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第2編 第9条解釈と自衛隊
次に、 現行憲法第9条 の解釈を紹介する。ただし、これには 第1項、第2項 それぞれに幾つかの類型があるので、まずは個々の条文の解釈の種類を明らかにした上で、それらの組み合わせから全体解釈の学説を紹介したい。
■第1章 第1項の解釈
憲法第9条第1項 は、日本国民は
①「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」
②「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、」
③「国際紛争を解決する手段としては」永久にこれを放棄する、としている。
●第1節 第1文・第2文の解釈
①は、戦争放棄の動機を一般的に説明したものであり、学説上の争いにはなっていない(※注1)。
また②についても、その内容に争いは無い。即ち「国権の発動たる戦争」とは単に「戦争」というのと同じ意味であって(※注1)、これは「兵力による国家間の闘争」又は「戦時国際法の範囲内であらゆる加害手段を用いて相手国の抵抗力を制圧することのできる法的状態」と定義される(※注2)。芦部信喜『憲法』新版では、「宣戦布告または最後通諜によって戦意が表明され戦時国際法規の適用を受けるものを言う」としているが(※注1)、これは伝統的な国際法の解釈であり、現代では関係諸国間で武力紛争の事実上の開始があれば戦時法規が適用される(※注3)。もっとも、憲法はその後に「武力による威嚇又は武力の行使」という項目を置いており、宣戦布告なき事実上の武力紛争や武力による威嚇については、そちらで扱っている。●第2節 第3文の解釈
問題は、③である。
「国際紛争を解決する手段としての戦争」とは、国際法や 不戦条約第1条 (※注4)の通例によれば、「国家の政策の手段としての戦争」と同じ意味であり、具体的には、侵略戦争を意味する(※注5)。従って、(3A)説(通説)では第1項では自衛戦争は放棄されていない、とする。これに対して、(3B)説は、従来の国際法上の解釈はさておき、凡そ戦争は全て国際紛争を解決する手段として、あるいは自衛戦争の名を借りてなされるのであるから、自衛戦争も含めて全ての戦争が放棄されているとする(※注5)。
もっとも、私見によれば、本部分の解釈としては(3A)説(通説)が正当であって、(3B)説はある種の素人的解釈であると言わざるを得ない。そもそも、国際法においては「(国際)紛争」と「(国際)問題」は区別されており、「問題(difference)」が単に「当事国間のゴタゴタ」を意味するのに対して、「紛争(dispute)」とはある特定の事項に関して相互に相容れない主張をなすことを指す。そして、それが「法的紛争(legal dispute)」であれば「法的紛争処理手段」(例えば、国際司法裁判所や常設仲裁裁判所、臨時の仲裁裁判)によって処理され、「政治的紛争(political dispute)」であれば政治的に紛争処理が為される(例えば、国連安保理による処理、外交交渉、仲介、斡旋、調停、戦争)ことになる(※下図参照)。従来であれば、この「政治的紛争処理」の一手段として「紛争の暴力的解決」即ち「国際紛争を解決する手段としての戦争」が行なわれていたわけで、 日本国憲法第9条 が禁じたのも下図の「A」にあたる武力行使なわけである。※図1 国際紛争処理の諸手段と軍事力
ところで、国際社会において軍事力(武力)が登場する局面は、他に上図の「B」と「C」がある。「B」は国内法でいうところの判決の強制執行であり、国内法では敗訴した側が判決に応じない場合は執行官(民事)や検察官(刑事)が、「力」を用いた強制処分が行なわれる。ところが、相互に平等かつ最高の主権国家が並立している国際社会においては、国内法における「国家」の如き上位団体(権力機構)が存在しないばかりか(※注6)、司法制度が一元化されていないので(※注7)、国際司法裁判所をはじめとする国際司法機関の判決は強制執行されることはない(※注8)。つまり、国際社会は本質的に社会契約以前の「万国の万国に対する闘争」状態にあるのであって、それ故に、国際社会においては各主権国家に「自衛権」が付与され、自力救済が認められているのである(権力機構の整備された国内社会では、自力救済は原則として認められない)。また、「C」は国内法でいうところの行政の強制処分ないし即時強制であり、政治的解決の履行のための軍事力の行使である。例えば、国連安全保障理事会が定める武力制裁(軍事的強制措置、国連憲章第7章)は、このカテゴリーに該当するといえよう(※注9)。
※図1 軍事力の種類
軍事力の種類 内 容 実 例 (A)
国際紛争処理の手段自らの主張を相手国に強要することで国際紛争を強制的に処理する 日清戦争
日露戦争(B)
司法的処理の履行法的思考を用いて処理された国際紛争の結果を履行する→国際社会においては不可能なので、自衛権(自力執行権)に イラク軍のクウェート侵略 (C)
政治的処理の履行政治的・行政的に処理された国際紛争の結果を履行する→安保理等が機能不全に陥った場合は、自衛権(自力執行権)に 国連軍
