春のあたたかさはまだ感じられないが、刺すような風の冷たさはなくなった。
晴れていればもっとよかったが、あいにくの曇り空の下、閉館1時間前の新宿御苑に向かう。
そう言えばあの時もこれくらいの時間だった、と思った。
閉園まであと少しの、ほんのわずかな時間しか一緒にはいられないと知っていた。
道の向かいにあるセブンが目に入った。
そうだ、あそこに立ち寄ってビールと鮭ハラスのつまみを買ったんだった。
平日の新宿御苑は、桜の季節以外なら人はそれほど多くない。
見かけるのは外国人の旅行客ばかりで、なんとなくあたしもstrangerになったような気持ちがした。
それでいいな、と思った。
この街の、みんなが誰もstrangerみたいに思える空気が好きだった。
新宿門の手前で、オレンジの髪をした黒ずくめの男の子と、田舎のギャルみたいにジャージ姿のゆるい格好をした女の子のカップルが、ワーキャー言いながらあたしを追い越していった。
strangerだらけのこの街ですらちょっと浮いた風なカップルの男の子のほうが、外国人の一団に向かって「フリーハーグ!」と叫んだ。
入口の前で集まっていた何人かの外国人が笑顔で相手をしてくれると、カップルは「ヤバくね?」「マジだー?けっこうイケるね!」と喜びながらチケットを買って、ゲートの中に入っていった。
あたしは、泣いてしまいそうだった。
あの2人は、今日のこの瞬間を、いつまで覚えているだろうか。
何年経っても一緒にいて、今日のことを隣にいて話しているだろうか。
それともここへは結局一度きりしか来なくて、すぐに離れ離れになって、いつかまたここへ来たときに、そんなこともあったなぁ、と思い出すのだろうか。
それとももう新宿御苑になんか二度と来ないのだろうか。
今日だってどこか遠くからやってきたような二人だった。
あたしはいつだったか、ここへ一緒に来た男の子のことを思い出していた。
あの日確かにあたしの隣にいて、この芝生の上を一緒に歩いたあの子はもういない。
死んだわけじゃないが、どうやらもう会えないらしい。
あんなに確かに存在してたのに、これじゃまるで幻みたいじゃないか。
ここへ来たことだってちゃんと覚えてるのに、誰も証人なんかいないから、嘘みたいじゃんか。
と、思ったら、泣いてしまいそうではなくて、涙が止まらなくなった。
あの子、どこにいるのかな。
今ここで、奇跡みたいに出会えたらいいのになー、と思った。
すっきりしない空模様が、寂しかった。
早く春になればいいのに、と思った。
誰にだかわからないけれど、お願いしてみたかった。
向こう側からあの子が歩いてきますように、向こう側からあの子が歩いてきますように!
そんなことは起こるはずがないので、あたしはお願いしながらただずんずん歩いてるだけの女だった。
晴れていればもっとよかったが、あいにくの曇り空の下、閉館1時間前の新宿御苑に向かう。
そう言えばあの時もこれくらいの時間だった、と思った。
閉園まであと少しの、ほんのわずかな時間しか一緒にはいられないと知っていた。
道の向かいにあるセブンが目に入った。
そうだ、あそこに立ち寄ってビールと鮭ハラスのつまみを買ったんだった。
平日の新宿御苑は、桜の季節以外なら人はそれほど多くない。
見かけるのは外国人の旅行客ばかりで、なんとなくあたしもstrangerになったような気持ちがした。
それでいいな、と思った。
この街の、みんなが誰もstrangerみたいに思える空気が好きだった。
新宿門の手前で、オレンジの髪をした黒ずくめの男の子と、田舎のギャルみたいにジャージ姿のゆるい格好をした女の子のカップルが、ワーキャー言いながらあたしを追い越していった。
strangerだらけのこの街ですらちょっと浮いた風なカップルの男の子のほうが、外国人の一団に向かって「フリーハーグ!」と叫んだ。
入口の前で集まっていた何人かの外国人が笑顔で相手をしてくれると、カップルは「ヤバくね?」「マジだー?けっこうイケるね!」と喜びながらチケットを買って、ゲートの中に入っていった。
