「論座」の終了と新たなオピニオンサイトの開始について
個人の命を超えた大義や絶対性があると信じる右派思想は、人命尊重と啓蒙的理性を重んじるリベラリズムとはどこまでも相いれない。しかし、スターリニズムから脱却したはずの新左翼の活動家たちも、暴力とテロを肯定していたことは周知のとおりだ。

鈴木が信奉した神道家・右派思想家の葦津珍彦(あしづ・うずひこ)は、浅沼事件の心理的側面を「非合理なるものへの憧れ」と分析した。そのうえで、右翼テロだけでなくフランス革命や左翼運動にも「生命を超えた価値」を求める以上は政治信条の根底に同じような暴力性が潜在する、と指摘し、政治と暴力の不可分性とテロリズムの本質を考察した。
左翼でも右翼でも、一つの政治的信条というものの根底にはテロへ走る本質の潜在するのを否定しがたいと思う。文明下の政治思想は、公然とテロの正当性を主張することをさける。しかしながら、政治的信条そのものに潜在するテロリズムは、信条と信条との対決が、高度の緊張を呈する時には、忽然としてその姿を現わして来るのだ」(『土民のことば─信頼と忠誠との情理─』
葦津の論は一見テロを擁護しているように読めるが、そうではない。非合理な情念の連鎖・継承が生む、特に日本的なテロの発生メカニズムを見つめることでしかテロを防げない、という主張だ。福岡の神官の家に生まれた葦津は、若き日に共産主義運動に身を投じ、左派思想にも通じていた。

山口二矢が犯行前に所属していた大日本愛国党の総裁・赤尾敏は、戦前はトルストイズムに傾倒する社会主義者だった。結核療養のため10代後半を過ごした三宅島には浅沼稲次郎の生家があり、交流もあったという奇縁だ。
「街宣車」というスタイルを発明し、戦後最も有名な右翼の一人でもある赤尾は、自分と同じく戦中に弾圧された浅沼や共産党の宮本顕治のことを「敵ながらあっぱれ」と評価していた。同じく右翼の大物思想家、影山正治(三島由紀夫『豊饒の海』第二巻『奔馬』主人公のモデルとされる)が、獄中死した小林多喜二の不屈性を認めていたように。
三島は東大全共闘との問答で「私は右だろうが左だろうが暴力を否定したことは一度もない」「『天皇』と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ」と語ったように、新左翼へのシンパシーを持ち続け、武装闘争路線も擁護した。
赤軍派によるよど号ハイジャック事件で「先を越された」衝撃が三島の決起を促し、その三島事件を「骨のない左翼人への警告」と受け止めた岡本公三は出国し日本赤軍として国際テロに走る。

三島とともに割腹自殺した森田必勝は中高時代、浅沼稲次郎の熱心な支持者で、山口を「暴漢」と非難していた。浅沼に憧れその母校である早稲田に進んだ森田を民族派の活動に引き入れたのは、前述のとおり鈴木だ。
野村秋介は「三島由紀夫の叫びが〈狼〉にこだまし、さらにその反響が右翼に戻ってくる」と語った。
左右の枠を飛び交えた情念の連鎖が、ここにはある。
岡本の渡航費用を支援した新左翼シンパの若松孝二監督は、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2008年)の後に『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(2012)を撮った。冒頭シーン、純白のシーツを引き裂き天井に結わえる思い詰めた目の少年は、山口二矢だ。そこに浅沼稲次郎の演説がかぶさり、さらに三島の『憂国』の原稿が映る。
若松は一水会40周年大会に参加した1カ月後に急逝した。訃報を聞いた鈴木は言葉を失った。
「ずっと山口二矢の背中を追ってきた」鈴木は、自分が非日常を渇し「連鎖する情念」のスパークに容易に感染し得ることを自覚していた。それは、テロや暴力の肯定と紙一重の危うさをはらむ。

