世界魔法キ譚 2話
大きなトネリコの樹の下で
◆
初仕事といっても、これまでにまったく何もしたことがないわけではない。
オズについてこのような調査は何度も行ってきたし、条約(ルール)に則って魔術師を裁くこともしばしばあった。
そのあたりの細やかな規則は一通り頭の中に入っていた。そうでなければ、このように一人で仕事を任せられることはないはずだ。
今回問題となっている『世界樹の根』は魔術を使用するための媒体を構成する素材だ。魔術師が使用する媒体は、魔術の系統によって多岐にわたるが、素材は一般的には出回らない希少な物が多い。たまに魔術師ではない物好きな蒐集家(コレクター)がこちらの事情にお構いなしで乱獲してしまうこともある。そういった場合でも私たちは動く必要がある。
この界隈では大規模な魔術の研究を行うために、大量に素材を求めて市場のバランスが崩れることがある。今回はそのケースではないかとにらんでいた。三ケ月間、事務仕事としてひたすらに素材の集計を行ってきたので、情報の読み解き方はおおむね習得済みだ。ざっくりとだが、どこの家が怪しいのか目星もついている。
しかし、それだけでは罪を白日の下にさらすには弱い。当たり前のことだが冤罪はあってはならない。
つまり、現行犯で逮捕しなければならないのだ。そう、だから私はこうやって――
「きゃっ!」
ずるり。ぬかるみに足を取られて顔をしかめる。ヒールが折れかかったパンプスを忌々しく見るも、今はそんなことをしている場合ではない。
ここは暗い山の奥。天を割くように切り立った崖を越え、底が見えないほど深い谷を抜け、やっとたどり着いた場所だった。
何故慌てているのかというと、先ほどから周囲に獣の気配があるのだ。
注意して聞かなければ分からないが、自分以外の物音がする。キツネ程度なら襲われる心配もないが、オオカミやクマだった場合、魔術で反撃する隙すら与えられず致命傷を与えられる可能性もある。
――いや、傷ならば問題はない。
それ自体はどうにかなるのだ。
しかし、例えば狂犬病のようにウイルスや細菌によって感染症を引き起こすと危ない。その場合は、いくら優秀な魔術師でもそれを専門にしていなければ簡単に治療することはできないのだ。少なくとも、私はできない。
未知は危険だ。
もう少し野生動物に関する知識を事前に仕入れていればよかったと後悔するが、そんなことをうじうじと考えている余裕はなかった。
いつ襲われても構わないように、古の文字が刻まれた石(ストーン)だけは手放さないように拳に力をこめる。
バキッと枝が折れる音がして姿を現したのは、二メートルを超えるヒグマだ。想像以上の大きさに息をのむ。
逃げなければならない。
立ち上がり後退しようと思った途端、ガクンとバランスを崩し後ろにひっくり返る。
「しまっ……!」
その動きに反応して、ヒグマが腕を振り上げた。
思わず目をつぶった瞬間、グイとものすごい力で引っ張られ、横にごろりと一回りした。おかげで、すんでのところで凶悪な鉤爪を回避できた。
そのすきを逃さず、クマの足元に掴んでいた石をばらまく。
「Cage, kelj fel!」
適切な場所に投げられた石は、一瞬まばゆい閃光を放ったかと思うと次の瞬間にはヒグマを囲むように檻が現れた。動物園にもあるような頑丈な檻でちょっとやそっとじゃ動けないはずだ。
小さく息を吐いて立ち上がる。その際にヒールの折れたパンプスをすくい上げた。これのせいで先ほどは態勢を崩したのだから、今のうちに直しておかなくてはならない。
懐から二つの石を取り出す。そこには、Zを左右に反転させたような模様とYの縦線が突き抜けたような模様が描かれていた。これらはそれぞれルーン文字であり、私が使用する魔術はルーン魔術に分類される。使い勝手がいいので、あらかじめ文字を刻んでおいた鉱石を大量に持ち歩いているのだ。
握った二つの石が光り、根元から折れたヒールが接着剤でもついているかのように元の形に修復される。
私が一番得意な魔術だ。
そこで、はっと顔を上げる。先ほどひっくり返った際に何かに引っ張られたのだった。だからこそ、あの強烈な一撃を避けることができたし、反撃に転じることもできた。私自身の力ではない。
辺りを見渡すと、数メートル離れたところにオオヤマネコがひっそりと佇んでいた。朽ちた巨木の上から音もなく飛び降りる。その凛々しく美しい瞳がこちらをじっと見つめていた。
「……もしかして、あなたが助けてくれたの?」
その言葉に反応するかのように、そのオオヤマネコの耳が一瞬ぱたりと動く。まさか、本当に言葉が通じているのだろうか。
「ありがとう、助かったわ」
それならば、感謝ぐらい伝えてもいいだろう。
動物に話しかけるなんて、はたから見たら随分と滑稽に映るだろうが。
するり、と音もなく私の足元に身を寄せ、体をこすりつける。人間はおろか、動物との触れ合いにも慣れていない私は固まってしまったが、彼の方は特に問題ないらしい。左右の足にそれぞれすり寄った後、地面を蹴って飛びあがり、次の瞬間。
私の背中に衝撃が走った。
思わず二歩、三歩と前に踏み出して、
ゴトリ。
何かを踏んで、一瞬身体が沈む。
そして、大地ががぱりと口を開けた。
◆
高さにして三、四メートルと言ったところだろうか。
受け身を取ることもできず、まともに足から落ちた。鈍い痛みもさることながら、先ほど直したのに落ちた衝撃でまたヒールが外れてしまったらしい。
二度手間じゃないか。
魔力の無駄遣いに顔をしかめて目線を上げると、目の前にはこちらの様子に驚いた女性がいた。
銀髪をふたつにまとめていて、歳は私の少し下と言ったところか。とっさに手に潜ませていた石を握りこむ。こんな状況で、おいそれと魔術を使うわけにはいかない。彼女はあちら側、つまり一般人かもしれないのに。
「あの、あなたは」
言葉をかけて、ふと脳内にとある人物がよぎる。道中謎の空間に誘拐された、あの時に出会った男性とどことなく似ている気がする、のだ。
「失礼ですが、以前どこかでお会いしましたか?」
彼女はあからさまに戸惑いの表情を見せた。
「いえ、初対面だと思いますが」
顔立ちがどこか似ている気がするし、透き通るような銀髪も、吊り上がった瞳も酷似している。
「……夢であなたに似た男の子と爆弾処理をしたのですけど。確か名前は、ミールと言っていたわ。すっと通った鼻筋、目じりがツンと吊り上がった瞳。彫りの深い顔立ち。それに透き通るようなストレートの銀髪。少し大きい耳。……あなたは彼にとてもよく似ているわ」
「そんなこともあるのですね。残念ながら私は貴方とは初対面ですので、そのような話を聞いても困ってしまうのですが……」
眉尻を下げて微笑む彼女にこれ以上は追及できなかった。
「そう、よね。失礼したわ」
目の前の少女は、夢で出会った彼とは関係ない。
そう思い込んだところで、
――差し出された彼女の手に、彼と同じ切り傷を見つけた。
彼女は、十中八九ミールだ。
確かに彼がケガした姿を目の前で見ていたのだから間違いない。
とはいえ、言いきってしまうのはさすがによろしくないだろうか。夢のようなあの場所で出会った彼は確かに男性で、今目の前にいるのは明らかに女性だった。
