妾が妾であると認識したその時から、妾は絶対強者であった。
古い世界。古い時代。神が世界を創造し、あらゆる生命の雛型が生まれし原初。妾は最初の知性体として生み出された。
妾は既に完成されていた。そしてなおも成長する、そうあるべくして生まれた強者であった。
絶対強者。その言葉に嘘偽りはない。妾に勝るものなぞ存在せず、いずれは神すらも超え、頂点に君臨することを約束されたのが妾であった。
そうだとも。忌ま忌ましい神、妾に初めて真っ向から歯向かった女、そして生まれたてで妾と対等のように振る舞う小娘。
その程度であった。妾の『敵』と呼べる者はその程度であり、如何に過程がどうであろうとも、最後に勝つのは妾じゃと決まっておった。
思ってもいなかったのだ。
脆弱な人間。下劣な雄。あのような下等な弱者に、初めての敗北を喫するなど。
……妾は心胆から、思ってもみなかった。
フレッドリーツ・レアライヒ。
前々から謁見を申し入れていたその男は、妾の前で大袈裟に自己紹介をした。
一目で分かった。こやつは下衆だ。妾を見つめるその瞳、そこには賢者らしい叡智の光はなく、熱く煮え滾るドロリとした欲望で満ち満ちていた。
面白い。そう思ってしまったのが、妾生涯の不覚であろう。殺すべきだったのだ。この男を、妾に触れられる領域に至る、その前に。
……じゃが、結局妾はその機を逃した。仕方なかろう? なぜなら妾は絶対強者なのじゃから。
『契約』の日はすぐに訪れた。
奴と邂逅してすでに数十年経つが、些細な時間じゃ。その間に奴は知性体としての円熟期を過ぎ、命の灯火が消えかけたようじゃが、見た目だけは取り繕っておった。
今にして思えばあれも妾の油断を誘う計画の一部だったのじゃろう。奴には確かな必死さが見て取れた。文字通り死力を尽くし、妾を食ってやろうという気概が透けて見えた。
だから、遊びのつもりだったのだ。下等で劣等、妾という絶対強者の足元にも及ばぬ人間の雄が、いかなる方法で妾に手を伸ばすのか。
暇つぶしにただ、それを見たかったと思ったのが……いや、思わされたのが、すでに奴の術中に嵌っていた証拠じゃろうな。
『生来、俺はずっとある願望に悩まされてきました。
至って単純な、性欲です。しかしただの性欲ではなく、いわば性癖――特定の相手、特定の状況でしか興奮しない、難儀な質を抱えております。
陛下。貴方は俺に欲しい物を何でも言ってみよとおっしゃった。ならば貴方に願いましょう。
――どうか俺に、花嫁を用意して頂きたい。傲慢で、全てを見下し、また敗北を知らぬ、この世の頂点に立つ女性――そう。まさしく貴方のような、花嫁を』
妾は腹の底から嘲笑したのを覚えておる。奴は一人舞台の演者のように仰々しく振る舞い、妾に熱視線を送りながら白々しくも
よかろう、と妾は頷いた。貴様の望みを叶えてやろうと――この妾直々に相手をしてやろうと、奴の思惑に乗ってやった。
『御前契約』などという縛りを受け入れたのも余興のつもりじゃった。妾はすでに神の力にすら届く存在。本気を出せばたかだか神の契約、噛み千切ってやれるとな。
……じゃが、それは終ぞ為せなかった。契約を交わし、逸る男に笑みを押し殺しながら
――そして奴に、七日七晩に渡って純潔を奪われた。
『おやおや……陛下ともあろう御方が男を知らぬとは、これは僥倖だ』
『一息に頂いてしまおうかと思っておりましたが、気が変わりました』
『陛下。これから俺は丹念に準備致しますが、どうかご辛抱を』
『願わくば、ありのままの陛下でもってご堪能頂きたい』
『まあ、それは
『俺という男の味……この先幾千の年月を経ても忘れぬよう、
っ……屈辱じゃった。いいや、この猛り狂う感情はそんな言葉では表せぬ。汚辱、恥辱、
ああ、
……ああ、分かっておる。それもこれも全てあの男のせいじゃ。忌々しい七日間が明けた朝の、妾の顔を見るあの男の表情ときたらもう……
『おはようございます。ご機嫌は如何ですか、陛下? 見た所、あまり調子がよろしくないようですが』
妾の体に散々つけた接吻の痕を目でなぞりながら、奴は笑っておった。嗜虐、嘲笑、支配の色。本来妾が奴に向けるべき感情を、下卑た欲望で汚してドロリと妾に差し向けていた。
殺してやろうかと思った。けれど無理じゃった。『御前契約』は妾を縛る。本気を出せば噛み砕ける物を、
