外伝1 その名は『女楼蜘蛛』
鬱蒼と茂る森の奥。
日の光が届かないほどに草木が茂ったそこで、その悪魔はじっと待っていた。
悪魔は、この近くに人間の村があるのを知っていた。
加えて、そこに住む人間たちは、この辺りに住んでいるちんけな魔物や虫、鳥獣などよりもよほど自分好みの味であることや……自分が仮に出ていったとしても、自分に対抗できるような力を持っていないことも知っていた。
今までに何度か、ここ……悪魔の縄張りに迷い込んできた人間を、その腹に収めてきた。
しかし、悪魔の方から人間の集落へ襲いに行ったことはなかった。
理由は簡単……そんなことをすれば、残らず逃げ出してしまうからだ。人間たちが。
この辺りに弱い人間が住み着くのは、危険な魔物が少ないからだ。
土地はやせているが、そこそこ作物は実る。少なくとも、国に税の分を収めても、普通に村人たちが飢えずに食べていける程度には。
安全……それが魅力的だからこそ、あの村は存在する。
自分のような怪物が、このような近くに住んでいることが分かれば……たちまち人間たちはあの村を引き払ってしまうだろう。
そのため、悪魔は自分から狩りに出ることをしない。そして逆に、この奥地まで入ってきて自分の姿を見た者は、ひとり残らず殺してきた。口封じのために。
それゆえに、村の人間たちはこの森を『奥に行ったら生きて出られない、迷いの森』として認識しているのだ。
悪魔はたまに、迷い込んできても自分の姿を見せずに生かして返していることもある。加えて、もともと迷いやすい地形なのは本当なので、強力な魔物がいるわけではない、ただ森が迷いやすい地形になっているだけだ……と広まっている。悪魔の計算通りに。
しかしそうやって生かして返すのは、土地勘のある地元の人間だけだ。
外からやってきたと見受けられるような者に関しては、遠慮なく狩って食ってしまっている。よそ者ならば、『森で迷ったのだ』と、勝手に外の連中が判断してくれるからだ。
そう……ちょうど、今まさに、悪魔がいる樹の下を通りがかった、あの者達のように。
近くの村の人間たちは、粗末で質素な服装をしている。自警団の者でも、せいぜい簡素な革鎧と槍で武装している程度だ。
今、下にいる者達は……明らかにそれとは一線を画するような武具を身に着けている。
貧乏な村人などには到底手の届かない武具で武装し、我こそはとこの森に探索に来る『冒険者』たちは、結構な頻度でやってくる。
ほぼないとはいえ、マイナーな噂話程度には残っているのだ。この森には危険な魔物がいる、という噂も。ゆえに、可能性の段階、という意味で探索に来るものがいる。
そして、悪魔の腹に収まるわけだ。悪魔にしてみれば、ありがたい話だった。
今日もまた。獲物がやってきてくれた。
しかも、肉の柔らかい、美味そうな若い女が6人。
やや人数が多い。これは気合いを入れて、一息で殺してしまうのがいいかもしれない。
あるいは、奇襲して生き残ったものがいれば、巣に連れ帰って、しばし遊ぶのもいいかもしれない。何のとは言わないが……具合はよさそうだ。
悪魔もそうであるが、人型の魔物の一部は……人間ないし亜人の女性を襲い、その情欲のはけ口として使うことがある。時には、子を産ませることもある。
ゴブリンやオークなどは、そういうことをする魔物の代表格だろう。
格が違うとはいえ、この悪魔もそういう魔物の一種だった。
もっとも、この悪魔の場合は……情欲よりも嗜虐心の方が優先してあり、脆弱な人間が苦しむ姿を存分に鑑賞し、最後には腹に収める……というプロセスを楽しむつもりなのだが。
何にしても、まずはあの女たちを捕まえないことには始まらない。
悪魔はじゅるりと垂れてくる唾液をぬぐうと、のんきに談笑しつつ歩いている女たちめがけて、翼を広げて急降下して襲い掛かった。
植物が作り出す暗闇からの奇襲。その大柄な図体に反して音はなく、たいていの侵入者はこの奇襲からの一撃で決着がついてしまう。
