ハレンチには程遠い

ハレンチには程遠い

橘 迷のブログ

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春のあたたかさはまだ感じられないが、刺すような風の冷たさはなくなった。

晴れていればもっとよかったが、あいにくの曇り空の下、閉館1時間前の新宿御苑に向かう。

そう言えばあの時もこれくらいの時間だった、と思った。

閉園まであと少しの、ほんのわずかな時間しか一緒にはいられないと知っていた。

道の向かいにあるセブンが目に入った。

そうだ、あそこに立ち寄ってビールと鮭ハラスのつまみを買ったんだった。


平日の新宿御苑は、桜の季節以外なら人はそれほど多くない。

見かけるのは外国人の旅行客ばかりで、なんとなくあたしもstrangerになったような気持ちがした。

それでいいな、と思った。

この街の、みんなが誰もstrangerみたいに思える空気が好きだった。


新宿門の手前で、オレンジの髪をした黒ずくめの男の子と、田舎のギャルみたいにジャージ姿のゆるい格好をした女の子のカップルが、ワーキャー言いながらあたしを追い越していった。

strangerだらけのこの街ですらちょっと浮いた風なカップルの男の子のほうが、外国人の一団に向かって「フリーハーグ!」と叫んだ。

入口の前で集まっていた何人かの外国人が笑顔で相手をしてくれると、カップルは「ヤバくね?」「マジだー?けっこうイケるね!」と喜びながらチケットを買って、ゲートの中に入っていった。


あたしは、泣いてしまいそうだった。


あの2人は、今日のこの瞬間を、いつまで覚えているだろうか。

何年経っても一緒にいて、今日のことを隣にいて話しているだろうか。

それともここへは結局一度きりしか来なくて、すぐに離れ離れになって、いつかまたここへ来たときに、そんなこともあったなぁ、と思い出すのだろうか。

それとももう新宿御苑になんか二度と来ないのだろうか。

今日だってどこか遠くからやってきたような二人だった。


あたしはいつだったか、ここへ一緒に来た男の子のことを思い出していた。

あの日確かにあたしの隣にいて、この芝生の上を一緒に歩いたあの子はもういない。

死んだわけじゃないが、どうやらもう会えないらしい。

あんなに確かに存在してたのに、これじゃまるで幻みたいじゃないか。

ここへ来たことだってちゃんと覚えてるのに、誰も証人なんかいないから、嘘みたいじゃんか。

と、思ったら、泣いてしまいそうではなくて、涙が止まらなくなった。


あの子、どこにいるのかな。

今ここで、奇跡みたいに出会えたらいいのになー、と思った。

すっきりしない空模様が、寂しかった。

早く春になればいいのに、と思った。

誰にだかわからないけれど、お願いしてみたかった。

向こう側からあの子が歩いてきますように、向こう側からあの子が歩いてきますように!


そんなことは起こるはずがないので、あたしはお願いしながらただずんずん歩いてるだけの女だった。


本当に、あぁどの一瞬もすべて過去なんだな、と心の隅々までわかった。


芝生がずうっとあちらまで、とんでもなく広がっていて助かった、と思った。

大人数の男女で走り回る大学生や、赤ちゃん連れのママたち、腰に手を回して寝そべるカップルなどがぽつんぽつんと点になるくらい広い地面の上を、あたしは端の方まで泣きながら歩いた。

歩いてゆくと、どのあたりに座ったかということまで思い出せた。

でも、どんな話をしたかまでは思い出せなかった。

芝生の上に寝転がって、コンビニのビニール袋にビールを隠しながら飲んで、ただそれだけが楽しくて、あっという間だった。

閉園を知らせる蛍の光の音楽が恨めしかった。


ずっといたかった。

夜まででもいたかった。

この場所が好きだった。

こんなに贅沢なことはないな、と知っていた。

暗い夜の酩酊の中ではなくて、昼ひなかにただ空を見て、ただ木々の葉が揺れるのを見て、喋ったり喋らなかったり、他の男を思い出してみたり、泣きそうになったり、目を見つめたり、横顔を見つめたり、好きに目を瞑ったり、した。

睦んだりもなにもしなくっても、楽しかった。

そういうことが一緒にできる男の子だった。


それがどれだけ尊いことかは、その子より長く生きているあたしにはよくわかる。

あたしの感じている気持ちがその子にわかってもらえるとはまるで思わなかったが、でもそれでよかった。


わかるはずもない。

だからあたしは、その子と会うときはいつも、泣きそうだった。


絶対に共有できない気持ちを抱えたまま、今が思い出になることがわかっているのに、「今」に生きている振りをしていたから。


失ってしまう時間だとわかりながら同じ時間を過ごすということは、未来からやってきて、もう一度過去をいとおしんでいるような気持ちに似ていた。

それでどうにもあたしは、いつもふわふわしていた。

その子の10年後はまったく想像がつかなかった。

1年後もおぼろだった。

この街から離れても、少しはあたしのことを思い出したりするのかしら、と思ってみたこともあった。

考えたってわかるわけがなかった。

あたしだけがきっとたくさん思い出を覚えているだろうことは間違いなかった。

だってあたしのほうがその子より存分に長く生きていたから。

いつかは会えなくなると完全にわかっていたはずなのに、それはもっと先だとばかり思っていた。


穏やかだけど獰猛な緑の中から、小汚なくて忙しない新宿の街に放り出されると、あたしは、また来ようね、などと呑気に言った。

長く生きてたってそういうことはひとっつもわかってなかった。

もし会えなくなったとしても、自分はそんなに感傷的にはならないはず、と思っていた。

幻みたいな子だと、十分承知していたつもりだった。

それなのどうして未来を信じたり、今を手放したりしちゃうんだろう。

もうけっこうな大人になって、少しは辛いこともあったしけっこう冷めた気でいたけれど、自分がいつまでもロマンチック信じてるガキみたいに思えた。


夜へ向かいつつある気忙しい新宿の街を歩きながら、1杯飲む?と誘うと、ごめん俺もう行かなきゃなんだ、と言って、靖国通りの向こう側、結界の張り巡らされたところへと消えていった。


思えばそれから一度も会っていない。


よく一緒にお酒を飲んでくれる男の子だった。

あたしはその子と飲むと照れていつだって飲み過ぎて、しまいにはほとんど吐いていた。


いつだったか新大久保で辛いものを食べた時、あたしはその前の店から飲み過ぎていたようで、気持ち悪くなってトイレで吐いた。


吐いたことを気づかれたくなくて、何食わぬ顔で席に戻ったのだが、お会計をして店を出て2,3歩歩いたところでまた込み上げてきて、結局店の前の道で思い切りよく吐いた。


何もかもぶちまけた最悪な状態の女が顔を上げると、さっきまで隣にいたその子がいなくなっていた。


いよいよ呆れて帰ってしまったんだなと思っていたら、向かいの道の自販機で水を買って戻ってくるところだった。


ひどく不甲斐なくて泣きそうになりながら「帰ったのかと思った」と言うと、「んなことするわけないじゃん、はい」と笑ってペットボトルを渡してくれた。


みっともなく吐いてごめん、とうなだれていると、「綺麗に吐くよね」と八重歯を出して笑った。


大丈夫?とことさら心配することもなかったし、嫌がる風でもなかった。


どうでもいいみたいだった。

そういうところが好きだった。

あたしの年だとか、どこの誰かとかも、どうでもいいみたいだった。

どうでもいいとは芯の意味で、どうとも思ってない、ということである。

そんな風に一緒にいる人をどうとも思わないことはあたしにとっては難しいことだった。

他の人だって、そんな人はあんまり見たことがなかった。

けれどその子にとってはどうやらそれが自然のようだった。


人にも自分にも期待しない子のようだった。


不思議で、好きだった。


もっともっと一緒にいて、色んな話がしたかったな。

どういう目で世界を見てるのか、知りたかったな。

あたしには見えないものを、見せてほしかったな。


こんなに早く失うとわかっていたら、もっと一瞬一瞬を大事にした?


過ごした時間の全部を覚えていられないとわかっていたら、あれもこれも記録に残しておいた?


どうにもこうにも身が痛くなるほど切ないのは、あたしは息子の赤ん坊の頃を思い出してるからだと気がついた。


今またこうして御苑の芝生の上に寝転んだあたしは、赤ん坊の頃の息子のことを目の前にホログラムみたいにしてどうにか思い出そうとしていた。


どんな肌だったか、どれくらいの手の大きさだったか、どんな風にぴょこぴょこ歩いてたんだか、言葉にならない言葉で何を伝えようとしていたのか、思い出そうとして、ほとんどのことを忘れてしまっていることに気がついた。


0歳の時の君も、1歳の時の君も、2歳の時の君も、3歳の時の君も、4歳の時の君も、5歳の時の君も、6歳の時の君も、7歳の時の君も、8歳の時の君も、もう過去の君のほとんどを忘れてしまっていた。


それはもう、笑ってしまうくらいの忘れっぷりだった


いや本当に、悲しかった。


だってあの頃の君は、もう「いない」んだから。


いない。消えてしまった。失ってしまった。


たまに一瞬電気が走ったように、君の幼かった頃の空気が蘇ることもあるが、ほとんどは実体を伴わない。


だって君はもうあたしの身長の半分なんかとっくに越えて、いつの間にか肩あたりまで来てしまった。


あたしの、腰くらいの背の高さで歩いていた君はどこへ行ったんだ?

もうどこにもいない。

いなくなってしまったのだ。

どれくらいの大きさだったか、どんな声だったか、抱き心地や、のしかかる重さを思い出したかった。感じたかった。

あたしをどんな風に見つめていたのか、

あたしはどんな顔で見つめていたのか。

毎日何してたんだっけ。

どんな風に寝てた?

ご飯はどうやって食べてたっけ。

あたしは何を作ってあげてたんだ。

お風呂だってトイレだって、一人じゃ入れなかったじゃんか。

いつから一人で着替えもできるようになったんだ。

あたしのあとをうざったいくらいにくっついて来ていたあの子。

あの子、どこに行ったんだ。

あの子、もうどこにいもない。

いなくなってしまったら、その実体を思い出すのがこんなに難しいとは、あたしは知らなかった。

「いる」じゃん、顔も変わってないじゃん、中身も、と思うかもしれない。

けれどそれはまた、まるで別の生き物なのだ。
進化を遂げた別の生き物という感じだ。
「昔からずっとここにいたよ」というような顔をして今あたしたちと暮らしている。

この子、どこからやってきたのだろう?

本当にあたしのお腹の中にいた子かしら?と思う。

今じゃもう勝手に生きている。

勝手に考えて勝手に怒って、勝手に遊んで勝手に学んで勝手に傷付いて勝手に喜んで勝手にご飯を食べている。

そりゃ自分で勝手に生きたいだろう、生まれてきたからにはね。
それで最近は衝突してばっかりだけど、勝手に生きている君をこんなにも愛している。

有り余るパワーを放出する美しくて危険な発光体のような君。

想像の範囲にいた君が、想像の範囲を軽々越えて、飛び立っていくのをあたしはなんとか必死で目で追うことぐらいしかできない。

全部、書き残しておけばよかったかな。

全部、写し取っておけばよかったかな。

写真を見れば着ていた服も思い出せるけど、勝手に、完全に、すり抜けていった。

目の前に確かにいた子が毎日生まれ変わっていって、8年かそこらでまるで別の生き物に生まれ変わってしまうなんてこと、想像もしてなかった。

痛みを伴う切なさでズタズタになるほどだと、どうして誰も教えてくれなかったんだろう。

それとも、何人に言われたかわからないほどの「今が一番かわいいよ~あっという間だよ~」を、あたしが本気で聞いていなかっただけなのか。

聞いてたってやっぱりそんなものは、この感覚は、失ってからしか気づけなかっただろう。

どちらにしても大バカ野郎だ。

「今が一番かわいい」か。

「今」はもしかしたらずっと「今」かもしれない。

すっかり大人になってしまった子どもの、小さかった時の写真だの映像だのを見て、泣きながら酒を飲む人もいると聞いた。

あたしもそんな風になるのだろうか。


また一年後もきっと寂しがるのだと思う。

毎年毎年愛しく、毎年毎年寂しくなっていくのだ。

また一つ、大きくなった君。

また一つ、あたしの前から消えた君。

9歳だってね。おめでとう。

全部は覚えていられないけど、なるべくたくさんのあなたのことを覚えていてあげたいです。

そして未来から来た息子のようだったあの日の男の子へ。

これからもあたしはあの街へ行ったら君の幻を探すよ。

たとえもうここにいなくても、たとえ触れられなくても、あたしが覚えている限り君は、いつもあの街で風を切って歩いている。


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36歳になりました。

もうすぐ2018年も終わります。



2018年、皆さまにとってはどんな年でしたか?