ほんの一部。それだけで良かったと奴は笑い、これから妾に課す汚辱の数々を説明しおった。飢えた狼のような視線は、ゆっくりと、言葉を募りながら妾の体を舐め動いた。
妾は笑うことしかできなかった。『暁の微笑』――かつて世界の大半を葬ってやった笑みをただ、奴に向けることしかできなかった。
そうして、地獄の日々が始まった。
奴は契約の間、妾の
ならば良かろう。存分に扱き使ってやる。この身に渦巻く鬱憤を晴らすように、妾は無理難題を奴に命じた。
奴はすぐにボロボロになった。それに妾は満足し、無防備にも近づいてしまった。結果は、しつこく貪る奴に啼かされる妾のあられもない痴態だけじゃった。
奴は開発などと称して妾の体を弄んだ。胸の先、股の間、腹、背中、太腿、尻尾……通常の肌とは違う感覚をもたらす場所を、奴は優しく、入念に、鋭敏にしていった。
特にひどかったのが耳と唇じゃ。奴は手と舌でもって耳をなぞり、掻き
日に日に敏感になっていく体に、妾は恐怖した。恐怖などとは口にもしたくないが、あれは間違いなくそういった感情じゃろう……このままあの男に身を任せたらどうなってしまうのか、そんな
次に奴が行ったのは淫紋などという下衆の呪術じゃ。痛み、苦しみ、肉体の悲鳴。そういった負の感覚を全て快楽へと変換し、増幅する。
流石の妾も警戒した。ただでさえ服の衣擦れでも思わず声を上げてしまいそうになっておるのに、そんな物を刻まれたらおかしくなってしまいそうじゃった。
……じゃが、そんな妾に奴は甘言を誑し込む。
『陛下、もし俺の呪術が陛下に通用せぬのなら、今すぐにでも契約を解除しましょう』
『絶対強者たる陛下の肉体……俺ごときの呪術など通用するとは思えませぬが、せめて一度だけは、挑ませて欲しいのです』
妾は悩んだ。悩んだ末に、結局は受け入れた。
負けるはずがないと思った。妾は最強、絶対強者。このような下劣の術に屈するなどありえぬと信じたのだ。
そうして妾は、淫紋を刻まれた。肉体への信頼を、絶対強者の誇りを砕かれた妾をさらに踏み
…………認めよう。気持ちよかった。気持ちよかったのじゃ。妾の意志に反し、反応する肉体から流れ込む快楽は、これまで味わったどんな物よりも心地良かった。
それが嫌で、我慢ならなくて、妾は褥の上であの男から逃げようとした。しかし刻まれた淫紋がそれを許さず、快楽と屈辱に涙を流すしかなかった。
それから僅かばかりの月日が流れた。その間も奴は妾を貪るのをやめず、肉体に刻まれた淫紋は日に日にその力を広げていった。
そんな明くる日のこと。奴は急に妾に手を出すのを止めた。疑念と殺意をもって睨む妾に、奴は嫌に真剣な表情でこう宣った。
『陛下。そろそろ『大煌不天祈祭』の時期にございます。彼の祭事の重要性は重々承知の上。つきましては俺も陛下の一助となりましょう』
とても信じられぬ言葉であった。だが奴は言葉通り、『大煌不天祈祭』の準備に奔走した。
妾は奴の狙いを読めず、しかし『大煌不天祈祭』に向けて些事を片付ける他なかった。
今にして思えば、気づくべきじゃったのだろう。奴の真の狙い、準備の合間に妾を見つめるドロドロとした欲望の正体に。
しかし妾は終ぞ気づくことのないまま、『大煌不天祈祭』の日は訪れ――
――そうして妾は、他ならぬ妾自身に、これ以上無いほど女としての無様を晒したのじゃ。
『大煌不天祈祭』後の妾は
そうじゃろう? 妾と対等であるのは妾のみ。その妾たちと対話する『大煌不天祈祭』において、妾はただ一人の雌に成り下がっておったのじゃから。
とても生きて行けぬと思った。これから先の妾は、一生この恥辱を抱えなければならぬ。そして過去の『大煌不天祈祭』にて過去と未来の妾がこれを伝えなかったのは、
妾はそれが恐ろしかった。あの男に屈する未来、それが見えてしまった今が。このまま死んでしまうのが何よりの救いではないか、そう本気で信じた時期もあった。
……じゃが、そんなことをあの男は許さぬ。嫌がる妾を無視して世話をし、食事を拒否すれば口移しで流し込まれた。あの男はどこまでも、妾の尊厳を犯す気じゃった。
そうして、衰弱した妾に僅かな抵抗の余裕が生まれた頃……邪悪なる神のようにあの男は囁いたのだ。
