国産ロケットH3「失敗」明言も 共同通信の対応は全然問題ないワケ

キーワード :
,
先日、国産ロケット「H3」の打ち上げ結果に関する「失敗」「中断」の判断を巡って、インターネット上で議論が紛糾した。物議を呼んだ共同通信記者の対応は本当に間違っていたのか、改めて考える。

「墜落ではなく自由落下」と報道される日

失敗のイメージ(画像:写真AC)
失敗のイメージ(画像:写真AC)

 そういえば、自己啓発本の世界では「失敗」という言葉はよくこんな風に語られる。

「挑戦を続ける限り、永遠に失敗はない」
「私は失敗したことがない。うまくいかない方法を1万通り見つけただけだ」

その論法で言えば、今回の打ち上げ結果はもちろん「失敗ではない」ことになる。次回の打ち上げに向けた通過点にすぎないのだろう。当事者たちは当然そう思っているだろうし、それはまったく構わない。むしろ自然なことだ。

 だが、社会全体に自己啓発本の気分がまん延したら、気持ち悪くないだろうか。あれは自分で自分の気分を盛り上げるときに有用なのであって、ブラック企業の経営者の手にかかれば、集団催眠の道具にもなる。国家もまた、同じだろう。

 1945(昭和20)年8月15日の出来事は「終戦」と呼んでも良いし、「敗戦」と呼ぶこともできる。単に「ポツダム宣言受諾」とだけ呼んでもいい。ただ

「あれは敗戦ではない。終戦だ」
「あれは終戦ではない。敗戦だ」

などと言い出したら、ちょっと危ない感じがする。H3ロケット打ち上げを「失敗ではない」と強弁することは、それと同じ危うさがある。

 私自身を振り返ってみると、失敗の多い人生を歩んできた。だからこそ「失敗ではない」と言い張るよりも「失敗した。でも問題ない」と言えることのほうが、大事だと思っている。日本でイノベーションが起きず、社会が停滞したままでいる最大の理由は、

「過剰なまでに失敗を忌避する」

からだろう。失敗を中止や中断と言い換えている限り、日本の未来は暗そうである。

 最後に、念のため特に明記しておくが、未知の世界を探求する人々に、私は敬意を抱いている。会見を行ったJAXA担当者は、真摯(しんし)な研究者なのだろう。

 次回は打ち上げが成功することを願っている。だからこそ、今回の結果は「失敗」と呼ばなくてはいけない。万が一の事態が起きたときに

「墜落ではなく自由落下です」
「爆発ではなく燃焼的分解です」

なんて書かれた記事は、読みたくないのだ。