初代ゴヲスト・パレヱド EP1

雅彩ラヰカ

本文

1:ようこそ、魅雲村へ



 車窓に映る景色が次第に緑に染まっていき、とうとう人工物などほとんど見かけない人外魔境のような土地に変わっていった。


 漆崎燈真しのざきとうまは窓に映る自分の顔が酷く陰気臭いことに気づいたが、それを改善しようなどというつもりはさらさらなかった。


 黒いセミショートの癖っぽい髪に、大人びたと言えば聞こえはいいが疲れて老成した顔。父譲りの三白眼も相まって、人相が悪い。唯一母の証だとわかるのは、灰色の目だけだった。


 一ヶ月前の六月、燈真が通う高校で特別学級に通う生徒が血まみれで倒れているという事件が起きた。


 そこまでならまだ、不幸な事故だ。だが同じクラスの御曹司が、もともと良くは思っていなかったのだろう燈真に罪を擦り付け、犯人に仕立て上げた。


 知的障がいを患うその被害者は犯人を覚えていないと言い――脅されてそう言ったのか本心なのかは知らない――、結果、燈真は一人の生徒に全治三週間の大怪我を追わせた犯人として吊し上げられた。


 父の会社の取引先の社長の息子というだけあり、己の生命線がかかった父は勘当同然で燈真を捨てた。もともと、病死した母の子供である自分は、新しくできた母と折り合いも良くなかったし、父がその母との間に生まれた弟の方を可愛がっていたのも知っている。


 要するに、邪魔になったから捨てられた。そういうわけだ。


 あとから聞いた話によれば件の暴力事件の犯人は御曹司本人であり、彼は思いを寄せていた女子生徒が燈真のことが好きだったというような法螺話に嫉妬し、この事件を起こしたのだろうと、燈真はそう考えている。


(いい迷惑だ)


「まもなく、魅雲みくも村、魅雲村でございます。左側のドアが――」


 燈真は必要最低限の荷物が詰まったボストンバッグとキャリーバッグを引っ張って、私鉄を下りた。


 途端にむっとした熱気が押し寄せ、そういえばもう七月だもんな、と独りごちる。東京のコンクリートジャングルに比べればマシだが、だとしても暑いことに変わりはない。


 一つしかない改札を抜け、燈真はメモ用紙に記された乱暴な地図に目を落とした。


 駅から出て北に一キロほども旧道を進めば屋敷がある――らしい。


 重い荷物を背負って一キロもこんな気温の中を歩くなど、正気の沙汰ではないが、しかしぶつくさ言っても始まらないので、燈真は踏切を越えて北に向かった。加えてこの上り坂。なんの嫌がらせか。体力だけはあるので、まあ問題はないのだが。


(妖怪が住んでるっていうけど……確かに、それっぽい雰囲気はあるな)


 ネットの掲示板で見た記述で、ここには現代社会の生き馬の目を抜く妖怪が暮らしているというようなことが載っていた。嘘か本当かはさておき、確かにそう思ってしまっても仕方のない雰囲気ではある。


 白い半袖のポロシャツにジーンズという格好の燈真は、傍目には夏休みに祖父母の家に来た中高生といった風に見えるだろう。だが実際は、親からすらも捨てられた哀れな忌み子だ。


 旧道の脇に立つ看板に、狐が『ようこそ百鬼夜行の魅雲村へ!』と、妖怪を示唆するようなことを記した吹き出しを出していた。人口二万そこそこの、何百万一千万と行き交う人々を見てきた燈真にとっては、少なすぎる数。だが村にしては、大規模だ。実際、面積も広い。


(本当だとしたら、面白いけどな)


 でもまあ、嘘に決まっている。


 山の色合いが濃くなってきた頃、ようやく屋敷が見えてきた。


「でっけえな」


 二階立ての武家屋敷。そうとしか言いようがないものだった。大物政治家の家と言われても素直に信じてしまう。築地塀に古い木の門。


「え……親父、やくざの知り合いとかいたのかよ」


 燈真は政治家の家というよりも、裏社会の危険なにおいの漂う方を連想してしまう。


 メモを取り出して半ば間違いであってくれと祈りながら確認するが、ここで間違いはない。


(嘘だろ。俺、流石に極道は無理だぞ)


 小学校中学校時代、家が荒れていてほぼ毎日が同級生や上級生との喧嘩ばかりだったとはいえ、流石にそれを生業にしたいと思ったことはない。ちなみに自慢ではないが、負けたことは一度としてない。


 恐る恐る、門の傍にあるドアホンを鳴らす。


 待つことしばし、門が開いた。


「え――」


 そして、言葉を失った。


 現れたのは長襦袢姿の見目麗しい女盛りの女性。髪が白いのは、まだ許せる。染めているんだとか、苦労で白髪になったとか、そう理解できる。瞳が日本人ではあり得ない紫色なのもまだカラーコンタクトだと思える。


 だが頭頂部に生えた狐のような耳と、腰から生えた先端が紫色の九本の尻尾には、流石に言葉を挟む余地がない。


(コスプレ? いや、ならなんで動いてるんだ)


 耳と尻尾はどう見ても作り物ではない。


「どちら様じゃ。今ちょうど酒を飲もうとわらわは肴の用意を終えたばかりなのじゃがな。無粋なやつめ」


 生まれる時代を一つ二つ間違えているかのような口調。 


「え……いや、あの……ここって、稲尾いなおさんのお宅で間違いないでしょうか」


「いかにも。妾は稲尾ひいらぎ。で、お主はなんじゃ」


「えっと、今日引っ越して来ることになった漆崎燈真です」


 柊は「おお」と頷くと、手招きした。


「よう来たよう来た。邪気の濃い都会はさぞつらいであろう。さあ入れ。美味いアイスクリームがあるぞ」


 子供扱いされたことに多少むっとするが、燈真は敷地内に入る前に訊いた。


「あなたは、妖怪なんですか?」


「そうじゃ。九尾の妖狐。ほかにもまだおるぞ、物の怪は」


「……夢、か?」


「夢のように妾が美しいのは仕方がないことじゃて。ほれ、そんなところに突っ立っておらんと、さっさと入らんか」


 言われるがまま燈真が門を潜ると、大きなそれはひとりでに閉まった。



2:新しい家



菖蒲あやめ! 菖蒲はおらぬか!」


 玄関で靴を脱ぎ、廊下に上がるなり柊は家中に響くような声を上げた。


 どたどたと慌ただしい足音がして、居間と思しき部屋のふすまが勢いよく開いた。


「ひいらぎ! せーるすだった?」


 出て来たのは四、五歳くらいの男児だった。柊と同じ配色の毛を持ち、狐耳と二本の尻尾を持っている。この子も妖狐か、と燈真はその男児を見つめる。


「違うぞ、前々から話しておった新しい家族じゃ」


(家族? 笑わせるな。厄介ごとを押し付けられたと迷惑に思ってんだろ)


 燈真の心の内など知らず、男児は幼い子供特有の無邪気な笑みを浮かべ、こちらに抱きついてきた。


「お、おい」


「ぼくいなおりんどう! りゅう、っていうじに、なんだっけ?」


「竜胆という植物の字じゃ」


「はあ……」


 竜胆というらしい子供は燈真をぎゅっと抱きしめると、なかなか離れない。


「懐かれてしもうたか。まあ、よかろ。この子が好くということは、悪い人間ではないということじゃ」


「おにいちゃんだね! おなまえは?」


「あ、ああ。漆崎燈真。……よろしく」


「よろしくね!」


 柊が竜胆を引き剥がし、居間に戻す。


「思わぬ珍客だったな。まあ、なんというかあの子は人間の邪気やなんかに敏感な子でな。人間の社会を知りたいと出ていった両親と離れて、ここで暮らしておる。人の体温に飢えておるでな、優しくしてやってくれ」


「ああ、まあ……うん」


「で、菖蒲はどこじゃ」


「その、菖蒲? さんっていうのは?」


 燈真が訊くと、二階に続く階段から軋みが聞こえた。


「あら、あなたが燈真くん?」


 和服を綺麗に着こなした、栗色の髪をした女性が下りてくる。栗色の髪に、同じ色の丸っこい耳と、しゃもじのような尻尾を生やしている。


「おお、来た来た。燈真、彼女が山囃子やまばやし菖蒲。まあ、一言で言えばこの家のお母さんじゃ。化け狸の化生の者での。怒らせると怖いから、言うことはしっかり聞くがいい」


「怖くはないでしょう、別に」


「お主の恐ろしさに敵うものはそうそうおらん。それはさておき、燈真に部屋を案内してやってくれ」


「わかったわ。じゃあ燈真くん、ついてきてね」


 柔らかな声音で言いながら、菖蒲は階段を上る。燈真も後に続いた。


 二階に上がり、廊下を進んだ突き当りの右の部屋で足を止めた。


「ここがあなたのお部屋。一応、必要なものは揃えたんだけど、足りないものがあったら遠慮なく言ってね」


「ありがとう……ございます」


「緊張してる? 家族なんだから、そんなにあらたまらなくてもいいのよ?」


「……すみません」


「まあ、いきなりだもんね。妖怪とか、物の怪とか、今まで空想の産物でしかなかったものがいきなりこうして現れたんじゃ、緊張しちゃうもんね。じゃあお夕飯ができたら呼ぶから、お部屋でゆっくりしてて」


「はい……」


 燈真はローマ字で『TOUMA』と描かれたプレートがかかった部屋のドアノブを捻り、中に入る。


 落ち着いた色合いの絨毯とカーテン、本棚に勉強机、ベッド、さらにはテレビまである。どこまで気を使ったのか、エアコンやノートパソコンまであった。ルーターもある。


 とりあえず、荷物を片付けないことには始まらないと思い、燈真はボストンバッグとキャリーバッグを開いて、着替えやなんかをクローゼットなどにしまっていく。


 必要最低限しか持ってきていなかったので、すぐに作業は終わった。手持ち無沙汰も手伝って、勉強机に座ってノートパソコンを開く。


 新品なのか、初期設定画面が出て来た。


 それらを終え、燈真は趣味のオカルト掲示板まとめブログに飛ぶ。


 ここに書かれていることなど全て嘘、映画や小説が作りものであるからこそ感情移入できるのだと思って割り切って楽しんでいたが、まさか自分がその体験者になるとは夢にも思わなかった。


 と、ドアからかりかりと、引っ掻くような音がした。


 無視したが、まだ聞こえてくる。


 仕方なくドアを開けると、一匹――いや、一頭の大きな生物が飛び掛かってきた。体長は二メートルを超え、体高は恐らく九十センチはある。


「うわっ」


 金色の体毛に白い腹部、黒い足。目尻には歌舞伎役者の隈取のように僅かに朱色に染まっており、一瞬その大きさから狼かなにかのように見えたが、よく見ると規格外に大きいがキタキツネだ。


「こゃー!」


 興奮気味に鳴きながら、ぺろぺろと顔を舐めまわしてくる。


「なんだお前……」


 首輪を見ると、ドッグタグがぶら下がっていた。そこには『玉藻狐たまもこ』と記されていた。


「玉藻狐? お前も妖怪か?」


 そうに決まっている。自然の狐がこんなに大きいわけがない。


「こゃ」


 頷くように首を縦に振り、太くて長い尻尾をぶんぶん振りながら甘えてくる。


「ちょっと、玉藻狐様! まだブラッシングの途中でしょ!」


 そこに、またぞろ知らない声が降ってきた。燈真はのしかかってくる玉藻狐から抜け出してそちらを見る。


「え……あんた誰」


 白髪に紫の目。狐耳に先端が紫の五本の尻尾。妖狐――恐らくは稲尾家の。


「俺、漆崎燈真。今日からここに居候をすることになって……」


「ふぅん。あんたがね。私は椿姫つばき。稲尾椿姫。よろしく」


「ん、ああ。よろしく……お願いします」


 椿姫は眉をひそめ、


「敬語とか、別にいらないから。そういうのむず痒くて、嫌いなんだよね」


「……善処はするよ」


 玉藻狐はその間にも燈真に抱きかかり、離れようとしない。椿姫はそんな玉藻狐の頭を撫でながら、


「あんた換毛期なんだから、そのまま部屋中歩き回られると抜け毛で凄いことになるんだから早くこっち来なさい」


「こゃー……」


 残念そうに鳴きながら、観念したのか玉藻狐は椿姫に連れられ、部屋を出ていった。


(なんだったんだ、一体……)


 燈真は混乱しつつも、気を取り直してパソコンに向かいあった。ネットサーフィンをしていると時間はあっという間に過ぎ去り、なんの気なしに部屋のアナログ時計を見ると午後五時を少し過ぎていた。


「燈真くん、入っていい?」


 控えめなノックと同時にそんな声がかけられ、燈真は「どうぞ」と応じた。入ってきたのは菖蒲だった。


「あら、片付いたわね。じゃあ、お風呂沸いたから入りなさいな。うちのお風呂大きいからきっと驚くわよ」


「ありがとうございます」


「他人行儀ねえ。別に、そんなに肩肘張らなくてもいいのよ」


「すみません……まだ、慣れないんで」


「そう? 着替えはあるかしら」


「はい、家から持ってきました。ただ、かさばるんで冬物は……」


 菖蒲は「なら大丈夫ね」と言って、「冬物ならこっちで用意してあげるから、大丈夫よ」と告げた。


 なんでもかんでも世話になるのは申し訳ないが、かと言って金策のあてもないので――ここの高校はバイトを禁止している――従うしかない。


 燈真は部屋を出ると、案内に従って一階の風呂場に入る。


 服を脱ぎながら、燈真は今日一日に起きた様々なことを思い返した。



3:温かい妖怪屋敷



 昔から、鬼、と呼ばれていた。


 理由は知らない。喧嘩ばかりで、本当の母には迷惑をかけていたが、母だけは燈真を鬼だとは言わなかった。けれどあなたは人とは少し違うの、と寂しそうに笑っていたのを思い出す。