あたしにとっては『いいことばかりはありゃしない』(RCサクセション)でした。



でもなんとか生きてます。

なんとか生きて無事に36歳を迎えることができました。

感謝しかないです。

目に見えるもの、見えないもの、全部含めてこうなってんだから、あたし一人の力じゃきっとどうしようもなかったことなんだと思う。

だからこそ、生きてるだけでありがたいと思います。



人生、Dead or Aliveです。

当たり前ですが生きてりゃ、生きてます。

今日も生きて、そしてまた明日も生きりゃ、そうやって続いていって、自然に歳も取ります。

それがなんと尊いことでしょうね。



今年は戦いの年でもありました。

自分の体に起きたこともさることながら、日本の国内外で起きた、人権を巡ること、性差別を巡ること、国籍を巡ること、我が国の進むべき方向を決定している人たちのあまりにもお粗末な考え、そこに住んでる人たちの意見を無視して国が始めてしまう横暴な仕打ち、国とはなんぞや、国民とはなんぞや。生きるとはなんぞや。自由とはなんぞや。

悔しくて泣いたり憤ったりした人も多いかもしれません。



あたしも何度か官邸前や自民党本部前に行きました。

右とか、左とか、関係ないです。

自分の信じているものを冒涜されたり、生きてきた道を否定されたりしたら、人は戦っていいはずです。

黙ってる必要はないです。

あなたの人生なので。

「黙ってろ」という言葉は、あなたの存在を否定することに他なりません。

あたしがここで生きている限り、黙ることはないでしょう。

たとえ口が利けなくなっても、どうにかして想いを伝えます。

想いは、あたしだからです。



国とか自由とか、そんな大げさなことじゃなくても、働いてる場所で理不尽な思いをしたりだとか、何年も一緒に暮らしている家族なのにわかり合えなかったりだとか、そういうことはきっとみんなにもあって、黙ったり戦ったりも二択じゃなくて、そうやって峻巡することが、すなわち戦いだと思います。

みんなそれぞれ戦ってるんだよな。

あたしは、戦うあなたを応援しています。

戦うあなたを誇りに思っている。

どんな小さなことだって、自分の人生を自分のものにするために、みんな、もがいてる。

だから、そういうあなたを、愛しています。



あなたは、今年、悔しくて何度も絶望したかもしれません。

でも、すぐ近くや、海の向こうで、戦ってる人の姿も見ることができたでしょう。

戦っている人たちは、偉い人でしたか?

名のある、地位のある、大それたことを成し遂げた人たちの集団でしたか?

違う。

戦っている人たちは、あたしと同じ、あなたと同じ、どこにでもいる、ただ一人の人間。

ただ一人の人間だって、戦う権利はあるはず。

絶望してる暇はありません。

COOLになってる暇もありません。



時間が足りない、と時々思う。

あたしは東京の片隅で何を細々と、自分と家族が生きるためだけに、食っていくためだけに、どうしてこんなに這いつくばってんだ、とも思う。

たまに、やるせなくなったり、無力だと思ったり、あたしにはなんにもできやしない、とも思う。

本当はそんな生活のちっぽけなことはすっ飛ばして、この崩れ落ちていく国のために何かできないか、愛を見失いかけている世界のために何かできないか、と考えることもある。



でも、できない。

体は一個しかないし、頭も一個しかない。

持ってるものはほんのわずかで、誰かに施せるだけの金も資産もない。



けど、毎日やることはいっぱいあって、日々は情け容赦なくあたしを追い立て、追い越していって、それでも自分を震い立たせて信じる。

あたしの信じていることは間違いじゃないと信じる。



こんな風に生きたい、と人が自分の人生に希望を持つことが間違いじゃないと信じる。

やりたいことをやるために、男だから女だからそのどっちでもないから、母だから父だから、結婚してるからしてないから、大人だから子どもだから、健常だからそうじゃないから、日本人だから日本人じゃないから、金持ちだから貧乏だから、そんなことに壁はないことを信じる。

たとえ意見が違っても、信じるものが違っても、同じ人間として心通い合わせる努力をすることが間違いじゃないと信じる。

自分の生まれ育った国が民主主義じゃなくていつの間にか独裁政権になっていたとしても、それがおかしいと声を上げることの正当性を信じる。

自分に何ができるんだって諦めかけそうになっても、小さな世界から声をあげて暮らしをよくしていくことに意味があることを信じる。



あたしは、恥ずかしながらただただ信じてるだけのドリーマーです。

You may say I'm a dreamer.

But I'm not the only one.

ジョン・レノンももういないし、フレディもいない。

マイケルもいないし、ボウイもいないし、清志郎もいない。



この世界で誰を信じて生きていこう?

世界は本当に美しいのか?

誰か教えてくれ、と思うこともある。



でも誰も、そんな神様みたいなことは、教えてはくれない。



だからあたしにできることは、好きな人に笑っていてもらうこと。

あたしの世界を明るくすること。

たとえ離ればなれでも世界は繋がっていると信じること。

あなたを想うこと。

あたしの好きな人たちは、まだちゃんと生きている。

あたしもまだ生きている。

だから、生きてる間にできることをする。



あっちゃこっちゃゴロゴロ転がって、何やってんだろあいつって思われてるかもしれないけど、実際そうなんだけど、死ぬまではジタバタする。



あたしはまだまだ知りたいことをたくさんたくさん勉強して、願わくば学んだことを誰かに伝え、そして生きている間に、今より少しでもより良い世界にしたい。

それが、あたしの希望です。


この間、空が高くて天気が良くて、暖かくて静かな日に、こんな問題だらけの世界で、この先の未来に本当に希望なんかあるのかなってふと思った。

今この一瞬に地球が爆発したり隕石が落ちたりして、地球上の全員、全生物が同時に苦しまずに消滅するなら、あたしもみんなも、全員いなくなるなら、それはそれで幸せなんじゃないか、と思ってしまった。



環境汚染だとか、人口減少だとか、戦争とか、虐殺とか、資源問題とか、核の問題とか、そんなのも全部引っくるめて一瞬でなくなるなら、それもいいんじゃないか、などと思ってしまった。



本当にそういうことがいつか起きるかもしれない。

現に太陽は少しずつ地球に近づいているみたいだし。



でも、それまでは、やっぱり這いつくばってでも生きようと思う。



今日も明日も仕事かな、お疲れさま。

でももうすぐ、休みもあるよ。

休みになったらたくさん休もう。



楽しいこともきっとたくさんあるよ。

美味しいものを食べたり、あったかいお風呂に入ったり、友達と集まって飲んだり、たまには羽目を外したり、楽しみにしていた映画を観たり、好きな音楽を聴いたり、好きな人のことを考えたり、何よりも大切な子どもの成長を感じたり。



希望は、これからいくらでも作ろう。

あたしの毎日をちゃんとあたしのものにしよう。



2019年は少しずつ、日々のことや自分のことを書いていきたいと思います。



グッバイ、最低で最高だった2018年。

ハロー、2019年、どんな年になるんだろうね。

よろしくね。



このままでもいいし、変わってもいいし、それすらも自由だ。

Don't stop believing.

他の誰にもなれやしないんだし、だったらあたしに生まれてきたあたしと、もう少し仲良くやろうよ、と思っています。

36にもなって、何もがいてんだ、とも思うが、仕方なし。

本当は恋だとか愛だとか、キスだとかセックスの話ばかりしていたいけど。
そういうのもこういうのも自分。

年を取ることは恐ろしくはないよ。
まだまだここから、なんだって、始めたらいいよね。
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3ヶ月と少しぶりに、やっと、酒を飲んだ。

長い長い時間だった。

シラフでいる間、しんどかった。

お酒を飲まない人はどうやって、スイッチをONにしたりOFFにしたりするんだろうと思った。

しばらく飲まなかっただけで、あたしってけっこう酔いどれだったんだなぁと自覚した。
(遅い)

本当なら10月と、その先まで飲めないはずだったけど、最早あたしは妊婦ではない。
母乳も出ないおっぱいは、日に日にしぼんでいく。
少しだけダルンとしたお腹に、名残があった。


2018年5月22日、あたしは妊婦ではなくなった。

分娩台に乗っている間、こんな辛いことがあたしの友達の誰一人にも起こりませんように、と思っていた。

友達だけじゃなくて、この世の女の人たち誰一人の身にも起こりませんように、と思った。

そんなことが無理なのはわかってる。
でもそう祈らずにいられないくらい辛かった。

本当なら「また会いに来てね」って願うべきなのかなって思った。
でもあたしはもう、子どもを持とうとすること自体が怖くなってしまった。
また同じことが起きた時に、耐えられるとはとても思えなかった。
「また会いに来てね」って願ってあげられなくてごめん。
何度でもあたしが産んでやるって思ってあげられなくてごめんね、って泣いた。


前日の21日、月曜に入院してすぐ、膣にラミナリアを1,2本入れた。(たぶん。)
1回目は麻酔なし。
少しばかり痛い。

できたばかりの病院だったらしく、入院する部屋もビックリするほど綺麗だった。
出産の人と同じセットが用意されているのが(オシャレなアメニティなども)、なんだか変な気持ちになった。
こりゃ人気なわけだわ、と思うピカピカ具合だった。

お昼から硬膜外麻酔(いわゆる無痛分娩と言われるもの)をする。
背中に麻酔を流すチューブを入れるのだが、これが厄介な代物で、背骨に沿って血管や神経に触れずに入れるのがものすごく難しいらしい。

分娩台の上で胎児のように背中を丸めて、入れる場所を決めて消毒をした。
チューブを刺すためにまず麻酔の注射をする。

チューブを通されている間に左の腰の辺りがめちゃくちゃに痛くなり、思わず「痛い!痛い!痛い!」と叫んだ。

「え?どこが痛い?腰?うーん、そこがそんなに痛いわけないんだけどなー、上に向かって入れてるんだけどなー。ちょっと場所変えて入れ直してみますね。」と言われ、
2回目のチューブは背中の真ん中辺りからぶっ刺される。

チューブがグッグッと背骨に沿って押し入ってくる。
またもや左の腰の辺りが痛かったんだけど、「さっきと比べるとどう?」と聞かれると「さっきと比べるとマシです。」としか言いようがなく、そのまま麻酔の薬を流された。

15分程度すると足に力が入らなくなり、下半身がジーンと熱くなってくる。
麻酔が効いてるかどうかを冷たいアルコール綿で確かめる。

右足は重くなって全然動かないし冷たさも感じないのだが、左足の方は少し冷たさを感じる、というような状態だった。

その状態でまたラミナリアを数本入れる。
どういうわけか、麻酔が効いているにも関わらず、いじくられてるあそこが痛い。

子宮内膜症で子宮が後ろの方に傾いていて直腸と癒着してるからかな、だからお尻の方に向かっていじくられると痛いのかな?と思った。

麻酔してこれかよ...というような痛みだった。
これをまた夕方やるの?明日出すときもこんな感じ??と思ったらビビって心が折れそうだった。

麻酔が切れて歩けるようになってから部屋に戻るのだが、腰と背中が痛くて歩くのもままならない。

入れっぱなしのチューブが痛いのか、1回目に入れられた時の痛みなのか、とにかく真っ直ぐ立てない、背中を伸ばせない、力が入らない。

点滴のガラガラに掴まってようやく部屋までたどり着いた。

夕方にまた麻酔と、処置をするので部屋で休んでてくださいと言われたのだが、ベッドに横になるのもようよう、一度寝たら起き上がるのも難儀する。
休むどころじゃないな、という感じだった。

ママが昼頃に来て、3時くらいまで一緒にいてくれた。
部屋も料理もホテルみたいだね!と二人でキャッキャした。
背中痛いとか、あそこも痛かったとか、そんな話だけした。

もうあんまり重い話はしたくなかった。

夕方、ウトウトした頃に連絡が来て、また分娩室へゆく。
麻酔の薬を流す時も若干背中に痛みがあって、泣きそうだった。

今度は昼の先生ではなく、院長先生が担当で、15分経った頃にアルコール綿で脚やお腹をなでると、脚は冷たさを感じるが、胸の下辺りは冷たさを感じない。

先生が「ん?麻酔の効いてる位置が上すぎるな。ちょっと背中見せてね。あーこれちょっと入れたところ上すぎるな。ごめんね、もう一回入れ直すね。」と言って、
再びチューブを入れ直すことになった。
(3回目。白目。)

時間なのか助産師さんが代わった。
また分娩台の上で裸ん坊で丸くなった。

その人はチューブを入れている間もずっと肩に手を置いてくれて、その手があったかくて安心した。
今度は全然痛くなくて、あたしはホッとして泣けてきた。
(ちゃんとした位置に入れば痛くないようだ。痛かったのはどうやら神経に触れてたっぽい!!!)