多国籍軍以上をまとめると、国際社会においては、「国際紛争処理の手段としての軍事力」の他に、「司法的処理の履行手段としての軍事力」(実際上は「自衛権」)及び「政治的処理の履行手段としての軍事力」が存在し、 第9条第1項 が放棄した「戦争」は「A」に該当することになる。では、「B」あるいは「C」といった種類の軍事力の行使のために 憲法第9条第2項 を削除することは、果たして「個人の尊重」を阻害するのであろうか。それとも、不法な武力攻撃から正当な権利を防衛し、ひいては「個人を尊重」する平和秩序を維持することに貢献するのであろうか。国際社会において「B」あるいは「C」の軍事力(以下、これを「履行確保のための軍事力」と呼ぶ)までも否定することは、即ち、国内社会において「不法行為としての暴力」と「正当防衛・緊急避難」「警察力・執行官の有形力の行使」を全く同一視することに他ならない。
※注釈・参考文献
1:芦部信喜 『憲法』新版 岩波書店、1997年 56ページ
2:我妻 栄ほか 『新法律学辞典』新版 有斐閣、1967年 726ページ
3:山本草二 『国際法』新版 有斐閣、1994年 744ページ
4:「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互間系ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ放棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス。」
5:芦部前掲書、57ページ
このように法律用語を国際基準に合せて解釈することは、 憲法第98条2項 の精神とも合致する。
6:「国際連合」は主権国家の集合であって主権国家を支配する上位団体ではない。
7:例えば、国際紛争を司法的に扱う国際機関として、国際司法裁判所(ICJ)の他、常設仲裁裁判所、国際海洋法裁判所等があり、紛争の性質に応じて様々な(多元的な)法解釈機関、紛争処理手段が用意されている。
8:例外的に、それが国際の平和と安定の維持に影響を与える場合は、国連安全保障理事会が軍事的措置を含む手段を講じることが出来るが(国連憲章第94条②)、五大国の拒否権の壁があって一度も発動されたことはない。
9:「紛争」とその「法的処理」の詳細については、本誌 2001年8月号「法とは何か」 を参照願いたい。■第2章 第2項の解釈
一方、 第2項 は、
④「前項の目的を達するため、」
⑤「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」
⑥「国の交戦権は、これを認めない。」としている。
●第1節 第4文の解釈
まず、④について解釈がわかれる。
(4A)説(通説)は、「前項の目的」とは戦争を放棄するに至った動機を一般的に指すにとどまる、とする(※注1)。
これに対して(4B)説は、「前項の目的」とは(3A)説の「侵略戦争放棄の目的」のことである、とする(※注1)。そもそも、④の部分は、第90帝国議会において憲法改正案を審議中、芦田均衆議院議員(後、首相)が挿入した所謂「芦田修正」と呼ばれる部分で、改正当時は沈黙を守っていた芦田氏が後になって言い出した解釈が(4B)説である。これによれば、第2項を「侵略戦争を放棄するという目的を達するためにのみ戦力を保持しない」と規定していると見て、それの反対解釈をすることにより、「侵略戦争を放棄するという目的を達することが出来るのであれば、戦力を保持できる」=「自衛戦争のための自衛戦力は保持できる」と解釈され、「自衛隊は軍隊ではない」「自衛力とは必要最小限度の実力」等といった解釈を加えなくて済む。なお、この他の立法者意思として、芦田修正に賛成したGHQの草案担当者は「これ(芦田修正)で将来の自衛軍備、国連軍参加が合法化されると考えた」と発言しており、また貴族院での国務大臣文民規定の追加は、芦田修正による軍備を前提として、連合国極東委員会の要請もあって追加されたものだ、とも指摘している(※注2)。●第2節 第5文の解釈
次に、⑤について(※注3)、(5A)説(通説)は、戦力とは、軍隊及び有事の際にそれに転化しうる程度の実力部隊であると解している(※注4)。またこれに近い(5B)説は、戦力とは軍隊又は軍備といった外敵との戦闘を主要目的に設けられた人的・物的組織体であり、警察力以上の実力であるとする(宮沢俊義)(※注5)。従って、両説では自衛隊は戦力に該当し違憲となる。
(5C)説は最も厳格な解釈で、戦争に役立つ可能性のある一切の潜在的能力を戦力だとする説(※注6)(潜在的能力説、鵜飼信成)である。しかしこの説は、武器生産から兵隊用のチューインガム生産まで、あるいは大都市の貨物埠頭からひなびた漁村の港まで、一切が戦力に該当することになり、戦力の範囲が広がりすぎるきらいがある(※注4)。
(5D)説は、「近代戦争遂行能力説」、つまり戦力とは近代戦争遂行に役立つ程度の装備、編成を備えたものである(※注4)とする。これは、保安隊、警備隊発足にあたって示された第四次吉田茂内閣当時の政府統一見解であり、保安隊・警備隊は「警察力以上、戦力未満」の存在であるとされた。
