委ねる

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

 「委ねる」という安心感をいつ体験したのか、と色々思索しましたら18才の頃でした。

 ドイツの神父さんから洗礼を受けた後の、安心感というか深い喜びというか言葉にならない幸福感でした。青春のまっさかりという時代での最高の思い出です。

 さて、4人兄弟の末っ子の私は、いつも兄や6才上の姉に手を繋いでもらって歩いていた記憶があります。大学を卒業し社会人になりましても、「末っ子」という環境から来る自分の欠点について色々悩んでいました。末っ子の私は、どちらかといいますと、人間の美しさ、やさしさ善良さを信じすぎる傾向があるようです。

 私は或る時期大学病院で、生き甲斐支援活動に力を入れていましたが、意地悪することに喜びを感じている患者さんから、あまりにも人を信じすぎる私は考えが足りないように見えたようです。その方からは信用されませんでした。

 この体験はとても貴重なもので、「信じると見えてくるもの、見えなくなるもの」という恩師の教えを思い出しながら、嫌な相手を無理に信じこもうとしていた私を、彼は信じていなかったようです。誰でもうかつに信じると、とんでもない悲劇が襲うのですが、この患者さんのおかげで、何故、あなたを信じないのか、その理由を明るく爽やかに言い切ることがどれほど相手の為になるか、ということを私は教えられました

 その方は帰天される間際に「人は死んだらどうなるのか、天国はあるのか」と、しばしば質問なさいました。終末治療の事例は大半が永遠の生命の問題でしたが、全てを神様に委ねようと決意されて帰天された時の穏やかな表情に、私は心から感謝したことを覚えています。

 「委ねる」という考え方は精神衛生にはとても良いようです。