一般的に本来の姿と別の姿をとる魔術は、見る側の意識に作用するものがほとんどだ。物体を変形させて別の形に維持する魔術はコストが高く、また難易度も上がる。私の場合は別に理由があるが、恐らく多くの魔術師はその方法はとらない。
彼女(あるいは彼)は私がここに飛び込んできた時とても驚いていたし、その一瞬で幻覚の魔術をかけることができたとは到底思えない。
そもそも私の身体が全く反応しない。
そういったことにはとびきり敏感な、私の身体が。
で、あるならばそもそも構築方法が違うのだろう。幻覚を見せているのであれば、普通は全く違う人物になりきるだろうし、その際にあんな傷など見せたりはしない。
――あるいは、目の前の彼女がとんでもないうっかり屋なのか。彼の言動を思い出す限り、思慮深くそんなミスは犯さないように思う。
もうひとつ別の視点から考えると、彼女はミールとは全くの別人で、ただ傷や容姿をミラーリングしている存在だとか。どちらかというとそれは魔術ではなく呪術方面でよく行われていることだ。人を模した紙や人形を傷つけると、人間の方もケガをしたり事故に遭ったりする。そういうことも考えられなくはない。彼女の言を信じるならば、こちらの方がつじつまが合う。
「どうぞ、私はタチアナです。ターニャとお呼びください」
「あ、いえ。ありがとう」
差し出された彼女の手には触れずに、痛む足に力を込めて無理やりに立ち上がる。体重をかけるとズキズキとした痛みが増すので慎重にバランスをとった。
本当はすぐにでも直したいところだが、この少女の手前、魔術は使いづらい。
「あなたは何故こんなところに?」
「旦那様のご旅行に同伴したのですけれど、はぐれてしまって。気づけばここに」
そう言って困ったように微笑む彼女は、こんな山奥にもかかわらず使用人の姿をしていて、とても山歩きには向いていない。
私と同じく、何らかの魔術で身体を保護しているのだろう。
彼女自身に魔術の知識がなくとも、その『旦那様』が仕掛けている可能性は高い。
「それは災難だったわね。その旦那様のお名前は?」
「……あの」
どうしようか、と少し迷いつつも意を決したように、
「先ほどから怪しんでおられるのは理解していますが、こちらとしてもそのような態度でいらっしゃいますと……困ります」
少女は控えめな主張をした。こんなわけのわからない場所で知らない年上の女性に問い詰められれば、恐怖を感じてもおかしくない。
瞳を閉じてひとつ息を吐く。
「……重ねて、無礼をお詫びするわ。仕事柄、つい詰問してしまって……申し訳ないわ」
「いいえ! 分かってくださればよいのです」
彼女は胸をなでおろし、人の好さそうな笑顔を見せた。
「それにしても、貴方はどうしてこのような場所に? 先ほど、天井が開いていましたけれど」
「ソフィアよ。ナジ・ソフィア」
何かの仕掛けが作動したこの場所は、どうやら地下洞窟のようだった。
天然の岩肌が見えているのかと思いきや、不自然にならない程度には整えられていて、人の手が入っているのが見て取れた。
「私は山を歩いていて、何かを踏んだと思ったら地面が抜けて、ここに落ちてきたの。何かの仕掛けが発動したのでしょうね」
天井は、私が落ちた後すぐに閉じてしまったようで簡単に開く様子はなさそうだ。
ぐるりと部屋を見渡すと、目立たない壁の一部にとある石板を発見した。
「『その身の内に秘めたるもの、放つべし。しからば扉は開かれん』……つまり何か秘密を共有しろということでしょうね、この文面は」
私の魔術を使用せよ、という意味にも取れるけれど、先日それで手痛い失敗をしたばかりだ。下手に魔術を使用すれば、この地下室が崩れかねない。あのうたた寝の世界とは魔術の強度が段違いだ。あそこでは何が有用なのかすら曖昧だった。ここではどうやらご丁寧に緊急解除用の術式が仕込まれているようだ。
魔術を使用する。秘密を告白する。例えこれらの読みが全て外れたとしても、これを口実に彼――ミールに近づくことができる。
「秘密、ですか。……私は貴方と初対面ですので、貴方にとっては秘密に聞こえないかもしれませんよ?」
「私にとって秘密であるかどうかは、あまり重要ではないのではないかしら。この部屋、この魔術に対するものなのだから」
「……魔術?」
彼女はあくまでも魔術については知らぬ存ぜぬを貫くようだ。
それならば。
「本当は言っちゃだめなのだけれど、私は魔術師なの」
ごく簡単な魔術を披露しよう。持参したメモに、記号の小なりと同じ文字――ケンを描きこむ。
「Láng, égj!」
私の手を離れたメモは、ぼうと燃え上がり塵となって消えた。彼女は目を見開いて大げさに拍手をする。
「すごいです、まるで手品のようです! 手品師……ではなくて魔術師、なのですね。どんなタネがあるのかは私には分かりませんが、それは凄く大きな秘密だと思いますよ」
にこにことほほ笑む彼女をじっと見つめて私は続ける。
「ここにくる道中、異常な事態に陥ったの。そこで出会ったミール……一緒に爆弾処理をした男の子を、危険な目に遭わせてしまったわ。こんな風に、私は一般人よりは力があると思うのだけど、あの場ではいろいろと制限が課されていたから。それでも、私は自分のことに手いっぱいになってしまって、彼を傷つける言葉を口にしてしまった。本気ではなかったのだとしても『足手まとい』だなんて言ってはいけなかったのだわ。私は彼に謝らないといけないの」
どことなく先ほどの笑みが控えられ、彼女は居心地の悪そうに私の語る言葉を聞く。
「だから、彼とのつながりがあるのなら教えてほしいなと思っているのだけれど、……無理強いはしないわ。彼と関係のない、あなたにこんな話をしてしまってごめんなさい」
「それは……私が聞いてしまって良い内容だったのかは分かりませんが、彼にいつか直接言えるといいですね」
彼について全く関係がないのであれば、彼女から出た言葉は無難な反応と言えた。
疑念はいったん保留にして、次はターニャが秘密を打ち明ける番だった。
「そうですね……私はソフィアさんのように凄い手品、いえ、魔術が使える人でもないので……。強いて言うのでしたら、現在 家出中の身であるということくらいでしょうか……。ごめんなさい、そんなに大きな隠し事を持っていなくって」
家出中。
それは私にとっては聞き捨てならない言葉だった。
「だからその旦那様にお仕えしているの? 家の方は心配して……いえ、何か事情があるのでしょうけれど」
「ええ、まぁ、そんなところです」
当然だが、彼女はその事情を詳しく語ろうとしなかった。でも、ここで引いたらだめだろう。
「その、家出の理由を聞いてもいいのかしら」
「家出の理由?」
彼女は、まるでそんなこと聞かれるなんて思ってもいなかったなんて様子で、
「ただ親と実家との反りが合わなかったというだけです。よくある話ですよ」
こともなげにそう言った。
「……そうね。確かによくあることだわ」
この世界では、いくらでもある問題だ。
ありふれた悩みに対して、彼女はありふれた回答を選んだようだ。
それでよいと思う。
「……これで秘密の共有は行われたかしら」
