会話

死にまつわる議論は配慮がいるが、学者としてあえて切り込んでいえば、戦後社会のひとつの特徴は、若い人が死ななくなったことである。かつて、すくなくとも戦前であっても、若者が最初に経験する死といえば、兄弟姉妹の死がほとんどだった。だが、いまでは最初の死はおよそ老人のものである。
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返信先: さん
この変化は、死の言葉をひとが避けるために表に出にくいとしても、ひとが意識的に思っているよりも非常に重い。年齢的には20代後半くらいから、祖父母の死を経験する、それが身近な人間の最初の死のケースになることが多いと思う。
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戦前と戦後にある、こうした死の配分の圧倒的な変化と格差は、望むと望まざるとにかかわらず、ひとつの社会的な変化と権力を生み出してしまう。かつて、若い「きょうだい」たちの命の軽さは、戦争を可能にし、また戦争に非常に重点を置いた権力構造を可能にしていた。いまはどうか。
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いまは反対に、老人は生きなければならない。それは、死を避けるべきという常識にしたがったまでだが、死に近い分だけ老人にはその配慮が圧倒的に必要とみなされる。老人の生は、いわば、今日の生命主義の象徴であり、この生命主義のために、老人は、医療の粋を尽くして生きねばならない。
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自分はこれは間違った生き方だと思っている。むしろ老人こそ、労働から解放されて《遊ぶ》こと、あるいは自分のためだけに真に《走る》が求められているのに、彼らは社会によって、方々からの——多くはもっぱら医療的な配慮により、生きさせられているのである。
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80を過ぎようと、90を越えようと、好きな旨い酒を飲むべきだし、生命主義のためにそれを控える必要もない。自分が老人なら、妙な気を回して孫がマスクを外さない、などという目にはあいたくない。孫でも子供でも、赤の他人のでも、笑顔が見たい。どうせ死ぬなら笑顔が見たい。
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結論をいえば、老人を攻撃する言説は完全に間違っているのだが、ならばなにが起きているのか。現代日本を覆うのは、一言で言って、「生命」主義である。生きるよりも「生命」を重視するこの主義のために、社会的配慮から老人は病院の近くで息を潜めて生きることを強いられるのだ。
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誰にとっても死は恐ろしく、それだけに死の配慮を求めるのだが、戦後社会における、誰にも襲い掛かるはずの平等な死の配分の圧倒的な格差のために、老人は社会的配慮を受けることを強いられ、こうして弱者であるはずの老人の重みに社会が耐えかねるような事態まで起こっているのである。
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ただ「生命」を長引かせるような生き方ではなく、若い男女を眺めて思い出に浸りながら、どこかの居酒屋で旨い酒を飲み、ときには旅をして、あるいは何かを学んで、新しい世界に足を伸ばす。足が痛いなら家で飲めばよく、あるいはストア哲学を学べば水でも酔うことができる。生きることである。
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真に「生きる」ということについての哲学の不足。「生きる」ことを医療言説に奪われて「生命」に変質させる、言い換えれば医療なしには生きられないというような転倒を転倒と思わない日本社会。これをもう一度反転させるような哲学が、求められているのだと思う。老人こそ生きねばならない。
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ともあれ、「きょうだい」の命の軽さが、戦前日本社会の戦争を可能にしていたとすれば、現代社会は、命の重さと、死の重みの配分が圧倒的に老人に偏っていることからくる非対称性が、ひとつの権力構造を作り出している。老人を攻撃して済む話ではない。これは、社会を覆う「生命主義」の産物と思う。
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ストア派の老哲学者クリュシッポスは自分の人生に満足を感じながら夕日を眺めていた。ふと気づくと、傍らのロバが自分の持っていた葡萄をすべて食べ尽くして酔っ払っていた。クリュシッポスはそれが可笑しかった。笑いが止まらなくなり、そのまま笑い死にしてしまった。これが生きること、人生だね?
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