(5E)説は、自衛権は国家固有の権利(※注6)として 憲法第9条 の下でも否定されておらず、自衛権行使=武力行使の為の実力を保持することは憲法上許されるのであり、従って憲法の禁じる戦力とは自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)を越えるものである(※注6)、とする(自衛力説)。現在の政府解釈である。自衛権とは、通常、外国からの急迫又は現実の違法な侵害に対して、自国を防衛するために必要な一定の実力を行使する権利であると説かれ(※注6)、その発動には、(1)必要性(防衛行動以外に手段が無いこと)、(2)違法性(侵害が急迫不正であること)、(3)均衡性(自衛権発動が侵略排除に必要な最小限度であること)の3つの要件が要求される(※注7)。この意味では自衛権は独立国家であれば当然に保有する権利である(※注8)が、政府解釈がこれに基づき「一定の実力」に該当する「自衛力」を認めるのに対し、通説(芦部信喜)は、民衆蜂起や警察力の転用、外交交渉といった非軍事的抵抗手段のみ認められるとする(※注9)。●第3節 第6文の解釈
最後に、⑥について、(6A)説(通説、宮沢俊義)は、交戦権とは交戦状態に入った場合に交戦国に国際法上認められる権利と解する説(※注10)で、これは国際法上の用法と一致する。対して(6B)説(清宮四郎)は、交戦権とは文字通り戦いをする権利である(※注10)とする。更に(6C)説(鵜飼信成)は、(6A)(6B)説両者を含むと解する説(※注11)である。※注釈・参考文献
1:芦部前掲書、57ページ
2:百瀬 孝 『事典 昭和戦後期の日本』 吉川弘文館、1995年 344ページ
3:百瀬前掲書、341ページによれば、これらの解釈以前に、第2項の解釈には「陸軍、海軍、空軍、その他の戦力を放棄した」とする(甲説)と、「陸軍たる戦力、海軍たる戦力、空軍たる戦力、その他の戦力を放棄した」とする(乙説)があり、ほとんどの解釈は(乙説)をとるという。(甲説)によれば、「陸軍」「海軍」「空軍」は戦力であるか否かに関らず放棄され、問題は「その他の戦力」のみになる。ただし、現行の陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊は陸軍、海軍、空軍とは名乗っていないので、結局(甲説)(乙説)どちらでも結果は同じである。
4:芦部前掲書、60ページ
5:中野邦観・加藤孔昭編 「日本国憲法のすべて」『This is 読売』1997年5月号臨時増刊 読売新聞社、1997年 398ページ
6:山本前掲書、732ページ。
国連憲章第51条でも、自衛権は各国の固有の権利と明記されている。但し、これは自衛権を超実定法的な自然権と看做すものではなく、あくまで国際慣習法上の基本権能を意味しているに過ぎない。歴史的には、自衛権は広く各国の権利・利益に対する侵害を排除するための権利として扱われ、19世紀の段階では「急迫性」の存在が要件であった。今日の国連憲章では、自衛権の行使は他国の武力攻撃(陸海空軍その他これに準ずる軍事手段を用い国境線を越えて行われる組織的な軍事行動。従って国境警備隊同志の突発的事件や民間航空機の領空侵犯は該当しない)による法益侵害に限定して認められている。
7:芦部前掲書、62ページ
8:芦部前掲書、59ページ
9:「日本国憲法のすべて」398ページ。
もっとも、民衆蜂起やゲリラ戦は聞こえがいいが、相当の忍耐力と犠牲を要する。また、敵国軍隊に捕獲された場合、参加者は戦時国際法上の戦闘員として捕虜の待遇を受けるとは限らないのであって、最悪の場合その場で銃殺されてしまう。その意味で、民衆蜂起とは、一般市民や子供・女子・老人をも戦闘に巻き込む、通常戦争にもまして苛烈な自衛手段(内戦)であって、決して軍隊による自衛戦争よりも安全な手段ではない。
10:芦部前掲書、66ページ
11:芦部前掲書、66ページ、及び「日本国憲法の全て」398ページ■第3章 解釈の結論
以上の解釈により、次の5つの結論的な説が導き出される。
●第1説
この説は、(3B)⇒(4A)により、第9条は一切の戦争と一切の戦力を否定しているとし、従って自衛隊は違憲となる。小林直樹らが提唱している。しかし、「国際紛争を解決する手段としての戦争」の文言解釈につき(3B)説をとるのは、法学の蓄積を無視するもので学問的ではない。●第2説
この説は、(3A)⇒(4A)⇒(5A)により、第9条は自衛戦争まで放棄したとは言えないが、第2項で一切の戦力・交戦権を否定しているので、全体として全戦争を放棄しているとする(自衛隊は違憲)(※図1参照)。これが学会通説(佐藤功、宮沢俊義ら)であり、(5A)説の部分を(5B)説又は(5C)説にした説も有力であるが、これらに対しては厳しい批判が多い(※注1)。※図1 学会通説
戦 力
(軍隊)違
憲戦 力
(自衛軍)違
憲警察力
(警察、海上保安庁)合
憲警察力
(警察、海上保安庁合
憲国際紛争を解決する
手段としての戦争
(侵略戦争)国際紛争を解決する
手段としてではない
戦争(自衛戦争)●第3説
これは、(3A)⇒(4A)⇒(5D)により、警察力以上、戦力未満の実力は合憲とする説(近代戦争遂行能力説)で、保安隊・警備隊時代の政府解釈であった。しかし、これでは現在の自衛隊は違憲となる恐れがある。●第4説
これは(3A)⇒(4A)⇒(5E)により、自衛力を持つ自衛隊を合憲とする説(自衛力合憲論)で、現在の政府解釈である(以下参照)(※注2)。