 風呂場は確かに大きかった。ちょっとした民宿並みの檜の風呂桶があり、シャワーも三つついている。


 燈真は熱めの湯を浴びてから持参したボディタオルにボディソープをかけ、泡立てて体を洗う。力を籠めて垢を落とすように綺麗に拭い、シャワーで泡を落とす。癖っぽいセミショートの髪を乱雑に洗い、またお湯を被って洗い流す。


 鏡に映る裸体の左胸に目が行く。


 そこには幼い頃に罹った心臓病の手術痕が残っていた。誰かは知らないがドナーが見つかったおかげで移植手術が行われ、延命できた。


 けれど。


(俺なんかに、生きる価値なんてあるのか)


 それが、嘘偽りない本心だった。


 体を洗い終えた燈真は早速天然の香りを漂わせる檜風呂に入った。じんわりと熱が体に広がり、心地いい。


 せっかくだし、ゆっくり入ろうと手足を伸ばす。実家の風呂は、新しい母が燈真を毛嫌いして湯船を使わせてくれなかった。こうしてお湯に浸かるのは何年ぶりだろう。


 母を失って九年。その間、ほとんど惰性だけで生きてきたようなものだ。これといってやりたいことや目標もなく、このままどこかの会社に就職して孤独死。そんな未来が、ありありと目に浮かぶ。


「失礼しまあす」


 風呂場のドアががらっと音を立てて開いた。


 入ってきたのは柔らかいクリーム色の髪をした、グラビアモデル並みに胸の大きな女性だった。額から節くれだった角が二対生え、腰からは爬虫類を思わせる、白い鱗に覆われた尾が伸びている。


「あの、入ってるんですけど」


「ええ、知ってますよ。だから来たんです」


 意味がわからない。遠回しに出ろ、と言われているのだろうか。


「ちょっと待っててください。今出ますから」


「いえいえ、その必要はありませんよ。一緒に入りたいだけですから」


「……は?」


 言うや否や、女性は巻いていたバスタオルを脱ぎ去った。


「おい!」


 燈真とて十六歳の健全な男子。母親以外の女性の裸体を知らない彼にとって、見知らぬ女性の――それもとてつもなく美人な――裸など、目に毒でしかない。


 狼狽する燈真などどこ吹く風と言った様子で女性はシャワーを浴びた後、出ていこうと腰を上げた燈真の肩を掴んで、一緒に湯に浸かる。


「うーん、とっても私好みですねえ。可愛い三白眼に、たぶん童貞の初々しさ。あ、ひょっとして経験あります?」


「ない……けど」


「じゃあ、初めては私ですかね」


 そういうトークは苦手だ。下ネタは小さい頃から得意ではなかった。小学校低学年の大半の男子が下ネタを取り扱った漫画で笑う中、燈真だけはそれが好きではなくて、読む漫画と言えば青年誌に掲載してあるようなハードなアクションばかりだった。


 女性は後ろからぎゅっと抱きついてきて、柔らかい胸が背中に当たる。


「あの……のぼせそうなんで、出たいんですけど」


「じゃあ、十数えましょう。えっと、お名前はとうま、でしたっけ?」


「ああ。当用漢字の方のともしびに、真実で燈真」


「いい名前ですね。私はクラム・シェンフィールドと言います」


「外国の方、ですか? 日本語、上手いですね」


 クラムはふふっと笑う。吐息が耳にかかり、鼓動が速くなる。


「ええ。半世紀もここにいますから」


(半世紀……? どう見ても二十歳そこそこじゃないか)


「疑ってます? まあ、そうですよね。でも、嘘じゃないですよ。妖怪は人間と変わらない寿命が大半ですが、中には何千年も生きる人もいるんです。柊や菖蒲、ミラあたりがいい例ですね」


 ミラとは誰だろう、と思ったが、聞かないでおく。色々情報を頭に詰め込み過ぎて、流石に疲れた。


「ああ、こんなことを話しているうちに十秒は経ちましたね。どうぞ、出てください。あ、なんなら私が体を拭きましょうか?」


「い、いいよ。子供じゃあるまいし」


 燈真はそそくさと風呂場から脱出した。股間に血が集中し、それを見られないよう気を遣って脱衣所に出る。


 脱衣所も脱衣所で温泉旅館のような作りで、燈真はかごに入れた着替えを身に着ける。パンツとジャージズボンに、半袖の黒と白のストライプのシャツ。ファッションのことなどまるで考えていない格好だが、燈真はその辺りに興味がないのでこれで充分だった。


 廊下に出ると、いい匂いが漂ってきていた。もうそろそろ六時なので、夕食の支度をしているのだろう。本当はお茶かなにかを飲みたかったが、邪魔するのも悪いので、居間に向かう。


 襖を開けると、宴会場のような広さの居間が広がっていた。長方形の大きな座卓と、座布団が敷かれている。


「ほー、お前が新入りか」


 傍に座っていた、茶髪の女がこちらを振り返る。やはりというか妖怪で、頭頂部に髪と同じ色の獣の耳と、腰からは太くて長い尻尾が一本。言葉に少し訛りがあり、顔立ちからしても日本人ではない。


「漆崎燈真です。よろしくお願いします」


「かってえなあ。敬語なんて疲れるだけだろ。ああ、私はフラン。フラン・ヴィドック。見てわかるだろうけど、人狼ルー・ガルーだ」


 綺麗な碧眼が燈真を無遠慮に見定めるように動き、


「お前、混じってんな」


「……はい?」


「気付かねえのなら、その方が幸せか」


 フランは「まあ気楽にいこうや」と言うと、ビールのロング缶に口をつけた。歳は二十半ばほどだから、一応酒は飲める年齢なのだろう。まあ先ほど妖怪の年齢が外見と釣り合うわけではないと言われたので、本当はもっと上かもしれない。


 ほかにも知らない顔は多数あって、軽く会釈する程度の挨拶をしておく。同じように頭を下げたり、手を振ったりと、返ってくる反応は様々だった。


 どこに座ればいいのか、と思っていたら、燈真から見て上座の左側に座る竜胆が「こっちきて!」と隣の座布団をばんばん叩いていた。「はいはい」と言いながら、燈真は竜胆の隣に座る。なにがこんなに懐かせる要因になったのだろう。


「とうま、きょうのごはん、なんだとおもう?」


「さっき油の音が聞こえてたから、揚げ物じゃないかな」


 子供相手になら、敬語が崩れる。


「ころっけかなあ」


「どうだろうな」


 と言っている間に、襖が開いて、菖蒲となぜか燕尾服を着た初老の男性が皿を運んでくる。


「からあげだー!」


 竜胆が机に前のめりに顔を出す。


 狐に鶏小屋の番をさせるな、という言葉がある通り、妖狐も鶏が好きなのだろうか。


「あの、手伝います」


 燈真が立ち上がると、菖蒲は「いいの、私のお仕事なんだから」と答えた。


 ただ座っているだけでいいのだろうか、と思っているうちに、長襦袢ではなく和服を身につけた柊がやって来た。手には焼酎の瓶。


「お前、飲めるか?」


「中学の頃から飲んでる」


「ほう。まあ、そうじゃろうな。最近のガキは隠すのが上手いだけで、裏じゃ飲酒喫煙なんぞ当たり前じゃろう」


「ええ」


「じゃあ、一杯――」


「駄目よ、柊。未成年にお酒なんて。それに燈真くんも、そういうことはしちゃ駄目」


 菖蒲に注意を受け、柊は渋々諦めて自分のコップに酒を注ぐ。焼酎特有のつんとした匂いが広がった。


 やがて味噌汁、白米、卵焼きやおひたしなどが揃い、柊が「いただきます」を唱和して食事が始まった。


「食べ盛りでしょう? 沢山あるから、お腹いっぱい食べてね」


 菖蒲が笑顔で言うので、燈真はつまらない意地を捨て、二回おかわりした。


 家では残飯しか与えられなかった燈真にとって、こんな風に血の通った食事を摂るのは、本当に久しぶりのことだった。



4:キダショウ



 夕食の後、旅番組を見ようとしたら竜胆にアニメに変えられ、裏番組でも録画できるからと菖蒲に説明され、居間でくつろいでいる間に時計の針は午後九時を回った。


 夏休みとはいえ昼夜逆転した生活を送っていてはホルモンバランスが崩れ、精神的にも変調を来たすので、夜更かしは体にいいことではない――とは頭ではわかっているが、理解するだけで実行に移せるのならこの世界から失敗という言葉は消えているだろう。


 そういうわけで午後十時半になっても眠れなかった燈真は、一人財布を持って家を出た。音を立てないように慎重に階段を下り、引き戸を開けて外に出る。門の脇の勝手口を使って敷地の外に出ると、驚くほどの暗さに息を飲む。


 東京はどの時間帯でもネオンが毒々しく輝き、暗いと感じたことは一度もなかった。ここはまるで別世界だ。夜がこんなに暗く、そして夜がこんなに暗いこと、なにより空に散る星が目を奪われるほどに美しいことを、知らなかった。


 財布の中には、一応お金が入っている。一食五百円を切り詰めてため、前の高校で二ヶ月行ったバイトで貯めた分の金額がしっかり入っている。


 一応世間体を気にしてなのか、それとも罪悪感か、或いは多少は親の自覚があるのか、月に一度、父が二万円の小遣いを送ってくれることになっている。


 この村に村営のコンビニがあることはリサーチ済みだ。駅を出て大通りを南に進み、三つめの交差点を左に曲がればそこにチェーン店もない全国にここ一件だけのコンビニがある。


 甘いものと甘いカフェオレでも買って、少し部屋でネットサーフィンをしようと思い、燈真は歩を進める。


 車も人通りも全くなく、蛙や虫の鳴き声が――


(……え?)


 虫の鳴き声すら、しない。


 いつの間にか、周囲から音が消えていた。いや、それどころか空気が違う。


 いやに生暖かいというか、夏にしてはおかしな空気だ。太陽光が残した熱気の残滓とは全く違う、甘ったるいような重みのある熱。


 実を言うと、燈真は昔から少しだけ霊感には反応する方で、本能的に嫌な予感や悪い空気というものを察知できていた。


 周りに敵を作りやすい悪人面な顔立ちに誤解を招くような性格であるのにもかかわらず警察の世話にならなかったのは、ひとえにこの動物的な直観力を誤ることがなかったからだ。


 その第六感が、ここにいてはならない、と警鐘を鳴らしていた。


 コンビニは、陽が昇ってからにしよう。今日はもう帰って、寝る。寝れなくてもいい。部屋に戻って大人しくしていよう。


 ナイフを持った不良にも、圧倒的に体格に恵まれない自分が体の大きな上級生と対峙したときですら感じたことのない、長らく縁のなかった恐怖というものを、燈真は久しぶりに――もしかしたら人生で数えるほど少ない――感じていた。


 踵を返し、運動靴の底に力を籠めて早歩きで去る。


 家から出て十分。八百メートルほど。走れば二分。燈真は身も世もなく足を回転させる。動きやすいジャージでよかったと思いながら、坂道を駆け上がる。


 だが、奇妙なことが起こった。


「な――」


 目の前に、石造りの壁が立ち塞がっていた。こんなもの、なかったはずだ。それに、周りに薄く、黒い霧のようなものが出ている。なんだこれは。


「クソっ!」


 右に曲がり、また壁。今度は左に曲がる。また壁。右へ。


 体感で十分は走った。ペース配分を考えない疾走は体力を唯一の自慢にしている燈真のスタミナを大きく削り、気づけば呼吸が速くなっていた。


「どうなってる!?」


 思わず怒鳴った。


 と、そこで完全に追い詰められたのだと知る。目の前にも左右にも壁。袋小路。袋の鼠だ。


 オカルトスレで読んだことがある。これは鬼の壁打ちと呼ばれる現象だ。霊的な存在が人間を惑わし、同じ空間をループさせ続ける、というものだった気がする。


 いや、中国に伝わる妖怪である鬼作楽きさくらくというべきか。夜道を歩いている人間の目の前に壁を生み出し、四方を取り囲みどこにもいけなくする、というやつだ。


 なんにせよ、尋常の事態ではない。燈真は持ってきた携帯のホーム画面を呼び出すが、やはりというか圏外になっていた。


 背後から唸り声がして、燈真は恐る恐る振り返る。


 するとそこには、黒い肉体を持つ、黒く染まった白目に金色に輝く瞳を持った異形がいた。


 魔物、モンスター、怪物。呼び方がなんであれ、それがろくでもないものであることは誰に訊くまでもなくわかった。


 体高二メートルにも及ぶ上背に、全長五メートル近い巨体。その大きさだけならまだ象やなんかだと思えるが、それはどこからどう見ても犬の骨格をしており、しかも頭が二つある。


 サーベルタイガーのような牙を持つ二つ頭の巨犬は舌なめずりをすると、ぐっと足に力を籠めてこちらに飛び掛かって来た。


 予備動作が見えていたので、回避は出来た。巨犬は壁に激突するが、なんの傷も追わず襲い掛かってくる。


「畜生!」


 普段は生きていてもいいことはないだとか、死んだほうが楽だとか、拗ねたことばかり考えているくせに、いざ目の前で死というものを突きつけられると死にたくないと思ってしまう。


 と、また壁。


 すぐ後ろから足音がし、燈真は慌ててそちらに向き直る。


 二つ頭がじっとこちらを見つめ、四肢をたわませる。逃げ場がない。


(俺、ここで死ぬのか?)