あたしは、泣いてしまいそうだった。
あの2人は、今日のこの瞬間を、いつまで覚えているだろうか。
何年経っても一緒にいて、今日のことを隣にいて話しているだろうか。
それともここへは結局一度きりしか来なくて、すぐに離れ離れになって、いつかまたここへ来たときに、そんなこともあったなぁ、と思い出すのだろうか。
それとももう新宿御苑になんか二度と来ないのだろうか。
今日だってどこか遠くからやってきたような二人だった。
あたしはいつだったか、ここへ一緒に来た男の子のことを思い出していた。
あの日確かにあたしの隣にいて、この芝生の上を一緒に歩いたあの子はもういない。
死んだわけじゃないが、どうやらもう会えないらしい。
あんなに確かに存在してたのに、これじゃまるで幻みたいじゃないか。
ここへ来たことだってちゃんと覚えてるのに、誰も証人なんかいないから、嘘みたいじゃんか。
と、思ったら、泣いてしまいそうではなくて、涙が止まらなくなった。
あの子、どこにいるのかな。
今ここで、奇跡みたいに出会えたらいいのになー、と思った。
すっきりしない空模様が、寂しかった。
早く春になればいいのに、と思った。
誰にだかわからないけれど、お願いしてみたかった。
向こう側からあの子が歩いてきますように、向こう側からあの子が歩いてきますように!
そんなことは起こるはずがないので、あたしはお願いしながらただずんずん歩いてるだけの女だった。
本当に、あぁどの一瞬もすべて過去なんだな、と心の隅々までわかった。
芝生がずうっとあちらまで、とんでもなく広がっていて助かった、と思った。
大人数の男女で走り回る大学生や、赤ちゃん連れのママたち、腰に手を回して寝そべるカップルなどがぽつんぽつんと点になるくらい広い地面の上を、あたしは端の方まで泣きながら歩いた。
歩いてゆくと、どのあたりに座ったかということまで思い出せた。
でも、どんな話をしたかまでは思い出せなかった。
芝生の上に寝転がって、コンビニのビニール袋にビールを隠しながら飲んで、ただそれだけが楽しくて、あっという間だった。
閉園を知らせる蛍の光の音楽が恨めしかった。
ずっといたかった。
夜まででもいたかった。
この場所が好きだった。
こんなに贅沢なことはないな、と知っていた。
暗い夜の酩酊の中ではなくて、昼ひなかにただ空を見て、ただ木々の葉が揺れるのを見て、喋ったり喋らなかったり、他の男を思い出してみたり、泣きそうになったり、目を見つめたり、横顔を見つめたり、好きに目を瞑ったり、した。
睦んだりもなにもしなくっても、楽しかった。
そういうことが一緒にできる男の子だった。
それがどれだけ尊いことかは、その子より長く生きているあたしにはよくわかる。
あたしの感じている気持ちがその子にわかってもらえるとはまるで思わなかったが、でもそれでよかった。
わかるはずもない。
だからあたしは、その子と会うときはいつも、泣きそうだった。
絶対に共有できない気持ちを抱えたまま、今が思い出になることがわかっているのに、「今」に生きている振りをしていたから。
失ってしまう時間だとわかりながら同じ時間を過ごすということは、未来からやってきて、もう一度過去をいとおしんでいるような気持ちに似ていた。
それでどうにもあたしは、いつもふわふわしていた。
その子の10年後はまったく想像がつかなかった。
1年後もおぼろだった。
この街から離れても、少しはあたしのことを思い出したりするのかしら、と思ってみたこともあった。
考えたってわかるわけがなかった。
あたしだけがきっとたくさん思い出を覚えているだろうことは間違いなかった。
だってあたしのほうがその子より存分に長く生きていたから。
いつかは会えなくなると完全にわかっていたはずなのに、それはもっと先だとばかり思っていた。
穏やかだけど獰猛な緑の中から、小汚なくて忙しない新宿の街に放り出されると、あたしは、また来ようね、などと呑気に言った。