政府の解釈としましては、これはもう従来からたびたび申し上げておりますように、憲法9条におきまして、いわゆる戦争放棄はいたしておりますけれども、自衛のため必要最小限度の武力行使をすることは9条の1項でも認めておりますし、それに見合う必要最小限度の実力を保持するということも、9条2項によって禁止されている戦力の保有には当たらないというふうに解釈しているわけでございます。 第3説との違いは、第3説が保安隊の位置づけを「警察力以上、戦力未満」の実力としているのに対し、第4説は、国家の自衛権から、警察力・戦力の概念とは別の次元で「自衛力」を認めているところにある(※図2参照)。
※図2 保安隊と自衛隊・自衛力の位置付けの違い
⇔別
次
元戦 力 違 戦 力 違
憲(近代戦争遂行能力) 憲 自衛力
(防衛庁自衛隊)合
憲近代戦争遂行能力未満
(保安庁保安隊・警備隊)合
憲警察力
(警察予備隊、海上保安庁)合
憲侵略戦争・制裁戦争・自衛戦争 自衛権の発動とし
ての武力行使これに対しては、第5説の立場からの批判と、第2説(通説)の立場からの批判がある。なお第5説の立場からの批判としては、侵略軍を撃退するには相手と同等の「戦力」が必要だ(自衛力=それ以下の存在では無意味)、という観点からの批判である(※注3)。
●第5説
これは、(3A)⇒(4B)により、 第9条 は自衛戦争のための自衛戦力は否定していないとする説(自衛戦争合憲説=芦田説)であり、自衛隊は当然に合憲となる(※図3参照)。つまり、戦力をその主観的目的に応じて認めてもよい、とする説である。この説は芦田均が提唱し、小林節もこの立場をとるが、第2説(通説)の立場からの批判が為されている。※図3 自衛戦争合憲説
侵略戦力
(軍隊)違
憲自衛戦力
(自衛軍)合
憲警察力
(警察、海上保安庁)合
憲警察力
(警察、海上保安庁)合
憲国際紛争を解決する
手段としての戦争
(侵略戦争)国際紛争を解決する
手段としてではない
戦争(自衛戦争)自衛戦争合憲説は、自衛隊を合憲とし、自衛のための武力を認める点で、一見自衛力合憲説とかわらない。しかし、自衛力合憲説は、「国家の自衛権に基づいて、侵略軍を撃退するのに必要最小限度の武力保有と武力行使を認めた」という構成をとっており、自衛戦争といえども違憲と考える点で、自衛戦争合憲説と異なる。国際法上、「武力行使」は「戦争」よりも広い概念で、「戦争に至らない武力行使」も含まれるので、自衛力合憲説は、自衛戦争合憲説よりも対象を更に厳格に絞りこんでいる、といえよう。
※図4 自衛力合憲説と自衛戦争合憲説の違い
戦 力
(軍隊)違
憲自衛戦力
(自衛軍)合
憲自衛力
(防衛庁自衛隊)合
憲自衛権発動としての
武力行使のみ自衛権発動としての
武力行使+自衛戦争自衛力合憲説 自衛戦争合憲説 もっとも、自衛戦争合憲説に立脚したとしても、直ちに自衛戦争が全面的に是認されるわけではない。前述したように、国際法上「戦争」を含む「武力行使」は原則として違法とされており、ただ、国連憲章第51条に認められた個別的自衛権及び集団的自衛権の発動としての武力行使のみが認められている。つまり、現在の国際法上、両説の相違は集団的自衛権を認めるかどうかにある、と言えよう。これについて、政府は次のように説明している(※注4)。
……集団的自衛権の観念というものは、国連憲章51条によって確認されたものだと思います。恐らくその国連憲章51条でそういう集団的自衛権の観念というものを確立したのは、やはりいわゆる戦争というものが一般的に違法視され、その中においても、自国が侵略を受けたときにそれを個別的自衛権をもって反撃をするということは、少なくともこれは固有の国家の権能として何人も疑い得ないところだと思います。
ところが、御承知のように、国連憲章のできる前からいろいろ地域的な取り決めがあって、共同防衛というような形ができていたわけです。それを何らかの形で国連憲章上認めようというところから、集団的自衛権という観念がそこへ出てきたのだ。そういう意味では、本来的な意味の自衛権ではございませんけれども、いわば主権国家として、すべての国は個別的自衛権と集団的自衛権とを持つということが確認されたわけで、わが国も国連に加盟をするというときに、平和条約によって独立を回復し、さらに国連加盟によってそういう点が世界のほかの国々と同じように主権国家としてそれを持った、こういうことになると思います。その点は御容認願えると思います。
ところが、それにもかかわらず、わが憲法というのは世界のどこにもない憲法でございまして、そして憲法9条の解釈として、自衛権というものは政府がたびたび申し上げているように持っているわけでございますけれども、その自衛権というものはあくまで必要最小限度と申しますか、わが国が外国からの武力攻撃によって国民の生命とか自由とかそういうものが危なくなった場合、そういう急迫不正の事態に対処してそういう国民の権利を守るための全くやむを得ない必要最小限度のものとしてしか認められていない、こういうのが私どもの解釈でございます。
そうなりますと、国際法上は集団的自衛権の権利は持っておりますけれども、それを実際に行使することは憲法の規定によって禁じられている。つまり、必要最小限度の枠を超えるものであるというふうに解釈しているわけです。そこで、国際法上は、持っているにもかかわらず、現実にそれを行使することは国内法によって禁止をされている、こういうふうにつなぎ合わせているわけでございます。以上5つの他、第9条の条文そのものよりも、それと現実との効果から 第9条 を解釈した説が3つある。それらを第6説〜第8説と名づけることにする。
●第6説