独り言のようにつぶやくと、ゴゴゴと地響きがして私が落っこちた天井の穴がゆっくりと開き、目の前に地上へと続く階段が現れた。本来はここまで作動してからこの地下室へと降りていく仕組みらしい。そりゃあ、三、四メートル垂直落下するのは、魔術師であっても何かしらの魔術を行使しないと無事では済まないだろう。現に、私は足をくじいたのだから。
隣を見ると、いつの間にかターニャは階段を上っていた。
それでは、とにこやかに去ろうとする少女の腕を私は慌てて掴む。
「あ、待って。こちらを見て」
魔力を込めて左手に潜ませていた石を、掌の上に載せて彼女に示す。彼女が石に刻まれた文様を認めた瞬間、バチリと火花が走った。
大きく目を見開いた少女は、私の手を振り払って一目散に階段を駆けだす。
あっ、と思った瞬間。私はバランスを崩し、腰を地面に打ち付けた。
「……っ、さっさと直さなかったつけが回ってきたわね」
ヒールは折れたまま。
少女の姿は深い山奥に消え去った。
◆
怪我とヒールの修復を終え、彼女が走り去った跡を確認する。コンクリートで舗装されているわけでもないので、地面には足跡が残っていた。お互い山歩きをするような格好ではない。私はスーツだし、彼女はいわゆるメイド服だった。
大きな水たまりまで辿ったところで痕跡はぷっつりと途絶えた。これ以上の追跡は不可能か。いや、反応からしてこちら側である可能性が高い以上、記憶の消去は後回しでもいいのかもしれない。『旦那様』を追っていれば、彼女には自然と辿りつくだろう。
これからは本来の予定通り、『世界樹の根』の調査に出ることにする。
地図によるとちょうどこの辺りであることが示されているが、さて、周りを見渡してもそれらしきものがない。
当たり前だ。
『世界樹』は貴重な資源であり、そもそも樹自体が神として祀られる神樹なのだ。正式な手順で巡らないと辿りつけないように結界が張られているはずだ。
もちろんその手順は、私も知らされていない。
この地の神域に足を踏み入れる方法がもしほかの魔術師に広まってしまったら――そんなリスクを抱えるぐらいであれば、たとえ調停官であったとしても伝えない。そのように選択する気持ちも理解できる。
石を複数取り出し天に向かってばらまく。確かに均等になるよう蒔いたはずなのに、石が落ちた位置は明らかな偏りを見せていた。
私の魔力が込められているこの石はこの土地では異質な存在である。だからこそ正しく結界が機能した結果、それらの石は弾き出されるのだ。それの繰り返しで神域をあらかた割り出すことに成功した。
続いて、場所が分かっても内部に踏み込めなければ意味がない。そのために今から私の魔力を変容させる。
浴槽ほど大きくなくていい。省エネを意識しつつ、自分がすっぽりと覆われるだけの大きさの器を組み上げる。クマに襲われた際に作った檻と同じように、あらかじめ魔力と文字が彫り込まれた石をばらばらと適切に配置する。
それから、バケツのような扱いやすいサイズのものも同時に作っておいた。神域の位置を絞っている際に発見した沢から、バケツで水を汲み浴槽にためていく。
行うのは沐浴――ではない。
身を清めるのではなく、むしろこの身を汚染させるに近い行為だ。
この土地の異物として認識されないように森に流れる水を使う。
偽装工作。
私の魔力をこの土地の水と混ぜ合わせて溶かし込むことで、特殊な水溶液――魔力水を作る。それにどっぷりと全身を浸すことで、結界の異物判定をパスするのだ。ただしルーンを用いて強制的に魔力の質を変容させるこの方法は、私の身体と相性が悪いものだった。
――変化の不寛容。
高濃度の質が違う魔力に曝されると消耗が激しくなる。だから、さっさと終わらせよう。
素足から心臓を守るようにぎゅっと縮こまりながら、一気に頭まで水に浸かる。静電気を百倍にしたような、ビリビリとした痺れを全身に浴びながら、隅々まで魔力水をくぐらせた。
「ぷはっ」
止めていた息を解放してから、これだと結界内で口を開いた時点で異物判定を食らう可能性があることに気づいた。
ちらと水槽を見てから続いて沢に目を向ける。
どうか、危険な菌とかいませんように。そんなことを祈りつつ、両手で魔力水を汲み上げた。
劇物でも口にしたような痛みが口腔内を暴れまわっている。これを飲み下す必要まではなかったことに感謝しつつ、下品であることは理解しながらも木の陰で吐き出した。
脱ぎ散らかした洋服をたたみ目立たないところに隠しておく。水槽とバケツは用済みだが、こちらは込められた魔力が完全に消費されるまで消えない。
動かすことが難しいこの二つは簡単な結界を張って目隠しをした。魔術に関係がない一般人であればまず発見することはないだろう。そもそもこんなところを人が通るとも思えないが。
そして私はこの土地の神域に足を踏み入れた。
世界樹をこの目で見たのは初めてだった。
切り立った崖、という表現が正しいのか。それは確かに岩肌で、どれだけ首が痛くなろうとも見上げるだけでは樹らしきものが見えない。
それもそのはず、世界樹は宙に浮いていたのだった。巨大な岩石が、質量を無視してそこに存在している。神秘に触れているのだから当たり前だが、そのあり得ない光景に届かないとは知りつつ思わず手を伸ばした。空気の重さが変わってしまったのかと思うほどずんと体に纏わりつくのはこの土地自体の魔力なのだろう。魔力水を使っても、少なからず反発があるらしい。
周囲をぐるりと一周するが、どれだけ移動しようとも樹は見えない。角度の問題なのだろうか。それにしても『世界樹』にしては小さい気がする。
ゆっくりと近づきつつ岩肌を観察する。私は地質学者ではないから、地層がどうだとか化石がどうのとかは分からない。しかし、人工的に切り出したのであろうつるりとした岩肌を見て魔術が使用されているのかどうかくらいは分かる。
圧倒的な神秘性で畏怖の念を強制的に引きずり出されるような感覚は、ミールと出会ったあの夢の中の世界とも違う。あちらは丁寧で巧妙で、どこか悪戯を仕掛けてやったというこどものような意地悪さを感じた。私のような方法で侵入を試みたのであれば、この神域の中でまともな魔術は使えない。あからさまに違う種の魔術が使用されたのであれば、結界が機能して反発を招くだろう。正しく働くからこそ、この土地に住み世界樹を祭り崇める人々が安心して暮らせていたのだ。
界隈で違法に流通している『世界樹の根』は粉末状のもので、恐らく切り出した岩石を細かく砕いたものなのだろう。それにしても大胆な所業である。
この物的証拠群だけ見れば、魔術を使わずに宙に浮く岩石を採掘していたということになる。まるで密室殺人に挑む探偵のようだ。この謎を解き明かすのが、オズから預かった今回の私の役目だった。
一般人ではまともに立ち入ることができないこの神域にアクセスできているということは、やはり一番怪しいのは魔術師だ。理論の穴を突くような魔術を用いている可能性がある。魔術師であれば近くにラボを構えているだろう。そこまでの場所を割り出すには、先ほどの方法だとさすがに広範囲すぎて絞れないか。ラボの場所さえ分かれば、現在筆頭容疑者の『旦那様』を捕まえられると同時に、ターニャの居場所も判明するのだが。
もしかして、その『旦那様』がミールであるとか?
