[「防人」の肖像 自衛隊沖縄移駐50年](10) 第1部 対峙 琉大入学紛糾(上)

 1975年3月に「合格おめでとう」と祝ってくれた琉球大学短期大学部(夜間)の事務員は翌4月、「入学書類は受け取らない、帰れ」と怒鳴ったという。当時20歳の海上自衛隊士長、大旗清さんの経験だ。仕事に生かそうと選んだ電気工学科。自衛官だからという理由で一度も受講できないまま1年後に退学した。

 大学側は一時、入学を保留した。当時の本紙に「事実上の不許可」と書かれた対応は、反戦運動をする学生たちが学内封鎖や授業ボイコットに及び、本人にも危害が加わりかねないため-とされた。一転して入学を認めた後、予測は当たった。

 首里城跡にあったキャンパスに通う大旗さんを見つけると、追い出す学生たちがいた。時に竹ざおや棒、拳で突き、蹴り、石を投げた。教室に連れ込んで2、3時間、150人ほどで詰問した末に「帰れ」「入学認めないぞ」などと怒号を浴びせた日もあった。

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 学内外の労働組合も巻き込んだ紛糾を新聞、テレビが報じていた同年6月、浦添市議会に、大旗さんの受講実現を求める決議案が出た。31歳の新人市議だった幸喜勝さん(77)=浦添市=が提案した。

 南洋テニアンで生まれ、戦中は旧日本軍に「自決」を迫られたという家に育っても「自衛隊は軍国主義の軍とは違う」と思っていた。沖縄で高校卒業後、21歳から4年間、隊員だったからだ。高校時代から大好きだった陸上競技で、全国大会2位になれるほどに育ててくれた場だった。

 が、地域感情の中で、経歴を公にできないまま市議に当選していた。9人きょうだいで、親に苦労はかけまいと大学進学を諦めた自分と、学びたくても学べない大旗さんの境遇も重ねた決議案。単純に元自衛官が後輩を応援しているだけというトーンで報じられたら、かえって迷惑を掛けると思い、OBらでつくる隊友会長だった立場も世間にはひた隠しにした。

 学ぶ権利は奪えない、と陰ながら賛同する現役教師もいた。一緒に輪を広げようと話し合うために2、3度、自衛隊へ出向いた。期待外れだった。「前向きな提案や感謝の言葉はなかった。若い隊員を助けようとしていないと感じた」。決議案は、抗議団が1週間近く議場の入り口をふさぎ続け、審議入りすらできずに立ち消えた。

 大旗さんに会わせてもらえず、直接励ますこともかなわなかった。「あの時、君はどう思っていたのだろうか」。46年後になる今も、気持ちを確かめることはできていない。(「防人」の肖像取材班・山城響)