それはそれで楽なのだが、気づいて抵抗してくる者もいる。
どちらも、悪魔は好きだった。どのみち最後には腹に収まる運命だとしても、活きがいい獲物というのは、嬲ると楽しいものだからだ。
さて、今度のこの女たちはどちらだろうか……と悪魔が考えたその時、
その先頭を歩いていた、金髪の女の手がこちらに……悪魔に向けられたかと思うと、ピカッ、と何かが光って見え――――
それが、悪魔が見た最後の光景となった。
「んー……やっぱガセネタだったみたいね。この森に強い魔物が隠れ住んでる、って話」
「だな……結構探したが、大したことねーのしかいねーや」
「いや、今しがた結構アレなのが出てきたと思うんだけどニャ、一瞬だけ」
「? 何かいたか? せいぜい、でかいだけの熊や水の中に引きこもってる大ワニ、あとは、木の上から様子を窺っとったヤギの頭に蝙蝠の翼の魔物程度じゃったと思うが……」
「いや、3番目に結構凶悪なのが出てきてるからな?」
「まあ……AAAランクだもの、普通の人から見れば大きな脅威よね。私たちにはまあ、歯牙にもかける必要がない程度だとはいえ、ね」
「で、どうすんだよリーダー? これ以上探してもアレっぽいぜ」
「んー……帰ろっか。今のアレがもし噂の原因なら、ある程度の成果は上げたしね。ええと……あーよかった。適当にぶっ放したから心配だったけど、首と翼残ってるわ。ラッキー」
☆☆☆
冒険者チーム『女楼蜘蛛』。
冒険者ギルド所属の冒険者のチームであり、この『アルマンド大陸』において、その名を知らぬものなしと言われる……世界最強の冒険者たちである。
所属メンバーは6人。全員が冒険者ギルドにおけるランクSS――もはや例えて言えるような比較対象が存在せず、敵に回せば災害と同等の脅威度――に位置している。
しかしながら、どれだけの好条件を突き付けられても、特定の国や組織に属することをしない、自由を旨とする集団である。
かといって、脅迫などの強硬手段に出ようものなら、それこそ国だろうがお構いなしに叩き潰されてしまう集団であるので……結果、どこの国も現時点では有力な協力関係にあれていない、というのが現状だった。個人的な付き合いがある、一部を除けば、だが。
そんな彼女たちは今……とある辺境の開拓村に来ていた。
理由は……『気分転換』。
少し前まで、依頼その他の関係で都市部にいた彼女たちだったが、そこで少々嫌なことというか、残念なことがあったために、少々気が滅入っていた。
それを解消するため、『とりあえずゆっくりできそうな、自然が豊かな所行こう』というリーダー……リリン・キャドリーユの鶴の一声で、ここに来たのだ。
適当なクエストをギルドで受けて、それについてきた周辺の町・村の情報をもとに、この村に滞在してゆったりとした休暇を満喫している。
なお、受けたクエストである『開拓村の周囲の魔物の間引き』は、初日に達成済みだ。
そして今日、偶然聞いた妙な『噂』の真相を確かめるため、村を安心させる……というよりも、暇つぶしメインの目的で森の奥に入ってきた、というわけであった。
そして、そこで見つけたのが……
「な、何ですと!? こ、このような魔物が森に……!?」
「ええ。えーと……何だっけコレ、『バフォメット』?」
「の、劣化版の『ミクトランデーモン』だな。それでもランクAAAだけど」
「と……とり、ぷる、えー……!?」
告げられた内容に、開拓村の村長の顔から血の気が一気に引いた。
無理もない。魔物のランクAAAと言えば……大都市が壊滅するレベルの厄災だ。自分が治めているちっぽけな村など、瞬く間に消し飛ばされてしまうだろう。
しかも、いたのは……高い知性と残虐な嗜好を持つ、俗に『悪魔系』と呼ばれる区分の魔物。
仮に村を襲ってきたとすれば、ただ単に獣の餌にされるよりもはるかに酷い仕打ちの果てに殺されることとなるであろうと容易に想像できてしまう存在。
そんなものが、自分たちのすぐ近くに潜んでいたと知らされた村長の心中、推して知るべし、といったところだろう。
