会話

そもそも「社会」の語が熟する明治に至る前に、福沢諭吉はsocietyと世間を明確に区別してたからなぁ(➡翻訳語成立事情)。 社会と世間では構成単位としての個人のあり方が違う。にもかかわらず日本人は相変わらず社会は世間の拡大と勘違い。文化の源泉としての世間は残しても社会と区別はしなきゃね。
引用ツイート
新家博/Niinomi Hiroshi
@ashikabiyobikou
少し前から social と「社会的」の意味の違い、それに伴う用法の違いが非常に気になりだした。日頃、英語を教えていて socialの日本語訳が非常にやりにくい。したがって、文脈での意味を汲み、「解説的」なsocialの意味合いで訳してきた。
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返信先: さん
福沢諭吉はsocietyと世間の違いに苦しんだと思いますが、今の学者とか進歩的文化人や評論家がどれくらい苦しみ、世間と社会の違いを考えているのかは少々疑問です。ましてや一般の人は社会が世間に変化している可能性など思いもよらないことだと思います。区別以前のことだと思いますね。
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返信先: さん
そこは同じことを思いました。 そもそも世間は「目に見える関係」と「目に見えない目」の両方があると思いますが、情報化が進み社会が世間化していると。社会は個人の契約と参与を基調としたものなのに、結局のとこ社会まで世間化している人が増えて変に監視社会化してるとか、そういう感ありますね。