もしも美徳の道に生えている茨が、悪徳の道に生えている茨と同じほどの量だとしたなら、いったいなぜこの二つの道の選択にあたしたちは頭を悩ますのでしょう

マルキ・ド・サド 『悪徳の栄え』


画像はマルキ・ド・サド
恥の多い生涯を送って来ました。
彼岸と申します。わたくしに関して語るにはこの余白は狭すぎるのですが、かと言って、いざパソコンに向かうと、わたくしに関して語ることは何もないのです。
まぁ、良いでしょう。わたくしは、富山県のとある寒村に生まれました。その地方では有名な会社の経営者であった曽祖父の大屋敷に住んでおりましたが、父は劣悪な労働環境の会社に勤めており、父と母とわたくしの3人で暮らしていくので精一杯であったと聞いています。 その後、父は金沢にて起業する運びとなり、わたくしたち家族は金沢に引っ越したのでした。父の事業は軌道に乗り、以前の会社で1年かかっても稼げなかった金額を、1ヶ月で稼ぐようになったと聞いています。
わたくしは、祖母の勧めで国立の金沢大学附属幼稚園を受験し進学します。その後、同大学附属の小学校に進学するのですが、わたくしが小学4年生だった時に、事件が起きます。
父は、その頃、原発事故の除染の仕事を政府から請け負っておりました。総理以下大臣全員と仕事の打ち合わせで会ったこともあるのです。仕事の規模は8000億で、この仕事を完遂すれば、わたくしたちは、孫の孫の代まで悠々自適の生活が送れたのでした。
事件というのは、その絶頂期の真っ只中に起きたのでした。父は酒を好む人でしたが、ついに、酒の影響で脳出血になり、救急車に運ばれる事態になったのです。 それからのことは、ここに書くために記憶を辿るのも嫌なことなのですが、わたくしたち家族は没落していきました。
それでもなんとか最低限の生活をしてゆき、父は再び事業を起こし、わたくしは金沢大学附属の高校に進学しました。
ですが、そこでもわたくしは困難に立ちはだかりました。高校はこれまでとは違い、忙しすぎたのです。平日はもちろん、休日も休みなく勉強の毎日で、わたくしなどは中学までは勉強に苦労しなかったものですが、高校に入ってからは状況が一変しました。
次第に疲労が蓄積し、気付けば理由もなく涙が流れる毎日で、高校では成績が下がっていき、そこで人生で初めて成績のことで先生に叱られたのでした。 わたくしは、いわゆる不登校になり、両親の努力のおかげで卒業こそしたものの、進路は全く決まりませんでした。
現在、わたくしは、本当にお恥ずかしい限りですが、浪人生をしております。「あの東京の大学」の文科二類を志望しております。いつの日か、「市民的エリート」になることを目指して。