人文系学問で自腹で書籍を買うのが当たり前になっている件については、もともとこの分野自体が趣味的な要素、言ってしまえば「遊び」と切っても切り離せない性格を持つだけに、単純に否定できるものではないのが厄介なところである。そもそも、むかしから蒐集癖が人文学の存立基盤の一つだったのでは?
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返信先: さん
「本は買って讀め」が「正統的」讀書論になるのは二十世紀に入ってtwitter.com/shomotsubugyo/内田魯庵からかshomotsugura.hatenablog.com/entry/2020/02/。貸本や圖書館での一時的占有twitter.com/shomotsubugyo/より個々人の所有が基本に。「日本人の蔵書志向」(紀田順一郎leeswijzer.hatenadiary.com/entry/20171016)はブルジョワ資本主義的?
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書物蔵C102申込み済
@shomotsubugyo
明治期の読書法の本をざっと読んでみたら、そもそも、本の買い方が書いてある本って、明治30年代以降にちらほらある切りで。
そもそも、本は回覧とか貸本とかで読むのがデフォールトの書き方。
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返信先: さん
今や、研究費申請に熱心でない人文系の自腹持ち出し文化が槍玉に擧がるがtwitter.com/ursus21627082/競爭的な「外部資金獲得文化」twitter.com/odg1967/statusならこれも資本主義的と言ふか市場主義ではある。また、逆に電子書籍等では所有權を認めないレンタル使用が主流になったtwitter.com/livresque2/sta。
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森 洋介
@livresque2
返信先: @fzk06736さん
「電子化した媒体の利用権を販売する。しかしその所有権は誰にも渡さない」twitter.com/fzk06736/statu。ソフト・アプリ等もディスク所有させぬDLレンタル契約多し。所有無き使用といふフランシスコ修道會の論爭やローマ法占有論が想起される。アガンベン『いと高き貧しさ』參照web.archive.org/web/http://www。
返信先: さん
無料原則に立つ圖書館でもコピー代だけ有料課金制なのは、公共用物の一時占有=借覽でなく私的所有になるからtwitter.com/livresque2/sta。書物が知識や眞理の象徴であった限り、それを身錢を切って購入すること即ち藏書の所有は、たとひ積ん讀でも、知識や學問が身に付くことと同一視されがちだったし。
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森 洋介
@livresque2
返信先: @shomotsubugyoさん
經營論だと、柳与志夫『文化情報資源学と図書館経営』第4章は「情報の移転」と言ふ概念を提起。「移転しえないものは商品となることがなく、「市場原理」に巻きこまれることがない」。動産に對し移轉不能な不動産を重んずる如し。複寫等による移轉はそれ私的所有の端か。@shomotsubugyo
返信先: さん
なつかしき紙メディアonly時代(*゜-゜)
>書物が知識や眞理の象徴であった限り、それを身錢を切って購入すること即ち藏書の所有は、たとひ積ん讀でも、知識や學問が身に付くことと同一視されがちだった
返信先: さん
紙の出版物は、パッケージ販賣される形態上も「蒐集癖」を滿たすのに適當で所有慾そそる財(goods/獨語Gutは法學で「善益」とも譯す――石川健治『自由と特権の距離』p.43)だったわけで。本を(買って)所有することは知を所有することといふ内面化過程は、ロック以來の近代の所有的個人主義にも通底。
返信先: さん
教養とは家財失って身一つになっても殘るもの、とか。唐樣で書く三代目。が、私有財産としての書物無しに保てるか。士大夫三日書を讀まざれば。「まず本をとりあげるんだよ(First to possess his books)、本がなけりゃああいつもただの阿呆だ」『テンペスト』twitter.com/livresque2/sta。possess=占有。
引用ツイート
森 洋介
@livresque2
返信先: @shomotsubugyoさん
本を取り上げちまへばあいつもただの馬鹿(without them/He’s but a sot)――とはシェイクスピア『テンペスト』三幕二場、キャリバンがプロスペローを評した臺詞。ピーター・グリーナウェイ監督『プロスペローの本』に映畫化され、これから説き起こしたのが橋本治『浮上せよと活字は言う』1994→2002。
返信先: さん
「棚にぎっしり詰めこまれた書籍群の背表紙を見渡しながら、たとえほんの束の間であれ、全能の「所有感」を享受しつつ、もし仮にこれらすべてを読み尽くしさえすれば、この室内に収蔵されている「知」の全体を所有しうるのだとふと呟いてみたい気持に」――松浦寿輝『知の庭園』「1 閲覧室と無限」p.18
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返信先: さん
「それは、タイトルが一目で見渡せるということであり、図書館内部に足を踏み入れた閲覧者の眼に、そこにあるすべての書物の「名前」が、少なくとも権利上はことごとく可視化された光景となって存在していること」「いわばアーカイヴの「索引」全体が、眼に見えるかたちで繰り広げられているわけだ」。
返信先: さん
書物史上これを可能にした前提條件は松浦著p.17。中世の書物は平積み。縱に立てられても當初は背を奧に前小口が手前に向けられ、背を正面にした書架排列は十六世紀フランスの歴史家ジャック・ド・トゥの書齋が最初、と。しかし背文字書名入りの普及は恐らく十八世紀以降ではshomotsugura.hatenablog.com/entry/2019/12/。
返信先: さん
外題學問めいた背表紙讀みしぐさを恥ぢる人がボズウェル『サミュエル・ジョンソン伝 2』みすず書房1982p.139に見え、商業出版の量が格段に増大したこの十八世紀に藏書整理の必要上背文字が一般化したか。「第二の知識」(藤川正信)をジョンソン博士が説いたのも正にここだfukao.info/2005/03/149.php。
返信先: さん
松浦寿輝『知の庭園』1章初出「閲覧室と無限──「知の装置」としての図書館をめぐって」はウェブに轉載db.10plus1.jp/backnumber/art。
「書庫と閲覧室との分離」「代わりに蔵書目録を置いて、それによって蔵書のプレゼンスを象徴的に表象=代行させるという徹底的なシステムを、パニッツィは作り上げた」
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