また麻酔が効くまで待っている間、別のベテランの助産師さんがやって来て「痛かったね、怖かったね、ごめんね~。」と言ってくれた。

あたしは、それまで我慢してた涙をこらえられなくて、えーんえーんと泣いた。

去年の今頃も入院したこと、麻酔なしであそこを引っ掻き回されたこと、出産よりも痛かったこと、そんなことまで泣きながら話してた。

それとずっと、お腹の中で最波が、赤ちゃんが、これでもかというくらい動き回っていて悲しいってことも伝えた。

あたしも痛くて怖かったけど、赤ちゃんも怖いんじゃないか、これからもっと痛いんじゃないか。

でもなんにもしてあげられない。

ここから逃げられない。

自分でここに来た。

それが悲しくて悲しくて、これから自分がしようとしてることがどんなことなのかを考えたら悲しくて悲しくて、どうにも、やりきれなかった。

「いいんだよ、泣いていいんだよ、我慢しなくていいんだよ、辛いよね、悲しいよね。」って助産師さんが言ってくれたので、あたしは下半身脱力しながら、ひーひー泣いた。

今度こそちゃんと麻酔が効いて、ラミナリアも10本くらい入れたのかもしれないが、痛みもなかった。

歩く時も大丈夫だったので、本当に安心した。
痛いってのは、まったくもって心が弱る。

部屋に戻って豪華な夕食をガツガツ食べた。
ついでにママがお昼に残していったサラダ巻きも3つくらい食べた。
次の日は朝から水も飲めないので、今日は好きなだけ食べようと思った。

「夜、あそこが痛くなるかもしれない。もし痛くて眠れないようなら睡眠薬出します。」と言われたが、眠れないほどではなかった。

どちらかと言うと腰が痛くて痛くて、夜中に何度も目が覚めて体の位置を直した。

朝は6時くらいに目が覚めてしまった。
なんだか変な夢も見てたようで、全然寝た気がしなかった。

さっくんは朝、一人で先に、来てくれた。
さっくんの顔を見て、またちょっと泣いた。

9時過ぎに麻酔を入れて、分娩室に入る。
10時前に1回目の子宮収縮剤を膣の中に入れた。

早ければ1~2時間で効いてくる、陣痛が起きて赤ちゃんが下がってくる、とのことだった。

時間がかかるようであれば3時間後に2回目の子宮収縮剤を入れるらしい。

麻酔が効いているので、陣痛が起きているかどうかはまったくわからない。

触るとお腹が張って固くなっているのがわかる、というような具合だった。

さっくんもママも分娩室に来てくれたが、あたしを含めて全員何が起きてるのかまったくわからないという感じだった。

「痛い?」「いや、痛くはない。」
「どんな感じ?」「うーん、よくわかんない。」

これ、今日出るんだろうか、何時ぐらいに出るんだろうか、区役所に死亡届出すの17時までだから間に合うだろうか、火葬場に今日火葬許可証持って行けなくても大丈夫かな、とりあえず火葬場に電話しといて、などと事務的なことを横になりながら冷静に話した。

分娩室にケータイを持ってきてもらって、あたしは心配している何人かの友達とやり取りをした。

「今1回目の収縮剤入れたとこだよ。まだどうなるのかわかんない感じ。」とか
「背中の麻酔がめっちゃ痛かったよー!」とか。

あまりにも普通で、でも実際は普通じゃなかった。
でも、みんなとやり取りしてると、不安をまぎらわすことができた。

15分とか20分おきくらいに助産師さんと先生が子宮口とお腹の様子を見に来たが、特に進展はないようだった。

あたしは分娩台の上でウトウトと30分ほど寝たりもした。
普通の陣痛だったら考えられないほど穏やかな時間を過ごしていた。

クライマックスがいつ来るのかわからないのが怖かったけど、今日中に終わるのは間違いない。

そう考えると長いようで短い時間だった。

お昼になっても特に変わりがないので、ママとさっくんには交代でお昼を食べに部屋に戻ってもらった。

13時過ぎに2つ目の収縮剤ともう一度麻酔を入れた。
14時半頃に陣痛の痛みを少し感じるようになった。

耐えられない痛みではなかったけど、それ以上痛くなるのが怖かったし、我慢する必要もないと思い、また麻酔を入れてもらった。

15時過ぎると助産師さんと先生の出入りが多くなり、頻繁にあそこに手を突っ込まれた。

どうやらもうけっこうなところまで、降りてきているらしかった。

出産した経験がある人ならわかるかもしれないが、お腹ではなくてもっと下のほうで、バタバタッと手足が当たるような感触があった。

「なんか出てくる!」とあたしが言い、「大丈夫大丈夫。」と助産師さんが言い、「いきめたらいきんで。でもいきめなかったら無理していきまなくていいよ。」と先生が言った。

こたを産んだ時には、陣痛がMAXになると完全に「いきみたい」という感覚があったが、今回は痛いわけでもなく、いきみたいわけでもなく、でもなんかいきまなきゃいけないような状況で、それなのにまったく下半身に力が入らないので「どうやっていきんだらいいんですか?」と聞くと「うんちする時と同じ感じ!」と言われた。

いや、わかってるんだけど、それができないんだって!

がんばって「んー!」といきんでみたら、「ぷすぷすぷすー」とおならが出た。

あそこに手首まで突っ込まれ、中をいじくられてるという感触だけがある中で、あたしもがんばっていきんでるっぽいことを続けた。

しばらくすると「出ましたよ~」と言われた。

もちろん、「おめでとうございます!」は、ない。

あたしは隣に立つさっくんに「見える?見た?」と聞いた。
さっくんは見れるけど、見られないようだった。

「15時32分です。」と聞こえた。

足首にネームプレートが巻かれないあたしの、赤ちゃんだった。

赤ちゃんは銀色のお皿に載っけられてどこかに連れて行かれた。

「キレイにしたら、連れてきますからね。」と言われた。

そんなことも、出産と同じだった。

だけど、「産んだー!」という感覚さえなかった。
ただ、「終わったんだな」と思った。

信じられないことに、隣の分娩室から、今産まれたばかりの赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。

悲しくはなくて、おめでとうございます、と心の底から思った。

そのあとまた血管がビリビリと痛む麻酔をされ、胎盤除去や子宮内を綺麗にする処置が行われた。

どんな風貌で現れるのか、少し恐ろしくもあった赤ちゃんが、しばらくしてあたしの持ってきた棺に入れられて運ばれてきた。

用意していたおくるみは大きすぎて着れないから、体の脇に挟んでくれていた。

血が付いてしまうからと、お布団と赤ちゃんの間にガーゼも挟んでくれていた。

手の指は死んだ人がやるように、きれいに組んでくれていた。

手も足も、体は全部出来上がっていた。
なんなら爪までできていた。

もちろんではあるが、この週数の赤ちゃんが体の外にいるところを見たことがないので、こんなにちゃんと人間の形なんだということにビックリした。

本当に、ちっちゃいミニチュアの赤ちゃんて感じだった。

この週数にしては少し大きいような気がした。
「大きいですか?」と聞くと、「そうですね、ちょっと大きめですね。」と言われた。

19週4日、300g、23cmだった。

最波は、特に鼻と口が、こたにそっくりだった。
あたしとさっくんとママと3人で、「こたに似てるね!こたが産まれた時にそっくり!」と言った。

こたによく似てた。
こたに、見せてあげたかった。
こたの妹だったんだなぁ、産まれてきてほしかったなぁ、産んであげたかったなぁ、と思った。

ママは16時のバスで帰ることになってたから、間に合ってよかった。

前日の夜から飲み食いをまったくしてなかったので喉が乾いて乾いて仕方なかった。
(水分はずっと点滴してた。)

やっと飲み物を飲んでいいですよ、と言われ、さっくんがペットボトルとストローを持ってきてくれて、寝ながらゴクゴク飲んだ。

そのあと、30分ぐらい分娩台の上で休み、あたしは車椅子に乗せられて部屋に戻った。

麻酔がまだ効いていて力が入らない感じではあったが、どこもかしこも痛みはなかった。
これが無痛なのか!とビックリした。
キャサリン妃が3時間で出てくるわけだよ。
(しかし負担はかかってるんで、それで無理するとあとからヤバイ~!)

さっくんはコンビニで買ってきたお弁当、あたしは豪華な入院食、二人でテレビを見ながら一緒に食べた。

さっくんは8時頃帰って行って、一人になるとボーッとした。

近況を報告している友達に終わったことを伝えると、なんとなく、最波を誰にも見てもらわずに火葬してしまうのが寂しいような気がした。

明日退院して、あさっての朝には火葬してしまう。
家には、丸一日もいない。

このまま、ボーッとしたまま、何が起きてるのかよくわからないまま、あたしも最波も時間に連れて行かれてしまうのが、もったいないような気がした。

もし来れるようなら、もし嫌じゃなければ、顔を見に来てくれるとうれしい、と何人かの友達に連絡した。

嫌だ、という人は誰もいなくて、みんな「顔出すね。」「会いに行くね。」と言ってくれた。

予定があって来れない人も、ねぎらってくれて、ありがたかった。

勝手にたくさんの人を呼んでしまったあとで、さっくんに了承を取ってないことを思い出して連絡をしたら、いいよと言ってくれた。
(大体事後報告...ごめん。)

本当はさっくんはあんまり大げさにしたくなかったかもしれないのに、あたしの気持ちを尊重してくれてありがたかった。

退院の日、入院するドアから出てきたのに赤ちゃんと一緒じゃないことを検診の妊婦さんたちにいぶかしがられるんじゃないかと疑心暗鬼になって、とてもじゃないけど待合室に1秒たりともいられなかった。

最波は、棺の中でグラグラしてしまうので、頭の周りにタオルを詰めて、持ってきたボストンバッグではなくてぴったりサイズの紙袋に入れた。

駅までの送迎車を、ママと病院の外で待った。
ママは栃木から出てきて3日間、うちとこの病院を往復してる。
ママもすごく、大変だったなぁと思った。

雨が降ってきたので入り口の軒先で、
あたしはあぐらをかいて区役所に電話をし、
死亡届の書き方を教わりながら書いた。

ひっきりなしに妊婦さんやその家族が出入りしていた。
眩しかった。

髪の毛銀色でオールバックで座り込むあたしは、ピカピカの病院の景観をだいぶ害していた。

グラグラする電車で紙袋が人にぶつかったり揺れたりしないようにビクビクしながらあたしの街まで帰ってくると、
ママが「お花買おう。買ってあげる。」と言った。

そういう発想もあまりなかった。

結局頼まなかったけど、葬儀屋に「棺に入れるお花を用意します。」と言われたり、
病院から「棺に何か入れますか?」と言われたりしても、
「そんなもん入れてなんだってんだ。結局燃やすじゃんか。」と思っていた。

だけど、帰ってきてテーブルの上に最波と、その脇に花瓶に入れたお花を飾ると、
「おかえり、ここがあたしたちが暮らしてるところだよ。」という気持ちになった。

大学の時から知り合いで、子どもを産んでからもずーっと側にいてくれる友達が、1歳の三男坊を連れて最波を見に来てくれた。

雨の中カッパを着て、自転車に子どもを乗せて、来てくれた。

2日もお風呂入ってなくて、すっぴんで、なんだか顔も吹き出物だらけでイケてないあたしと、わんわん泣いてくれた。

去年流産した時も泣いてくれた。
あたしが入院した時もBIGBANGのDVD持ってお見舞いに来てくれた。
今回妊娠したって報告した時も喜んで一緒に泣いてくれた。

それなのにまた悲しませてしまったのがとっても悲しかった。
子どもが3人もいて、その命の素晴らしさも煩わしさもこんなに受け止めている人を、命のことで悲しませてしまったことが、本当に悲しかった。