これは、「第9条変遷説」と呼ばれる説である。この説によれば、自衛隊は当初、憲法第9条の条文上違憲であったが、国際情勢の変化と国民の支持により違憲の憲法慣習が定着し、憲法改正の効果が生じて合憲状態に至ったというものである(※注5)。自衛隊問題について最高裁が「統治行為論」(後述)の判例を積み重ねているのも、この説を裏付ける有力な事由となるだろう。もっとも、こうした「慣習法による成文法の改正」の可能性については、法哲学的論議も含めて対立が深い。●第7説
これは、「違憲合法論」と呼ばれる説である。この説によれば、確かに自衛隊は違憲の存在であるが、 防衛庁設置法 (昭和29年法律第164号)も 自衛隊法 (昭和29年法律第165号)も国会での正規の手続きを経ており、国民も支持しているので合法であるとする(※注6)。この説によれば、違憲であっても合法であれば、自衛隊や軍隊は事実上存続を許されることになるが、憲法上不都合な現状を説明した以上のものではない。主として、自衛隊の存在を一旦認める必要に迫られた旧日本社会党の政治的論議のために使われた説である。●第8説
これは、「プログラム規定説」と呼ばれる説である。この説によれば、そもそも 第2章 は、 第3章 の社会保障条項と同様、国家の法的具体的義務を規定したものではなく、政治的条文、宣言的条文あるいは努力目標に過ぎないと見る。各国憲法の中にも、具体的な権利義務まで規定したものの他に、一定の政治理念を掲げた条文が存在しており、 第9条 が 第2章 として独立している点から、この章の条文は政治的宣言に過ぎないという。
もっとも、この説に対しては、「不都合なものは全てプログラム規定扱いされてしまう」との批判がある。以上8説の内、最も問題となるのが学会通説の第2説と政府解釈の第4説の対立であり、それに準じて第5説も重要である。
もっとも、何を以って「通説」とするかは、難しい問題である。例えば、現在の学会通説が第2説であり、また政府(内閣法制局)の公式的な解釈が第4説であることは知られているが、実際には、近年制定された 周辺事態法 (平成11年法律第60号「 周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律 」)等では、世論の7割以上が「安保・自衛隊」を支持していることもあって、事実上第5説、第7説のような解釈が行われており、「解釈改憲の解釈改憲」的な事態が見られる。※注釈・参考文献
1:もっとも、ここで法的論議と政治的論議の区別について注意しなければならない。政治的論議は専ら好みの問題であるが、法的議論は条文の解釈なのであり、論理の飛躍を許さず、客観的に正しい判断結果を得る為の公正な法的思考方法(リーガル・マインド)を要求する。但し、慶應義塾大学の小林節教授は、法解釈学であっても結果の現実的妥当性を要求する、として、現在の通説を批判している。
(:小林 節 『憲法』増訂版 南窓社、1994年)
2:小林 節 『憲法守って国滅ぶ』 KKベストセラーズ、1992年 93ページ
3:昭和58年3月17日参議院予算委員会 角田法制局長官答弁
4:昭和56年6月3日衆議院法務委員会 角田法制局長官答弁
5:橋本公亘 『日本国憲法』 有斐閣、1988年 438ページ
「憲法の変遷」は、元々ドイツ憲法に関してドイツ国法学者ラアバントが唱えた学説である。
6:百瀬前掲書、345ページ■第4章 学会通説からの批判
それでは、ここからは学会通説の立場からの他説への批判を挙げる。
●第1節 自衛力の具体的な限界
通説の立場から、第4説はまず自衛力の具体的な限界が見えないということが問題となる(※注1)。これに関して政府解釈は、次の通り解説している(※注2)。
我が国が 憲法上 保持し得る自衛力は、自衛のための必要最小限度のものでなければならない。
自衛のための必要最小限度の実力の具体的な限度は、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面を有するが、 憲法第9条第2項 で保持が禁止されている「戦力」に当たるか否かは、我が国が保持する全体の実力についての問題である。自衛隊の保有する個々の兵器については、これを保有することにより、我が国の保持する実力の全体がこの限度を超えることとなるか否かによって、
その保有の可否が決せられる。
しかしながら、個々の兵器のうちでも、性能上専ら相手国の国土の壊滅的破壊のためにのみ用いられる、いわゆる攻撃的兵器を保有することは、これにより直ちに自衛のための必要最小限度の範囲を超えることとなるため、いかなる場合にも許されない。したがって、例えば、ICBM(大陸間弾道ミサイル)、長距離戦略爆撃機、あるいは攻撃型空母(※注3)を自衛隊が保有する
ことは許されない。しかし、兵器の目的や性能によって、攻撃的兵器と防御的兵器を区別することは非常に難しくなっているし(※注1)、軍事上は純粋に防衛用の軍備など存在しない(※注4)。また、「戦力」との区別が明確で無いという問題も指摘されている。例えば、小林直樹『憲法第9条』では、政府解釈によれば「必要最小限度の実力=自衛力を越えるものが戦力」となるが、これでは「自衛力は、戦力でないから自衛力だ」という循環論法になり、自衛力の限界が無制限になってしまう恐れがある、と指摘している(※注5)。
●第2節 海外派兵を巡る問題
次に、第4説は自衛権の及ぶ範囲、特に海外派兵が問題となる(※注6)。
これに関して政府解釈は、次の通り解釈している(※注2)。