長く生きてたってそういうことはひとっつもわかってなかった。
もし会えなくなったとしても、自分はそんなに感傷的にはならないはず、と思っていた。
幻みたいな子だと、十分承知していたつもりだった。
それなのどうして未来を信じたり、今を手放したりしちゃうんだろう。
もうけっこうな大人になって、少しは辛いこともあったしけっこう冷めた気でいたけれど、自分がいつまでもロマンチック信じてるガキみたいに思えた。
夜へ向かいつつある気忙しい新宿の街を歩きながら、1杯飲む?と誘うと、ごめん俺もう行かなきゃなんだ、と言って、靖国通りの向こう側、結界の張り巡らされたところへと消えていった。
思えばそれから一度も会っていない。
よく一緒にお酒を飲んでくれる男の子だった。
あたしはその子と飲むと照れていつだって飲み過ぎて、しまいにはほとんど吐いていた。
いつだったか新大久保で辛いものを食べた時、あたしはその前の店から飲み過ぎていたようで、気持ち悪くなってトイレで吐いた。
吐いたことを気づかれたくなくて、何食わぬ顔で席に戻ったのだが、お会計をして店を出て2,3歩歩いたところでまた込み上げてきて、結局店の前の道で思い切りよく吐いた。
何もかもぶちまけた最悪な状態の女が顔を上げると、さっきまで隣にいたその子がいなくなっていた。
いよいよ呆れて帰ってしまったんだなと思っていたら、向かいの道の自販機で水を買って戻ってくるところだった。
ひどく不甲斐なくて泣きそうになりながら「帰ったのかと思った」と言うと、「んなことするわけないじゃん、はい」と笑ってペットボトルを渡してくれた。
みっともなく吐いてごめん、とうなだれていると、「綺麗に吐くよね」と八重歯を出して笑った。
大丈夫?とことさら心配することもなかったし、嫌がる風でもなかった。
どうでもいいみたいだった。
そういうところが好きだった。
あたしの年だとか、どこの誰かとかも、どうでもいいみたいだった。
どうでもいいとは芯の意味で、どうとも思ってない、ということである。
そんな風に一緒にいる人をどうとも思わないことはあたしにとっては難しいことだった。
他の人だって、そんな人はあんまり見たことがなかった。
けれどその子にとってはどうやらそれが自然のようだった。
人にも自分にも期待しない子のようだった。
不思議で、好きだった。
もっともっと一緒にいて、色んな話がしたかったな。
どういう目で世界を見てるのか、知りたかったな。
あたしには見えないものを、見せてほしかったな。
こんなに早く失うとわかっていたら、もっと一瞬一瞬を大事にした?
過ごした時間の全部を覚えていられないとわかっていたら、あれもこれも記録に残しておいた?
どうにもこうにも身が痛くなるほど切ないのは、あたしは息子の赤ん坊の頃を思い出してるからだと気がついた。
今またこうして御苑の芝生の上に寝転んだあたしは、赤ん坊の頃の息子のことを目の前にホログラムみたいにしてどうにか思い出そうとしていた。
どんな肌だったか、どれくらいの手の大きさだったか、どんな風にぴょこぴょこ歩いてたんだか、言葉にならない言葉で何を伝えようとしていたのか、思い出そうとして、ほとんどのことを忘れてしまっていることに気がついた。
0歳の時の君も、1歳の時の君も、2歳の時の君も、3歳の時の君も、4歳の時の君も、5歳の時の君も、6歳の時の君も、7歳の時の君も、8歳の時の君も、もう過去の君のほとんどを忘れてしまっていた。
それはもう、笑ってしまうくらいの忘れっぷりだった
いや本当に、悲しかった。
だってあの頃の君は、もう「いない」んだから。
いない。消えてしまった。失ってしまった。
たまに一瞬電気が走ったように、君の幼かった頃の空気が蘇ることもあるが、ほとんどは実体を伴わない。
だって君はもうあたしの身長の半分なんかとっくに越えて、いつの間にか肩あたりまで来てしまった。
あたしの、腰くらいの背の高さで歩いていた君はどこへ行ったんだ?