でも来てくれてうれしかった。

今日はもうとことん泣こうと思って、なんにも我慢しなかった。

最波のそばでいつものようにお喋りした。

友達が帰ると、今度はこたが学校から帰ってきた。

あたしが入院している間、電話をするといつも元気で「めーちゃん具合どう?がんばってね!」と励ましてくれたこた。

「赤ちゃん、こたに似てたよ。帰ったら見てみる?」と電話で話すと、
「え、似てるの?じゃあ、見てみようかな...ちょっと怖いけど...」と言っていたこた。

汗びっしょりで帰ってきたこたに、
「最波いるよ~。見る?」と聞くと、「え?」とニヤニヤしながら遠目に覗いていたが、実物を目にすると急に泣き出した。

「こた、みんなに言えなくて辛かったー!
ホントはみんなに言いたかったー!
こたにも妹できたんだよって言いたかったー!
でもそんなこと言っても信じてもらえないし!何言ってんの?って言われちゃうし!
みんな兄弟いるのにこたは兄弟いなくて寂しいよぉ!
最波に会いたかったー!
生きてる最波に会いたかったー!
いつ死んじゃったの?
ちょっとは生きてたの?
なんで死んじゃったの?
どうやって死んじゃったの?
病気だから?
かわいそうだよー!
こたがずっとお世話したかった!
病気で産まれてきても大人になるまでずっとこたがお世話したかったー!
悲しいよおおおおーーーー!!!」
と言って初めて大泣きした。

ごめんね、悲しいね、ごめんね、辛かったね、ごめんね、妹欲しかったね、最波かわいそうだよね、悲しいよねって、抱き合ってわんわん泣いた。

あたしたち、ピッタリおんなじ気持ちだった。
こたとあたしの気持ちが完全にシンクロして、あたしが抱きしめてるんだか、抱きしめられてるんだかわかんないほど安心した。

ひと通り泣いたら二人ともすっきりした。

あたしたちは似た者同士だなという気がした。

こたは、「もなみに手紙書く!」と自分で便箋を持ってきて書き、書いた手紙を体の上にお布団のように乗せた。

夕方から仕事の終わったママ友や友人たちが来てくれることになっていたので、お寿司と瓶ビールを頼んだ。

そっか、これがお通夜ってやつか、と思った。

ママ友たちが次から次に綺麗なお花や、食べ物や飲み物を持って現れて、みんな最波を見ると「わーん!」と泣いた。
あたしも「わーん!」と泣いた。

最波の周りがお花でいっぱいになり、こたはジュースを枕元に置いてあげたりして、華やかになった。
最波、よかったねぇ、と思った。

最波を置いた同じテーブルで、みんなで寿司や唐揚げを食べるのを、誰も、嫌がらなかった。

「こたに似てるね~!」とか、「足がしっかりしてる!」とか、みんなで泣いたり笑ったりしながらずーっと最波の周りにいた。

さっくんが帰ってくると、いつもの我が家だった。
いつも人の集まっているのが我が家という感じがする。

手作りのビーフシチューをタッパーに入れて持ってきてくれた友達(旦那さんがイギリス人)は、
「この家に来ると、イギリスにいるみたいな気持ちになるんだよね。」と言った。

みんなが「どういう意味?」と聞くと、
「イギリスの人たちってうれしいことがあっても悲しいことがあっても、みんなで集まってワイワイするんだよね。
向こうのおばあちゃんが死んだ時もこんな感じだったなーって思ってさ。」と言った。

あぁ、おんなじこと考えてるなぁ、と思ってうれしかった。
ビーフシチューはあり得ないくらいおいしかった。

こたは人がたくさん来てくれたのがうれしくて、犬っころみたいにはしゃぎ回っていた。

時々、最波のところにやってきてはおでこを撫でてあげたり、ほっぺをツンツンしたり、「寒くないかな?」などと布団を直したりしてあげていた。

子どもたちを待たせて来てくれたママや、旦那さんに見てもらってるママが何人か帰り、また仕事の終わった友達と後輩が酒を持って来てくれた。

どんな顔して入ったらいいんだろうというような悲しいテンションでやって来た友達が、家中が賑やかで呆気に取られているようだった。

そりゃそうだよね。
あたしもこんなこと経験したことないからさ、どんな顔したらいいのかわかんないよ。

でもいいんだよ。
たくさん泣いてたくさん笑ってくれたらうれしい。

あたしは泣きすぎてハイになり、酒も飲んでないのにずいぶんうるさかった。
夜じゅう、賑やかだった。

こういう夜になるとは、まったく想像していなかったけど、だけど想像するとしたらたぶんこんな夜だったんだろうな、というような夜だった。

みんなに来てもらえて、最波を見てもらえて本当によかったなーと思った。

こんだけたくさんの人に見てもらえたら、なくなっちゃわない、ちゃんといた、ちゃんとこういう日があった、って覚えていられるような気がした。

こたもきっと覚えていてくれるだろう、と思った。
この悲しみと、この悲しみの乗り越え方を覚えていてくれるだろう、と思った。

人はみんなそれぞれだから、悲しみ方も悲しみの乗り越え方もそれぞれだと思う。

一人で静かに穏やかに、自分と向き合って、どこにも悲しみを放出せずに乗り越えられる人もいるだろう。

そういう強い人もいるだろう。
でもホントはそんなに強くないのに、誰にも言えなくて苦しかったら?

そうやって苦しんでる大人を、これまでたくさん見てきた。

こたに、苦しんでほしくない。

自分と悲しみをわかち合ってくれる人と、悲しみを半分こしたり、3等分でも4等分でも10等分でもしたらいいんだよ、って思う。

あたしも大事な人が悲しんでたら、そうしたい。

そういう友達が周りにいてくれることが、どれだけありがたいことか、きっとわかる時がくると思う。

あたしに財産があるとしたら、あたしの周りにいてくれる人たちみんなだ。

あの時あたしたち、ああやって好きな人たちとみんなで悲しみを分け合って、たくさん泣いて乗り越えたなって、大人になったこたがちょっとでも思い出してくれたらいいな、と思った。

これから味わう喜びも悲しみも、大切な人たちとたくさんわかち合える人になってくれたらいいなと思った。

みんなが帰ってしんとした家で、シャワーを浴びる気力もなくて、最波の棺を布団の横に置いて寝た。

こたが産まれた時のことを思い出していた。

昨日まであたしのお腹の中にいた生き物があたしの隣ですやすや寝ている不思議。

ただただ、不思議だった。
いとおしかった。
手も、足も、額も、目も、鼻も、口も、お腹も、ずーっとずーっとさわっていたかった。
この手で「さわれる」ということが、ただただ、不思議だった。

こたが産まれた時よりも幾回りも小さい最波にも、その時と同じいとおしさを感じた。

棺に入り、息もしていなかったけど、いとおしかった。

あたしのお腹から出てきたんだなぁ、と思った。

もしかしたら、生きて、あたしの隣で寝ていたかもしれない最波。

生きて、あたしの隣で毎日眠り、毎日少しずつ大きくなっていく最波を、少しだけ想像した。

あたしは、最波の頬をなでて、泣きながら眠った。

翌朝、こたは、おねしょをした。
もちろん、怒れなかった。怒らなかった。
こたなりに色々抱えて、悲しい思いをしてるんだろう。

あたしの布団の隣に置かれた最波を見ると、「もなみとバイバイするのやだー!まだ一緒にいたいよー!もっとずっと一緒にいたかったよー!」と泣き出した。

あたしもおんなじ気持ちだった。

まさかこんなに短い時間で、こんなに感情移入するとは思っていなかった。

火葬の日を1日送らせればよかったかな、とも思った。

病院で「へその緒はお持ちになりますか?」と聞かれて、もらわなかったことを後悔した。
そんなものを側に置いておいても悲しくなるだけだ、と思って断ったのだった。

あと2時間も経てば、この姿形は消えてなくなってしまう。

その体を失うことに未練を感じた。

命がなくっても、人間の姿形に対する愛情というものはこんなに湧き出るものなのかと、今までで一番強烈に、悲しかった。
これまでに感じたことのない感情だった。

あたしはまだ両親も生きていて、大切な友達を亡くしたこともないから、その時が来たらどんな気持ちになるのか想像もつかないが、
この、「大切な人の姿形を残しておきたい、失いたくない」という感情は相当に恐ろしいものだな、と思った。

火葬が初めてではなかったが、老齢の人のものしか経験がなかった。

「焼かれて無くなってしまう」ことが、こんなに嫌だと思ったのは、初めてだった。

あたしが育った田舎では、祖父の死んだ平成元年までは少なくとも皆、土葬だった。

家から墓場までは歩いて3分、棺をリヤカーのようなものに載せて、皆で行列を作ってぞろぞろ運んだ。
墓場では当番の男たちが2mくらい穴を掘って待っている。
お墓には文字通り死体がたくさん埋まっていた。
それが当たり前だった。

そこに肉体があるから、お墓参りに行っても、その人がそこに「いる」と思える。
子ども心に、会いたいな、と思えばそこに行けばいいような気がしていた。

中学2年で曾祖父が死んだ時、初めて火葬を経験した。
人間の体を焼くだなんて、いくら死んでるとはいえ残酷だと思った。

墓石には骨壺を入れる場所なんかなかったので、結局土に穴を掘ってみんなで骨を投げ入れて埋めた。

曾祖父は生前から「俺が死んだら犬に食わしっちめ!」というのが口癖だったから、それでいいような気がした。

こういうところで育ったせいなのかはわからないが、人間の姿形をしていないものに対してはあまり感情移入できなかった。

骨は、ただの骨、という感じだった。

だからこそ、すべてが終わってしまう気がして、悲しかった。

火葬には、さっくんと二人で行く予定だったのだが、こたが「俺も一緒に行きたい、今日は学校に行く気分じゃない、最後までもなみと一緒にいたい、家族みんなで一緒にいたい。」と言い出した。

そう言われてみれば、なんで始めからそうしなかったんだろうと思うほど、そうするのが当たり前のような気がした。

学校に電話して、今日は熱があるので休みます、と言った。

こたの連絡帳を取りに来てくれるようクラスメイトに頼んだら、前の夜にも来てくれたその子のママが、「最後のお別れしたくて...」と仕事前にまた最波の顔を見にきてくれた。

最波を、お布団ごと抱っこしてもらった。
これから仕事に行く人を朝からまた泣かせてしまった。

他の友達たちも、きっと今、最波とあたしたちのことを想ってくれているんだろうなと感じた。
すごくすごくその想いを感じた。

みんなにもらったお花を切って棺の中にたくさん入れたらとても綺麗だった。

病院で最波を産んだあとは、
「写真とか撮っておくべきなのかなぁ?撮らない方がいいかなぁ?どうする?倫理的にマズイかな?どう思う?でも撮らなかったら記憶の中にしか残らないってことだよね?それも寂しくない?」
と、さっくんと悩んでいたのだが、
そんなことは完全に吹っ飛んだ。

あたしたちの最波だった。
家族だった。
写真を撮らないなんて選択肢はなかった。
お花に囲まれた最波とこたを、かわいい~と言いながらバシャバシャと撮った。

そんなことやってたもんでまたもやシャワーを浴びる時間がなく、すっぴんに喪服を着て、いかついサングラスをかけ、斎場まで歩いた。

風呂敷に包んだ棺を、通り過ぎる人たち皆に見られているような気がした。
(それかあたしの風貌。そっちかもね。)

