藤田哲也。
あなたは、この名前をご存じだろうか?
日本ではほとんど知られていないが、世界では…
「藤田博士が日本で知られていない?そんなこと信じられません。だって、今、世界の飛行機が安全に飛べるのは、藤田博士のお陰なんですよ。」
そう、実は飛行機は、30数年前まである原因で18ヶ月に1度、墜落事故を起こすほど危険な乗り物とされていた!
そんな状況を変え、「世界の空を安全」にした人物こそ、当時、アメリカ最悪の墜落事故の謎を解いた、藤田哲也であり、彼が日本人だったからこそできたことなのである!
今から48年前の6月24日、午後。
約3時間前、ルイジアナ州ニューオリンズ国際空港を飛び立った、イースタン航空66便は、ニューヨークのJFK国際空港へ向け、着陸態勢へと入ろうとしていた。
乗客乗員は124名、子ども連れの家族も多かったという。
機長のケルヴィンは総飛行時間約2万時間の大ベテラン。
副操縦士のエバーハートも、機長への昇進を控えた経験豊富なクルーだった。
空港の北側に雷雲が出ていたが、着陸には全く問題のない程度だった。 副機長は、管制塔へ着陸許可を求めた。 気温は24度、風も微風で着陸には最高の条件だった。 この時、誰1人、想像すらしていなかった…彼らを待ち受ける残酷な運命を。
そして、午後4時5分、イースタン航空66便はJFK国際空港に向け順調に降下。
地上150m、あと数十秒で着陸するその時!
機体が一瞬、機首を上げた。
その直後、航空66便は墜落!!
乗客乗員124名のうち9名が一命を取り留めたものの、115名が亡くなる、当時のアメリカで史上最悪の航空機事故だった。
墜落までの経緯はこうだ。
着陸に向け降下していた機体は一瞬、上昇。
しかし、すぐに急降下に転じ、わずか数秒後、滑走路の端から730mにある進入灯に激突し墜落した。
この悲劇を受け、アメリカ連邦航空局は事故調査委員会を立ち上げ、すぐに調査を開始。
まず疑われたのは、機体の故障。
66便の機体は、ボーイング727。
非常に高性能で、当時は傑作機と言われるほど信頼性が高かった。
事故後、現場から機体の破片を集め、入念な調査が行われた。
結果、機体やエンジンに異常はなく、故障の可能性は排除された。
次に疑われたのが、操縦ミス。
フライトレコーダーを解析すると、不審な操縦の痕跡が発見された。
66便は着陸態勢に入り、地上約150mまで降下した時に突然急上昇。
ケルヴィン機長は操縦桿を押し、機体を急降下させたのち、再び上昇しようと操縦桿を強く引いていたことがわかった。
機長は会社からの信頼も厚いベテラン。
彼がなぜ、上昇と降下をすぐに行う不可解な操縦を行ったのか?
調査委員会はボイスレコーダーや管制官の証言などから、ふたつの奇妙な事実をつかんだ。
ひとつめは墜落の9分前、66便が使う予定だった滑走路に着陸した貨物機から着陸の直後に入った交信だった。
貨物機の機長は管制官にこう言っている。
「今後は着陸する滑走路を変えることを強く勧めます。進入経路の地上付近に強烈な“ウインドシアー”があります」
ウインドシアーとは航空用語で、風の急変を意味している。
つまり、滑走路への新入経路に強烈な風が吹いているという報告だった。
だが…管制官からの返事はこうだ。
「あなたが着陸した時は、向かい風で7mでした。」
一般的に飛行機は向かい風を揚力として飛行するので、強い向かい風が吹いていても、影響を及ぼさないどころか、むしろ最も着陸がしやすい。
つまり管制官は、報告にあったような着陸に影響する風は、全く観測されていないと返したのだ。
しかし、機長はこう言っている。
「そこで、どんな風が観測されていても関係ない!滑走路22Lには強風が吹いているから、滑走路を変えろと言っているんだ!」
ふたつ目は、墜落の6分前。
この時、着陸態勢に入ったものの一度中止し、再度機会を伺っていた航空機があった。
その理由を尋ねてみると…「強風のせいです。機体を右下に引っ張る強烈な風に遭遇。高度視界はマーカーの上ではゼロ、訂正、200フィート。いやゼロでした!」
数値を言い間違えるほど動揺した様子で風の急変を訴えていたが、その時も計器では強烈な風は観測されていなかった。
当時、上空には雷雲こそあったものの、着陸に影響がでるような風は観測されず、計器も故障していなかった。
このことから、墜落原因は機長の操縦ミスである可能性が最も高いと考えられた。
しかし、これに納得いかなかったのがイースタン航空の幹部たちだった。
ケルヴィン機長ほどのベテランが、操縦をミスするとは考えられなかったのだ。
だからこそ、墜落直前に交わされていたあの2機の通信が気になっていた。
2機だけが報告してきた謎の風。
あの時、実際、計器にはない風の急変はおきていたのか?いなかったのか?
