第1話 夜半の邂逅
両親と妹が死んだ時、燈真はこの世には救いなんてものがないことを悟った。
失うばかりの世界で何かを愛すること、慈しむことがいかに無意味であるのかを十六歳にして学んだのである。
それでも面倒を見てくれた叔父は愛だの友情だのを年甲斐もなく熱く語っていたが、いくら好きな叔父の言うことでも、もう燈真には耳を傾ける気さえなかったのである。
ただその日一日をぼんやりと過ごす。
降りかかる火の粉を払いのける。
淡々と、誰のためでもなく己のために生きていればいいと、ティーンエイジにしてはあまりにも寂しすぎる生き方を燈真は選択していた。
×
芽黎の世——世間一般は、世暦二〇五二年を迎える時代。
科学万能と言われる現代においても、未だ不可解で不明瞭なことは多い。
目に見えぬもの、手で触れられぬものを隠と呼んでいたが、やがてそれが転じて鬼となった。
人の手に負えぬ災厄は鬼と呼ばれて恐れられると同時に、鬼をカミとも呼び、文字通り神と同一視することもあったという。
鬼は人から恐れられ、忌み嫌われると同時に恵みをもたらす山の神として崇められ、信仰されたのであった。
さて、では現代を生きる鬼たちはどうだろう。
百鬼夜行を行く無数の
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唸りを上げる拳が鼻先を掠め、
「ぎゃっ」
短い悲鳴をあげて膝を折った男の顔面に蹴りを入れ、背後から迫る抱きすくめるような腕の動きに反応して身を屈める。瞬時に振り返ると同時に鋭く炭素刀で脇腹を打ち、入れ替えるような素早さで繰り出した左拳を鳩尾に叩き込んで相手を昏倒させた。
暗い路地で少年たちの乱闘が繰り広げられる春の午後十一時。
独立した小規模な大陸を単一国家のみで支配し、長らくこの星に君臨してきた
燈真は倒れた少年たちに、妖怪譲りの藍色の目で一瞥をくれて炭素刀を肩にかける。
「先輩ら、まだ相手してほしいってんならしますけど」
少年たち――おそらくは同じ高校の先輩であろう若手妖怪たちは悔しそうに歯軋りし、それでも勝てないことが明白だと悟るや否や蜘蛛の子を散らすように逃げていく。犬妖怪に化け猫、化け鹿たちだ。学校でもときどき話題に上がるやんちゃ坊主であり、しかし叔父から剣術を叩き込まれた燈真には相手にもならない悪ガキだった。
燈真は炭素刀を腰の帯に納め、落っこちていた紙袋を拾い上げた。
「出てきていいぞ」
路地に声をかけると、ひょこひょこと一尾の狐が現れた。くすんだ金色――いわゆる狐色の体毛で、姿形は裡辺でよく見る寒冷地に適応したリヘンギツネである。けれど上手に後ろ足二本で立って歩き、前足で燈真から紙袋を受け取るとたどたどしい人語で礼を言った。
「ありがとう、あるですね。人間さんのやさしいひと。ごはん、ありがとうございまするです」
言葉遣いが怪しいものの、要するに燈真から食事を貰って感謝しているのである。
燈真がここを通ったのは偶然で、たまたまこの変化がまだ拙い狐と出会い、持っていた稲荷寿司に目をつけられて断れずにいたのだ。別にタイムセールで安売りをしていたので譲ってもいいのだが、いかんせん本物の妖狐を間近見るのは珍しいこともあり、少し会話していたのだが——。
そこを同じ高校の悪ガキにみつかり、自衛用に持っていた炭素刀でぶっ飛ばした、というわけである。
悪ガキ連中がただ屯するだけなら無視したが、彼らはこの狐にいらぬ手出しをしようとし、燈真が声をかけるや血気にはやる少年たちは……ということだ。さすがに見て見ぬふりをしては夢見が悪い。
「こういうとこあぶねーから、物乞いなら山の傍とかでやれよ。妖狐の毛皮を取るような奴らまでいるんだから」
「それ、こわいあるです。きをつけるです」
「ああ、気をつけろ。じゃあな」
そういうと狐は口で紙袋を咥え、四つ足で素早く去っていった。