タチアナという名前でターニャと愛称をつけるのはスラヴ系の名付け方だろう。そちらの習慣に明るいわけではないが、的は外れていないはずだ。
それならば。
ミールという名前がロシア語で平和を意味するのも、タチアナをターニャと呼ばせるのも合点がいく。少なくともつながりがあるのは確かだ。
――そうだ。何故忘れていたのだろう。彼の額に私の血でお守りを記したのだった。洗い流されていたら意味がないが、もし残っていたら……こちらから辿れる。その辺に落ちていた枝を使って地面にこの土地の簡易的な地図を描き、周縁に花弁のような細かな魔法陣を描き足していく。夢の中で彼にしたのと同じように自分の血を使って額に文様を描く。同じ血液、同じ文様を使うことで呪術的要素が高まり、実質的にミールと同期することが可能となるのだ。
魔法陣の中心に立てば地面が粟立ち、地図が書き換わる。その時、バシリと現実には受けていない痛みを肩から胸にかけて感じた。これは鞭だろうか。なんということだ。同期しているということはこの痛みを彼自身も感じているということ。
彼の身が心配だ。
書き換わった地図からおおまかな位置を把握する。地図がそれ以上書き換わらないこと、そして先ほどから身体のあちこちに断続的な痛みがあること。これらからミールはどこかに捕らえられて暴力を振るわれているのではないだろうか。
急がなければ。
走りながら脳の隅で推理を続ける。ミールは、ターニャは、旦那様は。それぞれが何者で、どんな関係性なのかもわからない。ミールとターニャは同一人物なのか、別人なのか。何故ターニャは逃げ出したのか。ミールを傷つけているのは誰なのか。
服を回収して世界樹の西側に移動したが、人をひとり隠せるような洞窟や茂みは見つからない。もしかしたらミールを捕えているのは魔術師なのだろうか。隠すなら普通ラボの中だろうし、そうなれば神域ほどの強度ではないだろうが結界を張っている可能性が高い。焦れる気持ちを抑えつつ、神域を割り出したときと同じ方法で石を蒔いていく。
三度目の撒布を終えたそのとき、カサリと葉を踏む音に後ろを振り返った。
そこにいたのはヒグマ――ではなくミールそのひとだった。
「あれ、もしかしてソフィア?」
「え? あなたどうして……ケガは!?」
けろりとそこに立つ彼は、夢の中の姿と変わらないように見えた。
「ケガ? 確かにさっき茂みに足を踏み入れた時、細かい傷は作ったけど……。それより君はどうしてここに?」
そういうことではない、とか。あなたこそどうしてここに、とか。言いたいことは色々あったけれど、上手く言葉が出てこなかった。
そんな様子を見てか、ミールはいやなにと切り出した。
「いま、人を探していてさ。この辺で女の子を見かけなかったか? 実は妹なんだけど」
「妹? もしかして、あなたと同じような銀髪で二つくくりにしている?」
ぐちゃぐちゃにもつれていた糸が一本に繋がる。
兄妹なのであれば容姿が似ているのも頷ける。それに魔術師の家系ならば、兄の傷を妹がミラーリングしていても――おかしくないだろう。
「ああ、そうだよ。……家出してどこかの家で働いてるってのだけは何とか電話で聞き出せたんだけど、流石にどの家までかは教えてくれなくて。もしかして、会ったことがあるのか?」
「ええ、つい先ほど。家出しているというのは聞いていたわ」
「へぇ、そりゃまた数奇な縁もあったものだ」
彼は軽やかに笑うと目を細めて言った。
「彼女を見つけて、ちょっとサプライズを仕掛けてやろうと思ってたんだ。良かったら今日だけでもいいから手伝ってくれないか?」
「サプライズ……まずは事情を教えてくれないかしら」
「それについては後で話すとしよう」
そして、強い衝撃と共に私の視界は暗転した。
◆
頭に響く鈍痛に眉をしかめて瞼を開くと、そこには少女が倒れていた。
「……! どういう状況なの、これは」
自分の様子を確認する限り、椅子に麻縄で手足を縛りつけられているようだ。簡単には外せそうにない。
「ッ誰だ!?」
ターニャには目隠しがされており、私と同じように手足を拘束されていた。
胸元からは血が垂れているのが見えた。予想していた通り、鞭で痛めつけられていたのはミラーリングしていたターニャの方だったというわけか。どれだけ精巧な魔術なのかは分からないが、私のサーチに反応していたのは彼女の方だった、というわけなのだろう。
私たちが囚われているのは簡素な小屋で、辺りを見渡すが隣の部屋に続く扉があるくらいだった。
「ちょっと、ミール! いないの!? サプライズと言ったって、妹にこんなことをしていいわけがないでしょう!」
「その声、さっき会ったばかりのような……」
「私よ、ソフィア。先ほど洞窟で話したわね」
「――!」
私が名乗ったことで、彼女は目の前にいるのが誰なのか把握したようだった。
「あなた、その枷や目隠しは自力で外せないのよね?」
「…………自力では、無理でした」
言いづらいことだったのか、彼女は見えてもいないのにこちらから顔を背けた。
「あの、私勘違いしていたのよね。ごめんなさい。別の場所で出会ったのはあなたのお兄さんだったわ。さっき彼と出会って少し話をしたのだけど……」
そこまで言って、彼女は訝しむようにこちらに顔を戻す。
「兄……? なんのこと、ですか。先ほど話題に出たミールという男性と会って話をした?」
そんなの、ありえない。ぽつりとこぼした言葉が不可解を産む。
「どういうこと? あなたにお兄さんはいないというの?」
「…………ええ、いません。妹なら、いましたが」
ターニャの兄と名乗る人物と、兄などいないという少女。いったい誰が何者なのだろう。ほどけたはずの糸がまた絡まりだす。
いったん頭を振って思考をリセットする。
ミールとターニャの関係については気になるところだが、今は脱出を優先した方がいい。ミールは確かに悪意を持っていたようだし、彼女も早く手当てをしないといけない。よくよく見れば、ターニャには枷だけでなく何か紙のようなものが、手足それぞれに貼られているのが分かった。
「……痛っ」
「どうしたの?」
ビクリと身を震わすと、彼女は痛みをこらえるように唇を噛む。
「…………右手首が、少しびりっとしただけです」
はらりと地に落ちたのは、彼女の右手首の枷に付着していた紙だった。そこには見慣れない文字が描かれており、どうやら護符の一種らしいということが分かる。
「右手首の枷から護符が外れたわ。痛んだのはそこ?」
「ええ。……多少ずきずきしますが、問題ないとは思います。この程度なら」
強がりなのだろう。けれど現状手を出せない私が言えることではない。
「全く、度が過ぎているわ、ミール。だからターニャも逃げ出したんじゃないの? 虫唾が走るわ、もう一度会って問いたださないと」
小声でつぶやいてから、自分の持ち物がなくなっていることに気づく。犯人は私が気絶いている間に石を武器とみなして没収したのだろう。魔術師であればそれぐらいは感づくか。
「――っ!」
ターニャの左手首に付着していた護符が枷から剥がれ落ちた。
「ターニャ! ……っ」