イースタン航空の幹部たちは、これを解明できるのはMr.トルネードしかいないと考えた。
彼らはすぐにミスタートルネードなる人物が所属する、シカゴ大学に向かった。
ミスタートルネードの正体は日本人。
シカゴ大学教授の気象学者、藤田哲也という人物だった。
イースタン航空が墜落原因の調査を藤田に依頼した理由…それは彼が当時、アメリカで竜巻研究の権威として知られていたからだった。
それまで誰も解明できなかった竜巻の発生条件を特定し、自作の装置で再現、それを証明して見せたのだ。
竜巻などの自然災害は、大きさや強さなど、その規模を知ることが重要であり、現在、竜巻の規模はFスケールという単位で表している。
実はこれは「藤田スケール」の略であり、藤田が考案したものである。
また藤田は、竜巻の回転速度による違いをフィギュアスケートに例えてあらわすなど、難解な現象も図解し、わかりやすく解説した。
そのことからついたもう一つの異名が「気象界のディズニー」。
欧米の科学界では著名な存在であった。
こうして、当時、全米最大の飛行機事故に挑むことになった藤田。
彼がミスタートルネードと呼ばれるまでには、どんな過去があったのだろうか?
戦後まもなく、藤田が26歳、明治専門学校、現在の九州工業大学で物理学の助教授を務めていた頃。
彼は当時珍しかった気圧計や風速計などに興味を持ち、門外漢ながらその気象データを詳細に解析する作業に没頭していた。
当時、雷雲は上昇気流だけでできるものと知られていたが、藤田は、雷雲の中で下降気流も発生することを発見した。
日差しの強い日には、空気は地面で温められ強い上昇気流となる。
しかし、上空は冷たいので、冷やされて結露する。
これが積乱雲、いわゆる雷雲である。
空気内の水滴が大きくなると、雨などになり地上に降る。
当時、雨などは重さで落下するだけだと考えられていたが、実際は落下する時に周りの空気を引っ張り込んで、下降気流を発生させていた。
藤田は、この誰も知らなかった下降気流の存在を山で観測した気圧と風速の観測データから発見したのだ。
彼は3年後、この研究結果を論文として発表した。
だが、実はシカゴ大学の気象学の権威、バイヤーズ教授がこの2年前にこのことを発表していたため、世に出ることはなかった。
しかし、この論文がのちのミスタートルネードを産むことになる。
バイヤーズ教授の存在を知った藤田は、すぐに彼に連絡をとってみた。
藤田の才能に感銘を受けたバイヤーズ教授は、1953年、研究資金が豊富なシカゴ大学へ藤田を呼び寄せた。
そして、当時、アメリカで最も恐れられ、その発生の原因を掴めていなかった気象現象、竜巻、トルネードの研究を任せたのである。
藤田の研究姿勢は、他の研究者と全く異なっていた。
通常、推論を立ててから、その説の正しさを証明するためにデータや痕跡などといった情報を集める。
しかし藤田はその逆。
あらゆる情報を集めた上で、仮説を導き出した。
竜巻が起きると聞くや、必ず現地に飛んで行き、そこで竜巻の痕跡の写真を何千枚と撮りまくり、さらに目撃者にしらみつぶしにインタビュー。
ありったけの情報を集めた。
そして、竜巻の痕跡から藤田はある結論に達する。
「竜巻は雷雲の中で発生した風が地上まで伸びてくるに違いない。」
当時の通説では、地表付近のつむじ風が成長して、竜巻になるとされていた。
だが藤田は、まず上空の雷雲で回転する風が発生、それが上昇気流に巻き込まれると竜巻になると推測。
竜巻を作る雲「スーパーセル」の存在を提唱した。
だが、誰もその存在を信じようとはしなかった。
それ以来、竜巻が発生しそうな気象条件になるとセスナを飛ばし、スーパーセルを撮影するために全てを掛けた。
そして渡米から8年後、この日も竜巻の発生を観測しようとしていたその時だった。
ついに、回転しながら発達するスーパーセルを目撃、写真に収めることにも成功!