 だとしたら、自分はなんのために十六年間を生きてきたのだろう。母との死別。いじめ。好奇の眼差し。憐憫。畏怖。邪魔者。けれど屈託なく家族として迎え入れてくれた妖怪屋敷の人々。


 漆崎燈真は、ここでわけのわからない怪物の餌食になるためだけに、この世に生まれ落ちたのか。


 そんなこと、あってたまるか。


 燈真はあろうことか、怪物を前に前傾姿勢を取った。


 向こうがこちらの動きの意図を理解する前に、行動に移す。


 地面を蹴り、傍目には常人離れしたとしか思えない反射速度で燈真は犬の怪物にタックルを繰り出した。プロのアメフト選手ばりの突進。


 犬の顔面に肩が食い込み、あろうことかたかが六十キロ程度の体重の高校生男子が、数百キロ以上はありそうな巨体を吹き飛ばす。


 向こうが姿勢を崩したところで、燈真は再び逃走に移る――が、


「おい……ふざけるな」


 目の前には、大きさこそ大型犬並みだが、目が黒く濁り、金色の光を灯す犬のような怪物の群れがいた。その総数は、十どころではない。どう見てもその三倍はいる。そのどれもが黒いからだをしていた。


 と、そこでもう一つ不可解なことに気づく。


 月が、赤い。


 はっとして転がると、すぐ脇をさっき突き飛ばした巨犬が猛スピードで突っ込んできた。あのまま突っ立っていたら、轢殺されていただろう。


「……こいつらも、妖怪なのか?」


「違うわ」


 燈真がぽつりと漏らした一言に、聞き慣れてはいないが聞き覚えのある声がした。


 直後、龍が――紫色というあり得ない色をした炎の龍が、ごう、と唸り、大型犬のような怪物を飲み込んだ。


 凄まじい熱量なのだろう。龍が過ぎ去ったあとには、あれだけいた犬が跡形もなく消失していた。


「こいつらは『魍魎もうりょう』。妖怪ではないけれど、通常の生物でもない、この世にあってはならない世界の歪みが生んだ、像を結んだ虚像」


 炎の龍がぱっと掻き消え、その向こうから一人の少女が現れる。


 白髪に、狐の耳。太くて長い、先端が紫色をした五本の尻尾。炎と同じ紫の瞳。


 稲尾家の、燈真と同い年のあの少女だった。



5:異形狩りの少女



「椿姫……さん」


「さんはいらない。あんたみたいに世間にひねくれたやつに敬称をつけられたって、敬われてるより皮肉られているみたいで腹が立つから」


 部屋着のカーディガンに丈の長いスカートというカジュアルな格好に、その上から剣帯を巻いて一振りの刀を腰にくという異様な格好をして現れたのは、五尾の妖狐、稲尾椿姫その人だった。


「足音がしたからなにかと思ってついてきてみれば、このざまね。妖気が濃くなっていたからこれを持ってきたんだけど、まさかドンピシャで予感が当たるなんて」


 これ、というのは腰の刀だろうか。漆塗りの鞘に納められた、刃渡り二尺七寸五分の太刀造り。刃を下に向けて差しているので、打刀ではなく太刀だろう。


「こいつら、なんなんだ? 妖怪じゃないって言うんなら、魔物とか、モンスターとか、そういうものなのか?」


「その認識で間違ってないわ。こいつらはヒトが大気に放つあらゆる負の感情が結晶し、実体化した世界の歪み。魍魎、と私たちはそう呼んでいるわ」


 巨犬が、椿姫に狙いを定め、じり、と地面を踏む。


「そしてこの村は、その魍魎を封じ込めるための土地。私は一族の当主として、こいつらを狩ることを生業にしてるのよ」


 動く。巨体が一息で最高速に達し、砲弾のように椿姫に迫る。


 風圧で燈真は姿勢を崩しかけるが、椿姫は軽やかな足取りで突撃を回避。刀を抜く。その刀身は黒く染められ、日本刀の醍醐味である波紋がない。


 椿姫は刀身を撫でるように左手を刀にかざし、紫炎を纏わせる。


 巨犬は唸りを上げながら椿姫に右前足を振り下ろすが、爪が彼女の肉を捉えることはなかった。


 反時計回りに動き、巨犬の脇に回り込んだ椿姫は刀を袈裟に振るう。紫の火の粉が舞い、肉を裂いた。だが血は出なかった。代わりに、黒いもやのようなものが噴出する。


 椿姫は袈裟逆袈裟と斬り下ろすと、深追いはせず一歩下がる。彼女は次の攻撃を読んでいたようで、左前足のフックを躱すと、今度は時計回りに脇に入り込み、表切上に斬り上げる。


 巨犬が苦鳴を上げ、燈真は呼吸も忘れて一人と一体の戦いに見入る。


 と、傍で唸り声がして燈真ははっとした。


 いつの間にか背後に回っていた大型犬の魍魎が、燈真に飛び掛かる。


 反射的に半身になって回避。こういうとき、自慢はできないが喧嘩の経験が役に立つ。気取った格闘術ではないが、喧嘩殺法で磨き上げられた燈真の反射神経は一般的な高校生とは比べ物にならないほど優れている。


 大型犬が再び跳躍。


 燈真は呼吸を合わせ、半歩の加速から体重を乗せた拳を打ち出す。


 魍魎というものがどれだけの耐久力を誇るのかは知らないが、先ほど巨犬を吹き飛ばせたことを考えると、大型犬程度どうとでもなる。


 その思惑通り、燈真の拳は大型犬の鼻骨を砕き、潰れた脳組織の圧力で右の眼球が飛び出した。飛び散った肉片はたちまち黒い靄に変わり、消える。


 倒れた大型犬に近づき、喘ぐように呼吸をする喉を締め上げ、骨を圧し折った。こんな化け物相手に動物愛護の精神が働くほど、燈真は博愛主義ではない。


「へえ、やるじゃない」


 見れば、椿姫は巨犬の額から刀を抜いて、血振りしていた。


 あの巨大な犬が靄と化して消え、燈真たちの行く手を塞いでいた壁が同じように靄となって消える。


 月が赤から青白い天然の色に戻り、あの嫌な、生ぬるく甘ったるい空気が消失した。ほどなくして虫や蛙、夜行性の鳥の鳴き声が戻ってくる。


「なんだったんだ……今の」


「『幽世かくりょ』。特定の空間内に閾値しきいちを超えた魍魎が集まると生まれる空間障害よ。魍魎はああして得物を捕捉して、襲い掛かる。漂う黒い靄は妖気よ」


「……この村は、なんなんだ? 魍魎を封じ込めるって、どうやって?」


「私も詳しくは知らないけれど、稲尾家は魍魎を封じ込め、狩ることを至上命令としてる。この村はいわば避雷針よ。人の世に魍魎が蔓延はびこらないように、己の身を犠牲にして世界の安全を守ってる」


「とんでもないところだな」


「嫌になったら帰ればいいわ」


「それが出来ればどれだけ気が楽か」


 燈真は吐き捨てるように言った。


「ねえ、燈真」


「なんだ?」


 不思議と、彼女には敬語が出てこない。


「さっき、あの大きな魍魎を吹き飛ばしたわね? 人間ができることじゃないわ。あなたは何者なの? あなたからは、少し変わったにおいがする」


「さあな。昔から、腕っぷしだけは強い。それだけじゃ、納得できないか?」


「無理ね。とても人間業じゃない。……こう言うと嫌な気分になるかもしれないけれど、あなたからはどちらかというと妖怪私たちと似た空気を感じる」


 そうは言われても、燈真にはその自覚がない。


「わからないよ。俺だって、俺の全てを知ってるわけじゃない。でも、俺の両親は紛れもなく人間だった。だから……俺は、人間だと思う」


「そう」


 椿姫は刀を納め、踵を返した。


「どうするかは勝手だけど、深夜徘徊はおすすめしないわ。夜は魍魎が幅を利かせる時間よ」


「……ああ。今日、たった今痛いほど理解した」


 悠々と椿姫が去っていく。


 燈真は今交わした言葉を自分なりに噛み砕き、理解に努めようとした。


 魅雲村は妖怪が暮らす大規模な村。


 ここには妖怪が公然と暮らしている。


 それと同時に魍魎と呼ばれるヒトの負の感情が具現化した怪物が徘徊している。


 そして燈真が預けられた稲尾家は、その魍魎を狩ることを使命としている。


 わけがわからない。


 燈真は頭をぼりぼり掻き毟り、天を仰いだ。


(とんでもない家に預けられたな……)



6:職業、夜廻り



 稲尾椿姫は、『夜廻よまわり』を日課としていた。いや、魍魎狩り、と言いかえた方がいいかもしれない。とにかく夜廻りとは、異形を狩る仕事を生業とする同業者の間で使われる符丁のようなものだ。


 とにかく椿姫は毎夜ごとに現れる魍魎を探し出し、それを倒すことを、十四歳になる歳から続けていた。


 両親は人間社会に興味を持ち、そこに馴染めない椿姫と竜胆を――竜胆は二年程度だが人間社会で暮らしており、その頃から様子のおかしさを見せていたため三年前椿姫とこちらに移った――置いて出ていった。


 愛情がないわけではないのだろう。その理由に、ときおり電話やメールが来るし、両親は思い出したように帰ってくることもある。


 妖気が近い。


 椿姫はそこへ入り込む。


 途端に空気が変わった。


 漠然と『嫌な予感』としか感じられない雰囲気に包まれ、生暖かい甘ったるい大気に包まれる。月は赤く染まり、黒い霧のようなものが周囲に薄くかかっている。


 幽世は現実とは隔離された一種の異世界であり、現実の空間軸とは異なる領域に位置している。迷い込んだら最後――というわけでもないが、逃げ出すのは困難であり、七割がた魍魎の餌食となる。


 そのことをわかっているためにこの村の住人は夜遅くまで出歩くということをしなかった。


 人の肉を好物とするくせに人の陽気を嫌う性質がある魍魎は、昼間は滅多に出ない。そして祭りなどの催しがあるときもそれほど現れない。だが毎日祭りができるほど、村に金はない。


 そこで自然と人々は夕暮れを境に出歩かなくなり、家に戻るのだ。ここの高校が文化部以外の部活を禁止しているのも帰りが遅くならないためであり、バイトを禁じているのも同じ理由からだ。


 この村では残業もほとんどなく、夜勤も少ない。稼ぎたい人間は都会に出るかするが、良質な砂鉄こがねが取れる山があり、鉱業と冶金と製鉄を主産業にしており、賃金はいい方であるためほとんどの人はこの村でその仕事につく。


 ほかにも農業や、山の奥には製薬企業などもあり、意外と選べる業種は多い。それに封鎖的な土地柄と人柄なので、外に出て行こうという者自体が少なかった。


 とにもかくにもそういう理由で、夜に出歩く者は滅多にいなかった。燈真は知らなかったようだが、ここのコンビニは二十四時間営業ではない。


 すぐに鬼の壁打ちが起き、椿姫は腰に提げた刀を抜く。


無刃刀ないばとう』――刃を持たない刀だ。魍魎狩りはしても人殺しは嫌なのでこんな刀を持ち歩いているが、正真正銘の玉鋼から鍛造された刀であり、加減を抜いて振るえば人の骨を砕くだけの威力はある。


 そして椿姫の『妖術ようじゅつ』があれば、無刃刀でも獲物を斬れる刃と化すのだ。


「〈千紫万劫せんしばんこう〉――〈熔刀ようとう紫炎しえん〉」


 椿姫は刀身を撫で、紫炎を纏わせる。刀身が放つ温度は数千度にも達し、相手を熔断ようだんする火炎の刃を形成する。


 襲い掛かって来た魍魎に共通する黒い肉体を持つ犬型魍魎を斬り伏せ、返す刃でもう一体を斬り倒す。


 一定の閾値しきいちを超えた妖気が集まると、幽世と言われる異界が形成される。こんな雑魚数体で生み出せるわけではない。どこかに大元がいるはずだ。


 群れる魍魎を斬り伏せ、椿姫は奥へ奥へと進んでいく。


 椿姫は思い出したように飛び掛かってくる犬の魍魎を斬り、さらに深部へ進む。赤い月が笑うように地表を照らす。


 進むにつれ妖気の濃さが増していった。肌にひりつく殺気を感じる。


 と、喉を鳴らす音が聞こえ、椿姫はその場から退いた。壁の上に立っていた巨大な影が降り立ち、今しがた椿姫がいた場所を踏み潰した。


「なかなかの大物ね」


 現れたのは四対の足を持つ巨大な蜘蛛だった。生理的嫌悪を感じる外見。八つの単眼は金色に染まり、全身から黒い靄――妖気を放っている。


 鋏角のついた口、膨らんだ腹部。全高は四メートル近く、その全長は恐らく八メートルには達するだろう。


 人は蛇のように長いものか、蜘蛛やムカデのように足が大量にある生物のどちらかが苦手と言うらしいが、椿姫は蜘蛛派だった。


 巨大蜘蛛が金属を擦り合わせたかのような声を上げ、一気呵成に突っ込んでくる。


 それをわざと紙一重になるようにタイミングを計って避ける。余裕を持って避けた方がいいのではないかと思われるかもしれないが、隙をなくして反撃までのタイムラグをなくす方がいいのだ。