袖口がじわりと赤く染まる。針でも刺したか、一度に流れる量はさして多くないが、痛みが強いのだろう。身体をくの字によじらせる姿が痛ましかった。
「血が垂れているわ、平気?」
「……だい、じょうぶです。この程度なら」
早くしないといけない。自分の両手足は随分きつく縛られていて、血流が悪くなっている。石を没収されている以上複雑な術式は編めない。片足だけでも解けたら方法はいくつかあるが、となると――。
私は頭を思い切り横に振る。まとまっていた髪がばさりと落ちて顔にかかった。一つ呼吸をすると、かかった髪の一部を口で咥え、歯で噛み千切る。神経が裂かれるような痛みをこらえつつ、慎重に噛み切った毛を数本床に落とした。この場合位置が重要となるので、髪の重さと空気抵抗を考えつつ形を整えてから、椅子を動かせるだけずらして足が触れる位置に移動する。
大丈夫。悲惨なことになったとしても、彼女はいま目隠しをされているのだから怖がらせる心配はない。
不等号の小なりのような形を象るその文字が意味するのは――炎。彼女に披露した魔術と同じだ。
触れた部分から魔力を流し込めば、ごうと一瞬火柱が上がる。この身をも焼くその熱に眉をしかめたものの、炎はすぐに小さくしぼんでいった。
おかしい。
いくら他人のラボの中だからといって、ここまで魔力の効率が悪くなることはない。
ほのかな疑問を抱きつつも、とりあえずは足を固定する麻縄を焼き切れれば重畳だった。足さえ動かせればもっと細かな文様も編めるのだから。
だから、少しの我慢。
痛みに耐えるのは慣れている。
慣れてはいるけど、――いるけれど、痛いものは痛い。
「……っつう!?」
はっと顔を上げると、ターニャの右足首を縛っていた縄から護符がはらりと落ちた。焦げ落ちたタイツから赤くなった肌が露出していた。
「……っ」
うずくまろうとして枷に引っ張られている。痛みを逃がすこともできないのだ。
焼けた足に力を込めて縄を引きちぎる。あの護符の効能なのかは分からないが、ここではターニャを痛めつける様々な仕掛けが施されているらしい。これでは拷問だ。
幸いなことに椅子は木製で、ささくれに足をこすりつけて傷を作ったことで次の魔術が使えるようになった。停滞と成長のルーンを組み合わせて身体を強化し、椅子の足を破壊して緩んだ麻縄から逆の足も救出する。その反動で椅子ごと床に倒れれば炎が消えた。椅子の破片を右足で固定し、左足の火傷部分を用いて新たに傷を作る。血が流れればこちらのものだ。夢と同じで(筆が手か足かの違いはあるが)床に魔法陣を描いて、ついでに血に塗れた椅子の破片を放り込めばナイフの出来上がりだった。完成したナイフを床に固定して腕の麻縄を押し当てると、これでやっと全ての拘束から解放された。
「……ふう。これでひとまずは動けるわ」
どこもかしこも傷だらけであまりに全身が痛かったから、全部無視してターニャの元へ向かう。数歩進んだところで、ガラスのように透明で硬い壁があることに気づいた。私とターニャがいる場所は地続きのようでいて、このガラス扉に隔たれているらしい。左足はまだ強化したままだ。蹴破ろうと足を上げたが、どうやらそんな単純には突破できないらしく、バランスを崩して転びかけたところをなんとか持ち直した。ターニャの様子をうかがうと、左足首についていた護符も外れたようだ。
「……折れるかと思った」
ため息でも吐くかのようにぽつりとつぶやかれた言葉が胸に刺さる。早くそこから解放して治療してあげないと。
「待っててちょうだい」
「……」
返事はなかった。
唇を噛みながら突破口を考えていく。
ターニャを縛っていた縄に付着していた紙には文様が描かれている。魔法陣らしくないあれは、どちらかというと呪術の領域だ――だから『護符』と仮定した。
周囲を見渡すと、全体にいくつか魔術をかけているのだろう、壁や床に魔法陣が描かれている。下手に崩すと、崩しただけの代償を支払わなければいけなくなる。ターニャの安全を考えながらそれらを処理するとなると、石を奪取されている今は難しいかもしれない。
魔術と呪術という別種の術を扱う術師は割合としてはそれほど多くないが、全くないわけではない。現に、私も血液を用いることで魔術に呪術的要素を盛り込んでいる。ただ、この部屋ではこれらの要素があまり噛み合っていないように見えるのは気のせいだろうか。
呪術は畑違いなのでいったん横に置いておくとして。
最初の洞窟の仕掛け、それに世界樹。そして先ほど炎が予想以上に小さかったこと。それらの要素から、自然に影響する魔術であるとあたりをつける。理論は、四大元素あたりだろうか。オーソドックスだ。
確か、事前に目星をつけていた家系に、四大元素を研究している家もあったはずだ。四大元素であるならば、使用する魔術は錬金術だろうか。それにしてはこの部屋にはほとんど金属がない。私が座っていた椅子も木製だったし、部屋も木造だ。もちろん樹を扱う錬金術を専門とした魔術師がいないとは言えない。それでも、原子の構成が単純な金属を扱う方がよほど簡単で応用が効く。
錬金術……パラケルスス。いや、それなら四大精霊の方だろうか? となれば、おのずとどこの家系の魔術師なのかは絞られてくる。精霊を使役しているのであれば、私の目に見えないのも納得できる。それに、神域を囲った結界を簡単にすり抜けるのに、土の精霊の力を借りていたと考えると得心がいく。
よって、この目の前の障壁もなんらかの精霊の力を借りている――というのが自分の推理だ。見えないことからして、恐らく空気の精霊、シルフだろう。
となると、世界樹を見つける際に使った方法は利用できない。私の身体に文字を記すためには血を使うことになる。しかし、血液――つまり属性としては水を使った方法で障壁を抜けるのはリスクがある。うまくパスできない可能性の方が高い。
空気に文字を表すのも難しい。石があれば宙に配置するだけで済むのでそれほど難しくないのだが、こうなることを見越して石を奪ったのだろうか。
「ターニャ、あなたをそこに閉じ込めた人は何か言っていなかったかしら。ここに……見えない壁のようなものがあってそちらに行けないの」
「……特に何かを言ったりはしていませんでした。その見えない壁とやらを通る時も何かをしている様子はありませんでしたよ」
「……そう。呪文のようなものを唱えたり、誰かに話しかけたりも?」
「ええ」
問答無用で精霊を使役させているのだろうか? それほどまでに強力な魔術師だと言うのか。でもそれにしたら、私を拘束するのも物理的な縄を使用したりして、そんなに力量を感じられない。
逆に考えて、それほど魔術師として優れているわけではないのではないか? 精霊を完璧に使役しているのなら、私が炎を出すことすらできなかったはず。世界樹の結界をすり抜けるのにも洞窟を形作るのにも土が重要だとして、そのほかの精霊はそれほど強力に使役できていないのではないか。
そう仮定すると、何かのギミックがあるはずだ。
「――そういえば」
ターニャがふと何かを思い出したようだ。
「『見えないものはないのと同じ』と呟いていました。その、私をこのようにした人が」
「見えないものはないのと同じ……? まさか」