我が国が自衛権の行使として我が国を防衛するため必要最小限度の実力を行使できる地理的範囲は、必ずしも我が国の領土、領海、領空に限られないが、それが具体的にどこまで及ぶかは個々の状況に応じて異なるので、一概には言えない。
しかしながら、武力行使の目的をもって武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣するいわゆる海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。
仮に、他国の領域における武力行動で、自衛権発動の三要件に該当するものがあるとすれば、憲法上の理論としては、そのような行動をとることが許されないわけではないと考える。この解釈によれば、現在の自衛隊でも、例えば核弾頭を装備した北朝鮮(自称「朝鮮民主主義人民共和国」)の戦域弾道ミサイルが、我が国に威嚇使用(=武力攻撃に着手)され、急迫不正の侵害を受けた場合、その発射基地を攻撃することも可能であるし、更に、侵害を排除するために必要である限り、北朝鮮領土である発射基地に自衛隊を派遣してこれを占領することも出来るはずである(現在の自衛隊では、弾道ミサイルは撃墜出来ない)。事実、政府答弁もそれを肯定している(※注7)。
わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられないと思うのです。そういう場合には、そのような攻撃を防ぐのに万やむを得ない必要最小限度の措置をとること、たとえば誘導弾等による攻撃を防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います。 しかし通説は、国際貢献という形式で自衛隊を派遣することも含め、現状のままの自衛隊が部隊として参加する出動を認めることは、法的にはきわめて難しいとしている(※注8)。また、通説ではこの問題は、自衛隊の海外出動の合憲違憲の判断は、自衛隊の憲法適合性という本質的な問題を措いて論じることはできない、と考えられている(※注9)。
なお、自衛隊の海外派兵及び海外派遣について、政府は以下の通りの見解を示している(※注10)。
従来、「いわゆる海外派兵とは、一般的にいえば、武力行使の目的をもって武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣することである」と定義づけて説明されているが、このような海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。……
これに対し、いわゆる海外派遣については、従来これを定義づけたことはないが、武力行使の目的をもたないで部隊を他国へ派遣することは、憲法上許されないわけではないと考えている。しかしながら、法律上、自衛隊の任務、権限として規定されていないものについては、その部隊を他国へ派遣することはできないと考えている。また、参議院は、独立まもない昭和29年6月2日の本会議において、「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」を決議し、それに対して、当時の木村保安庁長官も、決議の尊重を表明している。
本院は、自衛隊の創設に際し、 現行憲法 の条章と、わが国民の熾烈なる平和愛好精神に照し、海外出動は、これを行わないことを、茲に更めて確認する。右決議する。 (木村保安庁長官発言)
只今の本院の決議に対しまして、一言、政府の所信を申し上げます。
申すまでもなく自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接並びに間接の侵略に対して我が国を防衛することを任務とするものでありまして、海外派遣というような目的は持っていないのであります。従いまして、只今の決議の趣旨は、十分これを尊重する所存であります。●第3節 自衛戦争合憲説に対する批判
また通説は、自衛隊合憲の結論を導き出す第5説(芦田説=自衛戦争合憲説)について、次の5つの点について批判する(※注11)。即ち、(1) 日本国憲法 には、 第66条2項 の文民規定以外には、戦争・軍隊を予定した規定が全く存在しない=戦争を予定していない。
(2) 憲法前文 は、日本の安全保障の基本的在り方として、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するという、具体的には国際連合による安全保障方式を想定していたと解される。
(3)仮に侵略戦争のみが放棄され、自衛戦争が放棄されていないとすれば、それは、前文に宣言されている格調高い平和主義の精神に適合しなくなる。
(4)自衛戦力と侵略戦力を区別するのは実際上不可能で、 第2項 の規定が無意味になりかねない。
(5)自衛戦争を認めているならば、何故交戦権を放棄したのかを合理的に説明できない。のであり、問題であるとする。
●第4節 憲法変遷説に対する批判