 椿姫は無刃刀を袈裟に振り下ろし、交錯の瞬間に巨大蜘蛛の足を一本斬り飛ばす。刃のない刀だが、噴き出す火炎がその無くした刃の代わりを果たし、ガスバーナーが金属をも両断するように獲物を斬り裂く。


 魍魎狩りは国から認められた行為であるため、一種の公務だ。そのため特別に武装も許されてはいるが、椿姫は刃の持った刀を持とうとはしなかった。


 ――私は、人殺しじゃない。


 足を一本失いながらも回頭し、こちらに牙を剥ける巨大蜘蛛に、椿姫は一気に勝負をつけることにした。どの道今日の獲物はこいつ一体だ。


「〈千紫万劫せんしばんこう〉――〈劫炎紫龍ごうえんしりゅう〉」


 紫炎が刀から吹き上がり、一頭の巨大な龍を形作る。大蛇のような、それでいて荘厳な紫の輝きを放つ巨大な龍。それは東洋で語られる伝説そのものの姿かたちをしていた。


 龍を形作る炎の渦はそれ自体が爆轟であり、触れたものはたちまちのうちにそれに飲み込まれ塵と化す。椿姫は〈劫炎紫龍ごうえんしりゅう〉に命を下すように刀を蜘蛛に向かって振り下ろした。


 直後、炎の龍が爆ぜるように蜘蛛に飛び掛かる。


 炎の龍が蜘蛛を焼き尽くし、靄と化して消し去った。


 と、幽世が解除される。いつの間にか椿姫は畑の合間に張り巡らされたあぜ道の真ん中にいた。


 ふう、と一息ついて、刀を納める。


 ここ五年ほど、つまり椿姫が夜廻りを始めたときには、魍魎の活動がかなり活発化していると同業は言っていた。


 なにかの予兆でなければいいのだが、と、椿姫は青白い月に向かってため息をついた。



7:血をください



 まず、もふっとしていた。それから少し獣臭くて、重い。


 外が明るくなっていることに気づいて薄目を開けると、やはりというか燈真のシングルベッドには玉藻狐が入り込んでいた。


 大柄な狼並みの体躯を誇るこの狐は、土地の精霊が北海道から渡ってきたキタキツネに宿ってどうこう、みたいな経緯で生まれた妖怪らしいと、ここに来て三日ほど経ち知った。


 そう、三日。


 ここに来て――あの、魍魎とかいう奇妙な怪物との戦いを目の当たりにして三日。


 早いもんだな、と燈真は思う。


 慣れとは恐ろしいもので、今ではもう妖怪を見ても驚かなくなった。新しくできた家族にもそれなりに――一線は敷いてしまうものの――接することができる。


「こゃぅ」


 タオルケットを捲り上げると、玉藻狐がもう少し寝かせろとばかりに抗議の声を上げた。勝手に入って来てこのふてぶてしい態度。人間に媚びを売らない態度はある意味堂に入っていて感心する。


「おはようございます、燈真様」


 そこに落ち着いたトーンの女性の声がして、燈真はそちらに首を向けた。


「いいお天気ですね。朝食後、少し出かけませんか?」


 部屋の中だというのに黒い革のコルセットに同じく黒革のタイトスカート。腰にはモデルガン――であってほしい――が二挺差さっている。燈真の雑学知識が間違っていなければ、シルバーのあれはデザートイーグルだろう。


 モデルガンであってほしいと懇願したのは、腰に巻かれたものが明らかに予備弾倉だったからだ。あそこに入っているのがBB弾であることを祈るばかりだが、燈真は既に夜廻りという稼業についても知っているので、実銃があってもおかしくないと理解できている。


 どうもこの魅雲村は一種の治外法権のようで、日本国とは違うロジックで動いている。因習も各地に残っていて、その割に村人は概ね燈真を歓迎してくれている。それについては、燈真の母・浮月うつきがここの出身だということを聞かされてはいるが。


 いや、それはどうでもいい。


「ミラ、勝手に部屋に入ってくるなって、昨日言ったよな」


 ミラと呼ばれた赤髪赤目の背の高い女は、「そうでしたか?」と首をかしげる。


「ノックはしたので、大丈夫だと思うのですが」


「ノックは不法侵入の免罪符じゃない。返事を待たずに入った時点で駄目なんだよ」


「まあ、燈真様もそういったお年頃ですからね。ですが、大丈夫ですよ。見ても黙っていますから」


「そういう問題じゃない」


 玉藻狐がのっそり起き上がり、大きな欠伸をかます。人の騒ぎなどどこ吹く風、と言った様子だ。


 ちなみに、妖怪も自分のことを「人の話を聞け」などと人呼ばわりするので、人間とは言わないが人とは言うことにしている。燈真としても、正直妖怪の方が人間臭く、温かい気がしているので、彼らを人呼ばわりすることに抵抗はなかった。


「まあまあ、そう怒らずに。血圧が上がりますよ」


「上がらせてるのはお前だ」


 開き直ったというのもあるが、燈真はもう稲尾家の人々に肩肘張って接するのはやめた。煮ても焼いても食えない、一癖も二癖もある連中に礼儀を尽くす必要性を感じなくなった。簡単に言えば疲れただけだ。


「それより、燈真様。朝の一口をいただきたいのですが」


「嫌だ」


 ミラの言う朝の一口とは、吸血のことだ。昨日初めてやられた。と言っても映画みたいに首筋に牙を突き立てるのではなく、針で刺した指を舐めるという程度のことだったが。


「なぜです。私を飢え死にさせようと?」


「できるもんならしてみろ。大体、俺がいない間生きてこられたってことは人間の血なんてそうそう必要なものでもないだろ」


「まあ、確かにそうですが。しかし、人はパンのみにて生くるにあらず、と言うでしょう」


「吸血鬼が聖書を引用するとかシュールにもほどがあるだろ」


 ミラは言動からもわかる通り吸血鬼だ。それも欧州で猛威を振るった吸血鬼の王の一族『アルカード』の血を引く存在らしい。家督争いや血生臭い日常が嫌でここに逃げてきた、とのことだった。


「一滴でいいんです」


「本当にだろうな……」


 燈真は渋々、ミラに指を差し出す。彼女は喜々とした様子で滅菌消毒した針を取り出し、燈真の人差し指の腹にぷすりと針の先を突き立てた。


 そのまま指を咥え込み、一滴どころかすべて吸い尽くさんばかりにちゅぱちゅぱと音を立てて指を吸い上げる。


(心臓に悪い……)


 こんな大人びた女性が、所謂『指フェラ』をする光景は、健全な十六歳男子には毒でしかない。だから嫌なんだ、と燈真は思ったが、もう遅い。


 時間にして三分ほどして、ようやくミラは燈真の指を解放した。


「ごちそうさまです。やはり、燈真様の血は格別に美味しいですね」


「褒められてる気がしないんだけど」


 そこに、どたどたと慌ただしい足音が迫ってくる。


「とーま! おはよー!」


 部屋に飛び込んできたのはちんちくりんの二尾の妖狐、稲尾竜胆だった。立派な名前のわりに、外見は全くそれに伴っていない。


 飛びつくようにして燈真に抱きつき、手足をがっちり回す『だいしゅきホールド』を決めてくる。


「お前いい加減俺に張り付くのをやめろよ」


「えへへー。もうすぐおまつりだね!」


 聞いてない。


 ……って、


「お祭り?」


 燈真が訊くと、ミラが答えた。


「ええ。毎年七月下旬にやるんですよ。魍魎をはらおう、という名目で夕方から朝方まで大騒ぎするんです」


「へえ。迷惑防止条例とかがうるさい東京じゃお目にかかれない話だな」


 昨今、迷惑だからと除夜の鐘まで自粛される始末である。そんな時代に夜通し騒ぐとはかなり珍しい。


「東京の方ではこういったことはないのですか?」


「たまに勘違いした馬鹿の乱痴気騒ぎはあるけど、大抵警察沙汰になって次から禁止か自粛って感じで、お祭りらしいお祭りなんて滅多にない」


「人間社会って言うのは、なかなかに理解の難しいものですね」


「そうでもない。自業自得ってだけだ。そのときさえ良ければいいって馬鹿騒ぎして、次から禁止になるとやれ警察は無能だの政治家の老害だのって騒ぐだけで、自分の過ちを見ようともしない」


 ミラがふふ、と笑った。


「なんだよ」


「いえ。燈真様は、人間社会で暮らすよりも、我々といた方がいいのではと。妖怪と近しい価値観をお持ちのようだと思っただけです」


「そうかな……」


「ええ」


 そうなのだろうか。昔から変わり者だとは言われていたが。


「そんなことよりあさごはんだぞー! とーまもみらもはやく!」


 竜胆が騒ぐ。


「わかったわかった。着替えたら行くから、先行ってろ」


「燈真様、お着替え手伝います」


「お前も出てくんだよ」



8:ベレッタM9



「燈真、ちょっと来い」


 朝食後、食後のモーニングコーヒー――と格好をつけているがミルクとシュガーを入れたカフェオレだ――を飲んでいた燈真に、柊が声をかけてきた。


「なんだよ」


「いいから」


 和服姿の柊は有無を言わさず、燈真の襟首をつかんでひっ立たせると、玄関に向かった。仕方なくサンダルに履き替えてついていくと、道場の脇にある地下室に入る。電気をつけて階段を下りる間に、柊が口を開いた。


「魍魎に襲われたな?」


「あ、ああ。犬みたいなのに」


「ここが日本国政府とは異なる法形態であることも知っておろう」


「まあ、銃とか剣とか持ってるやついるしな」


 この三日、村を散策している間に目にした光景だ。初めはモデルガンだとか模造品だと思うようにしていたが、魍魎という怪異を前にした後では、どうしてもそれらが偽物であるとは思えなかった。


 階段を下りると、そこはシューティングレンジになっていた。大した家だ。本当にここは日本なのだろうか。


「こいつをくれてやろう」


 と言って、柊は棚に入っていた拳銃を持ってきた。


「これ……」


「わかるか?」


「ゲームで見たことある。……えっと、ベレッタだっけ?」


「そう。ベレッタ・モデル92。M9ってやつじゃな」


 柊はそう言ってマガジンキャッチボタンを押し込み、弾倉を抜く。当然だがダブルカラムマガジンには一発も弾は入っていない。


 棚から薬莢の詰まった紙箱を持ってくると、「ほれ」と言ってマガジンと紙箱を机に置く。


 手本を見せてもらってから、燈真も見よう見まねで弾を詰めていく。最初は楽だったが、次第にスプリングの力が強くなっていき、十五発目を入れるときには、親指の腹が痛くなっていた。


「安全装置は外しておるでな。……まあどの道慣れねばならぬし、耳当てはいらんか」


 手本を見せてくれる。弾倉を入れ、スライドストップを下ろし、スライドを前進させる。アクション映画やなんかが好きだったので、銃の各部の名称をはじめとした、こういった知識は燈真にもあった。


 柊に手渡されたM9はずっしりと重く、燈真は教えられた通りに構えを取る。銃を握る手と胸のラインが二等辺三角形を描くアイソセレススタンスで構え、五メートル先のターゲットに狙いを定める。


「サイトに乗せるような感じで狙うのじゃぞ」


「わ、わかった」


 言われた通りに狙いを定め、引き金を引く。


 耳をつんざく炸裂音がして、思わぬ反動に肩に痛みを感じる。拳銃なのだから、と甘く見ていたがとんでもない。初めて撃つ銃の感覚に、燈真は驚きを隠せない。


 放った弾丸は、一応ターゲットには当たったが、いきなりど真ん中に当たるというようなことはなく、狙いが右上に逸れていた。


「全部撃ってみよ。当てることよりも、まずは音と反動に慣れねばならぬ」


 燈真は残りの十四発を撃った。命中弾が八発に、逸れたものが六発。スライドストップが上がり、銃は弾切れをしていた。


「その状態がホールドオープン。次の弾倉を入れよ、という合図じゃな。ほれ」


 柊が弾の詰まった弾倉を手渡してくる。燈真はそれを受け取り、先ほど彼女がそうしたようにマガジンを入れ、スライドを前進させた。


 結局、その日は昼食の時間まで銃を撃ち続けることとなった。


     ◆


 家に戻ると、出汁の利いた匂いが出迎えてくれた。今日の昼はうどんか蕎麦かな、と思いながら燈真は軽くシャワーを浴びてから、居間に入る。


「とーまー!」


 定位置となった上座の左側に腰を下ろす。隣には身を寄せて竜胆が座り、もふもふした尻尾を擦りつけてくる。


「……なんか、はなびのにおいがする」


 硝煙の香りを彼なりの語彙で表現したのだろう。燈真は試しに自分の体のにおいを嗅いでみるが、あまりわからない。そう言われればそうかもしれない、というくらいにはした。


「ああ、銃撃ってたからな」


「ぼくもてっぽううちたい!」


「お前にはまだ早い」


「ずるいよおとなばっかり!」


 ぽこぽこ叩いて来る竜胆の頭を撫で、燈真はフランが「ほらよ」と言いながら持ってきたコーラを呷る。グラスの中の氷が、ころんと涼やかな音を立てた。


 ちなみに件の拳銃であるベレッタM9はもう燈真のものになっている。革のホルスターを腰に取りつけ、そこに差している。ハンマーを下ろした上で安全装置をかけ、チャンバーからも弾丸を抜いている。