瞼を閉じて前に進む。そこに壁などないのだと信じながら。私は精霊使いではないので、彼らの姿が見えはしない。彼らが引き起こした結果だけが、私の目に映るのだ。しかし、精霊使いの瞳には私と違って彼らの姿が映っているはず。どうやら精霊を見ないようにすることで、その障壁をパスするように設定していたらしい。わざわざこんな設定を仕込んだのは、精霊使いとしての力量がそれほど上手ではないということだろう。いちいち命令するよりも、ひとつの命令をずっとこなしてもらう方がお互いに省エネルギーで済むというのもある。
瞼を開けばそこに、呆気にとられたような顔をしたターニャが座り込んでいた。
「ターニャ! よかった」
先ほど自分の縄を切る際に使用したナイフでターニャを拘束から解放する。彼女の目隠しを外そうとしたところで、自分の格好が酷いことになっていることに気づいた。このままだと、昨夜のように不信感を抱かせてしまうだろう。
昨夜の彼は。ミールは、とても妹をこんな目に遭わすような人ではないと思った。
私の身を本気で案じていたし――。
そこまで考えたところで、自嘲の笑みがこぼれた。それは一番私が分かっているはずなのに。
それより、今は目の前の彼女だろう。垂れ流しの血を指で掬い、身体のあちこちに塗りたくって誤認の魔術をかければ、彼女の目にはそれほど汚れて見えないはずだ。
「……随分と、あっさり入ってきましたね」
目隠しを外すと、彼女はこちらを一瞥して軽く頭を下げた。
「えぇ、あなたが思い出してくれた言葉のおかげかしら。見えなければ、壁なんてないと言うことらしいわ。……遅くなってしまってごめんなさい。足、怪我しているのよね。ほら、おぶさって?」
一刻も早くここから出て彼女を治療する必要がある。彼女は強がってはいるが、流れた血液量から見て相当消耗しているはずだ。
「………………いえ、これぐらい、何ともありませんから」
「だめよ、自分でしないならこちらが勝手にするわ」
その言葉にむかっとしたのか彼女の目に角が立つ。
「わかりました、足手まといとなって申し訳ありませんが、お願いします」
「足手まといだなんて思ってないわ」
それは本心だった。彼女と私では立場が違うのだから、足手まといだなんて思うはずがない。役目に順当に従っていれば楽でいられるのだから、彼女もそんな風に思いつめないでいいのに。そんなことを思うが、はたと、これでミールを随分と怒らせてしまったのを思い出して一度唇を閉じる。同じ失敗を二度としてはいられない。
「あなたは逃げていいし、逃げて正解なのよ。だから人を頼るのをそんなに忌避しなくていいわ。こんなことをするような家なら……」
飛び出したはずの家から、ずっと追いかけてきて、痛めつけて連れ戻す。そこは地獄よりもっと酷い。
「…………逃げて正解だったとは思ってますよ。貴方は随分変わり物ですね」
そんなのは魔術師の家では日常茶飯事で、だから私は彼女をこんな目に遭わせた人間たちを認めたくなかった。
どこかの誰かが泣いているのなら、できる限り手を伸ばしたい。
だけどそんな風に思うのだって、当り前のことでしょう?
「あなた、お家に今の居場所はばれてないの? ミールもあなたのこと探していたようだし」
「家族に居場所はばれていませんよ。それに……貴方のいう彼が貴方に会っているなんて……」
ありえない、そんなこと。
やっと音が言葉になったくらいの、かすかな声が耳元に届いた。
「それなら、いいのだけど。……どうしてそんなに否定するのか教えてくれないかしら? その口ぶりからするとあなたもミールを知っている、と言うことよね?」
最初は兄なんていない、と言っていたが、先ほどの『彼が貴方に会っているなんてありえない』という言葉はミールの実在が分かっているからの発言だろう。
「……個人的な話です、言いたくありません。赤の他人の貴方には」
「赤の他人じゃないわ。私とあなたの間には、もう縁が出来てしまったもの。それに、私は彼にもう一度会う必要があるの。あなたをこんな目に合わせたのが彼なんだとしたら、私は彼を放ってはおけないわ」
「……放っておけばいいでしょうに。その人も、私のことも。私のために怒る必要もない。そもそも他人なんてどうでもいい人たちばかりでしょう、貴方がたは」
洞窟で出会った時とはずいぶんと違う、とげとげしい言い方だった。
『貴方がた』だなんて言い方をするのは、もう十中八九魔術師のことを指しているとしか思えない。現に私は魔術師であると彼女に明かしてるし、術のミラーリングについても、記憶を消そうとして反発したのも、符号が一致しすぎている。
「あなたは……昔の私を思い出すからかしらね、放っておけないのよ。こんなむごいことを当たり前にするような人たちが、私は嫌いなの」
だからあなたの手助けをしたい、と言おうとしたところで、
「どの口が、それを言うんだ」
背中から心臓を射抜くような怒気があふれた。
ターニャは私の腕を振りほどくようにして、背中からすべり落ちる。立ち上がろうとして足首の痛みが勝ったのか、すぐにその場に座り込んだ。
「ちょっと! あなた怪我しているんでしょう!」
「……うるさい。偽善者に助けてもらいたくありません」
こちらを的確に穿ってくる言葉の矢に、私は苦虫を噛み潰した。
「…………自分でも、分かっているわ。こんなことを言っておきながら自分の魔術師としての立場も。それでも、私は研究のためにならなんでもする魔術師が嫌いよ。それは、本当なの」
魔術師は目指すもののためには何を踏み潰したって構わないという。そんな人間ばかりだった。根本から狂っていて、人を、家族を、こどもを、どれだけ研究や実験で傷つけようと屁でもないという顔をする。
私はそれを許容したくないのだ。
この身がどのように成り立っていようと、私は――。
「…………たとえ、それが本当だとしても。貴方は、魔術師となっているんでしょう。研究のためなら何でもする人たちのおかげで」
「ええ、そうよ。そんな魔術師のうちの一人よ。でも私が高位にあれば、少なくとも私の下にいる子たちぐらいは守れるようになるわ。そんなむごい実験もさせずに済む。もっと別の方法を見つけられる。私はそのために魔術師として存在しているの。……たとえ偽善者だと罵られようと、私はそれで構わない」
「……はっ、できる人はそんな上から目線で語れるんですね。うらやましい限りですよ、全く」
嫌悪感を隠しもせず、少女は吐き捨てるように言う。
「花開くだけのものを持ってるんだから、好きなことができる、好きな夢が見られる。……誰にだって必要とされる、求められる、どこにだって居場所がある。いい御身分ですね」
「……あなたのそれは、ただのひがみややっかみにしか聞こえないわ。居場所って地位とかそんなことを言っているの? あなたは偉くなりたいの? そんなの方法はいくらでもあるでしょう。でもあなたが求めているものってそんなこと? 居場所が欲しいのだというのなら、嫌だとは思うけど、私は受け入れることはできるわ。……どうやら、こちら側の人間のようだしね」
「――っ、お断りだ!! 僻むことしかできなかったんだよ、俺には!! お前の手をとらなくたって、俺にはもう居場所がある。あんたには関係ないだろう!!」
