「んま、んめ」
モモンガ邸。
いつもは静かな食卓も、この日は賑やかだった。
テーブルを囲むのはモモンガ、ツアレにクレムが加わった。
クレムは小さい手で握った幼児用スプーンで、シチューの肉を掬うのに四苦八苦していた。ぽろりぽろりとスプーンから逃れていく肉に対し、次第に彼女の眉間に皺が寄っていく。
痺れを切らしたクレムは文字通り匙を投げると、小さな手を皿の中に突っ込んだ。
「ク、クレムちゃん! お行儀が悪いでしょう。ちゃんと食器を使って──」
「あはは! ちゅあ、おこってる!」
「もう……あぁ……お洋服こんなに汚しちゃって……」
手と顔をどろどろに汚しながらシチューを食べるクレムに、ツアレは四苦八苦だ。清潔な布で甲斐甲斐しく拭ってやる様は、まるで母や歳の離れた姉の様にも見える。
(俺、子供持つの無理かもなぁ)
サラダを食べながら、モモンガは彼女達のやりとりを見ていた。微笑ましいなぁとは思うが、いざツアレに代ってクレムの世話をすると思うと中々に厳しい。
「クレム、ツアレさんを余り困らせてはいけませんよ」
「はぁい」
モモンガが頭を撫でてやると、クレムは嬉しそうに目を細めていた。
穏やかな時間だ。
モモンガにとっても、ツアレにとっても、クレムにとっても。
根を張って、ツアレとクレムと三人とで暮らすのも悪くないと、モモンガは柄にもないことを思ってしまった。
「……ん?」
ぴたりと、シチューを掬う匙の動きが止まる。
どんどんと、家のドアノッカーが叩かれた。
ツアレが慌てて立とうとして、モモンガがそれを手で制す。クレムはシチューに夢中で気づいてないらしい。
こういう時は使用人に対応してもらうのが普通だが、先の『八本指』の件もある。ツアレを危険に晒すわけにはいかない。モモンガはツアレを座らせると、自ら席を立った。クレムが不思議そうに見上げている。
「二人は食事を続けていてください」
そう告げて、クレムの頭をわしゃりと撫でる。
モモンガはリビングを抜けて、来客の待つ玄関へと歩いた。僅かに警戒心を高め、幾つかの魔法を念の為に唱えながら。
モモンガが扉を開くと──
「よう、悪ぃな急に」
──軽装のガガーランがそこにいた。
ぎりぎり女性にカテゴライズされる彼女は分厚く、そして大きい。モモンガは見上げながら、珍しい客に目を丸くした。
「ガガーランさん、どうされたんですか?」
「おう、今夜空いてるか?」
「え? ええ。特に予定はないですけど……」
「お。んじゃあよ──」
モモンガの返答にニヤリとガガーランが笑みを作った、その時。
「ママ―!」
「こら、クレムちゃん!」
リビングからばたばたとクレムが飛び出してきた。
彼女は満面の笑みでモモンガの腿に飛びつくと、少し遅れてガガーランの存在に気づく。クレムはおっかなびっくりといった様子で、モモンガとガガーランの顔を見比べた。
「……だれ?」
控え目に問うクレムの姿に、ガガーランは目をまんまるにした。そのまんまるな目で、彼女もまたクレムとモモンガを見比べる。
「お……おいモモン、今この嬢ちゃんお前のことママって言わなかったか……?」
声が僅かに震えている。
いらぬ勘違いを察知したモモンガは、浅く息をこぼして顔を横へ振った。
「……血の繋がりはないのでそんなに驚かないでください。すごい顔してますよ」
「あ、ああ……なんだそういうこと……。まさか子持ちかと思ってつい、な。しかし、養子か?」
「違います。例の騒動で一人でいたところを一時的に保護しているだけですよ。記憶を失くした様で、私を母の様に慕ってくれてる……というだけです」
「……なるほどな。そりゃあなんとも、込み入ってんな」
頬をかきながら、ガガーランは僅かに安堵の色を滲ませていた。もしあの『漆黒の美姫』が母親だったなら、彼女の目玉は飛び出したまま帰ってこなかっただろうから。
(モモンは
ふぅ、と無自覚に溜息が溢れる。
気を取り直したガガーランは、モモンガの腿にしがみつくクレムと目線が合うようにしゃがんだ。びくり、とクレムの小さな肩が跳ねる。
「ようお嬢ちゃん。挨拶はできるか? 俺はガガーランってんだ。これでもアダマンタイト級──あれ?」
言いながら、言葉が淀む。
ガガーランはクレムの顔を見ながら、言いようのない違和感を覚えた。
「どうかされましたか?」
「あ、いや……どっかで見たことある様な顔だと思って……。いや、思い違いか。俺はこんな小さい嬢ちゃん、知り合いにいねぇし……」
「ん? あっ……」
そういえばと、ガガーランがクレマンティーヌと戦っていたことをモモンガは思い出す。正直クレマンティーヌとクレムは髪の色から年齢から何から何まで違うが、感づかれると色々と不味い。