 近年、魍魎はその行動範囲――は広げていないが、行動時間に変化をもたらしている。ここ五年の間に昼間にも幽世に誘い込まれたという被害報告が上がっている。暗がりや人気のない所を好む習性は変わっていないが、被害は拡大している。


 そのためここ数年の間に夜廻りをする者は増え、武装をする者も自然と多くなっていた。


 燈真とてもう二度と魍魎に出くわさないとは限らず、例え夜間の行動を避けたとしてもまた襲われる可能性もある。


 柊が銃をくれたのは夜廻りをしろ、というわけではないだろうが、それでも安全のため拳銃を所持しておけということだろう。


 だが必要ならば、燈真も夜廻りをするつもりだった。


 今まで誰の役にも立てなかった人生だ。惰性だけで生きるのもいい加減うんざりしている。


 ここでどこか、劇的な変化が欲しかった。生まれてきたことに意味があると言えるような。


 柊が風呂場から戻って来て、上座に座った。


「なあ、柊」


「なんじゃ燈真」


 昼間から酒を飲む彼女に、


「俺も夜廻りをしたいんだけど、いいか?」


「んー? 小遣いが欲しいんなら妾が出してやるぞ」


「金じゃない。生きてる、いや……母さんが俺を産んでくれたことに価値があるって証明したいんだ」


 柊は少し考え、


「そうじゃな。まあ、テストしよう。ミラ」


「なんでしょう」


 離れた位置に座った赤髪の吸血鬼がこちらに向く。


「今夜、廃坑道で仕事があったな。燈真を連れていって、使えるかどうかを判断してくれ」


「わかりました。燈真様、厳しくテストしますので、お覚悟を」


「ああ。頼む」


「役場へは妾が届け出を出しておくから、心配はいらぬぞ」


 柊はどうでもよさそうで、しかし真剣な眼差しを燈真に向けた。



9:試験



 夜になった。


 時計は午後十時半を回り、燈真は竜胆と椿姫の父だという妖狐が使っていた、二百五十ccのアドベンチャーツアラーのアクセルを引き絞っていた。


 五月五日に十六歳になり、駄目もとで父に頼んでお金を捻出してもらい、学校をさぼって合宿で普通二輪免許を取ったのだ。早く独立して家を出ていく、と言ったら、父は喜々としてお金を出してくれた。


 稲尾家の父は燈真がバイクを使うことを、埃を被らせておくのは可哀想だからと喜んで許可し、燈真は暴力事件がなければバイトをして買っていたであろうバイクを運転し、ミラが先に向かったという廃坑道に向かっていた。


 廃坑道に行く前に魍魎に出くわしたらどうしよう、という不安は現実にはならず、燈真は唯一自慢できる体力で――バイクなのでそんなものはほとんど必要ないが――山道を登って、寂れた坑道の前まで来た。


 錆びたレールと傾いたトロッコ。ボタ山に使われなくなったつるはしなどが転がっている。


 脇にある半壊した詰所に、闇に同化するようにミラが立っていた。


「悪い、待たせたか?」


「いえ。テスト、ということなので、危険度の高い魍魎は先に始末しておきました。この先に小規模な幽世がありますので、そこでお手並みを拝見いたします」


 普段は血を飲ませろだのとふざけるミラだが、流石にこういう場面では真面目だ。


「準備はよろしいですか?」


 燈真はバイクから降りてキーを抜くと、サイドスタンドを立てて詰所の雨よけの軒の下にバイクを停めた。


 M9を抜き、安全装置を外してスライドを引く。初弾を薬室に送り込み、弾を発射可能にすると頷いた。


「行こう」


 廃坑に入ると、淀んだカビのにおいがした。暗く、目が慣れないうちは苦労したが、しばらくすると闇に慣れてきた視界が景色を拾う。


 風の流れる音がするのでどこかに繋がっているのだろう。


 と、


「………………」


「わかりますか? 燈真様」


「……嫌な気配がする」


「それが妖気です。幽世が近い証拠でもあります」


 しかし、とミラは言葉には出さず胸中で続けた。


 たった二回目の遭遇で幽世の気配がわかるほど、人間は妖気に敏感ではない。だからこそ様々な邪念が飛び交う都会でも平然と暮らせるのだ。


 まあ、こんな村に来た時点でなにかしら――霊感やなんかが敏感だったり――事情があるのだとは思うが。


「聞きましたよ。初めて出くわした魍魎を殴り飛ばして首を圧し折ったとか」


「ん……ああ。必死だったからああしたんだけど、まずかったか?」


「いえ。ですが、魍魎と出会って早々にそんなことができる人って、妖怪の中にもそうはいないんですよ。大抵は腰を抜かして、醜態を曝します。そういった意味でも、燈真様は夜廻りの素質があるのかもしれませんね。……そろそろです」


 言っている傍から、空気が変わった。


 嫌な気配。生暖かい空気。甘ったるい感覚。坑道なのでわからないが、きっと月は赤い。


 ひた、と足音がして、燈真は生唾を飲む。


「今回はテストなので、私は基本的に手出しはしません。燈真様お一人で魍魎の対処をお願いします」


「わかった」


 暗がりから大型犬の魍魎が現れる。燈真は昼食後も散々行った練習の成果を出さんと狙いを定め、引き金を引く。


 発砲炎と発砲音が重なり、九ミリ弾が音速で飛翔。魍魎の腹部に着弾し、靄を噴出させる。


 だが一発では倒れない。それは燈真にも想像できていた。浴びせかけるようにさらに二発撃ち込むと、大型犬はぶわっと靄を広げ、霧散した。


「筋は悪くないですね」


 ミラの賛辞を聞き流しながら、燈真は次の一体に狙いをつける。


 胴に命中させれば約三発で倒せる。頭を狙えば一撃かもしれないが、自分の腕で動く目標にヘッドショットを決められる自信はないので、大人しく命中させやすい胴体を攻撃する。


 鼓膜を叩く火薬の炸裂音が幽世と化した坑道に反響し、慣れつつあった耳が抗議の悲鳴を上げている。


 ちょうど四体目を倒したとき、銃のスライドが後退したまま止まった。ホールドオープンしたのだ。


 マガジンを素早く交換し、燈真はしかし敵の接近を許したことを悟る。銃の最低射程距離内に入り込まれ、このままでは撃つこともできない。


 燈真は鉄板仕込みのショートブーツに包まれた足を繰り出し、ハイキックを飛び掛かって来た大型犬の下顎に叩き込む。


 甲高い悲鳴を上げて吹き飛んだ犬は壁に叩きつけられ絶命。


 ミラは内心、ほう、と感嘆のため息を漏らしていた。


 燈真の運動能力は、人間として到達できる最高レベルの領域にあると思う。十六歳でこれだけの身体能力があるのならば、適切な環境で適切な練習をすれば、格闘技で最年少チャンピオンになることも夢ではないように思えた。


 正直人間が夜廻りをするのはどうだろう、とミラは懐疑的だったが、彼ほどの実力があるのならば余程下手をしない限り、或いは規格外の魍魎と出くわさない限り後れを取ることはないだろう。


 二体目の犬を殴り飛ばした燈真はスライドを前進させたM9で追い打ち射撃を浴びせ、魍魎を絶命させる。


「終わった……か?」


 昂っていた精神を落ち着けるように深呼吸を数回。マガジンを抜いて薬室から弾丸を抜いてから撃鉄を下ろし、安全装置をかけて拳銃を腰のホルスターにしまう。


 あの生暖かい空気感も、甘ったるい気配もしない。先ほど感じていた寂寥としたカビのにおいが戻ってくる。


「ええ、終わりですね。立派な戦果だと思います」


「じゃあ」


「はい。柊様には合格、と伝えておきます。お疲れ様でした、燈真様」


 緊張の糸が切れた途端、燈真は全身に心地よい痺れが走るのを感じた。


「はぁ……」


「緊張していましたか? 燈真様はこういったことにはあまり緊張なさらないたちだと思っていたのですが」


「俺だって緊張するさ。バイクの卒検並みに緊張したよ」


「意外ですね。では戻りましょうか。私は蝙蝠になれるので足は必要ありませんが……あ、燈真様はバイクがありましたね。帰り道にはお気を付けを」


「わかった。今日は付き合ってくれて、ありがとうな」


「いいえ。美味しい血を頂いたので、そのお返しですよ」


 ミラは艶然と微笑み、燈真はまた血を吸うつもりか、と少し疲れた吐息を漏らした。



10:初仕事の夜長



 体感時間ではあっと言う間に感じた時間の流れだったが、家に帰ってきたときにはもう日付が変わっていた。


 燈真はみんなを起こさないようにこっそりと玄関を開け、静かに入る。汗をかいたからシャワーを浴びたかったが、こんな時間では誰かを起こすかな、と思って入ろうにも入れない。すると、ミラが脱衣所から出て来た。


「シャワー、使っていいのか?」


「ええ。この家の人は燈真様を入れて三人も夜廻りがいるので、深夜帰りも夜中のシャワーも慣れてますよ。空いてますので、どうぞ」


 つまりミラと燈真、そして椿姫が夜廻りというわけだ。


 そういうことなら、と燈真もシャワーを浴びることにした。


 一旦部屋に戻って寝間着兼部屋着の黒いジャージを持ってきて、ついでに拳銃と弾薬類を鍵付きのケースに入れて、脱衣所に入り、服を脱いで汚れ物をかごに入れる。


 風呂場に入り、熱めに設定したシャワーを頭から浴びた。残念ながら湯船に湯ははっていなかったが、そこは仕方ない。全身を叩く熱い慈雨だけで我慢するしかない。


 全身の強張った筋肉が弛緩していくのを感じながら、燈真は長くため息をついた。肺の中に溜まった瘴気を吐き出すようなため息だった。


 疲れた、というのが正直なところだった。生まれて初めて非日常の代名詞とも言える――それでも日本人でもグアムに行けば実銃射撃はできるが――拳銃の射撃に始まり、それを用いた実戦。疲れるな、という風が無茶だ。


 救い――と言えるのかどうかは別だが、精神衛生上安心できるのはこの仕事が人殺しではないことだ。


 便宜的に魍魎を生物とは言うものの、あれらはヒトの出す邪念や邪気が凝り固まって生まれた意識の具現体であり、通常の生物ではない。


 命を奪っていないからゲーム感覚で――とまでは割り切れないが、それでも人を撃つよりも格段に精神的なダメージは少なくて済む。


 人の脳というものはあまりにもデリケートにできていて、例え正当防衛であると理屈では理解できていても、人殺しという倫理問題をそう簡単に割り切れるようにはできていない。


 他人の人生を奪ったという事実はどこかで火花を散らし、精神に異常を来たす。人を殺して平然と過ごせる異常者は全人類の――いや、殺しを生業とする全兵士の二パーセントにも満たない。


 シャワーの蛇口をひねって湯を止めると、燈真は風呂場を出てジャージに着替えた。下には三枚組で売っている安物のトランクスと、薄いTシャツ。その上から特売品のジャージだ。


 タオルで髪を拭いながら台所に入り、冷蔵庫から良く冷えた緑茶を取り出し、タンブラーになみなみと注ぐ。キンキンに冷たいそれを一息に呷り、もう一杯、また一気に呷る。熱く火照った体に、冷たいお茶は最高に美味い。


 二階に上がり、部屋に入る。


「こゃー」


 先客がいた。


「玉藻狐様、いい加減俺のところに来るのをやめたらどうだ?」


 狼並みに巨大なキタキツネ、玉藻狐様は笑みのような表情を浮かべ、ベッドで横になる。


 懐いてくれるのは嬉しいが、毎晩毎晩やってこられると少し疲れる。


 だが抱き心地が良くて安眠の一助になっているのも事実なので、強く反発できないのもまた嘘偽りない真実の側面であった。


 燈真は勉強机に座り、ラップトップを開く。


 魅雲村で検索するが、それを取り扱うサイトは極めて少ない。ここに来る前は田舎なのだから扱う情報が少ないのもやむなしか、と思っていたが、今は違う。


 ここは日本国にある非日本国とも言うべき土地であり、一種の治外法権だ。銃刀法もなにもない、悪く言えば妖怪が持つ独自の掟が幅を利かせる無法地帯である。


 剣や槍程度なら手作りもできるだろうが、銃器類が出回るとなると間違いなく政府絡みでなにかを行っていることになる……と燈真は思う。


 日本政府――もしくは、国際政府が情報統制を行い、ここの情報を徹底的に遮断しているのだろう。


 関東の山間にあり、それでも電気と電波が通る土地。人間社会から断絶されながらも生命線は保つ不可思議な土地。それもこれも、政治家の努力のたまものか。


 さもありなん、という感じではある。


 あんな魍魎だなんて化け物が世間的に知られ、最悪世界規模でパンデミックでも起こそうものなら恐慌は避けられない。


 妖怪には人間より優れた運動能力と治癒力、そして妖術という優位性があるからまだいいが人間にはそれがない。最悪、魍魎が現れたというだけで戦車や戦闘機が飛び交う、戦場が日常化した世界になり果てる可能性だってある。


 そうでなくとも軍縮傾向にある昨今、そこに軍拡の口実となる魍魎だなんてものが持ち出されれば、世界の警察気取りの某国は喜々として軍備拡大に走り、最悪それが人間同士の戦争の火種になりかねない。