爆発するように声を荒げる彼女は、やっぱりミールと似ていた。
彼女の語る『居場所』は安心感には程遠く、手放さないように必死に追い縋っているだけのように見えた。
「そう。それは余計なことを言ったわね。でも何かあったらここに――」
連絡先を書きつけようとしたが、メモ帳なんてものはない。それらは一切合切犯人に没収されたのだから。私の所持する石を見て相手も大方何の魔術を使用するか感づいているのだろう。紙の類はこの小屋にはなかった。
しかしひとつ抜け目があったようで。彼女を傷つけていたこの護符の素材は紙だった。見たところ役目を終えたのであろうこの護符は、どうなろうとこちらに害を及ぼすつもりはないようで、静かに横たわっていた。
文字が書かれている部分を割いて念入りに術を解除してから、ダラダラと垂れ流しの血を右手で掬って電話番号と住所を記載していく。
はい、とそれを手渡そうとすれば、少女はぷいっとそっぽを向いた。
大変可愛らしい拒否の仕方だったが、私は彼女のポケットに勝手に連絡先をねじ込んだ。
「さて、結局ミールについては教えてくれないのかしら? 私の仕事としても、彼をこのまま野放しにはできないのだけど」
「……言ったでしょう。個人的な話です。話したくはありません。それに、先ほど会ったときは随分と彼に対して申し訳なさそうにしていたようですが、どうやら今はそうでもないみたいですね?」
嘲るような表情でこちらをねめつける彼女は、悪意を向けることで自身を守ろうとしているのだろうが、私には効かない。
「それはそれ、これはこれよ。彼が一般人で、私がただ単に傷つけたと思っていたから謝らなければと言ったの。でも、こうやって誰かを……近しい人を傷つけるのなら、私は許したくない。理由があったのなら話を聞かなければいけないわ」
傷つける理由を尋ねて、それが――それが同じならば、私は間違っていると伝えねばならないのだろう。
「最初にも言ったけど、あなたと過去の私が重なって見えるのも一因ね」
「……そうですか。重ねるのならご勝手にどうぞ。私としては虫唾が走るだけですが。それに、貴方が彼に会ったとして、彼は彼ではないでしょうから」
ターニャの言葉を信じるならば、この小屋に来る前に話した彼はミールの偽物なのだろう。ではその偽者は誰だったのか。
決まっている。『旦那様』だ。
彼女の口が堅いのも、旦那様に恩義があるのか、それともそういう契約を結んでいるからかは分からないが、上下関係があるからだろう。
「……彼については今あなたから言えることは何もないと解釈したわ。先にこの小屋を脱して治療しましょう。ほら、おぶさって」
表情はまだ不服そうではあるが、今度は素直に背から腕を回してきた。
「……」
「……」
沈黙の中、最近こんなのばかりだなと小さな呟きが聞こえた。
「口惜しい……。実に口惜しい」
そこに立っていたのは、ミール――の偽者だった。先ほど話した時とは別人のように、この世に恨みを持っているゴーストのごとく暗い表情でこちらをにらんでいた。
そうしているのもつかの間、ベリベリと鱗が剥がれ落ちていくようにその身から壮年の男が姿を現した。
「そうでなければと思っておったのに。お前が、ただ私の可愛い娘であればと。そうやって傍に置いてやったのが何故わからぬ?」
この人とターニャの関係は知れない。ふたりだけの間に入るつもりもない。けれど、この人はターニャを『ただの可愛い娘であれば』と言った。その期待は、どれぐらい彼女を苦しめるのか。
「ターニャをこのような目に遭わせたのは、あなた?」
背中に感じる重みを決して離さぬよう、腕に力をこめる。
「忌々しい……。甘い汁をすすって営利を貪る貴様に用はなく。――タチアナもろとも、死ね」
男がそう口にした途端、屋根が吹き飛ぶほどの勢いで小屋の中を風が吹き荒れた。室内でありながら猛烈な勢いで風が渦巻くのは、精霊の力を借りているという証左だろう。
あまりの暴風に立っていることもままならず、あれだけ離さないと誓ったターニャもろとも吹き飛ばされた。
ターニャも私と同様地に身を打ち付けたのが視界に入る。
それだけではない。
「かはっ……!!」
ターニャが喉を引っかくように首を握りしめる。まずい、酸素が薄くなっているのだ。
私は足から流れ出ている血を指に塗りつけ、ターニャの唇の隙間から口内に指をねじ込む。
「Védekezz!」
簡単な文字を組み合わせた術式を即興で作成し、口内をターニャ自身の空間へと書き換えた。これでシルフと言えど、そう簡単に侵入はできまい。指を引き抜いて、私の口腔にも同じく術式を施す。彼女にかけたものよりもっと簡易でいい。あの男はきっと私を狙っているわけではないから。
先ほど縄を切るときに用いたナイフを手にして、男の方へ突っ込んでいく。脅しとして振り上げたナイフは宙を燃やす炎によって阻まれた。その障壁の向こうで、男がつららに似た氷の矢を錬成する。正確には本人の魔術ではなく、水の精霊の力を借りて精製しているのだろう。ヒュンヒュンと放たれる矢を避けつつ、ナイフでえぐった腕を振るう。
「Tövisek, ragadjátok meg!」
飛び散った血液の上に足を踏みこめば、茨が地を這いだし、その棘でもってして男を絡めとった。同時に地の上を踊っていた炎が、私の血液に触れると小さく悲鳴を上げ消えた。本来であればソーンのルーンは炎と相性が悪いが、精霊が私の血液を嫌がったのだろう。
「はぁーっ、はぁーっ。精霊使い、スターリング家の魔術師ね」
私など見えていないかのように、男の視線はターニャから外れることはなかった。
「……裏切者め。お前さえ従順であれば。お前さえ私に忠誠を誓っていれば。お前さえ……お前さえ、いなければ……!!」
「黙りなさい!! 誰かを従わせせることが愛だなんて!!」
思わず口から飛び出た言葉を、唇で必死に塞いだ。
黙るのは私だ。
被害者に自分の姿を投影するほど醜い行為もないだろう。そもそも、投影してどうするというのだ。私はそこに手を伸ばしてはいけないのに。
大きく深呼吸して気持ちを宥める。
「ターニャ、彼の名前は?」
彼女に振り返って訊ねるも、無言で首を振るばかりだった。やはり、彼女の口からこの男の情報を明かせないのだろう。
「では、仕方がないわね」
自供してくれるのが一番なのだが、簡単にはいかないようだった。相手の精神に働きかける魔術を使えば、男の口も軽くなるかもしれない。尋問は得意ではないが、こんなことをした目的を聞かなければならなかった。
身体のあちこちから噴き出ているので、選びたい放題の血液を丁寧に指先に塗りつける。右腕に文様を描けば、じわりと右手が熱を帯びて感覚が研ぎ澄まされるのが分かった。これで皮膚同士の接触程度でも、相手の精神を揺さぶることができるはずだ。
「あなたには自分で話してもらうわ」
そして手を伸ばした瞬間、男はしなだれていた頭を上げうつろな瞳で私を見つめた。
「ここまでくれば、口惜しくもなし。全て無常と知り霧散するべし」
その瞬間、私には聞こえない声音で男が呪文を呟く。
――――だめだ!!
