近藤啓二@ZePUNK①極端な言い方をすれば、現代人が堅持している「私」自我と言うものは、本来ない。 自我と言う意識は「見ている相手が見ているものは何なのか」を出発点としている。 自分自身と言う人間像は「目の前に見えている存在をモデル」としている。 いわば自我ではなく「他我」だ。引用ツイートドーム映像作品 HIRUKO【公式】改め「ユリシーズ」になります@Fulldome_HIRUKO·2022年12月26日最上さんの稽古と言葉を追い、本番に臨む稽古場生の姿をドキュメンタリー作品に出来たのはこれまでプロジェクトを共にしご自身もお稽古に通われた近藤監督がいてこそでした。 ボリュームある3本立て配信映像視聴チケット販売は【12月31日まで】で、視聴期間は3/18までです https://vimeo.com/ondemand/20221204hiruko…午前6:21 · 2022年12月31日·3,138 件の表示6 件のリツイート1 件の引用ツイート15 件のいいね
近藤啓二@ZePUNK·2022年12月31日返信先: @ZePUNKさん②自我というものが、信じられているほど絶対的ではないというのは不安な話だが、これを確かめる方法として、1つは文献からの考察がある。 聖書の「アダムとイブは知恵の実を食べて自分たちが裸であると気づいた」。 「他者の目線の中で自分達の姿を発見した」ことを意味している。 126215
近藤啓二@ZePUNK·2022年12月31日③自我は、はるか古代から人類普遍だと信じられてきたが、歴史としてそれほど古いものではなく、成立してたかだか2000年くらいしか経っていない。 聖書と同じ程度の時間しかないということだ。 ではそれ以前、人はどのような意識状態だったのか。 現代のような「私」という一人称はなかったそうだ。14150
近藤啓二@ZePUNK·2022年12月31日④古代の私とは、「主観的視野の中に広がる世界、それら全てを指していた」。 原始的な部族信仰に、母なる大地を掘り起こす農業を否定するものがあるのは何故か。 ネイティヴアメリカンは何故、鳥や獣に自分のスピリットを見出せるのか。116197
近藤啓二@ZePUNK·2022年12月31日⑤ にわかに信じがたい話だが、古代における人間的な「私」とは「時折、視覚の中で姿を現し、こちらに話しかけ、笑い、嘆き、そして小さくなって消えていく」、人型の存在、つまり「あなた」に大きく重ねられていたのだと思われる。 知恵の実を食べた現代の「私」は、それが反転して14143
近藤啓二@ZePUNK·2022年12月31日⑥自分の中に閉じ込められたものになっている。 この意識状態を現代まで継承している稀有の民族がいる。 その1つが日本人である。 これは日本語の語順から考察出来る。13121
近藤啓二@ZePUNK·2022年12月31日⑦日本語の「私はリンゴを食べる」は「リンゴを食べる」としても意味は通じる。 英語では命令形になるため、主語は変わってしまう。 「リンゴを食べる」は、英語のような述語が目的語に働きかける冷たい対象物感覚はなく、見えざる虚の主語とリンゴが一体となった言葉である。12128
近藤啓二@ZePUNK·2022年12月31日⑧ 日本人の自我の希薄さは欧米から誤解されているが、そもそも自我こそ人口増加で起こった民族衝突の結果、緊急避難的に急造された「とりあえずの意識状態」でしかなく、日本人の意識にはマッチしないからだ。 欧米の頑迷な個人主義は、日本人には孤立感しか生まない。113143
近藤啓二@ZePUNK·2022年12月31日⑨ 我々が万世一系の皇室を保たなければならない理由は此処にある。 こうした文献からの考察以外で、もう一つ確かめる方法がある。 それは自分自身の身体感覚を、もう一度深く観察する方法である。13130
近藤啓二@ZePUNK·2022年12月31日⑩ かなり粗い言い方になるが「視覚、聴覚などなど肉体機能から入力された様々な情報を今一度、俯瞰して観察することで、自動的な処理に成り果てている身体感覚をリセットする」と言い換えられるかも知れない。113161
近藤啓二@ZePUNK·2022年12月31日(11) 今回、監督させて頂いた「コロス 彼岸と此岸をつなぐ者」は、原初舞踏の創始者・最上和子師の発言を出来るだけ系統だてて整理した身体論入門を目指した。 この映像では、最上師によって、重力と肉体の関係を結び直す事を手始めに「自我というものが、いかに盲信に近いものでしかないか」を128348