 世界ぐるみでこの村を隠したい、と思うのも無理はなかった。


 時計は午前零時四十七分を差していた。まだ眠くならない。


 燈真はベッドに横になる。玉藻狐はすっかり夢の世界に旅立ち、ぐぅすぅと寝息を立てている。


 枕の脇に積んだ小説を一冊手に取った。この家の図書室にあったものだ。SFもので、小難しい話が苦手な燈真だったが、タイトルに惹かれて持ってきた。


 その小説は短編集で、燈真はほんの数行の詩が全人類を破滅に導きかねない、という内容の話を読んだ。


 食わず嫌いをして小説はあまり読まなかった燈真だが、しかし読んでみると意外に面白いから不思議だ。


 漫画と違ってダイレクトに伝わってくるインパクトには欠けるものの、情景や心理面は漫画より丁寧に描かれており、なにより教養になる。


 燈真は一編読み終えたところでしおりを挟み、ベッド脇に本を置いた。


 その頃には瞼はすっかり重くなり、燈真は部屋の電気を消してタオルケットをかぶって玉藻狐を抱き枕にして少し獣臭い毛皮に顔を埋める。


 すぐに睡魔の手招きが目に映り、気づくと、夢も見ないほど深い眠りへと転がり落ちていった。



11:妖狐殺しのもふもふ



「魅雲村祭り、ねえ」


 朝食後、座布団の上で胡坐あぐらをかいた燈真の上に座った竜胆にちょっかいをかけられながら、燈真は人狼族の女のフランから話を聞いていた。


「結構、大掛かりだぜ。デカい山車だしも出るし、屋台とかもバンバン出てるし。お前テスト込みで二回夜廻りしたんだろ?」


「ん、ああ」


 テスト後の翌日は、椿姫と共に仕事をこなした。燈真が小型魍魎の相手をし、椿姫が大物を仕留めるという役割分担で、正直燈真がいてもいなくても変わらないような気がしたが、あまり突っ込んでも自分が惨めなので考えない。


「なら遊ぶだけの金は充分あんだろ」


「まあ……こんなにもらえるもんだとは思わなかったけど」


 危険な仕事とはいえ、高校生でも出来るのだからバイトに色がついた程度だろうと思っていた報奨金だが、驚くほど高額で燈真は思わず息を飲んだ。


 そのまま貰うのは申し訳ないので、燈真は携帯代と食費、その他諸々の生活費の足しになればと家にある程度預けることにしたが、それでも高校生の小遣いにしては多すぎるほど手元にお金が残った。


「私も夜廻りができりゃいいんだけどなー」


「できないのか?」


「無理無理。私、運動神経ゼロ」


「妖怪……だよな?」


「ああ。妖怪だよ。けど妖怪の全員が全員超人ってわけじゃねえんだぜ。中には私みたいに人間並みか、人間にも劣るくらいのやつだっているんだ」


「そっか……てっきり俺は、妖怪はみんな超人だとばかり……」


「期待を裏切っちまったか? 悪い悪い。けど、人間の中にだって妖怪に負けず劣らずのとんでもねえのがいるだろ。あれの逆バージョンだ」


 そこに、家の中だというのに赤い燕尾服に身を包んだ初老の男性人狼がお盆を手に近づいてきた。


「燈真様、食後のカフェオレをお持ちいたしました。竜胆様はオレンジジュースでよろしかったですね?」


「ありがと、オズワルド」


「ありがとー!」


「いえいえ、感謝には及びません」


「兄貴、私には?」


「自分で取りに行きなさい」


 フランが兄、と呼んだように、オズワルドはフランの実兄だ。彼女と同じ茶髪に、狼の耳と尻尾。オズワルド・ヴィドック。元々はフランスで暮らしていたが、十五年前にこちらに移り住んだらしい。


 オズワルドは豊かな顎ひげに理知的な銀縁眼鏡と、がさつを絵に描いたようなフランとは似ても似つかない外見だが、顔立ちに少し重なるところがある。


 オズワルドは隙一つない所作で去ると、フランは「やれやれ」と言いながら立ち上がった。


 入れ替わりに椿姫がやって来て、燈真の隣に座る。


「あんた、なかなか見込みがあるわね」


「どうも」


 椿姫はアイスココアを口に運びながら、正座した膝の上を手で叩く。


「ほら、竜胆。こっち来なさい」


「やだー。とーまがいいのー」


「なんで私が嫌なのよ」


「おねえちゃんらんぼうだもん。とーまのほうがやさしくもふもふしてくれるもん!」


 椿姫が鋭い視線を燈真にぶつける。


「なんだよ……」


「玉藻狐様といい竜胆といい……あんたはとんだ妖狐殺しね」


 弟に構ってもらえないのが寂しいのだろうか。


「なあ、椿姫」


「なに?」


「今夜の魅雲村祭りだけど、一緒に回らないか?」


 椿姫は少し考えた後、


「どうして私なの?」


「いや、一応仕事上の相棒バディがお前だし、こういうところでフレンドリーシップを構築しておくのもありかな、と思って」


「ふぅん。まあ、別にいいけど」


「助かるよ。まだこの村に来て日が浅いから、正直右も左もわからなくてさ」


「あんた、ちょっと変わったわね」


 椿姫がなんの気なしに言うが、燈真にはわからず、


「……なにが?」


「最初来たときは、生気の薄い夢遊病者みたいな感じだったけど、今は楽しそう」


「そうかな……」


 少し自覚はあるが、適当にお茶を濁しておく。


 オズワルドが取り寄せた豆から淹れてくれたカフェオレは気が利いた味というか、ひと手間加えた丁寧さが形になったような風味がして、食後にはうってつけだった。


 ギンギツネのイラストが描かれたマグカップを空にし、燈真はそれを台所に運んで、居間に戻る。


 すると椿姫が意地でも竜胆の尻尾をもふろうと手を伸ばし、竜胆が身を捩って嫌がっているというなんともまあ心温まる光景が繰り広げられていた。


「燈真様」


 居間でテレビを見ていると、手に針と救急箱を持ったミラがやって来た。


「お前な……」


「寝起きは自重しました。ですがもう我慢の限界です」


「俺がいない間どうやって吸血を耐えてきたんだよ……いいからトマトジュースでも飲んでろよ」


 ミラはじりじりとにじり寄って来て、舌なめずりまでする始末だ。


 燈真は呆れてものも言えず、諦めて右の人差し指を差し出した。


「ありがとうございます」


 喜々とした様子を隠そうともせず、ミラは燈真の指にぷすりと針を突き刺した。ちくっとした痛みに眉をしかめたのも束の間、ミラが指を咥えて血を啜る。


「駄目! 見ちゃ駄目!」


「むあー!」


 弟煩悩な椿姫はミラの吸血行為が竜胆に悪影響を与えると思ったのか、頭を抱えて視界と聴覚を遮断していた。じたばた暴れる竜胆が少し不憫だ。


 やがて吸血が終わり、燈真は洗面所で手を洗い、ミラが消毒をして絆創膏を張り付ける。そのくらい自分でできるのだが、血を吸ったという負い目があるのか、それともごちそうさまを言うまでが吸血だと思っているのか、ミラはその役目を譲らない。


「燈真!」


 そこに、クリーム色の髪をした竜族の女、クラムが飛び込んできた。


 あれから何度か風呂場で遭遇する、燈真の中では痴女としてインプットされた妖怪だ。


「なんだよ、騒がしい」


「今夜のお祭り、一緒に回りませんか?」


「あー、それなんだけど、椿姫に頼んだ」


「え……あの女狐め……」


「また機会作るから、そのときは喫茶店にでも行こう」


 言った途端、クラムの顔が明るくなった。


「それは、デートということですか!?」


「家族付き合いってだけだ」


 聞こえていないのか、クラムは「デート……デート……」とうわごとのように呟きながら去っていった。


 暇だし、銃の訓練でもするかなと、燈真はミラを誘って地下のシューティングレンジに向かうことにした。



12:魅雲村祭り



 魅雲村祭りは午後六時から翌日午前六時まで、十二時間ぶっ続けで行われる、東京では大晦日でもない限りあり得ないほど騒がしい、夜通し行われる祭りだ。


 大通りを封鎖して山車を引き回し、その周りを和太鼓や笛などを持った男衆が囲み、豪奢で絢爛な衣装に身を包んだ女性が踊り狂う。


 あちこちに屋台が出て、燈真は東京で慣れていたはずだったが、久々の人いきれに呑まれそうになった。


「すっげえな」


「でしょでしょ」


 肩車をしてくれとせがんできた竜胆が肩の上で言う。


「おい髪の毛引っ張るな」


「ごめんなしゃい」


 燈真はストレッチ素材のジーンズに黒いシャツというラフな格好だった。腰には万が一に備え拳銃と予備弾倉が五つもある。その他の道具を詰めたポーチ類も巻いており、装備は万全。


 隣の椿姫はサイズが少し大きい白いシャツに、丈の長いスカートという格好だった。剣帯と腰の無刃刀がどこまでも不釣り合いだ。


 竜胆は甚平というそれらしい格好で、さっきから二本の尻尾を燈真の首筋に擦らせてこそばゆさを感じさせている。


 時刻は午後八時半。屋台で食べ歩くので夕食は食べていない。食べ盛りの高校生にはこの空腹は地獄のようだ。屋台から漂う焦げたソースの匂いやなんかが、拷問のように感じられる。


「なんか食べないか? 腹減ったんだけど」


「からあげがたべたい!」


「私も」


 流石狐。鶏には目がない。


 燈真はこういった屋台では必ずある、大きな唐揚げをカップに入れて売っている屋台を見つけると、これからもいろいろ食べるので一番小さいサイズのものを買う。


 一番美味そうな鶏皮のついたものを物欲しそうな椿姫を無視して竜胆に渡し、燈真もその唐揚げに食いつく。


「あっつ」


 高温に熱せられた肉汁が口の中に溢れ、漬けていたのかニンニクと醤油の風味を振り撒く。


「おいしー!」


 竜胆もご満悦だ。


 実家は、今どうなっているのだろう。


 ふとそんなことを考えた。


 まあ、なにも問題はないだろうな、と燈真は思う。


 父と新しい母は弟のことが大好きだし、燈真のようなネグレクト扱いはしていないだろう。


 燈真自身も義理の弟と話したことはほとんどないので、愛情もない。だからといって流石に不幸な目に遭えばいいとまでは言わないが、幸せを祈るほどの間柄でもない。


 新しい母のことも、心底どうでもよかった。夜廻りで報酬が発生するので父からの仕送りも断り、燈真は完全にあの家庭とは決別していた。


 ちなみに、漆崎というのは母の性だ。父の性ではない。結婚の際にどういう理由かは知らないが夫婦別姓にしたらしい。だから、この名前は嫌悪感もなく誇って名乗ることができる。


「あれ? 椿姫?」


 聞き覚えのない声がして、燈真はそちらを見た。


 見たことのない少女がいた。


 黒いおかっぱに、頭頂部から猫のような耳を生やし、腰からは二本の尻尾。背中に交差して差しているのは小太刀だろうか。


(夜廻り仲間……か?)


万里恵まりえ。やっぱり、来てたんだ」


「当たり前じゃない。妖怪と言えばお祭り騒ぎでしょ。そっちの男の子は? ひょっとしてコレとか?」


 万里恵と呼ばれた、恐らく猫又であろう少女は小指を立てた。


「違うわよ。こいつは仕事仲間」


「へえ。でも……人間? うん? ……人間、か。人間が、魍魎と?」


「なかなか筋がいいの」


 認められたことに、少し誇らしさを感じる。


「そうなんだ。はじめまして。私は霧島きりしま万里恵。魅雲高校一年B組。一応、夜廻りやってます」


「ああ、俺は漆崎燈真。最近ここに来て、稲尾さんちに居候してるんだ。よろしく」


 剣を握るからか、タコのある柔らかさと硬さが同居した手と握手を交わす。


「転校生なんだね。ご家族の都合とか?」


「まあ、そんなところかな」


 本当はもっと複雑で陰気な理由だけど、とは口にしなかった。祭りを楽しんでいるときにそんなことを言うのは無粋にもほどがある。


 と、万里恵がそっと耳元に口を寄せ、


「椿姫、ああ見えて押しに弱いから、ぐいっといけば落とせるかも」


「……は?」


「仲のいい男女にこれ以上邪魔はできないもんね、私、行くわ」


 なにを言っているのかわからない。


 それから顔なじみだという村民たちと会話を交わしながら、燈真たちは祭りを見て回った。


 屋台でたこ焼きや焼きそば、実は甘いものが大好きだったりする燈真は竜胆をだしにしてチョコバナナを買い、少し贅沢に祭りを楽しむ。


 携帯で時間を確認すると、もう午後十時四十分を回っていた。流石に竜胆も眠くなってきたのか、燈真の肩の上でうとうとしている。


 本音を言えばまだまだこの祭りを楽しんでいたかったが、竜胆に無理強いをさせるのも悪いので、燈真は「そろそろ帰ろうか」と椿姫に提案した。


「じゃあ私、万里恵と遊んでくるから、竜胆を任せてもいい?」


「わかった」


「じゃあね、竜胆。お姉ちゃん、ちょっと行ってくるから」


「ふぁい」


 眠そうな竜胆の尻尾を一撫でし、椿姫は雑踏に消えていく。


「とーま」


「どうした?」


「おといれいきたい」


「わかった」


 少し人ごみから離れることになるが、確か公衆トイレがあったはずだ。


 燈真は喧騒を抜けて少し汚い公衆トイレの傍に来ると、竜胆を下ろす。


「ちゃんと手を洗えよ」


「ふぁい」


 やはり眠いのか、返事がふにゃふにゃしている。


 トイレに入って二分。


(長いな……大きい方か?)


