チューハイが甘すぎるのでジンに
した。
氷が切れたので、冷蔵庫の氷も
使った。
ジンいいねー。
大人の味。
ってもう大人すぎっけどよー。
死に際のほうが近えぜ。
初めて飲んだジンは、神保町の
JAZZ喫茶「響」でだった。
きっかけを作ったのは後に5浪
して早稲田に入った奴だった。
5浪してまで執着する大学かよ、
とは思うが、例によって奴も
早稲田を中退した。
俺が知ってる同級生の早大進学
者は全員中退している。
そして、奴はカメラマンになって
世界を放浪して紛争地で子ども
たちの写真を撮る生き方をした。
俺らが高2の時に撮ったフェリー
ニにインスパイアを受けた自主
製作映画の主人公を演じた奴だ。
東大の五月祭で「高校生が面白
い映画を作った」と学祭期間中
に上映された。演出は私。
高校の文化祭で上映の際に学校
当局から上映禁止措置があった
ならば、スタッフ全員はバリで
上映する血盟を交わした。
私は機動隊導入の際の戦闘対策
を担当した。バリ封オーライ。
S特進のクラスメートのそいつ
と学校帰りにその店でジョージ・
ベンソンを聴きながら生まれて
初めてジンを飲んだのだった。
大人の世界への扉が開いた。
理由無き反抗をする奴らは、何も
勉強ができなくて学校嫌いな奴と
は決まってないのが東京の色だっ
た。
地方に行けば行く程、ツッパリや
反抗者は勉強ができなくて何も
出来ない、やろうとしないでただ
荒れているだけの層という図式が
あった。
それらは不良少年ではなく、非行
少年でしかなかった。
俺の時代は、浦和第一高校の奴も
都立日比谷の奴も一緒に土曜の夜
に走ってた。
メットを脱ぐとリーゼントだ。
それが東京のテイストだった。
ツッパリも不良少年も、勉強嫌い
の勉強も何もできない層ではない。
学力と行動様式は比例などしない
ダイナミックな世界観があった。
そうしたくだらない枠さえ自ら
破壊していた。
「文学界」を読む暴走族もいた
訳だ。
そして、東京の特色は、そうし
た「枠などない共生」が存在し
た事だった。
学力偏差値で人間が枠組みされ
る当時発生し始めた構造を我々
は破壊していた。
だが、これは、東京特別区内の
特別な現象であり、全国的には
「勉強がからきしできない者」
が高校生やりながら非行少年
の層を形成していた。
東京以外、偏差値65以上であり
ながらツッパリや暴走族やって
た事例は皆無に等しいのではな
かろうか。
ジンの味を知ったのは、そんな
まだ宇宙を獲得できると信じて
いた、いざよいの歳だった。
くだらない垣根や枠を粉砕して
俺らが新しい世界を作ると思っ
ていた。同期の仲間みんなが。
トロい状況の駿河台の大学の
フロントサークルボックスに
も入り浸って、大学生を逆オル
グしていた。それまでの大学生
の指導下にある組織ではなく、
新時代の枠なし新組織建設を。
ただ、理論武装がやはり高校生
は大学生より脆弱だったので、
ずっちい大学生はいつもそこを
突いて論破しようとして来た。
でも、現実戦闘になったらどう
です?て返すと、一瞬口ごもる。
戦闘は練度であり、マルクスを
よく知る者が勝つのではない。
また、三島を知悉する者が勝利
するのでもない。
これは絶対定理だ。
連赤とブント赤軍派の失敗を君
たちはどう総括するのかと。
三島の絶望感と死を君たちは、
どう血肉化しようとして、現実
に行動しているのかと。
大学生は黙った。
軍事のど素人が天下を取った歴史
は人類史には無い。
話戻るが、大学において、真の
危険を恐れぬゲバリスタたちは
地方出身者よりも東京出身者に
多かった。
私の時代、これは一つの現象と
して。
これは、高校時代、通学するだけ
で「常に臨戦体制」という特殊な
時代を経験してきたからではなか
ろうか。
地下鉄でも、国電でも、都電でも、
常に一触即発の状況があった。
15才から18才まで、毎日がそれ
なのである。東京特別区は。
そうした中を「日常」として生き
てきた。
地方の牧歌的なノホホン環境とは
大違いなのだ。
ちなみに、右翼の雄の国士舘高校
出の連中は、ほぼ全員に近い者が
機動隊員か自衛官かヤクザになっ
ていた時代だった。
これ、事実。
私の時代の自衛官新入隊員。
出がどこか即判る。
機動隊という警察官の一部も
漏れなくこれだった。
左翼の連中は、身体鍛えたほうが
実利あるよ。
資本論読むよりさ。
これ、まじで。