには。
「…………――――うふふ」
――鏡に映る、あの人の欲望に満ちた笑みに劣らない、暗い喜びに浸った女の顔が、ありました。
「……ああ、なんてことだろう。私にこんな一面があっただなんて」
これではとても、聖王と呼ばれる資格はありませんね。だって今の私に、民を思い、世界を守ろうとする気高い意志なんて、欠片も宿っていないのですから。
「まったく、ひどい人だ……けれど、そんなところも愛おしい」
ずっと我慢してきました。ずっと見て見ぬ振りをしてまいりました。けれどこうして向き合った今、私を縛るものは何もありません。
――欲しい。あの人が欲しい。あの人の心が欲しい。あの人の体が欲しい。あの人の全てが欲しい。
あの人の、子供が欲しい。
「子供は何人が良いだろうか。十人? 百人? いいや、もっとだ。もっともっと……世界が終わるその時まで、私は愛の結晶を育みたい」
こんなこと、普通ならとても認められません。こんなことがなければ、私は一生向き合わなかったでしょう。
けれど、しょうがないですよね? 私は私の認めるべきでない欲望を抑え続けたのに、あの人はついに我慢できず、私に全てをぶつけたのですから。
――だったら、私がそうしても、貴方は許してくださいますよね?
「さて、まずは魂を捕捉しなければな。時間はかかるだろうが、なに、いずれ必ず達成できる」
鏡に映る自分の顔を撫でて、私はニンマリと頬を歪めます。
「貴方が戻ったら何をしようか。実は、ずーっと貴方を甘やかしてやりたいと思ってたんだ。食事から、お風呂から、何もかも……貴方の全てを私がやってあげて、優しく包み込んであげたいと思っていた」
あの人が戻ってきたら、この想いの丈をぶつけましょう。余すことなく、存分に、あの人に愛を注ぎ込みましょう。
「ああ、その時が待ち遠しい。今から準備しておかなくてはな。だから――」
――――私から、逃げられると思わないでくださいね? 旦那様♡