 不思議に思いながらトイレに入ると、燈真は身を強張らせた。


「なにしてやがる!」


 そこには竜胆の口を塞ぎ、かどわかさんとする赤い目の――恐らく吸血鬼の――男がいた。


 そいつは燈真に見咎められたことに気づくと、コンクリートの壁をぶち破って飛び出していく。


「待て!」


 燈真は慌てて携帯で戦えるミラと椿姫にメールを入れ、男を追い、祭りの音頭を背後に闇夜の追走劇を開始した。



13:M・O・W



 男を追って五分ほど。森の中に入っていた。


 走りながら、燈真は周囲に“あの”嫌な予感がわだかまるのを肌で感じていた。


 脊髄せきずい反射じみた勢いで拳銃を抜き安全装置を外してスライドを引いて構える。


 だが、引き金にかかった指はそれを引き切ることができなかった。


 それは血色が悪く、瞳が完全に魍魎のそれだったが、外見は人間だった。


「お気に召してくれたかな?」


 木陰に竜胆を下ろしたあの男が、悠揚迫らざる態度で歩を進める。


「我々の兵器の長所は区別がつくところでね。こいつらは敵味方を識別することができる。なに、埋め込んだ生体素子に少し改良を加えるだけだ。我々吸血鬼が……いや、王の血族の持つ血の力を使ってね」


「兵器……だと」


M・O・Wモンスター・オーガニック・ウェポン。我々はそう呼んでいる。まだ試作段階で不安はあったが、私を襲わないところを見ると成功と言ったところか。魍魎モンスターの兵器化だよ」


「この……人たちは。人間じゃないのか」


「高濃度の妖気液の中で変異させた人間だ。あらかじめ生体素子を――M・O・W寄生体を埋め込んで隷属化させておく。そうして生み出された生体兵器がこいつらだ。助けようなどとしても無駄だ。魍魎が元には戻らないように、こいつらも死ねば靄と化して消える」


「……外道共が。竜胆をどうするつもりだ」


「妖狐は極めてレアな妖怪でね。高く売れる。我々の活動資金にしようと――」


 こんな外道に、生きている価値などない。


 燈真は男の胸に狙いを定め、引き金を引く。男は射線を見切っていたのか軽やかに回避すると、行け、とでも言うようにM・O・Wとやらに顎をしゃくった。


 舌打ち。男は竜胆を担ぎ、森の奥へ走っていく。燈真も追いかけるが、M・O・Wが邪魔をして進めない。


「どけ!」


 一体を射殺。男が言った通り、靄になって消えた。


 助からないとはいえいい気分ではない。魍魎は人の思念の具現体だ。しかしこいつらは元を辿れば人間だったのである。いい気分になる方がおかしい。


「燈真! 竜ど――」


 そこに椿姫の声が降りかかってきた。が、彼女の行く手をゾンビめいた動きでM・O・Wが塞ぐ。


「なに……こいつら」


「わからん。人間を素体にして作ったM・O・Wとかいう生体兵器らしい。助ける術はないから殺すしかない!」


「わかった。燈真は先に行って! ここは私が!」


「わかった!」


     ◆


 胸糞の悪いことをしてくれる、と椿姫は内心吐き捨てた。


 人間などどれだけ死のうが知ったことではないが、だからといって無差別に殺されて、こんな風に道具にされることが人の道に違えていることくらいはわかる。


 無刃刀を抜き〈千紫万劫せんしばんこう〉・〈熔刀ようとう紫炎しえん〉を発動。刀身に紫紺の火炎を纏わせる。


 外見はまるきり人間で、椿姫に嫌な記憶を想起させる。


『この、人殺し!』


「…………ッ!」


 奥歯を噛み、椿姫は腐葉土を蹴散らしてM・O・Wだかいう生体兵器に踏み込む。同時に八相からの斬り下ろし。肩口からめり込んだ刃が肉を焼き斬り、心臓を両断。脇腹まで抜ける。


 人型のそれは黒い靄と化して消え、消滅した。


 魍魎の中にも人型は存在するが、もっと人間離れした外見なので戦うにしても倫理的ハードルは低くて済む。だが、こいつらは――


「椿姫様!」


 銃声がして、M・O・Wの二体がまとめて頭部を撃ち抜かれて霧散。


「ミラ!」


「こいつらは……魍魎?」


「M・O・Wっていう生体兵器みたい。助ける術がないから、殺すしかないって……」


「誰がこんなものを……」


「わからない。今燈真が犯人と竜胆を追ってる」


 呻き声がして、二人は息を飲む。


 まだいる。


 動きはまるでゾンビ映画のクリーチャーさながらで、ぎこちないが躊躇いがなく、また意外と速い。


 椿姫はまさか感染はしないわよね、と思いつつ振り回された腕を斬り飛ばし、逆袈裟に斬り下ろして胴を分断する。


 霧散した人型M・O・Wの向こうの陰にいる一体に視線と水平に構える上段霞の構えから刺突を繰り出し、心臓を抉る。


 背後から物音がし、椿姫は振り返りざま左脇腹から右肩に抜ける表切上軌道に無刃刀を斬り上げ、一撃で倒した。


 散発的に銃声が響く。燈真が撃っているのか、敵が撃っているのか。


 さらに近くで大きな銃声がして、ミラが世界最強の名をほしいままにした自動拳銃であるデザートイーグルを左右に持ち、速射している。


 脚色されているとはいえ女性の腕で撃とうものなら手首の骨が折れる、とまで言われるそれは、反動も凄まじく、連続で撃とうものなら狙いも定まらずろくに使えたものではない。


 しかしミラは吸血鬼の膂力りょりょくで反動を抑え込み、一発も外さずに命中させている。一秒とかからず弾倉交換を済まし、彼女は即座に射撃に移った。二挺拳銃で速射に馬鹿みたいな反動の五〇口径。妖怪でなければ扱いきれない技量だ。


 常人では二挺拳銃というだけで扱いが極めて困難になる。動体目標が相手では数メートル圏内でも当てるのが難しいと言われているほどだ。


 椿姫もミラが何歳なのかは知らないし、どれほど昔から夜廻りをしていたのかもわからないが、その実力だけはずば抜けて高いことだけは知っている。


 恐らく最後の一体であろう人型を斬り伏せたとき、魍魎独特の嫌な気配が去っていった。


「終わったわね」


「ええ。嫌な気配も消えました。銃声がした方へ……」


 ミラが黙る。その理由を、椿姫も察した。


 さっきまでしていた銃声がぴたりと止まっている。


 燈真が勝ったから終わったのだと楽観的に考えることは、どうしてもできなかった。だとしたら電話の一つか先ほどのようにメールを入れてくるはずだ。


「急ぎましょう!」


 言われるまでもなく、椿姫は最後に銃声がした方角へ向かって走り出した。



14:引き金



「しつこいやつだ」


 男は足を止め、竜胆を放り捨てた。


「竜胆!」


 地面に投げ出された竜胆は涙を流しながら、痛みに呻いている。


「てめえ……ッ!」


「なにをそんなに怒る? 血も繋がらない他人じゃないか」


 外見からわかるのだろう。確かに人間と妖狐とでは血の繋がりがないことは明白だ。だがだからといって、子供をぞんざいに扱うことが間違っていることくらいどんな馬鹿にだってわかる。


「……殺してやる」


 燈真もどうしてそこまで怒りが湧くのかわからなかった。昨日今日知り合って、初めは勝手に家族呼ばわりされることに苛立ちすら感じていたのに、今では竜胆の存在は実家の弟よりも身近な存在に感じられる。


 そんな彼を泣かせるこの男に、燈真は埋火のような激憤がとぐろを巻くのを、どうしようもできなかった。


 倫理的なハードルを飛び越えた憤怒が拳銃を相手に向けることに躊躇ためらいを取り去った。


 情け容赦なく燈真はM9を向けて射撃。がつんと来る反動を抑制し、浴びせかけるように撃つ。


 だが恐らく吸血鬼であろう男はゆらゆらと身を揺らしながら燈真に肉薄。拳銃のスライドを掴んで射撃を止める。


 そのまま腕を捻り、燈真は逆らわず足を浮かせて回転。そのまま足を男の首に回し、圧し折らんばかりの力を籠める。


「男の股なんぞ……」


 男は腕を捻じ込み、燈真のロックを外すと投げ飛ばす。


「見ていて気分のいいものではないな」


 馬鹿げた勢いで吹き飛んだ燈真は木に背中を激突させ、息を詰まらせる。


 空気を求めて暴れる肺に酸素を取り込もうと咳き込んだところへ、レバーへ蹴りが入る。


「かはっ」


 激痛に悶絶し、燈真は地面を転がった。


「ガキ相手の喧嘩で腕を鳴らした程度の子供に、俺をどうにかできるものか」


 男は燈真が取り落とした拳銃を拾い上げ、胸に照準。咄嗟に腕を交差して急所を守る。


 乾いた破裂音がし、焼けるような痛みが腕に走った。弾丸が腕を穿ち、骨を砕く。


 腕、太腿、腹部に銃弾を浴びせかけた男は弾切れを起こした銃を放り捨てると、背を向けて歩み去ろうとする。


「とんだ邪魔だったな」


 痛みで脳が燃えるような苦痛を訴えている。本能が逃げろと叫んだ。


 黙れ、黙れ、黙れ。逃げてたまるか。まだ、竜胆が――


「ま、……て」


 燈真はナメクジのように地面を這い、男の足首を掴む。


「まだ死なんか。人間もなかなかしぶとい」


 男が踵を振り上げ、燈真の頭を踏み潰す。


 ぎしり、と骨が軋み、それが何度も続く。


 死ぬ、と理解した。


 けれど走馬燈は見えない。ただ闇の底へ沈んでいくという虚無感があるだけだ。


 嫌だ。


 なにも成せないのも、俺を慕ってくれた竜胆を失うのも、死ぬのも、殺されるのも。


 俺は――


「!?」


 男が飛びずさった。


「うっ――ぐぅぉぉぉおおおおおあああああッ!」


 びきり、と音を立てて、燈真は右の額からなにかが生えてくる感触を味わった。


 痛みが嘘のように消え、あろうことか生物学的限界を超えたとしか思えない異様な速度での治癒が始まる。


 全身にめり込んだ弾丸が吐き出され、傷口がぼこぼこと泡立ち修復されていく。


(なんだ……急に、体が楽に……)


 違和感を感じた右の額に触れると、異物があった。


 視線を右上に向けると、少しだけ、それが見えた。


 黒い輝きを放つ、グラファイトのような、恐らくは角であろうもの。蒼い脈のようなものが走っている。


(んだよこれ……俺は、本当に――鬼、なのか?)


戦鬼せんきだと!? お前は……何者だ!」


 男が答えを口にした。


「俺が知りたいくらいだ。なんなんだこれは? 俺は……人間じゃないのか?」


「……厄介な」


「燈真様!」「竜胆ッ!」


 そこへ、M・O・Wを倒したであろう二人が駆け付けてきた。


「勝負はお預けだ。戦鬼に吸血鬼の王、妖狐……不利なのはこちらなのでな」


 竜胆を抱きしめながら、椿姫が鬼のような形相で、


「逃がすと思うの?」


「ああ。そのためのM・O・Wだからな。出でよ、タイタン」


 嫌な気配が爆裂した。


 ぶわっと湧いて出たその感覚はたちまちのうちに広がり、燈真を否応なしに緊張させる。


「椿姫、竜胆を連れてここを離れろ!」


「あんたは!?」


「俺はミラとタイタンとやらをやる。どの道誰かが囮にならなきゃ逃げられないだろ!」


 椿姫は角についてはなにも訊かず、任せたぞ、というように頷いて去っていく。


 燈真は拳銃を拾い上げ、弾倉交換。角の正体がわからない以上、過信はできない。あの超高速再生も一度きりかもしれないし、心臓や脳へのダメージはなかったから回復したのかもしれない。なにより、これ以上派手に傷を負うわけにはいかなかった。


 それに治るとはいっても、痛いことに変わりはない。


「来ますか」


 ミラが上唇を舐めながら、告げる。


 燈真は嫌な気配が蟠る方向へ銃口を向けた。


 そこには五メートルの上背に達する、筋骨隆々の名前通りの巨人がいた。その骨格は人というよりかはゴリラに近く、肌は青白く死人のようだ。


 顔の皮膚は怒りの形相で染まっており、やつらのことだ、投薬治療かなにかで戦闘に適した凶暴性の高さを保っているのだろうことは想像できた。


 唸りもゴリラさながらで、そんな怒号のような声を上げながら拳を振るう。燈真が軽く跳んで――そのつもりが五メートル近くも跳ねていた――躱した直後、その拳の直撃を食らった生木が容易く圧し折れる。


 ミラと二人、銃撃。音速の九ミリ弾と凄まじい運動エネルギーを持った五〇口径弾が合計二十九発タイタンに殺到する。


 驚くべきことに一発も弾丸が貫通しない。表皮に食い込み、押し返される。コンクリートブロックや鉄板をもぶち抜く銃弾が、ただの肉如きに弾かれる。


「燈真様、ここは私にお任せを」


 そう言って、ミラは太腿に巻いたレッグホルスターからシリンダーのようなものを取り出した。


「それは……怪しい薬じゃないだろうな」


「違いますよ。人間の血をベースに作り出した強制活性剤です。飽くまでトリガーですので解放する力自体は私のものですが……普段の吸血で力が活性化しないように、こうして別の引き金を用意しているのです」