しかしまあ、流石に気づくことはない。
ここまで容姿が変われば当たり前だが。
僅かな違和感に首を傾げるガガーランにハラハラしながら、モモンガはクレムの肩に手を添えた。
「ほら、初めての人にはご挨拶」
「…………クレム」
控え目に、おずおずと名乗るクレムの姿にガガーランは破顔した。
「おお、クレムっていうのか。いい名前だな。ちゃんとママの言うこと聞いて、腹一杯飯食ってでっかくなるんだぞ、俺みてぇに」
「…………やだ。クレムはしょーらい、ママみたいになるもん」
口を尖らせて拒否する童女の姿に、ガガーランは腹の底から気持ちのいい笑い声をあげた。そうして大きな手で、無遠慮にクレムの小さな頭をがしがしと撫でつける。
「モモン、こいつは大物になりそうだな! 俺に対しても、ちっとも怖気がねぇ」
朗らかに笑うガガーランに反して、クレムは彼女の手を鬱陶しそうにしている。この二人、相性が良いのか悪いのか。
クレム関連の話題を早々に打ち切りたいモモンガは、少し食い気味に尋ねた。
「それよりガガーランさん。何か用があってうちを訪ねてきたのでは」
「おお、そうだそうだ」
ガガーランは思い出したように相槌を打つと、懐から一枚の紙きれを取ってそれをモモンガに手渡した。広げてみると、簡素な地図とちょろりと書き添えられたメモが添付されてある。
「今夜これやるから、こいよ」
ガガーランはジェスチャーを交えながら、モモンガにウインクして見せる。が、モモンガはそれが『一杯やろうぜ』というものであるのが分からない。元々、彼には飲食の文化そのものが馴染みのないものだったから。
ガガーランはぽかんとしているモモンガの返事を待たずして『待ってるからな、絶対来いよ。んじゃな』とだけ残してさっさと踵を返してしまった。
「えぇ……」
置いてけぼりを食らったモモンガは訳もわからず立ち尽くすしかない。
腿にしがみつくクレムがひと言『へんなやつ』と零してたのは、少しだけ面白かった。
──夜。
漆黒の鎧に身を包んだモモンガは、ガガーランから受け取ったメモを頼りに王都を歩いていた。
何の用件なのかは彼は分からなかったが、それでも絶対来いと言われたなら行くしかない。そんなモモンガの足取りは少しだけ重かった。
往来は喧噪に満ちている。
しかしモモンガを前にした者達から順に、波紋の様に静寂が伝播していく。驚きから言葉を詰まらせ、喉を鳴らし、それから彼らの目は宝石の様に爛々と輝きを帯び始めるのだ。
この王都の文字通りの救世主──『漆黒の美姫』は、王都に住まう全ての民草の憧れの存在となっていた。市街戦だったこともあり、実際に英雄の活躍を見た者は多く、黒姫のモモンの新たな英雄譚は実際に血の通った言葉で広く知らしめられていく。
生きる伝説。
時代の救世主。
優しき大英雄。
言葉などどれでもいい。
しかし彼らは、最大の賛辞と敬意を持った言葉でモモンガのことを表さずにはいられない。そうでなければ今頃、王都はアンデッドが跋扈する死の都市へと変わっていたのだから。
「……ここか」
輝くような視線達に見送られ、モモンガは辿り着いた一軒の建物の前で足を止めた。どうにも酒場の様にも見えるが、戸には『本日貸切』の札が掛けてあった為に二の足を踏む。
「モモン様ですね。皆様中でお待ちです。ささ、中へお入りください」
給仕らしき男が、滑るようにモモンガのもとへやってきた。彼はにこやかな笑みを浮かべて入店を促してくる。モモンガは訳もわからないままなのだが、とりあえずは頷いて従うほかない。
中に入ると、やはりガガーランが出迎えてくれた。
「お! ようモモン! 待ってたぜ──ってありゃ、なんだその格好は」
「んぇ」
中には沢山の人間がいた。
思いの外、広い空間だ。
見知った顔もよくある。
『蒼の薔薇』は勿論、例の作戦に参加した兵達の姿も。彼らは突き立った幾つものテーブルの島を囲い、談笑していた。それはやはり、立食パーティの様な様相を呈している。
「おいお前ら! 主役の到着だ!」
ガガーランがそんな彼らに向けて、高らかに声を張り上げる。それを皮切りに店内中の人間がモモンガの存在に気がついたようで、彼らは喜びの声と表情を憚らず露わにした。
(え、なに。どゆこと?)
兜の中でクエスチョンマークを大量生産しているモモンガの反応を待たずして、ガガーランは手に持っていたゴブレットを高々と掲げた。
「『八本指』なき王国の未来! それから『漆黒の美姫』の活躍を祝して──乾杯ッ!」
活気ついた彼らも皆、高々とゴブレットを掲げ合う。よくわかってないモモンガだけが、手渡されたゴブレットをしどろもどろとそれに合わせていた。