その存在を証明して見せた。
藤田はその4年後、アメリカ人でも殆どなることができない、シカゴ大学の気象学教授に就任。
世界的な権威となった彼を敬意と親しみを込め「Mr.トルネード」と呼んだ。
そんな藤田にイースタン航空は「謎の強風」の解明を依頼した。
しかし、藤田が調査を始めて間も無く、事故調査委員会は墜落の原因を「機長の操縦ミス」と断定した。
だが…藤田は経験豊富なベテラン機長が、墜落するほどの急降下をするような操縦ミスを起こすとは思えなかった。
例によって藤田は現場写真、気象データなどを徹底的に分析。
当時、空港付近で小さな雷雲こそ確認されたが、着陸に影響するような風や雨も観測されていなかった。
さらに、藤田を悩ませたのが謎の風があるという報告だった。
藤田は墜落直前の18分間を分析した。
風の急変を訴えた便もある一方、何も報告していない便もあった。
管制塔は風を検知できず、混乱していた。
雷雲が発生する時に下降気流も発生する。
だが、それならばもっと広範囲で他の滑走路の飛行機も遭遇したはず。
イースタン航空66便を含めた3機だけが遭遇することはあり得ない。
しかも雷雲のなかの下降気流は、通常、秒風速1mにみたないものであり、飛行機を墜落させることは考えられなかった。
謎の風の存在がMr.トルネード・藤田哲也を悩ませた。
依頼から数ヶ月が経ってもなお、事故の真相はまだ見えてこなかった。
調査を開始して数ヶ月後…過去の資料を見ていた藤田の手が1枚の写真で止まった。
それは、地表の木がなぎ倒された竜巻の痕跡。
実は調査を依頼される1年ほど前、藤田はアメリカ11州を襲った未曾有の竜巻大発生を調査。
その中で、奇妙な痕跡を撮影していた。
木が一直線に倒れていて、竜巻の特徴である回転した痕跡がなかったのだ。
それを見て、藤田は長崎の原爆を調査した時のことを思い出した。
1945年、藤田が日本で物理学の助教授をしていた時、長崎に原爆が投下された。
彼は調査団の一員として現場に入り、被害状況から爆心地を測定していたのだ。
その時、ある事実を発見した。
爆心地の木は燃えたものの真っすぐに立ったままであるのに対し、中心から離れるほど木はなぎ倒されていた。
竜巻被害のときの木の痕跡は、原爆の衝撃波の痕跡と同じだった。
藤田は、事故の際も滑走路上空に一時的に機体を墜落させるほど強烈な風、名付けてダウンバーストが起こったのではないかと考えた。
ダウンバーストが発生すると猛烈な風が地上に当たって放射状に広がる。
この時、広がった風の一部が巻き上がる。
つまり、66便は不幸にもダウンバーストに巻き込まれ、混乱の中、墜落してしまったと考えたのだ。
もしダウンバーストが発生していたのであれば、その存在を知らないパイロットにはどうしようもなく、操縦ミスではないことになる。
藤田はイースタン航空66便墜落の原因をダウンバーストと断定、報告書を発表した。
だが、藤田が説明しても、誰もダウンバーストが起きたことを信じなかった。
それもそのはず、ダウンバーストと呼ばれる衝撃波のような強い下降気流は、これまで一度も観測されたことがなく、その痕跡も発見されたことがなかったからだ。