 言っている間に、ミラはキャップを開いて中身を飲み下す。


「恥ずかしいのでお見せしたくはないのですが、これが私の『血啖器けったんき』です」


 そう言って、ミラはコルセットとタイトスカートの間の腰から、赤黒い鞭のような器官を二対生やした。



15:タイタンスレイヤー



 血啖器。それはその名の通り、相手の血をくらう器官――吸血鬼が持つ特異な生体器官の一つである。


 腕のハウンド、翼のレイヴン、腰のサーペントと三種類あり、通常はそのうちの一つしか扱えない。


 しかし、ミラは――吸血鬼の王『ヴラド』である彼の血族の直系であるアルカードのミラにならば、その三つ全てを扱うことができた。


     ◆


 背中から覗く翼型血啖器から棘のようなものを射出し、タイタンの進路を阻むと、ミラは腰の鞭を振るって打擲ちょうちゃく。何トンあるかわからない巨体を吹き飛ばす。


 直後全身を蝙蝠に変え、タイタンの背後に回るや否や鋭い爪に覆われた腕のガントレットを背中に突き立てる。


 圧倒的なまでの力の差。


 燈真はこのままならミラが勝てると思っていた。


 ――その瞬間までは。


 直後、タイタンが勝利を確信した笑みを浮かべた。


 なにを、と思う暇などない。


 タイタンは振り向きざまに爪に覆われた腕・・・・・・・――それを薙いだ。燈真に向かって。


 ガードも回避も間に合わなかった燈真はその一撃をもろに食らい――は、しなかった。


「ぐぅっ……!」


 燈真を庇ったミラの腹部に深い裂傷を刻む。


「ミラ! ――クソ!」


 燈真は無駄だとわかっていながらも銃弾を浴びせる。注意をこちらに向ける程度のことはできたが、しかしそこからどうすればいいのだというのだ。


 なにか有効な手段は――と思ったとき、燈真はそれ・・を預けられていることを思い出した。


 拳が飛んでくる。


 燈真は両手を交差してブロック。が、ゴムまりのように飛ばされて木に叩きつけられる。だが構わない。


 燈真は握っていたそれを転がした。


 それは点火ピン。


 タイタンが異物感に気付き、視線を足下に向ける。そこには安全レバーが外れた丸い物体。


 破片手榴弾フラグ――


 点火した炸薬が炸裂し、爆熱と破片をばら撒いた。


 加害範囲を逃れていた燈真は舞い上げられた土埃の煙たさに咳き込み、その隙に立ち上がってミラの様子を見る。


「大丈夫か!?」


「え、ええ。まさか一撃を貰うとは……ですがご安心を。吸血鬼は心臓を破壊されても数時間は生きますし、血さえあれば治癒が可能です」


「悪い、俺のせいで……その、心臓をやられたのか?」


「そういうことにしておけば、燈真様の血を存分にいただけたかもしれませんね」


「……そんな軽口を言う余裕があるなら大丈夫だな」


「……ですが、まだのようです」


 巨人が平然とこちらを向く。皮膚が焼けただれ、骨が露出した部分もあるが、まだ死んではいなかった。金の瞳が燈真を射る。


 怒り狂った闘牛のような怒声を上げて突っ込んでくる。なんの工夫もない四つん這いからの突進は回避すれば逃げられないミラに直撃する。ここで食い止めるほかない。


 恐怖が――しかしそれを上回る、竜胆のときにも感じた守りたいという思いが燃え上がる。


 激突。


 燈真はタイタンの突進を受け止め、そのまま十メートル近く擦過した。しかし、轢殺されていない。角が生む不可思議な力が燈真の膂力を跳ね上げさせ、人知を超えた力を――あの男が言うには戦鬼の力が不可能を可能に変える。


「よう、デカブツ。こいつは礼だ!」


 踏みとどまり、燈真はタイタンの巨大な頭部に右のアッパーカットを打ち込む。肉と肉が打ち合わさっただけとは思えない凄まじい衝突音が響き渡り、燈真はそのまま上段回し蹴りを繰り出す。


 タイタンが吹き飛ぶ。


 土埃を上げながら転がった巨人は唸りながら立ち上がり、燈真を最優先ターゲットとして認識したようで、こちらに突っ込んでくる。


 燈真としても都合のいい展開だった。ミラに今戦わせるわけにはいかない。


 タイタンが爪に覆われた腕を振り上げ、燈真も右拳をその動きに合わせる。一瞬、生身であの爪を受け止められるのかと疑問が浮かんだが、今さら退くに退けない。


(ままよ!)


 拳と拳がぶつかり合い、インパクト。腐葉土と土埃が全周囲に舞い散り梢がさざめく。


 果たして、燈真の拳は血啖器らしきタイタンの爪を圧し折っていた。


 巨大な拳に燈真の拳が深々と突き刺さり、押し返す一定の力を超えた途端、ごきん、となにかを折る音がして、タイタンが擦過。


 常人ではあり得ない運動能力。それに加え高い治癒力。男が言った戦鬼という呼び名。そして拳には、蒼く脈打つ黒い殻に覆われている。


(俺は……妖怪、なのか?)


 そうとしか考えられない。


 だがそれを考えるのは後だ。燈真は意識を戦闘へ集中させ、無様に折れ飛んだ腕を引っこ抜き、棍棒のように振るう巨人と対峙する。


 太刀筋も出鱈目な勢いで振るわれる棍棒と化した腕を回避していき、燈真は隙を突いて棍棒を脇に受け止めロック。そのままジャイアントスイングの要領で回転し、タイタンを投げ飛ばさんとした。


 しかし敵もさるもの。タイタンは棍棒を離すと姿勢を崩した燈真に前蹴りを叩き込む。


 馬鹿みたいに巨大な足が胸に激突し、胸骨が悲鳴を上げる。だが、折れない。


 宙を舞った燈真は傍の木に足をつけ、九十度傾いた視界の向こうにタイタンを認め、たわめた足を解放。全身が発条になったかのような急加速。


 彗星のように飛び込んできた燈真をタイタンは残った腕を上げ防御。しかしタイタンはその変化に気づいていなかった。


 燈真の前腕が、右額の角と同じようなグラファイトを思わせる装甲甲殻――装殻で覆われている。その全体に、血管のような、或いは葉脈のような蒼い筋が浮かんでいた。恐らく、角にも走っているものと同じものだろう。だとすればこれは、やはり戦鬼の力の一部か。


 はじめは拳程度を覆うそれは、前腕部全体を覆っていた。


 そして今、燈真の瞳は海のように蒼く輝いている。


 ごっ、と空気の膜を突き破るような音がして、燈真はさらに加速。


 激突音は、手榴弾のそれよりも遥かに上回る轟音だった。


 生まれた衝撃波も凄まじく、大地がクレーター状に抉れて吹き飛び、傷口を押さえていたミラは思わず声を上げた。


「燈真様!」


 土埃が晴れ、黒い靄が霧散して消える。その中心で、燈真の額の右に突き出ていた角がゆっくりと引っ込んだ。


 そこで力を使い果たしたのか、燈真は糸の切れた人形のようにその場に倒れ込んだ。



16:この場所を失いたくないから



 柔らかい。


 まず最初に感じたのは、そんな感想だった。柔らかくて暖かく、最高級の毛布はこんな手触りなのではないかと思わせる、そんな感触が頭部を覆っている。


 低反発枕よりもここちよいその柔らかさに甘えてこのまま眠り続けたいと思ったが、ふと自分は奇妙な人造魍魎と戦っていたはずだと思い至り、燈真は勢いよく飛び上がった。


「起きたようじゃな」


「柊……ここは……家?」


「ミラが担いで戻って来たのじゃ。そなた、大分派手にやったそうじゃな」


 暖色系の蛍光灯に照らされたそこは、居間だった。壁にかけてある時計は午前三時半を差している。


「喉、渇いた」


「待っておれ。温めたミルクでも持ってきてやる」


 柊が去っていく。揺れる尻尾を見て、俺はあの九本の尻尾を枕にしていたのだろうかと、まだ眠気が尾を引く頭で考えた。


 気になることがあり、燈真は洗面所へ向かった。


 鏡を覗く。蒼い脈が走ったグラファイトのような角が生えていた頭部には、なにもない。しかし変化しているところがあった。


 瞳だ。


 不幸面と悪人面を足して二で割ったような顔の大きな要因であろう三白眼が、灰色から蒼色に変わっている。


 呼吸を整え、念を唱えるように鼓動を脈打たせると、みきりと音を立てて、額から角が生えた。


 六センチほどの、刃のような角。脈が走っている。触ってみるとひんやりと冷たく、質感は金属に近かったが、光沢はなくマットだ。


 収めよう、と念を入れると、角は額に引っ込んでいった。


(なんなんだ、これ)


「燈真。どこじゃ」


 居間から声がして、燈真は戻った。


「おう。お主、甘味が好きであろう。蜂蜜入りじゃぞ」


「ありがと」


 マグカップに注がれた温かいミルクを口に含み、蜂蜜の濃厚な甘みの風味を味わう。


「さて……色々と聞きたいことがある、というような顔をしておるな」


 柊は焼酎をグラスに注ぎ、ちびちびやりながらそう言った。


「ああ。まず、竜胆は怪我してないか、だ」


「ふっ。始めてきた頃は明らかに妾たちを他人だと思って接しておったやつが、今では自分に起きた異変よりもあいつを優先するとはな」


「答えてくれ」


「掠り傷があった程度じゃ。どれも唾をつけておけば治る程度のものじゃった。お主のおかげじゃな。稲尾家当主代理として、礼を言う」


 とりあえず無事が確認できて、よかった。燈真は安堵の息をつく。


「じゃあ、本題だ。俺は、なんなんだ?」


「あれを見た以上、流石に人間だという答えでは納得はせんだろうな」


「当たり前だ。人間じゃないことは明白だ。けど俺の両親は紛れもなく人間だった。俺が連れ子だったわけじゃないってことも知ってる。それに妖怪なら、人の放つ邪気やなんかを敏感に感じ取るんだろ? 俺にそんな力はなかった」


 柊はつんとした芳香の液体を一口嚥下してから、こう始めた。


「お主、心臓病で手術をしたじゃろ」


「小さい頃にな。生まれつきの心室中隔欠損病が悪化して、心臓の穴が広がって移植手術を受けるしかないって言われたらしいな」


「そのとき、お主は妖怪の心臓を移植されたのじゃよ」


「なんだって?」


「お前の実の母である浮月の初恋の相手。黒鉄銀二郎くろがねぎんじろう。その男は胃癌で余命三ヶ月だったのじゃよ」


「その人が、死ぬ前に心臓を?」


 柊は頷いた。


「竜胆をさらったやつは、俺を戦鬼、と」


「そう。銀二郎は九尾の稲尾柊――つまり妾じゃな、それと、吸血鬼の王であるヴラド・アルカード、フェンリルのジゼル・グロウリィと並ぶほどの力を持った妖怪じゃった。それが戦鬼じゃ。だが無敵ではない。年老いた体に、病は耐えられなかった」


「……母さんは、どうしてそれを隠したんだ?」


「浮月はお主に平穏に過ごしてほしい、と思っておったのじゃろう。死んだ今、その本心を訊くことは叶わぬが、あの女子おなごは常々子供には平和に過ごしてほしいと口にしておった」


 燈真は胡坐をかいた足に視線を落とし、ため息をついた。


「今の俺を見たら、母さんはきっと悲しむだろうな」


「夜廻りか。やめたいと言うのなら、やめていい。お主の勝手じゃ」


「……やめないよ。母さんは悲しむかもしれないけど、でも、俺がいなきゃ竜胆がどうなってたかわからない。あの男がもう二度と来ないなんて楽観視はできない。それに……」


「それに?」


「俺は今まで奪うことしかできなかった。しょっちゅう喧嘩ばっかで、相手や家族を悲しませて……そういう身から出た錆でここに来たわけだけど……でも、ここは居心地が良くて。俺が命をかけるに値すると言えるものが、初めてできた場所なんだ」


 柊はまじまじと燈真を見つめた。


「椿姫やミラから聞いた。魍魎を兵器化しておる、と。そうなってくると、相手はかなり大規模な組織かもしれぬ。今後、もっと痛い目を見るのかもしれぬぞ」


「その痛みを竜胆や家族に味わわせるくらいなら、俺が盾になる。そんで、そういう悪いやつらをぶっ飛ばすために、この力を使う」


「吐いた唾は呑めぬぞ」


「覚悟の上だ。いろんなものから目を反らしてきて、とうとう実の家にすら見切りをつけた俺だけど、この場所を失いたくないんだ」


 燈真はミルクを一気に飲み下した。


「よかろう。ならばその覚悟を貫き通してみせよ」


「ああ」


 燈真は大きく頷き、柊の紫色の瞳をまっすぐに見つめた。


「やれやれ。こうと決めたら絶対に譲らぬその態度は、浮月譲りじゃな」


「母さんも頑固だったのか?」


「なかなかにな。さて、もうこんな時間じゃ。シャワーでも浴びて、さっさと寝るんじゃ」


 言われた通り、燈真は座布団から腰を上げると、一旦部屋に戻って替えの下着と寝間着兼部屋着のジャージを持って風呂場に向かった。


 全裸になって風呂場に入り、アナログ式の温度調節機を真っ赤な目盛りまで捻り、火傷しそうなほど熱い湯を頭からかぶる。


 曇った鏡に映る蒼い双眸を睨み、燈真は戦いの渦中へ身を投じる覚悟を固めた。 

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