どうでもよかった。
全然見てくれ、と思った。

近所にあるのに初めて足を踏み入れた斎場。

胎児の火葬は、まだお釜が熱くなりすぎないうちの、朝一番でおこなう。

骨壺に名前を入れてくれるというので、初めて「最波」と名前を書いた。

焼き場の、棺を入れるところにも、名前をかけてくれていた。
いい名前だなぁと思った。

こたの名前は産まれてから何百回書いただろう。
最波の名前を書くことは、たぶん、もうない。

3人で並んでお別れして、見送った。
最後だなぁと思って、心ゆくまで泣いた。

みんなして、悲しかった。
みんなして、同じ気持ちだった。

待合室で待つのに、20分かそこらしかかからなかった。

呼ばれて行くと、骨が飛ばないように鉄の板を立てて仕切られた台がお釜から引っ張り出され、目の前に並べられた。

骨はほとんど残らないと聞いていたのだが、大腿骨の骨が2本と、たぶん膝から下の骨1本が綺麗に残っていた。

しっかりした骨だったんだねぇ、そこもきっとこたに似てたんだねぇ、と言った。

茶碗蒸しを入れるくらいのちっちゃな骨壺に、みんなでサラサラとお箸を使って骨を入れた。

斎場の隣にある公園で遊んでから帰りたいとこたが言うので、白いキラキラした布の袋に入った骨壺を持ったまま、公園で遊んだ。

近くの保育園の2,3歳児がやってきたので、長居はしなかった。
一人一人の子どもたちが皆尊いな、と思った。

家に帰ってくるとこたが、
「もなみ、おかえり~」と骨壺に頬をすり寄せていた。
「これからは4人家族だね!こたはもなみのお兄ちゃんだよね!」と笑顔で言った。

あぁ、そうか、そういう風に考えるのか、すごいな君は、と思った。

こたには隠し事せずに全部話そうと思って話してきた結果、最後はこんなに悲しい思いまでさせてしまって、8歳の子に残酷すぎたかもしれない、隠し通した方がよかったのかもしれない、と後悔したりもしたが、
すべて受け入れて、前に進もうとしているその姿勢に、どすんと清々しいパンチを喰らった気分だった。

あたしの体内で生まれた命が4ヶ月くらいかけて育まれ、だけどそこをまた自分で空っぽにしてしまった、金だけが湯水のように出ていき、あとには何も残らなかった、こんな虚しい、情けないことがあるか、と思っていた。

けど、違ったんだ。
あたしのお腹の中は空っぽになったけど、最波がお腹の中にいた時間がなくなるわけじゃない。
最波がくれた悲しみと、命の尊さも、なくなるわけじゃない。
何もなかったことにすることはできないし、しなくてもいい。

最波は骨になってしまったけど、ただの骨じゃなかった。
あたしたちが乗り越えてきた日々のすべてが詰まっていた。

こたの言うように、あたしたちには、見えないもう一人の家族ができたんだ、と思った。

最波を連れてみんなでどこかに遊びに行きたい、釣り堀がいい!と言うので、あたしはやっと何日かぶりにシャワーを浴びて久しぶりに化粧をして、無理を押して自転車を20分ほど走らせた。
(完全にお薦めできない。足腰がやられた。)

天気も良くて、これ以上ないくらいの釣り堀日和だった。

カップルがこたに、よく釣れるスポットを譲ってくれて、こたは何回か鯉を釣り上げて嬉しそうだった。

あたしたちが今朝、喪服を着て、産めなかった子どもを火葬してきたとは、誰も夢にも思わないだろうな、と思った。
さっくんのバッグには、最波が入っていた。

今日だけは特別でいいや、と思った。

生きてるだけでありがたいねぇ、こたが健康でありがたいねぇ、って思ったって、
また少し経ったら、「なんでそんなもん出しっぱなしにしとくの!」だとか
「足きったない!今すぐ風呂入って洗え!」だとかガミガミ言ったり、
さっくんにだってあれしろこれしろ言ったりしちゃうに決まってる。

仕事のことだとか、加齢のことだとか、政治のことだとか、学校のことだとか、ままならないこといっぱい抱えてジタバタするに決まってる。

だから、今日くらいせめて、昭和から時が止まったようなこの釣り堀で、風に吹かれりゃいいや、と思った。

この場所が、あたしたちによく似合ってる、と思った。

ビールケースに座って食べたカツカレーの味を、あたしは一生忘れない。

たぶん忘れてしまうから。

忘れたくなくても、忘れていってしまうから。

こうして、あたしのややヘビーな、35歳の5月が終わった。

ここからまた、始めるつもりです。

生きてる限り、一生懸命、ジタバタしようと思います。

テーマ:
帰りの電車で頭の中に流れてきたのは、またしても尾崎だった。

「洗いざらいを捨てちまって 何もかも始めから やり直すつもりだったと 街では夢が Wow」

そうです。『路上のルール』です。(知らない?)
やっぱりあたし、結局尾崎が好きみたい。


雨がしとしと降っていて、昨日までとは打って変わった寒さだった。

5月7日、月曜日。

羊水検査の結果を聞きにクリニックに行った。

通常だと結果が出るまで3週間くらいかかるのだが、FISH法という検査方式にしたので1週間で結果が出た。
(料金は通常プラス1万円)

1週間でも長く感じたから、3週間なんてとてもじゃないけど待てなかったな。

ゴールデンウィークはお天気も良くて楽しかった。

こたはクラスの友達3人と、本物の芸人さんのライブに出してもらった。

大勢のお客さんの前で、自分たちで考えたネタをやった。
おっきい声で間違えずに堂々と。

どんな気持ちだっただろう。

初めての楽屋にワクワクして調子に乗ったり、芸人さんたちに「お菓子食べていいよ!」って言われて喜んだりふざけたりしてたのに、お客さんが入ったら緊張しだして、出番前には「どうしよう!こわい~!めーちゃん、ギュってして~!」と言っていた。

「大丈夫だよ、大丈夫。練習通りにやればいいよ。こたならできるよ。」って抱きしめた。

ピンクのカツラをかぶってお化粧をしたこたがすごくかわいかった。

あたしは子どもの頃にミュージカルをやっていて、本番前に大人が音響や照明をチェックしたり、場当たりしたり、早着替えの衣装が並べられてたり、緊張感がある舞台裏の雰囲気が大好きだった。

大人がたくさんいて、バタバタとしていて、いつもとは違う、なんだかとてつもないことが起こりそうっていう雰囲気に、毎度シビれていた。

緊張して前の日に吐いたりしたこともあるけど、それでもやっぱり本番が好きだった。
スポットライトを浴びるのはたまらなく気持ちがよかったな。

ということを、舞台袖で子どもたちのリハを見守りながら思い出した。

その子どもミュージカルを一緒にやっていた友達の唯が、大人になった今もずっと舞台に立っていて、今回こうやって、子どもたちにお笑いライブでネタをやらないかと誘ってくれた。

すごくありがたかった。

特別な経験をさせてもらったってこと、みんなおっきくなったらきっとわかるよ。

4人とも逃げないでよくがんばったね。
4人だからがんばれたよね。
世界は広いよ。
いろんなことに挑戦して、ミスってもできなくても、自分のドキドキする気持ちをたくさん味わってほしいなぁと思ったよ。

きっと来年も再来年も5月5日には、この日のことを思い出すんだろうな、と思った。

お腹の中に赤ちゃんがいたことや、結果が出る前の不安な気持ちも一緒に。

でもきっと忘れちゃうこともいっぱいある。
一年は短いけど、けっこう長い。


結果は21番目の染色体が通常より1本多い「21トリソミー」、つまり「ダウン症候群」だった。

通常の羊水検査(G分染)では、13、18、21の染色体異常とXとYの染色体異常が判明する。
(1番目から46番目の染色体までずらっと並べられて、どこかの染色体が2本以上あったり足りなかったりするとそこが光るようになっているらしい。)

なので、男か女かということももちろんわかる。

赤ちゃんは女の子だった。
やっぱりね!と思った。

なんとなく、女の子のような気がしていた。
もし生まれていたら戌年だった。
あたしも、ママも、死んだおばあちゃんも、さっくんのママも、さっくんの義理のお姉さんも戌年。
戌年の女がやたら多いのだ。


初期の超音波診断をやった時は鼻の骨が2本とも見えたし、(ダウン症候群の胎児は鼻の骨が出来上がるのが通常の胎児より遅いらしく、13週くらいだとエコーで見えない場合があるらしい)
13、18、21トリソミーのそれらしい兆候もあまり見られなかったので、21トリソミーではなくて別の遺伝子異常かもしれない(Y染色体のないターナー症候群など)と言われていたから、
想像と違っていてちょっとビックリした。

不思議な感じだった。

そうか、ダウン症か。

そうか、あたしが。

産もうとすれば産めることはもちろんわかっている。
体の疾患で言えば、軽い部類の障害だってこともわかっている。

けどやっぱり、何かあったら産めない、と決めていた。

幸い、さっくんも結果説明の場に来ることが出来た。

とにかく、中絶手術をおこなうには日数が限られているし、紹介などの手続きもあるので、「夫婦で話し合いはされましたか?」と聞かれた。

そうですね、今回は...うん...悲しいけど、産めないです。

と冷静に言ったあとで、手術の仕方を詳しく説明された。

ラミナリアという海草でできた綿みたいなものを1本ずつ入れていって、子宮口を1日かけて広げます。
(最終的に20本くらい入れるらしい。)

そのあと人工的に陣痛を起こして子宮を収縮させます。
赤ちゃん出てきたらちゃんと顔もわかると思うし、できたら見てあげてね。

火葬は、葬儀社が提携している場合もあるから、それは聞いてみて、死亡届けを区役所に出して火葬許可証をもらってから...

などというところで、もう頭がパーンってなって、「ちょっとあーダメだ、ごめんなさい、何にも頭に入ってこないです、さっくんごめん、ちょっとあたしの代わりにちゃんと聞いといてー」と言って、涙がやっと出てきた。

そのあとは、止まらなかった。

カウンセラーさんがティッシュ箱を用意してくれて、「あ、もう全然聞き流してくれて大丈夫だから!覚えなくていいから!病院でも説明してくれるから!」って言ってくれた。

紹介してくれた、無痛で人口中絶手術をおこなっている病院2つはどっちも遠かったけれど、そりゃなるべく安い方がいいやと思い、縁もゆかりもない遠くの病院に行くことにした。
(だってもう1つの方は40万ぐらい高い上に、出産一時金の手続きを自分でしなきゃいけないので現金で110万くらい入院前に支払わなきゃいけないっていうんだもん。)

あーこれからバタバタするなぁ、でもとりあえず焦燥の日々が終わったのか、と思ったらちょっと気が抜けた。

あたしももう、これ以上はいろんなこと考えて苦しくなったり、産むべきか産まざるべきか考えて迷ったりするのは限界な気がしていた。

染色体異常が出ずに、体の疾患を調べ続けて、産まれるまでの日々、大丈夫かなぁ、大丈夫じゃないかなぁ、とか考えたり、お腹の中で大きくなるにつれて心臓疾患以外にも色んな疾患が見つかったりしても、本当に産むという決断に自信が持てるのか。

あたしは、そんなに強くない気がした。

何かがあるかもしれない、「かもしれない」だけでもやっぱり難しいと思った。

そんな覚悟なら最初から、子どもなんか持とうとするべきじゃないのかもしれない。

でも、どっちにしろエゴだな、と思った。

セックスして、妊娠して、なんもなかったら産む、なんかあったら産まない、もしくはなんかあっても産む。

どっちにしろ決めるのは親で、そりゃいい意味でも悪い意味でもエゴだろう。

だったら最後までエゴで、その決断に責任持つしかない。

とはわかっていても、やっぱり産めるんじゃないか、とも思ってしまい、カウンセラーさんに「お腹の赤ちゃんって外科的な疾患は心臓だけですかね?」と聞いてしまった。

「えっとそれはどういう意味で聞いてる?」と言われて、

「なんかその、、、ダウン症ってだけで産まないっていうのって、どうなのかなって。手術で治るような心臓疾患だけなら産めなくもないのかなって、どうなんですかね。」と答えていた。

「前にも話したと思うけどね、
心臓疾患とかも手術でだいぶ治せるようになってきたりして、ダウン症の人の平均寿命は延びてきてるの。
今平均で大体60歳くらい。
子どもの時はいろんなことがちょっとずつできるようになってくのがうれしいし、
本当に素直でかわいいし、
特別何かに秀でてたりする部分もあるし
、大変だけど、楽しいこともたくさんあると思う。
けど、平均寿命が伸びてきて、30代とか40代で急に鬱っぽくなるっていう症例も報告されてきている。
大人になってからのことっていうのは、まだまだわからない部分も大きいし、大変は大変だと思う。」

と、言われた。

カウンセラーさんは、あたしたちの決断をサポートしてくれてるんだと思った。

産みたいと言う人には、その気持ちをサポートするような言葉をかけてくれるんだろう。

結局やっぱり、決めるのは親だ。

正直、パニクっていた。

産んでる人だってたくさんいるってわかってたし、ダウン症の子の元気な姿を見ることだってあるし、だけどあたしはそっちの道は選べないんだっていうのが、正しいのか間違ってるのか、いいことか悪いことか、それは全然わからなかった。

わからなかったけど、やっぱり決断を変えることはできなかった。

それは、それぞれの人の状況で全然違うだろう。

住んでるところ、仕事、親が近くにいるかどうかとか、他に兄弟がいるかどうかとか、金とか、産む年齢とか、どれくらい子どもを欲しいと思っているかとか、決断するにはいろんな要素が複雑に絡み合ってくるだろう。

あたしも、一人目だったらもっと違う決断になっていたかもしれない。

子どもを育てるってことがどういうことかわかってなかったし(素晴らしいことと大変なことのどちらも)、20代だったらはっきり言って今よりも体力もあって「産みたい!あたしなら産める!育てられる!」と言っていたかもしれない。

わかんないけど。

でも今はやっぱり、酷い奴かもしれないけど、側にいるさっくんとこたにとってよい場所を作るのがあたしの役目であり、そのためにはパワー全開で動き回っていたい。

なぜなら二人ともそういうあたしを好きでいてくれるから。

いつからあたしはこんな保守的な考え方になったんだ。

想像もつかないことに飛び込んでドキドキしたいんじゃなかったのか?

