多様性(ダイバーシティー)という言葉が巷で盛んに使われるようになって久しい。この単語の対義語は画一性とか一様性になる。今まで統一(画一・同一)的なものが社会的規範や模範として認識されていたことに対して、社会問題として多様性を主張することは充分理解が出来ることである。
 性の多様性、例えばLGBTなどは、もともと本能行動が壊れた存在であるのがヒト科なのだから、動物の生殖行動と同じ立場で性について議論することは誤りである。種の保存という生殖行動のパターンと快楽や愛を求め合うための人間の性行為は別次元で捉えるのが当然であり、LGBTは人類が誕生して歴史が始まるとともに存在したと理解すべきであろう。それを今更ながら騒いでいるのが現代社会なのである。
 将来的には中高生の制服のスカートやパンツなども、男女に関係なく選択する時代が来るだろうし、遠い未来には男性への卵巣や子宮の移植、女性への陰茎や精巣の移植も可能になるかもしれない。そうなると完全なジェンダーフリーになることだろう。
 壊れた本能しか持っていない人間の行動は多様であり、そういう意味では寛容性に基づいて相互に認め合うことが大原則なのに、社会の安寧秩序のために国家は同調性と統一性を求め、一様性を規範とするような倫理観を国民に押し付けてきた。つまり、こういう対立する概念がいつも併存していたのが人類史だった訳である。
 現代は自由かつ寛容な多様性の時代に向かっているが、保守的で排他的な一様性の概念・価値観も多様性の中の一つの考え方として依然存続している。思想・信条の自由という立場からこれも守らなければならない。そうなると多様性の中には一様性の主張も認めざるを得ないという論理矛盾が内包していることとなる。これは人間社会がある限り、永遠に解決できないことだろう。進歩的な多様性の主張と保守的な一様性の思想はお互いずっと緊張感を持ち続けることとなる。
 そして進歩思想が常に優位で、保守的な価値観に逆戻りするようなことはあり得ない。進歩思想は常に不可逆的なものだからである。夫婦別姓問題なども多様性の観点から徐々に解決が図られていくだろう。併せて夫婦・家族の概念もアップデートされていく。そして、別の角度からまた新たな問題意識が社会の中で生まれてくるはずだ。
 あまり理屈っぽいことを述べるなと言われそうであるが、私はどうしてもこのようなことに思いが及んでしまうのである。



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