目的のために手段は…?
2008年06月22日
目的のためには手段を選ばず――某カルト教団の”教是”であった。
自分たちは真理を実践している。この崇高な活動のためには、現実社会の法を犯すのもやむをない。多少の犠牲は仕方がない。そういう思い上がりが、人を騙したり、金を奪い取ったり、さらには命をも奪う犯罪を犯す根っ子にあった。
一方で、「目的は手段を浄化する」という言葉もある。
例えば、外国によって占領された国の人たちが、暴力的手段を使って抵抗・反撃する行為は、その国の人々の間では「浄化」され、むしろ英雄的なレジスタンスと賞賛される。 ただし、占領している国の側からすれば、そうした行為を行う者はテロリストとされ、きびしく処罰されるわけで、一つの行為を、このどちらの文脈で語るかは、それぞれの価値観が大きく作用する。
中国側からすれば、チベットを支援したり五輪関係のイベントに水を差す行為は、すべてが「手段を選ばず」の類と受け止められているだろう。でも、チベット解放を主張する活動家の中には、すべてを肯定している人もいるかもしれない。
私自身の受け止め方を言うと、聖火リレーの走者に暴力をふるって妨害する行為は、手段としていかがなものか、という気がしていた。しかし、アメリカ・サンフランシスコの金門橋で、メッセージを大書したバナーを掲げた「建造物侵入」の行為は、私の中では「浄化」されていた。というのは、彼らは誰も傷つけておらず、誰の財産も毀損せず、公の場所を活用しただけだからだ。
金門橋バナーについては、同じように感じていた人は少なくないと思うのだが、そうだとしても、しかも形式的な法律違反だとしても、法律に抵触する限り、国家や法制度が「浄化」を認めるとは限らない。現に、バナーを掲げた人たちは警察に逮捕されている。
では、今回のグリーンピース(GP)による、「鯨肉窃盗事件」はどうなのだろう。
報道によれば、容疑はこうだ。
<発表によると、佐藤容疑者らは4月16日、青森市野内の西濃運輸青森支店に侵入し、配送予定の段ボール1箱を盗み出した疑い。箱には、調査捕鯨船「日新丸」の乗組員(52)が、東京から北海道函館市の自宅へ配送を依頼したクジラ肉23・5キロ(約5万4000円相当)が入っていた。>(読売新聞サイトより)
これに対して、GP側の弁護士は、「こういう方法を取らなければ(乗組員による)鯨肉の横領を告発できなかった」と、その正当性を強調している。
調査捕鯨船の乗組員の不正を告発するという、「正しい」目的なのだから、多少法を逸脱した行為も許される、つまりは「目的は手段を浄化する」という立場だ。そういう自信があるからか、GPは持ち出した鯨肉の箱を開封する作業を撮影してウェッブサイトに掲載したり、記者会見で現物を見せるなど、これまでも悪びれた様子はまったくなかった。
彼らの行為が道義的に許されるか否かは、それぞれの価値観に照らして評価が分かれるのかもしれない。反捕鯨という目的のためには、あらゆる手段が浄化されると考える人たちの間では、逮捕された二人は、自分を犠牲にして行動に出た英雄とみなされるだろう。だが、彼らの行為によって、とりわけ運輸会社の人たちは大きな迷惑を被っているわけで、そんな「手段を選ばない」行為への批判も強い。
いずれにしても、その行為に違法性の疑いがあれば、捜査の対象になるのはやむを得ない。人のモノを勝手に持ち出し、自己の支配・管理下に置くという行為が、「グレーゾーンには踏み込んだが、犯罪にはあたらない」(星川淳事務局長)」という主張はかなり無理があるのではないか。
それが通るなら、私たちジャーナリストが様々な問題を取材し、告発する記事を書くためだったら、人の家に忍び込んで、証拠になりそうなモノを盗み出したり、盗聴器を仕掛けたり、といった行為も許されることになる。
ちなみにこの星川事務局長は、東京地検に調査捕鯨船の乗組員らを告発した後、自身のブログの中にこう書いている
<マスメディアが事態の全体像ではなく、GPの証拠品入手方法ばかりに焦点を当てたがることと、同じ傾向でのネットをはじめとする素人法談の噴出には、改めて日本社会について考えさせられた。そうしたなかでもっとも冷静な対応は、東京地検の検事が見せたものだった。横領されたと思われる鯨肉がどのように市場へ流れているかを含め、徹底的に問題の全体を洗い出したいと語り、GPJにも追加の情報提供を要請された。GPJサイトに掲示した「STOP! 鯨肉横領ホットライン」(ファクスによる)に、ぜひ情報を寄せていただきたい >
認識が甘すぎる、としか言いようがない。
東京地検はその後、乗組員については不起訴とし、GPの2容疑者の勾留を請求するという「冷静な対応」をした。