元気なのはいいが、お陰で燈真は晩飯を買い直さなくてはいけなくなった。倹約家の燈真はセールで安くなっていた稲荷寿司を持って行った狐を、後ろ頭を掻きながら見送る。
(セールで安いっつってもなあ……まあ、お稲荷様の眷属だし恩を売るのも悪くない、か)
とはいえ嫌な気はしていない。昔から喧嘩ばかりで怒られたりしてきているばかりだった自分でも、こうして感謝してくれる者があるというのは素直に嬉しいものだ。
孤独な生き方を選んだと冷静に己に言い聞かせ、ほてった頭を冷やす。自分で自分に冷や水をぶっかけるようなものだが、燈真はもう何かに期待したり思いを占有されるようなことはしたくないし、されたくなかった。
「しょーがない、マスターのとこ寄ってなんか食う――」
そのとき、空気が変わったのを感じた。
ピリッとした、焼け付くような感じ。この異質な気配は、一体……。
ギィンッという金属音がして、燈真は首をすくめた。
何か、金属質のものが打ち合ったような音だ。
燈真は内心驚き、警戒しつつ音のする方へ耳をそばだてる。
「――っち、硬い!」
なにかと
この裡辺において公然と戦いという場に身を置けるのは警察と軍人を除けば、退魔師くらいのものである。
警察が来るようなことは、ここでは断じてない。先ほどの乱闘を聞きつけたにしても、いきなり争いには持ち込まないだろう。普通に声をかけて説得するか、単に怒鳴るかである。
当然軍人が来るようなことだってない。この裡辺は戦争とは無縁だ。
であればありうるのは退魔師。しかしここに退魔師が来るようなことは――あるのだろうか?
燈真は近づかない方がいい、という本能の囁きを聞いた気がした。
それに関わったら最後だという、警鐘だ。
けれどなぜか、心臓が大きく脈打った。それが使命であるかのように、見に行けとでも言うように。
そんなものを見てはダメだと理性が忠告する。何度も繰り返し、しつこく。
けれど燈真は足を踏み出した。路地の先、曲がり角の向こう。そこになにか、今までの自分が知らない異世界が待っているような気がして。
「しゃっ!」
そんな短い呼気と共に繰り出されたのは鋭い斬撃だった。それは燈真を狙ったものではなく、燈真の目の前に現れた異形を切り捨てるためのものである。
ザァッと音を立てるようにして霧散したそれを、燈真は呆けたように見ていたがハッとして剣を握る少女を見やる。
彼女は白い髪に狐耳、その先端に紫色のメッシュを持つ紫紺の瞳が美しい妖狐の少女だった。尻尾の数は五本。やはりというか尻尾の先端も紫に染まっていた。
彼女は――、
「
地元高校に入学して早々その美貌で人気となり、告白してきた三年に一本背負を決めて「私に勝てない男なんて願い下げよ」と言い捨てた少女だ。
いい意味でも悪い意味でも有名人で、彼女が何らかの武道を嗜んでいることは周知といえるほどに知られていた。
椿姫は燈真に一瞬目を向けて目を眇めたが、すぐに化け物に目を移す。
燈真も知識としては知っているこれらは、
素早く身を翻し、椿姫は魍魎の爪を避ける。でっぷりした腹といい短足といい、醜悪なビール腹親父という出立ちの魍魎は椿姫の軽やかな動きになすすべなく追い詰められ、攻撃にさらされていく。
右横にステップした椿姫は流れるような動作でスッパリと魍魎の腹を切り裂き、返す刀で脊髄を切り捨てる。そのまま回転して横薙ぎに振るった刀で横に回り込んでいた個体を切り払い、まとめて霧散させた。
あたりにはもう魍魎などおらず、椿姫もそれをわかっているのか血と脂も霧散した刀を、邪気を払うように血振りして鞘に収めた。
静かな空気があたりに立ち込め、椿姫はじっと燈真を見た。
武闘派だとか気高いとか、血気盛んだとか色々言われている、しかし名実ともに高嶺の花である彼女は燈真につかつかと近寄ってきて、顔を覗き込んだ。
「ここにいた狐、知ってる?」
「ああ」
同じ妖狐、気にかけているのだろう。椿姫は静かに質問を重ねる。