『思い出せ、お前をここまで追い詰めたのは誰だ? 今お前の目の前には、何がいる?』
その言葉に、妾はただ本能で暴れ回り……結局はあの男に抑え込まれた。
『前はほんの一部だったが、今はこうして対等以上に振る舞える。もうお前は、俺の力に抗えない』
妾を褥へと押し倒しながら、奴は囁いた。
『無理なんだ。今日、今宵、この場所に限って、お前は決して俺に勝てない。並ぶ星々が見えるだろう? お前にとって今日この日は、最悪の運命だ』
弱々しく抵抗する妾の手に指を絡ませながら、奴は囁いた。
『お前は勝てないんだよ。分かるだろう? もう受け入れるしかないんだ。……そう、いい子だ。それを理解しろ。お前は俺に勝てない……だからもう、仕方ないじゃあないか?』
いやいやと稚児のように頭を降る妾に何度も口づけを落とし、奴は囁いた。
『俺を受け入れろ。俺を受け入れてくれ。お前しか、俺のこの欲望を満たせない』
辛そうに、苦しそうに、そう囁く男を見上げ、妾は――
『お前は俺の子供を産めるんだよ――ヴァルガリエ』
――妾はその瞬間を。
妾は狂乱した。それだけは受け入れてはならぬと全身が警告を発していた。
純潔を奪われたのはいい。体を弄ばれたのも許そう。淫紋も、全て消し去ればなかったことにできる。
だがそれだけは駄目じゃ。それだけは、それだけは断じてあってはならぬ。
それを受け入れれば、
じゃから妾は抗った。誇りを捨て、絶対強者としての振る舞いもかなぐり捨て、ひたすらに許しを懇願した。
奴に抱きしめられた時、嫌に安心したのを覚えている。髪を撫ぜられ、優しい言葉を囁かれるのがひどく心地よかったのを覚えておる。
やがて、狂乱の時を逸した妾は、あの男の腕の中で奴を見上げ。
そこにあった、欲望に満ち満ちた笑顔に、希望を砕かれ。
そうして妾は、妾の体は――――
『ああは言ったが、俺の種じゃできないようにしておいた。まあ色々と、面倒だろう?』
全てが終わった後。身支度をしながら奴は話していた。
『
聞こえてはいたが、心には響かなかった。妾はただ、茫洋と意識を揺らめかせるだけじゃった。
『なにせもうすぐ死ぬ身でね。できれば最後は、静かに過ごしたい』
妾の下から去る最後、奴は悲しげに笑っていたように思う。
『悪かったよ、ヴァルガリエ。……本当に、本当に悪かった。
こんなことを言うのもあれだが、できれば、幸せになってくれ』
それから妾は、ずっと起き上がれずにいる。
できるのはただ、失われた快楽を嘆く体を時の続く限り慰めるのみ。
妾は終わった。ヴァルガリエ・ディエラ・ドゥン・リエンジスカと呼ばれた絶対強者は、最早ここにはいなかった。
ただの雌が――雄に捨てられた一匹の雌が、ただそこにおるだけじゃった。
『なにせもうすぐ死ぬ身でね。できれば最後は、静かに過ごしたい』
何か、声が繰り返される。褥に身を任せるだけの妾に、それが何かは分からない。
『――もうすぐ死ぬ身でね。できれば最後は、静かに――』
声が、はっきりと輪郭を帯びる。妾を突き動かすように、それは魂に突き刺さる。
『――もうすぐ死ぬ――』
死ぬ? 誰が? 妾か? いいや、死にたいと思っても死ねる身ではない。
ならば誰が? 忌々しい神か? 妾に楯突くあの女か? 言葉ばかり強い小娘か?
……いいや。違う、違う。死ぬのは、もうすぐ死ぬのは――
――フレッドリーツ・レアライヒ。妾を打ち負かした、ただ一人の男。
「――――ッッッ!!!」
肉体に力が戻る。握りしめたシーツが引き裂かれ、褥は余波で罅が入った。
だが、そんなことは関係ない。今の妾に燃える心は、奴に向けられたただ一つのみ。
「……ない」
起き上がる。言うことを聞かなかった体が、煮え滾る熱に支配される。
「……さない」
褥から降りる。ただ寝転ぶばかりの雌は、もうここにはいない。
「ゆるさない……!!!」
心に、体に怒りが満ちる。胎の底から湧き上がる衝動のままに、妾は強く、空に吠えた。
絶対強者たる妾は終わった。ならばこれより、新たなる妾を始めよう。
そのためには、儀式が必要だ。妾が生まれ変わるための儀式が。
その儀式の贄は、貴様だ――フレッドリーツ・レアライヒ!!!
「許さない……死ぬなどと、決して許容してなるものか!
太陽が昇る黎明の空。暁と対の景色に、妾は絶対を打ち立てた。