第2の問題外:基礎的な法思想の欠如

 第2の問題は、テレビ的なセンセーショナリズムではあまり目立って取り上げられない場合もあるように見受けます。

「安楽死の解禁」が「将来的」に「安楽死の強制」「みたいな議論」が「出てくると思う」という点。

 どこの国、どういう社会でそういう議論が出てくると思うのか、全く分かりません。

 法学の一の一もわきまえない低いレベル、具体的にいえば学部1、2年の教養法学未履修程度の低レベルで、無防備なアドリブをさらしているのが致命的です。

 少なくとも現行の日本国憲法のもとで、このような「議論」が出てくる余地は微塵も存在しません。

 またかつて、團藤重光先生のお手伝いをしていた頃、右派から左派まで、様々なレベルの救いようのない「憲法改正草案」に目を通したことがありますが、その最悪のものでもこんな議論、すなわち「国民に安楽死強要」を容認するような条文の記載を見た記憶はありません。

 これは一人の東京大学教官として記しますが、ある分野で修士だ博士だとキャリアがあるように見えて、他の分野については普通の素人よりはるかに低見識というのは全く珍しいことではありません。

 法に照らせば明らかに抵触する内容を平気で口にする「専門家」はメディアでもしばしば目にされることでしょう。

 高齢者であるかないかに限らず「国民」に「安楽死を強要」する国家体制は、21世紀の国連加盟国で現実に考えることは困難。

 外道な無法が白日の下にさらされているウクライナ占領地でのロシアですら「集団移住」がせいぜいです。

 より性急な局面では虐殺が報道されますが「安楽死の強要という議論」などにはなりようがない。

 学識の欠如というより、高校~教養程度の学力がない子供のたわごとです。

 これも国際社会では笑いものになる程度ですが、心配なのは、そうした「たわごと」に左右されかねない「子供」への影響です。

 変に「インフルエンサー」になってしまったりすると、そうしたバカをマネする小バカが派生しないとも限らず、マス・メディアを通じた情報拡散の観点からも、釘を刺しておく必要があります。