「あの子、いじめられることがあるって聞いたけど、まさかあんた?」
「そんなわけねーだろ。むしろ逆だ。助けた。あと、晩飯をせびられたからくれてやった。ここは危ないから山に行けって言ってな」
「ふぅん……ま、嘘を言ってる顔ではないけど。まあいっか」
椿姫はそれだけ言って、燈真を通り過ぎて傍に置いていたバッグを掴んだ。
「あんたにもなんか事情があるんだろうけど、こういう危ないことには――」
「ギギッ!」
鋭い怒号。
燈真は声がした頭上を仰ぎ見た。
そこには巧みに気配を消して潜んでいたのか、さっきと同じタイプの魍魎が迫っていた。
燈真は咄嗟に炭素刀を抜いて相手の攻撃を防ぎ、払い除けるようにして弾き飛ばす。
なぜか椿姫は値踏みするように動こうとしない。燈真はそれには気づかず、無我夢中で刀を構えた。
魍魎は最低等級の五等級ですら、一般人が遭遇したら逃げの一手しかない存在である。こいつが何等級かは知らないが、甘い相手ではない。
なんとかしなくては死ぬ。椿姫はどうして動かないのか――危険に首を突っ込んだ反省をしろということなのだろうかと燈真は思いつつ、刀をぎゅっと握る。
他人に期待をしない。愛とか友情とか、もう必要としない。
孤独な生き方を選んだ己だが——それでも死ぬのは怖い。
その時青いオーラのようなものが灯った。
と同時に魍魎がアスファルトの地面を蹴って突進。燈真は素早く反応して鎬で相手の爪をいなす。同時に真っ向脳天唐竹割を繰り出し、化け物の頭部を打ち据えた。
通常、妖力を纏わない攻撃は魍魎に対して著しく効果が減退する。五等級相手には角材か金属バットがあれば勝てると言うのが指標だが、それは妖力を纏ってそれを扱う技量を持つこと前提だ。
素人の攻撃なんぞ効きはしないと思ったが、しかしなんの奇跡か、燈真が放った一撃は魍魎の額を割り、黒ずんだ血を噴き出させた。
燈真が驚きながら二歩三歩と下がると、素早く椿姫が寄ってきて相手の脳天に切っ先をねじ込み、塵に変えた。
椿姫は燈真をもう一度見て、それから意味ありげに微笑んだ。
「素質ありね」
「……?」
「わからない? 今、妖力を纏って攻撃したでしょ。純血の妖怪ならいざ知らず、噂の身体能力からして半妖であろうあんたがこの土壇場で妖力を捻り出せたのは退魔師の才能があるってことよ」
唐突にそんなことを言われ、燈真は言葉に詰まった。一体何のことを言っているのか。
自分に退魔師の才能があるだって――? そんなこと生まれて十六年、一度も言われたことがない。
「明日の夜、桜花駅前に来て。そうね、午後八時半。いいでしょ? 土曜日だし、次の日休みだし」
「おい、勝手に話を――」
「お金に困ってるんでしょ? うち、過酷だけど実入りはいいから結構いいバイトになると思うよ」
鼻っ柱を折るかのようにそう言われ、燈真は口籠った。
お金に困っている――それは事実だった。燈真はクラスでもそれが有名で、倹約に努めており、高校に入学して早々バイトを始めたほどだ。
なので椿姫がそのことを知っていても不思議ではないが、燈真はなぜか意外に感じた。
自分と椿姫は何の接点もない人種だと思っていただけに、こうして自分のことを知られているのが思いもよらぬことだったのである。
「わかった。明日の八時半、桜花駅前だな」
「ええ、そう。そこでバイト先に取り次いであげる」
バイト先――これまでの脈絡から考えてそれはどう考えても退魔師を管理監督する退魔衆のことだろうが、燈真には退魔師としての基礎知識さえ一般人並みにしかない。
けれど危険な魍魎を
一つ一つがどういったものであるのかは――今日、魍魎退治は体験したが――詳しく知らない。
「じゃあ明日。それと」
椿姫が振り返りざま、こう言った。
「あの
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