手を伸ばす。
飛び込む。
それと同時に、血を縦と横に引いて、――――熱は私の心臓にむかう。
そのルーンは、『流れ』を示すラグズだった。
簡単な矢印のような形で書きやすかったというのもある。なんだか、言い訳っぽくなってしまったが、でも、彼を自爆させるわけにも、彼女を巻き込むわけにもいかなかった。だから、彼が自爆を目的として精霊に放出させようとしたエネルギーの矛先を、私に向けたのだった。
後悔はしていない。これがきっと最適解だったでしょう。
ああ、でもこの後どうしようか。彼が生きているならまたターニャを狙うだろうから、彼女にはうまく逃げてほしい。
逃げて、逃げて、どこまでも遠く。誰にも何にも脅かされないところで、幸せに暮らしてほしい。
私にはできなかったことを、成し遂げてほしい。
私には叶えられなかったことを、あなたが代わりに叶えてくれるのなら、私は何だってする。私の身体が、私の心がどうなったって構わない。使い潰してくれていい。礎となれというのなら喜んで身を捧げる。
だからもう逃げていい。
私の手を離して、いい。
なのに、なんであなたはまだそこにいるのだろう。
炎の中にいるような熱さの中で、彼女の体温だけは不思議と心地よかった。
◆
ぼやけた視界の中で飛び込んできたのは、整った顔――至近距離のターニャだった。
「……!? わ、私、ひっ……枕……!?」
彼女の膝に頭を載せていたことに気づいて飛び起きる。どうやら気絶している間、彼女は膝の上で介抱してくれていたらしく、その事実に顔が火照った。
「……お元気そうで何よりです」
彼女はどことなく微妙そうな顔で、皮肉と取れなくもない言葉をかける。
「いや、え……私……そうよ、彼は!?」
そうだ、私はスターリン家の魔術師の自爆攻撃を全身に受けて――、それで?
「捕縛して向こうに寝っ転がしとるで~」
ひょっこり顔を出したのは、同僚であるアダンだった。
「アダン!? 何故ここに!?」
「まあまあ、僕はオズさんのお使いよお」
いつもと全く変わらぬ調子で、アダンはあっさりと対象を捕えたことを告げる。普段はおどけた雰囲気で茶化してばかりなのに、もしかして彼の実力は相当なものなのだろうか。
彼は目の前にしゃがみ込んで、私と目線を合わせて言う。
「頑張ったソフィアさんにヒントなんやけど、この洞窟誰が作ったと思う?」
太陽光がふりそそぐこの場所は、私が最初に落ちてきたのと同じ場所だ。ターニャかアダンかは分からないが、この部屋のスイッチとなる部分を起動させたのだろう。
「え……? それは、スターリング家の彼でしょう」
この事件の中心は彼のはずだ。最初に私とターニャをここに捕らえたのも、彼の策略だったのだろう。
「そうやんね。じゃあ、ソフィアさんはすっかり忘れとうみたいやけど、元々の目的は?」
「『世界樹の根』の違法取引についての調査……」
まさか!
ぐるりと周りを見ると薄暗く奥に何があるのかはよくわからなかった。
私の身体と周辺に転がっているのは、アダンに託していた非常用の石だ。
明かりをともす術式を仕込んでいる石を一つ選び薄がりに転がすと、輪郭を現したのは何を隠そう『世界樹の根』を大量に詰め込んだ麻袋だった。
「どうして最初に調査した際には見つけられなかったのかしら」
いや、さすがにこんなに堂々と置かれていたら最初の調査で発見するだろう。つまり、私が小屋で気絶している間に移動させてここに隠そうとしたのか。
「正解。ほしたらその『世界樹の根』、サンプルとして一部持ってってぇ。あの容疑者さんから同じ成分が検出されたら裁判にかけられるから」
「承知したわ。――ッぎ!」
立ち上がりかけたところで、身を裂くような痛みが右手首に走る。
「え……これ、なんで」
手首からは赤い管のようなものが伸びており、ぐしゃぐしゃに絡み合った末につながっていたのは――ターニャだった。
「私を見られても困りますよ。気づいたらこうなっていたのですから」
理由はいまいち分からないが、何故か私の中に格納されているはずの疑似神経が身体の外に飛び出しており、それがターニャに絡まってしまっている。
「……いまはほどけそうにないわ。あとできっちりほどくからとりあえず移動しましょう。…………その、あなたはわたしからあまり離れないで」
付け足さざるを得ない言葉に自分自身が動揺してどうするというのだ。別に屈強な男性というわけでもあるまい。私のパーソナルスペースは海のように広いが、そこにか弱い少女ひとり置けなくてどうする。そもそもそれほど変なわけでもない。欧州であれば肉体の触れ合いは日常茶飯事だし、こんなことぐらいでどうにかなったりしない。しないはず。ああ、頬が熱い。
――離れたくても離れられないんですけど。
ぽつりと隣を歩く少女がこぼす言葉は全く耳に入らなかった。
魔術師はいろんなタイプがいるが、魔術を使用する際に特定の文言を詠唱することが多い。かくいう私もその一人だ。そのため、捕縛をする際には口を封じる必要があり、準備の良いアダンはきちんと口枷を用意していたようだった。
もちろん、手足もしっかり縛って下手な動きはできない状態だった。私たちには見ることのできない精霊に、勝手に指示を出して先ほどのように自爆されてはたまらない。
彼の荷物と思われるバッグから魔術師証明書を発見する。これは魔術師界隈で使われる運転免許証のようなもので、身分証明に度々使われる。これがないと魔術を行使できないとか研究ができないというわけではないが――魔術師はやるなといわれても魔術の研究、研鑽をしてしまう性質なのだ――学会の一員ではいられない。私が異なった種類の魔術を取り入れているのも、学会で共有される研究結果を受けてのことだった。
魔術師証明書を見つけると同時に、小さな袋に小分けされた粉も発見する。麻袋の中にあったものと同じように見える。『世界樹の根』が違法取引されている証拠と言えた。
男の前に進んで右腕にある記章を示す。これは私が調停官であることを示す刺繍だ。
「リッキー・スターリング。調停官の名のもとに、世界魔術協会からの仮除名とします」
調停官が持つ権限の一つだ。正式に除名されるかどうかは裁判によって決定される。そのため、いまこの場では『仮』除名なのだ。
「裁判にかけられるまでに、あなたは拘置所に収監されます」
「あ、ソフィアさん。そのあとは僕が引き継ぎますよ」
調停官のお仕事はここまでやね、と言ってアダンはぱちんとウインクする。
「……そう。では、あなたの好きにしてちょうだい」
「ほいほい、っと。そしたらそっちのお嬢さんについてはソフィアさんに任せますねぇ。僕らは一足先にロンドンに帰っときますんで! 何かあったら呼んでください」
「ええ」
足早に男を連れてアダンは去る。
残されたターニャは「早くこれ、解いてもらえませんか?」なんていう。
私にとってはそちらの方が一大事だった。
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