さらに、通常論文を発表する際には査読と言って、他の研究者からの疑問や質問に答えてから出すのが当たり前だった。
しかし、藤田はその査読をせずに発表したのだ。
分かっていないだけで、過去にダウンバーストによる事故は起こっていたはず、そしてこれからも起こりうる。
そのため、一刻も早く対策をする必要があると考え、いち早く発表したのだ。
しかし、藤田の話に耳を貸すものはいなかった。
局地的に、かつ、ごく短時間で起こるダウンバーストを観測できる機材などなく、証明のしようがないと考えられていたのだ。
そんな時、アメリカ国立大気研究所の職員のである、ジムという人物が藤田に声をかけてきた。
雲にレーダー波を照射、そのレーダー波が反射して帰ってくる波長の長さによって、内部の風の状態を検知する装置、ドップラーレーダー。
当時、開発されたばかりの最新の気象解析レーダーで、アメリカに数台しかなかった。
ジムはそのレーダーの運用者だった。
こうして事故発生から3年、ダウンバーストの観測を目的としたプロジェクトが始まった。
場所は雷雲が発生しやすい、イリノイ州シカゴ郊外。
そこにドップラーレーダーを配置し、ダウンバーストを探すのだ。
与えられた時間は43日間のみ、それが予算の限界だった。
何日たっても、雷雲が現れる兆候さえなない、まさに雲をつかむような日々が過ぎ去っていった。
観測を始めて11日後、ダウンバーストが発生!
雷雲から振り下ろす、秒風速31メートルという台風並みの風を観測した。
現場でその瞬間を目撃したジムはこう振り返る…
「観測所からあまり遠く無い距離に雷雲が見えました。レーダーを確認した藤田博士がダウンバーストだと興奮して叫びました。私達はすぐに外に確認しに行きましたくと、するとダウンバーストが私達を襲ったんです。とても強い風で、近くに湖があったのですが、そこに吹き飛ばされそうになりました。私たちはダウンバーストを観測するだけでなく、体で感じることもできたんです」
この日、藤田たちはダウンバーストの存在を世界で初めて証明した。
だが、この観測だけですべては解決しなかった。
これは、遠くにいた藤田たちが感じられた大きさ、事故の時も同程度だったなら、滑走路全体に影響が出ていたはず。
他に風を報告した飛行機はなぜいなかったのか?その理由の説明にはならなかった。
実は、藤田はこの答えも導き出していた。
ダウンバーストの中には、ごく狭い範囲にだけ発生する「マイクロバースト」があり、その場合、他の滑走路を使っていた飛行機には影響を与えないと考えたのだ。
その大きさが滑走路よりも小さかった場合、一部の飛行機にしか影響を与えないと考えた。
藤田はその存在を証明することで事故の原因を完全に解明できると考えていた。
墜落から7年、ドップラーレーダーを3基配備した新たな観測計画がスタート。
すると、すぐにチャンスが巡ってきた。
観測基地の上に雷雲が発生した。
ところが…なんと雷雲のすぐ近くにある一基が故障してしまったのだ。
故障したレーダーは左右には動かないが上下には動く状態だった。 そこで藤田は垂直に上に向けてダウンバーストを狙うように指示した。 冷静に対応策を見出したその数分後、藤田のアイディアが功を奏した。
そして、マイクロバーストの観測に成功!