今、目の前に無造作に置かれている悪魔の首は、すでに絶命していることが分かっていても、思わず目をそむけたくなるような禍々しい存在感を放っていた。
「まさか、そんな……いや、しかし、事実は受け止めねばなりますまいな……」
「まあでも、一応あの後、私のペットたちに探らせたけど……こいつ以外に凶悪な魔物はいなかったわよ? せいぜい、山ならどこにでもいる熊くらいね。ああ、川にはワニもいたっけ」
「でもまあ、一応国に要請して調査隊くらいは出してもらった方がいいんじゃねーか? コレ出せばさすがに嫌とは言わねーだろ」
「それは……そうでしょうな。しかし、こちらの悪魔の首……お譲りいただけるので?」
「え、いいわよ別に? いらないしこんなん」
「ああ、使い道もねーし……売れる場所もこのへんにはねーしな。つかおっさん、適正価格で買い取れっつっても無理だろ?」
「それは……はい、無理です」
AAAランクの魔物の素材ともなれば、種類にもよるが、金貨が軽く数枚から数十枚になるだろう。このような開拓村の村長、どころか村全体から金を集めても足りるものではない。
が、色々と稼ぐ手段がある上、今現在でもすでに相当な額の貯蓄を持っているリリン達『女楼蜘蛛』からすれば、別にどうでもいい話だった。
特に狙っている素材だというならまだしも、感覚としては、散歩していたら偶然手に入った感じのものなので、執着も皆無に等しい。
あと、普通に見た目がキモイのでさっさと手放したい、というのもあったりする。
もっとも……今リリンの隣に座っている女性――チームメイトのクローナ・C・J・ウェールズ――にしてみれば、色々と使い道の思いつく素材ではあるのだが。
彼女は、凄腕のマジックアイテムの技師だ。今回の『ミクトランデーモン』のみならず、魔物素材は彼女にとって、加工してより強い力を発揮するマジックアイテムへと変化させる前の卵である。使い道のない、不要なものなどほぼ存在しない、と言っていい。
しかし、だからといってとにかく全部ほしい、ということもないし、今現在、特に何か作ってみたいと思っているわけでもないので、黙っていた。
生息域はいくつか知っているし、その気になればいつでも、もっと状態のいいものが手に入る、という見込みが頭の中にあるせいもある。
「ま、めんどい手続きはおたくらでやってくれや。俺らはもう眠いし、寝る。その代り、ってわけじゃねーが、特に依頼料とかその辺請求するようなことはねーから、安心しろ」
「は、はい! ありがとうございます!」
深々と頭を下げる村長。テーブルの天板に額がぶつからんばかりの勢いである。
その拍子に……心労がたたったのだろうか、頭から白髪が数本、はらりと抜けて卓に落ちた。
その瞬間、『苦労してそうだなあ……』と苦笑いしていたリリンが、素早く動いた。
突然の脱毛現象に、隣のクローナが吹き出しそうになったのを視界の端で視認したのだ。
リリンは手でクローナの口をおさえて噴き出しを物理的に止めると、『金縛り』の術式をかけて動きを止め……それ以上何も物音を立てないように処置した。
この間、たったの0.1秒にも満たないわずかな間のこと。
村長どころか、部屋に控えていたお手伝いさんすらも気づくことはなかった。視線を向けていたお手伝いさんの目には、早すぎてよく見えなかったのだ。
(こら、不謹慎)
(しかたねーだろ、あのタイミングであの飛び道具は笑うわ。幸薄そうな見た目も加わって、狙ってんのかってくらいに……)
(いいから黙る! 今時珍しいくらいに誠実でいい人なんだから……そういう人には優しくしといたって罰当たらないの。心象悪くなっちゃうようなことしない!)
その後、どうにかこの場を切り抜けた2人は……もうしばらくはこの村に、休暇と護衛を兼ねて滞在することにして――報酬代わりに、その間の宿と食事、消耗品各種は全て村で負担するという条件となった――その日は解散としたのだった。