だからこそ強く自らを戒めていたように思う。
葦津は、人間の本性にある非合理への憧憬や冒険主義的性向を認めたうえで、それを馴致する術を学ばせることこそ必要だとした。そして、テロ防止に有効なのは、啓蒙よりも、自由討議によって政治的信条を異にするもの同士が交流し政治的不信を解消し合うことだと説いている。
深い付き合いだったとは決して言えないが、私の知る鈴木邦男という人は、生来必ずしも社交的な人ではなかったように思える。分け隔てなく様々な人と交流し対話を続けたのは、それも自らの義務と課していたからだろう。
晩年は「老賢人」という言葉が似合う風采だった。その「愛」の対象だった「日本」は、もはや以下のような本居宣長的なものになっていたようだ。
原理ではなく応変、構築より生成、本質より実存、中心より周縁、大陸的でなく島国的、統治権の総覧者ではなく社稷の守り神としての天皇、マッチョイズムではなくフェミニンなもののあわれ……それこそが保守すべき日本の源流ではないか、と。
三島は最後にそこからどんどん離れミリタリーなものに近接した。だが鈴木はとどまった。いや、回帰したのかもしれない。

日本に不都合な言説すべてに「反日だ!」と反応する夜郎自大な「愛国者」を鈴木は確かに批判し、「愛国心はならず者の最後の、いや最初の避難場所」と言った。が、それも戦前右翼の系譜からすれば不思議ではない。葦津珍彦は朝鮮への神道の押しつけに反対し、満州国の「五族協和」を偽善の旗だと切り捨て、1937年の上海戦線視察後は「この日本軍を皇軍と僭称する事を天は赦すであろうか」と怒りを込めて記している。
老いて枯れて丸くなったことも含め、様々な意味で、鈴木はやはり日本的な「右」の体現者であり思想家だったと私は考えている。
ほとばしる情念の魅力と危険を熟知しつつ、テロを防ぐ「対話の効用」をあえて選んだ
華麗なる学閥を支える評議員選挙の狂騒
「自衛隊は戦力ではない」は世界に通用しない
ウクライナへの自己同一と「敵/味方」議論は危うい
なぜ野党が勝てないのか、そのヒントもPTAにある―政治学者・岡田憲治インタビュー
東大全共闘と討論する三島由紀夫 ©SHINCHOSHA
鈴木邦男さん
若き日の鈴木邦男さん
靖国神社の門のそばに立つ鈴木邦男さん=映画『愛国者に気をつけろ!鈴木邦男』から、中村真夕さん提供
韓国・金浦空港でよど号から乗客を降ろすとき姿を見せた赤軍派=1970年4月3日
3党首公開演説会で演説中の浅沼稲次郎・社会党委員長に短刀で襲いかかる山口二矢=1960年10月12日 、東京・千代田区の日比谷公会堂
自決直前、自衛隊員らを前に憲法改正などを訴える三島由紀夫=1970年11月25日、東京・市ケ谷
1972年2月19日から2月28日にかけて連合赤軍が立てこもった「あさま山荘」=長野県軽井沢町
右翼関係者によって催された「山口二矢烈士六十年祭」=2020年11月2日、東京・新橋、筆者撮影
「東アジア反日武装戦線」によって爆破された三菱重工本社ビル前で、負傷者を搬送する救急隊員ら。この爆発で同社の社員や通行人ら8人が死亡、380人が重軽傷を負った=1974年8月30日、東京都千代田区丸の内
右翼団体「大悲会」代表の野村秋介。63年の河野一郎邸焼き打ち事件、77年の経団連占拠事件で服役、93年に朝日新聞東京本社で短銃自殺した
葦津珍彦
60年安保闘争で国会議事堂を取り巻くデモの参加者たち=1960年6月11日
ロッキード事件裁判の初公判後、東京地裁を出る児玉誉士夫=1977年6月2日
右翼団体による映画『靖国 YASUKUNI』の試写会終了後、感想などを話す参加者= 2008年4月18日、東京・新宿
安倍元首相を銃撃し、取り押さえられる山上徹也被告=2022年7月8日午前11時30分、奈良市
ヘイトスピーチ規制をめぐる議論に参加する鈴木邦男さん。左派やリベラルの論客とも積極的に交流、議論した=2015年6月11日、東京都文京区