まったく、矛盾だらけだよね。

でも、大切な人とか、大切にしなきゃいけないものとか、考えたらやっぱり自分の中にちゃんとあって、どうしても譲れないものとか、順番とか付けなきゃいけない時もある。

全部は無理だもん。

欲しいもの、いっぱいあるけど、どれもこれもは手に入らないんだ。

ベビーカー押して連れ立って歩いているママたちを見たり、ちっちゃい持ち物みたいにお腹に赤ちゃんを抱っこひもでくっつけたママを見ると、

「いいなぁ~もう1回あんなちっちゃい赤ちゃんといっつも一緒に歩いてみたかったなぁ~!」と、思う。

思うけどそれは、

「いいなぁ~、松坂桃李に抱かれたかったなぁ~!」(「弧狼の血」観た!さいっこうだった!!)とか、

「いいなぁ~、あたしも北イタリアに別荘がある家に生まれて夏休みを毎年北イタリアで過ごしたかったなぁ~!」(「君の名前で僕を呼んで」観た!トキメキでとろけ死ぬかと思った!)

とか、そういうのと同じ欲望の類いだと思う。

そんな「いいなぁ」は、生きてりゃいっぱいある。

そして、「いいなぁ」って思いながら、「いや、でもま、無理か~!仕方なし!」って思う。

たまに夢で見たりもする。

その光景を目にして、羨ましくて、ちょっとだけ俊巡したりする。

ちょっとだけ、胸の中がザワザワってする。

だけどそうやって「いいなぁ」っていろんなことに思えるのは、悪いことじゃないような気がする。

叶えられなかったことや、叶えたかったこと、全部含めて、あたしができている。

手に入ったものと、手に入らなかったもの、そのどちらもで、あたしができている。

手に入れたいと思っていた気持ちは、それはそれで大事にすればよいだけのことだと思う。

それは、執着とはちょっと違う。

あたしは、手に入れたかった。
でも、手に入れられなかった。

でも、終わりじゃない。
生きてる限りは、終わりじゃない。

これからもきっと、手に入らないものが増えていく。

そのたんびにちょっと胸がザワザワするだろう。

でもきっと、手に入るものも増えていく。

どっちも、尊いもののような気がする。


と考えて、そういうことを、あの人にも、あの人にも言ってあげたいなと思った。

全部含めてあなただよ、ということを。

手に入れられなかったものを抱えて生きるあなたを愛してるよ、ということを。


一番へこんでいる時に、映画「君の名前で僕を呼んで」を観た。

北イタリアの太陽と緑が眩しく、風と川が心地良さそうで、何から何までうっとりの、17歳のエリオと24歳のオリバーの、一生に一度の紛れもないただ一つの恋の物語だった。

1983年、まだまだ同性愛には偏見が付き物だっただろう。
(今だって決して偏見がないとは言えないが。)

それに、元々夏休みにエリオの父親(ギリシャ・ローマの考古学の教授)の助手としてアメリカから来ていたオリバーは、夏が終われば帰ることになっているから、二人とも始めからこの恋には終わりがあるとわかっていた。

オリバーが去ったあとの、世界が終わってしまったかのような傷心のエリオに父親がかける言葉が、ひとしお胸をえぐった。


誰もが経験することのできない経験を君は手にした。
留めておきたくても歳を取っていったらどんどん失われていってしまうような気持ちを君は今手にしているんだ。
歳をとるということは、体もだけど、心も恐ろしいほどに衰える。
特に30歳を過ぎるとね。
私はもう失ってしまった。
君と彼が特別だったことは明らかで、君と彼だからこそ惹かれ合った。
どうか今感じているその喜びも痛みも忘れないで。
(随意)


こんなことを自分の息子に言える父親がいるだろうか。
レベル高すぎる。
でもこういう親になりたい、と思った。

そしてエリオのパパがエリオを肯定してくれたように、あたしもあたし自身のことを肯定してあげたい、と思った。

何の自慢にも、得にもなりはしないが、
あたしは恋を知ってるし、愛も知ってる。

そしてまだその気持ちを失ってもいない。

だからこんなことがあってもなお、あたしは幸せだな、と思った。

こんな歳まで、痛みと喜びと、人を愛する気持ちをずっと持ち続けられる自分は、幸せなんじゃないかと思った。

それでちょっと元気が出た。

毎日ちょっとずつ受け入れ、毎日ちょっとずつ肯定し、毎日ちょっとずつ諦め、毎日ちょっとずつ悲しくなり、毎日ちょっとずつ元気になっています。

手術をする病院まで電車でゴトゴト入院の日取りを決める診察をしに行ったら、あまりにも綺麗で新しくて、ガラス張りだったり吹き抜けだったりオペレーションのシステムが最新だったりして、クラクラした。

なんとなく今の自分にふさわしくないような、場違いな感じがして、早く帰りたかった。

もっと古かったり、色褪せてたり、先生がおじいちゃんだったりする方がなんぼかマシな気がした。

診察が終わると事務の人が現れて、入院費の説明と提携してる葬儀屋の説明をされた。

基本サービス料が5万円、それから火葬代は市外在住なので1万5千円、棺は一番小さいものでも2万5千円だった。

なんにしても金はかかるようだった。

そりゃしょうがないのはわかってはいるが、でも、こんなことに金がかかるのはとても虚しいものがあった。

会計を呼ばれるのを待ってたら、吹き抜けの2階で母親学級が始まり、キャピキャピと楽しそうな声が聞こえて、泣きそうになった。

どういうわけかあたしは「くそ、こんな綺麗なとこで泣いてやるもんか」と思って歯を食いしばった。

一刻も早くあたしの街に帰りたかった。

葬儀屋に10万弱も払うのが癪だと思い、家の近くの葬儀屋をネットで検索してみたらフリーダイヤルの番号が出てきたので電話をかけた。

どうやら葬儀屋を案内するセンターらしく、近くの葬儀屋を探して折り返してご連絡します、とのことだった。

「このたびは御愁傷様です」と言って電話をかけてきた葬儀屋は、火葬代も含めて15万かかると言う。
(確かにあたしの住んでる区は、病院のある市よりも火葬代が2万強も高いのだが。)

バカ野郎、やってらんねえぜ、と思って今度は葬儀場の窓口に直接電話をして聞いたところ、「通常は葬儀社を通してご予約していただくことになっています」と言う。

「個人で予約はできないんですか?」と聞くと「棺と火葬許可証を用意してもらえば、できないこともないです。」と言う。
(それ早く言えよ!)

結局葬儀場は火葬代、骨壺代、待合室代、合わせて5万ちょっとで予約できた。

棺はネットの通販で1万ちょっとで買うことができた。

葬儀屋、ざまぁみろと思った。
そんな風に搾取されるのはあたしはまっぴらごめんだった。

悲しかったり理不尽なことが多いので、クソ!と思って怒りに変えて生きている。

悲しんで落ち込むよりも、怒りに変えることでパワーが湧いてくるので、そうやってなんとか自分を鼓舞してるのかなと思った。

どおりでここのところイラついている。
(さっくんとこたにはホントに申し訳なく思っている。)

こたには妊娠からの経過も全部話していたので、今回の結果と決断も隠さずに話した。

「え?なんで?赤ちゃん病気なの?」と聞かれて、「病気ってわけじゃなくてね」と、ダウン症のことも話したけど、こたは周りにダウン症のお友達もいないし、具体的なイメージもなかなか湧かないだろうなと思った。

これからちょっとでも、ボランティアでもなんでも、そういう人たちと関われる機会を作れるといいなと思った。

赤ちゃんを産まないと決めたことを話すと「そっか...」と言ってうつむいたあと、「わかった。」と何か納得したようだったので、

「こた、悲しい?」と聞いたら、

「悲しいよ。悲しいけど、めーちゃんの方が悲しいと思うから、もうその話はしなくていいよ。」と言われた。

こたはいつも、あたしに優しい。

二人で、「赤ちゃん産んであげたかったね~!」と慰め合った。

やっぱりそういうこと考えると、ごめんね、って気持ちになる。

ごめんね。

こたの時よりも、胎動を感じ始めるのがずっと早くて、5月の頭頃にはピヨピヨとしていた。

今ではもうグルングルンや、ボコボコもしている。
とにかくすごく元気な子のようだ。

木箱の中にお布団の入った24cmの棺が宅配便で届き、段ボールを開けたところで「これは一体なんだろう?」と思考が停止した。

工作でも作れるようなちゃちな代物である。

ここに、お腹の中で動いている赤ちゃんが入ることになるのだ。

わかってはいたけれど。

あと何日かしたら、何もかも終わっている。

あたしは予定では2泊3日で退院し、次の日は朝から火葬場へ行く。
その次の日は何食わぬ顔でPTA総会に出て役員の仕事をこなす。

ゆっくり悲しむ間があるかわからないけれど、みんなで海に行けたらいいなと思う。

夏ももうすぐそこだし、楽しいことはいっぱい待っている。

こたはボーイスカウトで3泊4日のキャンプにも行くし、学校にお泊まりするイベントもあるし、友達と4家族での合同旅行も計画している。
プールもいっぱい行こうね。
新潟の海も行こうね。

あたしも夏は気合い入れて仕事がんばろうと思うし、酒もたくさん飲もうと思う。

横長のでかいスポーツバッグに棺を入れて、朝の満員電車に乗る。

完全に、合宿に行く人スタイルである。

非常に迷惑だと思うが許してくれ。

結局一度も妊婦マークのキーホルダー付けられなかったな。

しくしく泣きたい気持ちでいっぱいだけど、天気がよいので少しマシだ。

これから行われる処置に関しては正直ビビっている。
その時どんな気持ちになるかも想像がつかないし。
今日もこの病院は、妊婦でいっぱいである。

では、行ってきます。

もしあたしと一緒に飲むことがあれば、この子に献杯してやってください。

名前は、「最波(もなみ)」と付けた。




















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今の気持ちをとりあえず書いておこうと思って2018年4月12日、木曜日、午後15時15分。

つわりなのかなんなのかわかんないけど、気持ちが悪くて食欲がない。

眠い。

瞼が落っこちてきそう。

どうやら今朝から熱っぽい。

どういうわけかモスとかケンタッキーとかのハンバーガー系なら食べる気になるので、昼はケンタッキーのフィレサンドを食べた。

朝、髪の毛を乾かしながら尾崎の『ダンスホール』が脳内に流れ出してきたので泣いた。

髪を乾かすのをやめて、椅子に座って落ち着いて一回泣いた。

中学生の頃からずっと好きな曲で、ことあるごとに口ずさんでいるこの曲はなんにも変わらないのに、あたしばっかり変わってく。

歳も取ったし、中学生の頃には想像もしてなかったことが次々と起こる。

楽しいこともいっぱい起きた。

あたしの人生、幸せだと思う。

でもマジかよ、ということもけっこう起きてる。

もうちょっと平坦でもいいような気がする。

とにかく、ずいぶん遠くまで来てしまったもんだなあと思った。

ゲロゲロ。

あたしが泣いている理由は、どうやらお腹の中にいる子どもに何か異常があるかもしれないということについて、である。

妊娠13週2日、母子手帳をもらってはじめての妊婦検診を受けた。
(病院で妊娠が確認されたのは8週の時。)