捜査機関をおだてて利用するつもりが、逆に、捜査機関に踏み込まれる材料を自ら提供していた構図は、ほとんど自作自演の喜劇に近い。いったい、彼らの弁護士は何をやっていたのだろう? 自らが置かれた状況についてこの程度の主観的見通ししかできない組織が、果たして地球全体の今後について、どう客観的な見通しを示すことができるのだろうかと、その活動の信頼性にも疑問符をつける向きもあろう。そうなれば、単にGPの組織だけでなく、環境問題に取り組む様々な活動に対しても影響が出てくるのではないか、と危惧する。
逮捕された当事者は、「ある程度のリスクをとっても、目に見えるもの(鯨肉)を提示し議論すべき問題だ。問題を提起するのが我々の役割で、議論が巻き起こらないなら存在意義がない」(毎日新聞サイト)として、自身が逮捕されたとしても、反捕鯨=正しい目的についての議論を起こしたということに関しては意味があった、と自らの行為を肯定しているそうだ。
確かに、「問題」は提起された。「議論」もある程度は起きた。けれども、それは「鯨を捕ることはよくないのではないか」という方向での議論ではない。むしろ、GPや捕鯨船を洋上で攻撃するシーシェパードのような、過激な、つまり違法行為もモノともしない反捕鯨活動が、日本叩きとして受け止められ、それへの反発の声が「巻き起こって」いるに過ぎない。
私個人は、鯨肉を愛好しているわけではない。子供の頃、給食によく出たなあと懐かしむ気持ちはあるし、目の前に出されればいただくが、これだけおいしい豚や鶏や牛の肉が食べられるようになったのに、わざわざ鯨肉を食べに行こうとは思わない。それに、給食で鯨の竜田揚げに人気があったのは、鯨肉好きの子が多かったというより、唯一それが「肉」の固まりが出される料理だったから、という気もする。
「おいしい」というのは主観の問題なので、鯨肉を何より「おいしい」と感じる人はいるのかもしれない。それを否定したり非難したりするつもりは全くないが、そういう人はそれほど多くはないと思う。私の近所のスーパーでたまに鯨肉を売っていても、結構売れ残っていたりする。
このままの状態が続けば、鯨肉を食べる機会はますます減って、一部の愛好家以外、鯨を食べ物と認識しない人たちがもっと多くなるだろう。そうなれば、日本が捕鯨にこだわる意味もなくなっていくのではないか……と予想していたのだが、シーシェパードらの過激な反捕鯨活動に続く、今回のGPのパフォーマンスによって、そうした流れは逆流し始めているようにも思う。捕鯨が悪い悪いと非難されればされるほど、最近は、それまで鯨を食べる習慣のなかった人たちまでもが、食のナショナリズムを刺激され、「鯨食は日本の文化だ」「日本の文化を守れ」と言い始めている。
確かに、欧米の反捕鯨団体の主張は、矛盾に満ちている。
なぜ鯨はダメで、牛はいいわけ? どうして鯨を殺すのは残酷で、イラクあたりで人間をバンバン殺しているわけ? 鯨は守らなきゃいけないけど、カンガルーを食べてもいいのはなぜ?
牛に共食いをさせ(=肉骨粉をエサにまぜ)るような自然の摂理に反する行為を続け、狂牛病まで出ている国の人から、鯨食だけが悪食扱いされるのも、なんだか納得がいかない。飽食の日本はともかく、世界には飢えている人がたくさんいて、この食糧危機の中で、種の保存に影響がない範囲で鯨を海洋資源として活用することが、まっとうに議論されない、というのもおかしな話だ。
そのうえ「反捕鯨は正しい」「そのためには何をしてもよい」と言わんばかりの自信に満ちた態度を誇示されると、「あなたたち、何様のつもり?」と言いたくなる。違和感が高じて、何が何でも鯨を食べてやろうじゃないの、と好戦的な気分が湧いてくるのも、分からないでもない。中には、「西洋かぶれの連中に、日本文化を否定されるのを許してはならぬ」と、意地で(あるいは使命感で)鯨食につとめている人たちもいるのではないか。少なくとも、GPらの行為に触発されて「捕鯨はやめた方がいいのではないか」という方向で議論をした人より、鯨食文化を守れという方向に気持ちが向かっていった人の方が多いように思う。
環境改善にしろ、特定の動物を保護する運動にしろ、人々に反感を招くようなやり方をばかりしていたのでは、事態は改善せず、効果は上がらない。人々の共感を得てこそ、主張は浸透し、行動を伴うようになり、人の意識や社会の仕組みも変わっていく。捕鯨をやめさせたいという目的があるなら、それを効果的に実現する手段を考えた方がいい。
その点で、捕鯨に関するGPらのキャンペーンは、まったく逆効果であり大失敗だった。東京地検はおだてて見せながら、日本の人々の心情を軽蔑してみせる。これでは共感を得られるわけはない。そればかりか、彼らの「行動力」を誇示するパフォーマンスは、環境保護運動には「目的のためには手段を選ばず」という過激な側面がある、という印象を多くの人々に与え、こうした分野へ捜査機関が介入するハードルを引き下げたのではないか。
目的のためには、やはり手段は選んだ方がいい。