もうどこにもいない。
いなくなってしまったのだ。
どれくらいの大きさだったか、どんな声だったか、抱き心地や、のしかかる重さを思い出したかった。感じたかった。
あたしをどんな風に見つめていたのか、
あたしはどんな顔で見つめていたのか。
毎日何してたんだっけ。
どんな風に寝てた?
ご飯はどうやって食べてたっけ。
あたしは何を作ってあげてたんだ。
お風呂だってトイレだって、一人じゃ入れなかったじゃんか。
いつから一人で着替えもできるようになったんだ。
あたしのあとをうざったいくらいにくっついて来ていたあの子。
あの子、どこに行ったんだ。
あの子、もうどこにいもない。
いなくなってしまったら、その実体を思い出すのがこんなに難しいとは、あたしは知らなかった。
「いる」じゃん、顔も変わってないじゃん、中身も、と思うかもしれない。
けれどそれはまた、まるで別の生き物なのだ。
進化を遂げた別の生き物という感じだ。
「昔からずっとここにいたよ」というような顔をして今あたしたちと暮らしている。
この子、どこからやってきたのだろう?
本当にあたしのお腹の中にいた子かしら?と思う。
今じゃもう勝手に生きている。
勝手に考えて勝手に怒って、勝手に遊んで勝手に学んで勝手に傷付いて勝手に喜んで勝手にご飯を食べている。
そりゃ自分で勝手に生きたいだろう、生まれてきたからにはね。
それで最近は衝突してばっかりだけど、勝手に生きている君をこんなにも愛している。
有り余るパワーを放出する美しくて危険な発光体のような君。
想像の範囲にいた君が、想像の範囲を軽々越えて、飛び立っていくのをあたしはなんとか必死で目で追うことぐらいしかできない。
全部、書き残しておけばよかったかな。
この子、どこからやってきたのだろう?
本当にあたしのお腹の中にいた子かしら?と思う。
今じゃもう勝手に生きている。
勝手に考えて勝手に怒って、勝手に遊んで勝手に学んで勝手に傷付いて勝手に喜んで勝手にご飯を食べている。
そりゃ自分で勝手に生きたいだろう、生まれてきたからにはね。
それで最近は衝突してばっかりだけど、勝手に生きている君をこんなにも愛している。
有り余るパワーを放出する美しくて危険な発光体のような君。
想像の範囲にいた君が、想像の範囲を軽々越えて、飛び立っていくのをあたしはなんとか必死で目で追うことぐらいしかできない。
全部、書き残しておけばよかったかな。
全部、写し取っておけばよかったかな。
写真を見れば着ていた服も思い出せるけど、勝手に、完全に、すり抜けていった。
目の前に確かにいた子が毎日生まれ変わっていって、8年かそこらでまるで別の生き物に生まれ変わってしまうなんてこと、想像もしてなかった。
痛みを伴う切なさでズタズタになるほどだと、どうして誰も教えてくれなかったんだろう。
それとも、何人に言われたかわからないほどの「今が一番かわいいよ~あっという間だよ~」を、あたしが本気で聞いていなかっただけなのか。
聞いてたってやっぱりそんなものは、この感覚は、失ってからしか気づけなかっただろう。
どちらにしても大バカ野郎だ。
「今が一番かわいい」か。
「今」はもしかしたらずっと「今」かもしれない。
すっかり大人になってしまった子どもの、小さかった時の写真だの映像だのを見て、泣きながら酒を飲む人もいると聞いた。
あたしもそんな風になるのだろうか。
また一年後もきっと寂しがるのだと思う。
毎年毎年愛しく、毎年毎年寂しくなっていくのだ。
また一つ、大きくなった君。
また一つ、あたしの前から消えた君。
9歳だってね。おめでとう。
全部は覚えていられないけど、なるべくたくさんのあなたのことを覚えていてあげたいです。
そして未来から来た息子のようだったあの日の男の子へ。
これからもあたしはあの街へ行ったら君の幻を探すよ。
たとえもうここにいなくても、たとえ触れられなくても、あたしが覚えている限り君は、いつもあの街で風を切って歩いている。