更に通説は、第6説の「憲法変遷説」については、 現行第9条 と 自衛隊法 のような憲法規範に真正面から対立するような事態への適用は慎重である。従来の規範と対立する問題については、(1)一定の要件が満たされた場合には、違憲の憲法現実が法的性格を帯び、憲法規範を改廃する効力を持つ説と、(2)違憲の憲法現実はあくまで違憲に過ぎないとする説が厳しく対立しているが、要件の不明確性や法の実効性が失われたからといって拘束性までは失われていないと考えられることから、(1)説の理論を安易に肯定することはできない(※注12)とされる。もっとも、現在の「違憲合法」状態が長く続いた状況からすれば、その「実効性」は勿論、「拘束性」も又失われたのではないかとするのが憲法変遷説であり、通説は批判に答えていないと言える。※注釈・参考文献
1:芦部前掲書、63ページ
もっとも、果たして「自衛力の限界が見えない」ことが本当に「問題」なのだろうか。
2:防衛庁ホームページ
3:この定義は、軍事的には誤りである。そもそも航空母艦が「相手国の壊滅的破壊」のための兵器であるとは一概に言えないし(艦載機が核爆弾で武装している場合は別だが、それは核兵器の問題である)、軍事的には、「攻撃型空母」という分類は存在しない。「攻撃型空母」は、戦後の一時期アメリカ海軍の艦種に存在したが、これは古くなった第2次世界大戦型エッセックス級空母がジェット艦載戦闘機の運用に耐えられないこおとから、戦闘機を下ろして対潜航空機を搭載し、対潜専用艦とした「対潜空母」と区別するために敢えてつけた艦種である。その問題性に気づいたためか、昭和57年3月20日参議院予算委員会における伊藤防衛庁長官答弁では、同じ趣旨の質問に対して「持てない兵器」から「攻撃型空母」を除外している。
これについては江畑謙介『軍事力とは何か』(カッパ・サイエンス、1994年)16ページに詳しい。
4:江畑謙介 『軍事大国 日本の行方』 KKベストセラーズ、1995年 67ページ。
その例として江畑は、短距離対空ミサイルを挙げている。つまり、短距離対空ミサイルであっても、自軍陣地を守るためならば「防御用」であり、攻撃部隊の防空に使うならば「攻撃用」となる、と指摘しているのである。なお、本書で江畑氏は、軍事力の性質を憲法問題の文脈で規定したわけではない。
5:小林直樹 『憲法第9条』 岩波新書、1982年 57ページ
もっとも、そもそも軍事力とは相対的な概念であり、数値上の歯止めなどというものはかけることができないのであって、その点で政府の解釈には妥当性がある。例えば、定数18万人の陸上自衛隊にとって1000人の部隊は大きな脅威ではないが、陸軍のみの総兵力2000人のレソト王国陸軍にとっては、大きな脅威である。また、中華人民共和国が軍艦を2倍に増強すると、我が国や台湾にとっては大きな脅威となるが、レソト王国にとってはそれ程でもない。
6:芦部前掲書、64ページ
7:昭和31年2月29日衆議院内閣委員会 鳩山総理答弁(弁船田防衛庁長官代読)
なお、昭和57年3月20日参議院予算委員会での塩田防衛局長答弁では、上記の場合、発射基地攻撃の前提となる偵察行動についても自衛権の範囲内だとしている。
8:芦部前掲書、65ページ
9:現在の航空自衛隊は、弾道ミサイルを完璧には撃墜できない。従って、一旦弾道ミサイルが発射されれば、必ずどこかに命中することになる。
10:衆議院稲葉誠一議員の質問主意書に対する答弁書(昭和55年10月28日)
11:芦部前掲書、58ページ
12:芦部前掲書、359ページ■第5節 学会通説への批判
続いて、他説から学会通説への批判、特に第5説(自衛戦争合憲説=芦田説)からの批判を挙げる。
そもそも国防論議は、現実に自由で豊かで平和なこの国家・日本を、そして 日本国憲法 体制を守るということを前提とすべきであって、単なる「言葉遊び」で 現行憲法 体制を他国による侵略の危険にさらすわけにはゆかない。憲法解釈は条文解釈であり「好悪の表明ではない」とはいえ、現実的妥当性を失ってはならないはずである。この点から、非武装中立論は非現実的であるし、反戦反核運動も、自国を弱体化させる利敵行為であって侵略を受ける危険性を高める自己矛盾を犯しているといえる(※注1)。
また、前述の5項目の第5説批判に対しては、次のように反論するが出来る。即ち、(1)に対して:
立法者意思によれば(前述の(4B)説参照のこと)、第66条2項の文民規定はまさに自衛軍隊を予定して追加されたのであり、また戦争・軍隊を予定した規定が全く存在しないからといって、自衛戦争を禁じていることにはならない(法学の原則では、それは政治部門の自由裁量のはずである(※注2))。
(2)に対して:
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するというのはあまりにも楽天的、敗北主義的で無責任な態度であり、国民の安全を確保することができない。そもそも一方的に「平和」を宣言したところで、現実的に平和が訪れるわけではない(※注3)。また、国際連合による安全保障方式(国連憲章第7章で規定する軍事強制措置のこと)は、未だかつて完全に機能したことはなく、また機能するとしても安全保障理事会の始動までの間、自衛権を正当防衛として行使することは、前文と些かも背反しない。
(3)に対して:
憲法前文の精神が果して「格調高い」かどうかは別として、前文に裁判規範性は無い。更に、国際法上の軍事力行使には、「国際紛争を解決する手段」以外の司法警察的、行政警察的なケースが存在し得る。これらの軍事力行使は、「軍事力による紛争処理」を放棄した前文と矛盾しない。
(4)に対して:
確かに自衛戦力と侵略戦力の区別は不可能だが、だからといって(小林節も言うように)国民を非武装の「人体実験」にかけてよい理由にはならない。