何事もなく終わるだろう、この検診が終わればやっと身近な人たちにも報告ができる、と思っていたら、「赤ちゃんの首の後ろにむくみが見られるから、来週精密検査を受けてください」と言われた。

それ以上は何も言われなかった。

怖いので、すぐにネットで検索した。

「首のうしろ むくみ 胎児」
染色体異常、ダウン症候群、心疾患、NT。

まったく想像もしていなかった言葉が並んでいた。
NTに関しては聞いたこともなかった。

こたと一緒だったので、トイレに入って隠れて泣いた。
帰り道も自転車に乗りながらバレないように泣いた。

でもバレた。
「めーちゃん、なんで泣いてるの?」と言われて、「なんでもない!大丈夫!」と言った。

まだ確定もしてないことでも人は泣ける。

なんでだよと思ったし、またなの?と思ったし、あたしがなんか悪いことしたんかな?と思ったし、赤ちゃんやさっくんにごめんねと思ったし、もしそうだったらどうしよう、と思ったし、あーせっかく喜んでくれた人たちをまた悲しませるんかな、と思ったし、あんまりたくさんの人に言わなくてよかったな、と思ったし、もっとたくさんの人に言いたかったのにな、と思ったし、なんの問題もない赤ちゃんがよかったな、と思ったし、いやまだ何もわかんないのにそんなに悲しんでどうする、と思ったし、それはもう産めないと思ってるってこと?と思ったし、よくわからなかった。

こんな不安や悲しい思いするんならいっそ妊娠しなきゃよかった、とも思った。

待て待て、妊娠したくてもできない人だってたっくさんいるんだぞ、それは傲慢じゃありません?

じゃあどんな妊娠でもいいんか、みんな普通の妊娠がしたいんじゃないんか、元気な赤ちゃんが欲しいんじゃないんか。

あぁ、普通がよかったな。
普通ってなんだ。

前の年、2017年6月に初期流産があった。

9週になっても心拍が確認できないので、このままだといずれ流れてしまうだろうからおろしましょう、とのことだった。

手術は半日で済むし麻酔も効いて痛みもまったくなかったけど、気持ち的には、堪えた。

その上、2日後に発熱と腹痛が起こり、すぐさま手術をした病院で診てもらったら「手術が原因ではない。原因がわからないから大きい病院に行きましょう。」と言われて救急車に乗せられて運ばれた。

病院前まで救急車が入って来られなかったので、担架に乗せられオレンジ色の毛布を被せられ、昼日中の商店街を100mほどガラガラと大げさに運ばれた。

そんな大ごとになるとは思ってなくて、10cm以上もあるポックリサンダルを履いていた。
「靴脱がせますね!」と救急隊員の人に言われて、すんませんと思った。

39.4℃の熱と熱なんかどうでもよくなるくらいの子宮の痛み。
お医者さんや看護師さんが8人ぐらいわらわらと処置室に入ってきて、股をガバーっと開かされ、痛みで唸ってジタバタするのを右側と左側に2人ずつくらい立たれて押さえつけられた。

酸素吸入器も初めて付けられた。
痛みで暴れるヤバイ奴である。

高熱で血管が取れず、脈も測れないような状態で、看護師さんたちはバタバタ走り回りながら何やら口々に叫びまくっていた。

麻酔が効かず、原因を突き止めるためにとにかくあそこを引っ掻き回された。

あたしも「ヴァァァー!」と何度も叫んだ。

「ごめんね!もう1回だけ行くよ!」と何回かやられたが、そのうち痛すぎて失神した。

出産よりもはるかに痛かった。

子宮内膜症が元々あったようで、子宮内に溜まっていた血の塊に何がしかの理由でバイ菌が入って繁殖し、炎症をおこしてしまったようだった。

いわゆる、子宮内感染というやつだと思う。

痛み止めと抗生物質を投与されて5日間入院した。

両手の甲にぶっ刺された注射針がだんだん痛くなってしくしく泣いたりした。
痛み止めが切れると子宮も痛くなって泣いたりした。

これっぽっちの点滴とこれっぽっちの入院で心細くなってひ弱くなって泣いてるなんて、麻央ちゃんは一体どんな気持ちなんだろうと思ってたら、退院後に麻央ちゃんが亡くなった。

同い年だったし、悲しかった。

こんな痛いことが起きたのがあたしでよかった、と思った。
こたやさっくんじゃなくてよかった、と思った。
こたやさっくんに起きていたら、あたしは耐えられなかったと思う。

あたしでよかった。
あたしは耐えられる。

麻央ちゃんもそう思ってたような気がする。
比べるのは本当におこがましいけれど。

内膜症の治療を進めるか、妊娠を一番に希望するのか、選択を迫られる中で、治療をせずに自然に任せることにした。

内膜症もすぐに手術をしなければいけないほどの酷いものではないし、定期的にフォローをしていけば大丈夫でしょうとのことだった。

子どもは、なんとなくもう1人くらいは欲しいような気もしていたけど、こたも1人いるんだし、不妊治療をしてまでもう1人ともこだわってなかった。

そもそもそこにかけるお金もないし。

それに、内膜症はどうやら不妊になりやすいようでもあった。

だけどもし万が一妊娠して出産すれば、子宮内に溜まった血液が全部ドバァーっと出て綺麗になるので一石二鳥じゃんとお気軽に思っていた。

でも、とりあえず今はやることいっぱいあるし、自分の人生が落ち着くまでは後回し。

十分大変で十分充実してる、それどころじゃないわ。
まぁ、このまま3人家族で行くのもよかろう。

と、思っていたらポロっと妊娠した。
不妊だと思っていたので、予想してなかったことだった。

もちろんうれしかったけど、初期流産も2回してるし(こたが産まれる前にも1度している)、本当にこのまま何事もなく進むのか、半信半疑でビクビクする日々だった。

妊娠6週目の時にたまたま内膜症の方の診察があったので病院に行ったら、胎嚢も心拍も確認できますとは言われたけれど、初期流産は大体12週目くらいまでに起こることが多いので、安定期に入るまではなんとも歯痒い時間だった。

やっと安定期に入っての妊婦検診。
13週目に入って初期流産ももう大丈夫かな、と安心してたのに、まさかの展開だった。

4日後の4月10日に、同じ病院で再度エコーの精密検査をすることになった。

超音波診断の医師が担当し、産科の医師も立ち会う。

やはり、「後頭部から肩にかけての皮膚が厚い」(むくみがある)とのことだった。

「むくみの可能性っていうのは何が考えられるんですか?」と聞いたら、

「確定ではないですよ。確定ではないですけど...嚢胞性ヒグローマが疑われます。」

と言われた。

またもや聞いたことのない病名だった。

「嚢胞性ヒグローマ」をネットで調べると、前よりももっと恐ろしいことが書かれていた。

ダウン症候群の確率50%以上、胎児心拍停止、胎児水腫、死産。

これ以上の詳しい検査はうちでは無理だからと、出生前診断専門のクリニックを紹介された。

そんなクリニックがあることすら知らなかった。

あたしは本当に無知だったなぁ、と情けなかった。

頭クラクラしながら、すぐにそのクリニックに電話をかけた。

初期の超音波精密検査は13週6日までに受けなくてはいけないらしく、電話をした日を含めて3日しか時間がなかった。

(胎児が大きくなりすぎてしまうと確率計算ができないらしい。)

検査の前に出生前診断・遺伝子専門のカウンセラーさんのカウンセリングを1時間ほど受けなきゃならないのだが、時間が取れないことを伝えると、この日の夜に時間外診療をしてくれることになった。

何もわからないうちに物事がどんどん進んでいって、自分があれよあれよとどこかへ運ばれていくようだった。

動揺してママに電話をして経過を報告すると、腹を括ったのか、まだ何もわからないのに「ダメだったら今回はしょうがないよ。」と言われた。

「障害のある子を育てるのは本当に大変なことだよ。お金だってすごくかかるし、付きっきりになるよ。こたがいるんだから、こたのことをまずは一番に考えてあげないと。」と言われた。

まだそこまで気持ちが追い付いてなかった。
ついこないだまでは、予定日がいつだとか、男かな女かな、とかそんな話しかしてなかった。

エコーで見る赤ちゃんは、元気でよく動き回っていた。
この子、外に出してあげられないのかなーと思ったら悲しくて情けなくて、道端で、おえおえ泣いた。

「悲しいよね。いっぱい泣きな。でも産んだらもっと泣くことになるかもしれないんだよ。100倍も1000倍もめーさんが泣くことになるよ。ママは恨まれてもどう思われてもいい。それでもやっぱり問題があるんだったら産むことに賛成はできない。」と言われた。

予想もしていなかった電車に乗って、予想もしていなかった駅に降りた。

予想もしていなかった綺麗なクリニックで、優しそうなカウンセラーさんの話を聞いた。

この道の「プロ」って感じがして、それだけでちょっと安心した。
肩書きは日本とアメリカの遺伝子だのなんだのの難しい資格がくっついててかっこよかった。

2日後にそのクリニックで初期超音波精密検査を受けることになった。

その検査で80%くらいの確率で染色体異常がわかるらしい。
臓器の有無や大きな心疾患もわかるらしい。
でも、まだ胎児が小さいのでわからない疾患ももちろんあるらしい。

その検査であまりにも顕著に21トリソミー(ダウン症候群)や、18トリソミー、13トリソミーの兆候が見られる場合は、そのあとの確定診断である羊水検査をせずに中絶を希望する人もいるとのことだった。

「それぞれの事情や思いがあるので、中絶を無理に止めはしません。」と言われた。

18トリソミーや13トリソミーについては名前を聞いたことがあるくらいでほぼ知らなかったけれど、生まれてきても1歳くらいで死んでしまうことがほとんどらしい。

もし中絶を希望する場合はベテランの先生がいるいい病院を紹介するし(無痛の中絶というのもあるらしい)、どんな結果になっても最後まできちんとフォローする。

でもその前に、検査でわかることがあれば1つ1つ可能性を当たっていく、とのことだった。

最初のカウンセリングで1万円。
初期超音波検査は4万円くらい、そのあとに羊水検査をおこなうと20~30万くらい。

羊水検査では染色体異常しか確認はできないので、それでもし何も異常が見つからなくてもやっぱりむくみなどが見られる場合には心疾患や他の異常がないかを調べる必要がある。

その場合におこなう中期の超音波検査が5万円くらい。

最後まで検査して、もし何かの異常が見つかり中絶を選択する場合は、12週を超えているので普通の分娩の費用となり70万くらいかかる。
(もしくは中絶を決断する前に胎児が心拍停止して死産になってしまった場合も同様の分娩費用がかかる。)

お腹の中で急に赤ちゃんが心肺停止してしまうのが一番怖かった。

最初の病院で前置胎盤気味と言われたので、もし死産してしまった場合にも中絶する場合にも、前置胎盤なら帝王切開しなくてはならない。

帝王切開の無痛分娩だと100万はかかると言われた。

吐きそうである。

産まれてこなくてもこんだけのお金がかかるかもしれないことに愕然とした。

こんだけ不安になって、こんだけ傷ついて、さらにこんだけ金がかかる。
どんだけ~~!!