マイクロバーストがレーダーに直接吹き下ろしたため、発生から消滅までの完璧なデータが得られたのだ。
分析の結果、幅300mのマイクロバーストと断定。
最大秒速80m以上もの下降気流を起こし、数分で消えてしまうことも判明した。
この大発見は、アメリカのみならず日本でも新聞に掲載されるほどの衝撃を与えた。
観測計画で得られたデータはそれだけではなかった。
期間中、200を超えるマイクロバーストを観測。
あまりの頻度に藤田も驚いたという。
さらに、全ての雷雲で発生するわけではないため、事前に発見するのは、極めて困難なこともわかった。
この観測計画の結果を受け、事故発生から7年、ついに事故調査委員会は、墜落原因を機長の操縦ミスではなく、マイクロバーストであると断定した。
さらに検証の結果、墜落した66便と直前に着陸した航空機は、数分の差でその運命を分けていたことが分かった。
だが、マイクロバーストの存在が証明されてから1か月後、悲劇が起こった。
ルイジアナ州ニューオリンズ近郊で、飛行機が空港を離陸直後に墜落。
乗員・乗客145名が死亡する事故が起きてしまったのだ。
原因はマイクロバーストだった。
この悲劇をうけ、航空業界は対策に乗り出した。
藤田の観測したマイクロバーストのデータをフライトシミュレーターにインプット、知識と共に遭遇した際の回避方法を学ぶ訓練を実施。
実際に1997年7月、5機のユナイテッド航空機がマイクロバーストに遭遇。
しかし、訓練のお陰で無事に切り抜けたという。
さらに藤田の協力の元、現在はマイクロバーストを検知する空港専用のドップラーレーダーが、世界中の主要空港に配備されている。
こうした努力もあり30年近くマイクロバーストによる墜落事故は、1件も起きていないという。
ジムはこう話してくれた。
「以前は18ヶ月おきに空港で墜落事故が起きていました。レーダーが導入されてからマイクロバーストによる墜落はゼロです。まさに藤田博士が世界の空を安全にしたのです」
ダウンバーストの発見から11年後、藤田は気象界の最高栄誉とも言える「フランス国立航空宇宙アカデミー賞 金メダル」を受賞。
他にも数々の賞を授与された。
30数年前まで、世界一危険な乗り物とも言われていた飛行機。
しかし現在では、搭乗中に死亡事故に遭遇する確率は10万分の1未満と言われ、交通事故の死亡率を下回っている。
飛行機を「世界で最も安全な乗り物」の一つに変えたミスタートルネード・藤田哲也は、ダウンバーストの存在を証明してから16年後、シカゴの自宅で静かに息を引き取った。
しかし、日本では新聞数紙が短い記事で伝えただけだった。
今では当たり前になった、快適で安全な空の旅。
それは、異端の気象学者・藤田哲也の不屈の研究者魂がもたらした、知られざる闘いの成果だった。
飛行機を最も安全な乗り物の一つに変えた藤田哲也。 彼が日本で知られていない理由の1つが、全ての研究をアメリカで行っていたため、日本には年に数回帰る程度だったから。 亡くなる前に糖尿病を患い、自宅で闘病生活を送る中、その研究心は消えることなく、彼の死後、こんな論文がみつかった。 表紙に「生存中は機密」と書かれた文章のその内容は、自分の足の痛みや温度を記録し、分析したものだった。
研究のため、アメリカ国籍を取得した藤田だが、晩年は故郷である北九州に帰りたがっていたという。 弟に送ってきた手紙には、「哲也はアメリカに骨を埋める気はありません。必ず帰ります。」と書かれていた。 亡くなったのはアメリカだったが、現在は小倉の藤田家の墓で両親とともに眠っている。
日本ではあまり知られていない藤田だが、現在はその功績を見直す動きも出てきている。
地元にある北九州科学館には、去年4月から「藤田哲也顕彰コーナー」が設置された。
中でも高さ約10mのトルネード発生装置が人気で、竜巻発生の原因を詳しく知ることができる。
最期まで研究に生きた藤田。
彼は生前こんなことを語っている。
「全ての批判や意見の対立も今ではいい友達ですね」
世に知られていなくても、批判を恐れない藤田の信念が世界の空を安全に変えた。
その功績は永遠に残っていく。
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