(5)に対して:
交戦権については、前述の(6B)説をとればよい。なお、政府の公式解釈は、⑥交戦権の問題について次のような立場をとっている。
憲法第9条第2項 は、「国の交戦権は、これを認めない」と規定しているが、我が国は、自衛権の行使に当たっては、(すでに述べたように、)我が国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することは当然のことと認められており、その行使は、交戦権の行使とは別のものである。 ※注釈・参考文献
1:小林 節 『憲法』増訂版 南窓社、1994年 75ページ。
国際政治学者・高坂正堯は、現実の国際政治は力・利益・価値の3つの枠組みで成立しているとする見方を採用する。
(:高坂正堯『国際政治』 中公新書、1966年)
2:小林節前掲書、74ページ
3:小林 節 『憲法守って国滅ぶ』 KKベストセラーズ、1992年 26ページ■第6章、憲法解釈の困難性
そもそも憲法とは、国家統治機構の基本を決定する最高規範であり、必然的に「政治の法」という性格を帯びる。従って、憲法議論においては、原則として法的議論(法解釈論)と政治的議論(立法政策論)を峻別すべきであるけれども、実際には往々にして政治的議論=好みの表明になり易い。何故ならば、法解釈とは純粋な法的三段論法による機械的な解釈適用のプロセスではなく、解釈適用の際に一定の法創造=立法を伴う以上、実定法学の知見だけでは必ずしも妥当な判断を下すことが出来ないからである。また、例え小林節教授が指摘するように、法的議論を基礎としつつも「現実的妥当性」を追求したとしても、その「現実」の解釈を巡って憲法学者の間でも相当の開きがあり、事実上それぞれが「現実的妥当性」を追求した上で憲法解釈を展開している。
例えば、第1説を支持する小林直樹東大名誉教授は、著書の中で、現代国防論(軍隊を以って国防を実施すべきだ、という考え)やパワー・ポリティクスを「時代遅れ」「空想的」「想像力に欠けるもの」と断定し、近代戦においては、我が国はその地理的・経済的特性から、国土を戦場とすれば例え十分国防努力をしたとしても甚大な被害を被るのであり、国防努力は却って民主主義の敵としての軍隊を内包することになるだけだ、と主張している。この様な小林直樹の主張は、民主主義社会において軍隊は例外なく反民主的で有害な存在であり、特に我が国においてその存在を許せば、我が国は必ずや再び軍国主義への道を突き進むであろう、という所謂「いつかきた道」論の考え方と、それに基づいた独自の「現実的妥当性」に支えられている(※注1)。もっとも、欧米先進諸国、特に武装中立を掲げるスイスが軒並み「国防努力」を続けて「軍隊を内包」したまま半世紀以上も民主主義を破壊されていない、という事実については、何も説明されていない。
また、獨協大学の古関彰一教授は、現在の世界情勢を「非軍事的な手段による安全保障へと移行しつつある」と認識した上で、「安全保障は軍事によるものだけではない」とし、事実上憲法前文の定める平和外交的努力を優先すべきであると表明しているが、これは古関彰一の、「冷戦後の現代世界において、 憲法第9条 の非武装規定が現実的妥当性を持つ」との認識から出発している(※注3)といえるだろう。もっとも、「安全保障は、軍事によるものだけではない」とはよく耳にする俗説だが、実際には、「軍事力は、国家の安全保障にとって中核的手段であり、他のいかなる手段もこれを完全に代替することはできない」(※注2)。つまり、軍事的手段を以ってしては全ての紛争を解決できないが、軍事的手段無しでは何も解決できない、というのが「現実」なのである。古関教授は、「平和的外交努力」を主張する以上は、例えば国連PKO・ECOMOGとゲリラの戦闘が続くシエラレオネ内戦の、非武装での具体的かつ実効的な解決策を提示する必要があろう。
これに対して第5説を支持する慶應義塾大学の小林節教授は、「いつかきた道」論は憲法をはじめとする社会体制の変化を無視しており、パワー・ポリティクス批判は「国際法と国際政治の常識に反する」と喝破している(※注4)。また、「武装はかえって相手国の反発や自国軍隊の暴走を招く」という主張(つまり小林直樹の主張)に対しては、弱肉強食が世界史の現実であり、自国軍の暴走の歯止めとしてシビリアン・コントロールがある、と反論する。更に彼は、「戦争で死ぬのがいやだから、侵略を受けても傍観する、という態度」は「Selfishness(ワガママ)の自己矛盾」であり、「尊厳ある人間の主張ではない」と断じている。彼は又、特に冷戦時代に喧しかった護憲論は、護憲=民主主義擁護を叫んでいるようで実は全体主義勢力(共産主義勢力)からの侵略を受け易いようにしていたに等しい、と「現実的妥当性の無さ」を批判しているのである。
このように一口に現実的妥当性といっても、そこから導き出される結論は様々であるが、これも憲法がすぐれて「政治の法」(立憲的論議が常に介在する)であるからに他ならない。※注釈・参考文献
1:小林直樹前掲書。
2:『安全保障学入門』、222ページ
3:古関彰一 「現憲法に改正すべき点があっても、いま改正する必然性はどこにもない」
『日本の論点98』(文芸春秋編) 株式会社文芸春秋、1998年 93ページ
4:小林節前掲書、74ページ他
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