検査して検査して、それで結局なんにも見つからなくてたぶん大丈夫でしょう、産みましょうとなるならまだかかる金にも納得できるけど、検査して検査して、やっぱりダメそうだ今回は諦めましょうってなったり、もしくは途中で赤ちゃんが死んでしまったりしたらどうしよう。

まったく想像できないが、ひどくやるせない気がする、と思った。

いや、金じゃないじゃん、命じゃん、金には代えられないじゃん。
て、そりゃそうだけどさ、「金がすべてじゃないなんて綺麗には言えないわ」(『ダンスホール』尾崎豊)なのである。

ボーッとしてたら、帰りの電車の方向を間違えて乗ってしまった。
泣くよりももっと、現実的なことを考えなくては、という気持ちになっていた。

帰ってからあたしは、泣かずにさっくんに説明した。
飲み込みが早いのは、こういう時には役に立つ。

とにかく2日後の超音波検査を受けてみないことには何もわからないので、無駄に不安がることはやめた。

検査の日の朝、あたしが眠っている時、さっくんがあたしのお腹に手を回して、お腹をなでてくれていた。
電車でそれを思い出して泣いた。
経過を報告している友達や、検査の間こたを預かってくれる友達に連絡をする時は、泣けた。

泣くのはいつも、人の優しさに触れた時である。

「しんどいね」「心配だね」「大丈夫だよ」「できることがあったら何でも言ってね」「いつでも話聞くよ」

みんな優しくてありがたかった。

自分が置かれている状況が、泣いていい状況なのか、それともこんなことくらいで泣くなっていう状況なのかまだわからなかった。

こんな時でさえ、人と比べたり、もっと最悪なこともあるんだからまだマシだ、とか思ってしまって自分を甘やかせられない。

あと、たぶん、まともに、リアルに、状況を把握できていない。
お腹は日に日にぽっこりしていくし、エコーで見る赤ちゃんは元気そうだし、あたしもいたって健康だから。

それでも毎日は続く。
朝はこたと寝ぼけまなこで目覚まし時計を交互に止め合い、必死に起こし合い(ほぼ起こされてる)、二人でギリギリの時間まで布団の中でゴロゴロし、朝ごはんと自分用のお弁当を作って、持ち物と宿題の最終確認をして送り出す。

「靴下まだ履いてないの?何やってんの!」とか「鍵ちゃんと持った?」とか小うるさく言って、玄関でギューとチューをして、「窓からバイバイして!」と言われるので窓からバイバイをして、朝のニュースを見ながら自分の支度をする。

なんとかギリギリ、今日もあたしはイケてるし、今日もあたしは幸せである。

毎日、休んでる暇はない。
なんなら1日のうちでダブルワークしてるし、休みの日なんかはもっと忙しい。
学校行事、地域の行事、PTAの役員の仕事、自分の仕事、子どもと子どもの友達の面倒を見て、合間に勉強して、平日できなかったタスクをこなす。
普通にご飯も作って、普通に好きな映画も観に行く。

やりたいことは我慢しない。

それでなんとか、絶望せずにいる。

超音波検査で、普通の機械よりも性能のいいエコーで細かく見てもらった結果(それと出生前診断は、国際的な資格がある医師でないとできない)、首のうしろのむくみが3.6mm(通常は2mm以下くらいが多い)、心臓の弁からやや逆流が見られる(これは産まれるまでに正常になる可能性もあるが、そのままの可能性もある)、羊膜が若干狭い、顎が若干小さい(それあたしの遺伝では?)などの、気になる兆候が見られたため、羊水検査をおすすめします、との診断結果だった。

染色体異常の確率計算は、胎児の体長が8.2cmを超えているため、確率を出せないとのことだった。
(たぶん体長に対する首のうしろのむくみの割合で確率を出すのだと思われる。)

良くも悪くもない結果だった。

ただ、前の病院で前置胎盤気味と言われたのは実は写り方の問題で前置胎盤ではなかったこと、むくみや心臓の弁の逆流もそれほどひどいわけではないから、すぐに心拍が停止することはなさそうだ、ということは、すごくよかった。

いつの間にか赤ちゃんが死んじゃってて、血がドバーっと出ちゃって、前置胎盤だから帝王切開もしなくちゃいけなくて、出血多量であたしも瀕死、、、みたいな最悪のシナリオは免れるかな、と安心した。

羊水検査は16週0日からおこなうことができる。
あたしの場合、羊膜が狭くてなかなか技術を要しそうだというので、院長先生がおこなってくれることになった。

超音波検査のあとは、また羊水検査をおこなうためのカウンセリングもおこなってくれた。

カウンセラーさんは、ひとつひとつ、不安に思ってることがないかとか、今の自分の気持ちだとか、なんでも話させてくれて、なんでも聞いてくれる。
すごくありがたかったし、すごく心強かった。

さっくんが仕事でたまたま近くにいて、クリニックまで来てくれることになった。

さっくんも、不安だろうなと思った。

待ってる間、「男の人もかわいそうですよね。女の人の体の中だけで勝手に物事が進んでいっちゃって。何にも手出しできないですもんね。痛い思いするのも女だけど、最後にどうするか決めるのも女だし。」と、カウンセラーさんに言ったら、

「優しいんですね。辛いのに、旦那さんのことまで考えてあげられるなんて。」って言われたから、また泣けてきた。

あたしが優しいんじゃないんです。
さっくんが優しいんです。
さっくんがあたしに優しいから、あたしも優しくしたいんです。

みんなそうです。
みんなあたしに優しくしてくれるから、あたしも優しくしたいだけなんです。

このことを書いたのは、誰かを傷付けたり非難するためじゃない。
何人たりとも傷付けたり、非難する意思はない。
産む人、産まない人、産んだ人、産まなかった人、産めない人、産む気のない人、産む予定のない人、産みたい人、産みたくなかった人、誰のことも批判も非難もしません。
みんな、それぞれの人生。
それぞれ、色々ある。

誰かの人生と比べても仕方ない。
羨んだり、「こうだったらな」って思ってみても仕方ない。
自分と、自分の大事な人とで話し合って、答えを出すしかないことなんだと思う。
もしかしたら答えは出ないかもしれないけど、決断をしなくてはいけない。

どこからを正常というのか、どこからを異常というのか。

どこまでの異常なら産めて、どこからの異常なら産めないのか。

ちょっと病弱とか、ちょっと見た目が変わってるとか、激しい運動は無理とか、そんなんだけでも異常と括るのか。

それとも産まれてこようとしている命は等しくこの世に送り出す責任があるのか。

それがたとえ産まれてすぐなくなってしまう命だとしてもか。

これまで生きてきて、考えもしなかった命題だった。

あたしのお腹は日に日に膨らんでいく。

おっぱいも日に日に膨らんでいく。

つわりもなくなり食欲有り余る。

気を付けてるけど体重も増えてしまった。

人にバレないようにするのに着る服がなくて、いっつも同じものを着てる。

仲のいい友達にも言えないのが辛い。

もしかしたら1ヶ月後には、空っぽになっているかもしれない。

もしかしたら1ヶ月後は、元の毎日のように酒を飲んでいるかもしれない。

今日と同じく1ヶ月後も半年後も、元の毎日のように、変わらず慌ただしく過ごしているかもしれない。

でも今はまだ何もわからない。

最悪のことも考えるし、そうなった場合の心の準備もしているつもりではいるけど、心をブンブン振り回されて辛い。

精密検査をしてくれた院長先生に羊水検査を勧められた時、「その羊水検査でわかるのは染色体異常だけなんですよね?染色体異常がなかったら、また中期の超音波精密検査を受けるんですよね?それでも何も出なかったらどうしたらいいんですか?何かあるかもしれないって不安なまま産むんですか?いつになったら不安じゃなくなるんですか?」と聞いた。

院長先生は「今はまだそこまで考えなくていいです。一つ一つ検査をしていって、確認するしかないんです。でも、みんな多かれ少なかれ子どもを産む時に不安がないってことはないと思いますよ。産まれるまでわからない疾患もあるし、産まれてきてからだってすぐにわからない疾患もあります。たとえば大きくなってから自閉症だった、とわかることだってありますし。」と言った。

そうだよな、そうなんだよなー、と思った。

こたが無事に何事もなく産まれ、今のところ大きな病気も怪我もせずに無事に育ってこれたのは、当たり前のことじゃなかったんだなーと思った。

毎日ご飯を食べて、学校に行って、勉強したり、遊んだり、ケンカしたり、新しい世界に興味を持ったりできることは、当たり前のことじゃないんだなーと思った。

遅いけど、心からそう思った。

こたもだし、これまで35年間元気で生きてこれたあたしもだし、さっくんもだし。

大切な友達も生きてるし、親も幸い元気だし、なかなか十分に恵まれている。

だからもし、とても悲しい結果になったとしても、今はとても悲しいかもしれないけれど、たぶん、毎日は続くと思う。

確かなことがあるとしたら、時間は戻らない、ってことだけじゃないかなと思う。

産まれてきたこたは産まれる前には戻れない。
こたがいなかった頃のあたしたちには、こたがいなかった頃の世界には、戻れない。

お腹の中にいる君が、出てこれるかこれないか、それを決めるのがあたしたちなのは本当に偉そうで申し訳ないけれど、この世界に一度出てきたら戻れない。

出てきたあとであたしたちが「やっぱ無理、しんどい、やめた」ってのはできない。

だから、とにかく、考えるから。

考えれば考えるほどゲロ吐きそうになるけど、逃げないで、考えるから。

だから、どういう結果になっても、飲み込んでくれ。

あたしは、もうこんなゲロ吐きそうになる思いすんのは嫌だから、もし今回悲しい結果になって、手術するってなったら(最初のカウンセリングで、前置胎盤で帝王切開だったら出血多量の場合は子宮を摘出することもあるって聞いた時に)、「子宮取っちゃおうかなぁ」ってちょっとぼんやり考えたんだ。

子宮内膜症もあるからそれと閉経まで付き合っていくのもしんどいし、もしまた万が一妊娠して、でもまた今回と同じことが起きたりしたらどうすんの、あたし耐えられるかな、それに自分だけじゃなくて大勢の人のこと振り回すことになるな、と思って。

子ども、欲しくて欲しくて仕方ない人もいるのに、まだ使えるかもしれない子宮を取りたいだなんて傲慢に思われるかもしれないけど、それくらい今、あたしの子宮の中で起こるあれこれに疲れてしまった。

でも、ぐっと力を振り絞る。

夏に計画している友達家族との旅行のこと。

4月から始めたあたしの人生の新しい仕事のこと。

忙しいけど学校のお手伝いをたくさんしてること。

広がっていきそうなネットワーク。

今年公開されるたくさんの楽しみな映画のこと。

いつも夢見てるNYのこと。

外国で輝いている大好きな友たちのこと。

いつもあたしの側にいてくれるお母さんたちみたいな優しい友たちのこと。

BOWIEが『Changes』で歌っていること。

清志郎が『いいことばかりはありゃしない』で歌っていること。

「シング・ストリート」で音楽が流れ出す瞬間の高揚。

スピルバーグが「ウエスト・サイド・ストーリー」を撮るって言ってること。

人生で2度、生で見たジョン・キャメロン・ミッチェル。

いつか菅田とバッタリ飲み屋で出会ってみたいこと。

5月にあるこたの運動会のこと。

こどもの日にこたが、本物のお笑い芸人さんのライブに子どもチームで出演してコントを披露すること。

今年も行きたい、夏の上越や軽井沢。

女友達としたい旅行のこと。

BIGBANGが戻ってきたら絶対ライブに行くこと。

ビヨンセが来日したら絶対ライブに行きたいこと。

まだまだ、行きたいところも、やりたいことも、観たい映画もいっぱいある。

ひとまずは、それを希望にして。
毎日をしっかり生きる。

4月26日。
羊水検査を受けてきた。

大げさな手術っぽい準備をしていたのでビビったけど、痛みは思ったよりも全然平気だった。

赤ちゃんの頭の脳室がおっきくて、ちょっと特殊なケースかもしれない、遺伝子レベルの異常だとしたら大学の研究機関に回すことになるかもしれない、単純な染色体異常じゃないかもしれないから羊水検査で結果が出ないかもしれない、と言われた。

また、ゴロゴロと想像もしていなかったところに転がって行くのかもしれない。

でもとりあえずは結果を待つしかない。

あたしには到底わからないような頭のいいプロフェッショナルな人たちがプロフェッショナルなことを、今おこなってくれている。

あたしも少しは染色体のことや検査について詳しくなった。

こんなことがなかったら、触れずに過ごしてきたことだったろう。

いつかあたしと同じような境遇の人、不安を感じている人、悲しい思いをしている人に寄り添ってあげられるようになれればいいと思う。

そうなれればうれしい。
そう思えば、この日々にも意味があるのだと思える。
悲しみを全部飲み込んで、全部光輝くパワーに変えたい。

かくも人生は不思議。

そして毎日は続く。
お腹の子はもう5ヶ月になった。

上がったり下がったりしながら、生きてる限り毎日は続く。