「論座」の終了と新たなオピニオンサイトの開始について
ここ数年は連絡を取ることじたい難しくなっていたが、安倍晋三元首相銃撃事件を受けて、真っ先に話を聞きたい、という思いがよぎった。暴力を否定したことは言うまでもないだろうが、山上徹也被告を突き動かしたものと、その行動の意味について、鈴木ならではの何らかの言葉を紡いだはずだ。

青年将校の決起が続いた1930年代と同様の議会不信、経済格差の拡大、社会集団間の断絶、対話や議論の拒絶どころか忖度と自主規制による言論の閉塞……。この国の現状を見れば、暴力とテロのメカニズムがなお消えていないことを、鈴木は嘆いたかもしれない。
そして、事件とともに亡霊のように再浮上した「勝共」「反共」というキーワードが図らずも示したことがある。
新左翼運動はとうに潰え、冷戦終結とともに共産圏も事実上消えた。しかし、左派が激しく対峙し、三島が唾棄し、鈴木が闘ってきた、共通の敵であったはずの「対米従属」は、まったく過去のものになってはいない。
ほとばしる情念の魅力と危険を熟知しつつ、テロを防ぐ「対話の効用」をあえて選んだ
華麗なる学閥を支える評議員選挙の狂騒
「自衛隊は戦力ではない」は世界に通用しない
ウクライナへの自己同一と「敵/味方」議論は危うい
なぜ野党が勝てないのか、そのヒントもPTAにある―政治学者・岡田憲治インタビュー
東大全共闘と討論する三島由紀夫 ©SHINCHOSHA
鈴木邦男さん
若き日の鈴木邦男さん
靖国神社の門のそばに立つ鈴木邦男さん=映画『愛国者に気をつけろ!鈴木邦男』から、中村真夕さん提供
韓国・金浦空港でよど号から乗客を降ろすとき姿を見せた赤軍派=1970年4月3日
3党首公開演説会で演説中の浅沼稲次郎・社会党委員長に短刀で襲いかかる山口二矢=1960年10月12日 、東京・千代田区の日比谷公会堂
自決直前、自衛隊員らを前に憲法改正などを訴える三島由紀夫=1970年11月25日、東京・市ケ谷
1972年2月19日から2月28日にかけて連合赤軍が立てこもった「あさま山荘」=長野県軽井沢町
右翼関係者によって催された「山口二矢烈士六十年祭」=2020年11月2日、東京・新橋、筆者撮影
「東アジア反日武装戦線」によって爆破された三菱重工本社ビル前で、負傷者を搬送する救急隊員ら。この爆発で同社の社員や通行人ら8人が死亡、380人が重軽傷を負った=1974年8月30日、東京都千代田区丸の内
右翼団体「大悲会」代表の野村秋介。63年の河野一郎邸焼き打ち事件、77年の経団連占拠事件で服役、93年に朝日新聞東京本社で短銃自殺した
葦津珍彦
60年安保闘争で国会議事堂を取り巻くデモの参加者たち=1960年6月11日
ロッキード事件裁判の初公判後、東京地裁を出る児玉誉士夫=1977年6月2日
右翼団体による映画『靖国 YASUKUNI』の試写会終了後、感想などを話す参加者= 2008年4月18日、東京・新宿
安倍元首相を銃撃し、取り押さえられる山上徹也被告=2022年7月8日午前11時30分、奈良市
ヘイトスピーチ規制をめぐる議論に参加する鈴木邦男さん。左派やリベラルの論客とも積極的に交流、議論した=2015年6月11日、東京都文京区