──イビルアイは、真っ暗な空間を漂っていた。
何もない、どこまでも黒い、深海とも宇宙空間とも取れる世界。
光が一切差さないそこを、イビルアイの小さな体がただ漂っている。胎児の様にうずくまった彼女は、何もせず、その浮遊感に身を委ねていた。
寒く、暗い。
深く重たいそこに浮かんでいるのか、沈んでいるのかは分からない。しかし自分だけの体温が頼りのその空間に、イビルアイの心は次第に痩せ細っていく。
(……怖い)
腕を擦る。
イビルアイは小さな体を押し込める様に、うずくまった。瞼をきつく閉じて、彼女は闇の中をただただ揺蕩っていく。
──……イビルアイさん。
誰かが、彼女の名を呼んだ。
心地よい、美しい女性の声。
温かい、とイビルアイは思う。
誰? と顔を上げた。
そうすると、彼女の体を優しく誰かが抱き止めた。感触は硬く、すべすべしていて、少しひんやりする。しかし何故だか不思議と暖かい。それが鎧を纏った腕なのだと理解するのはそのすぐ後だった。
美しい顔が、イビルアイの顔を覗き込んでいる。優しさに満ちた微笑を浮かべる美女は、まるで慈母の様な柔らかさでイビルアイの存在を包んでくれた。
──モモン、さ……。
美女の名を口にしようとして、言い噤む。モモンといつもの様に呼び捨てるのが憚られたからだ。
何故?
止まっている心臓がドクドクと拍動する。
顔が熱い。
──……イビルアイさん、もう大丈夫ですよ。
モモンは桜色の唇から、イビルアイにそう言葉を掛けた。声が余りにも美しくて、イビルアイにはそれがまるで唄の様にさえ聞こえてしまう。
目の奥で、ちかりと火花が弾けた。
こうしていると、二人はまるで
モモンの顔が近づいてくる。
どきりと跳ねる心臓。イビルアイは、ゆっくりと再び瞼を閉じた。闇に閉じこもる為ではない。モモンに身を委ねる為に。
女性同士という違和感はなかった。
惚れる相手に性差など、イビルアイにとっては些細な問題にしか感じられない。モモンだから、モモンだけに、自分の心を預けることができてしまう。
この時イビルアイは明確に分かってしまった。
自分が、モモンのことを好いているということに。強者である彼女を上回るばかりか、こうして姫扱い──実際には子ども扱い──してくれるモモンに恋慕の情を抱いてしまったことに。
近づく二人の唇が、今まさに重なろうとして──
「んむみゅう、ぅう……ハッ!?」
──タコの様に唇を突き出したイビルアイが目を覚ました。
先程まで見ていた光景が弾け飛び、視界には見知った天井が広がっている。唇と手を天井に突き出したイビルアイは、目をパチクリとさせて現状の把握ができないでいた。
目を覚ました、というのも彼女にとっては実に百年以上の感覚だ。夢を見るというのもまた然り。吸血鬼の肉体には睡眠は不要。眠るというのは、余りにも久しぶりの感覚だった。
「お、おはようイビルアイ……」
「何やってんだお前……」
巡らぬ頭でイビルアイが辺りを見ると、ベッドの側にラキュースとガガーランがいた。彼女達は僅かに顔を引き攣らせて、イビルアイのことを見ていた。
「ありぇ……モモンさまは……?」
「は……? モモン、様ァ?」
「イビルアイ、もしかして変な夢でも見てたの?」
「夢……? あ、ぁぁあ……そうか……夢、か……」
伸びた手が、しおしおとベッドに落ちていく。
イビルアイは巨大な溜息を吐いて──目を見開いた。
「あ、そうだ……! 『八本指』は!? モモン様は!? あの後、一体どうなったんだ!?」
がばりと身を起こしたイビルアイは、矢継ぎ早に疑問を投げかけた。
ゼロに倒されたばかりか、仮面まで剥がされた彼女はそこまでの記憶しかない。最後に見たのは、自分の体を抱くモモンの勇ましい姿。そして今も残る、腕の温もり。
「ちょっと落ち着きなさい。貴女、もともと酷い怪我だったらしいんだから。気持ちは分かるけどもっと安静にしていないと」
「あ、ああ。でも……」
「ちゃんと説明してあげるから」
「あう」
ラキュースに押され、イビルアイはベッドに収まった。
窓を開け放つガガーランが、ぽつりと呟いた。
「あの後、街に解き放たれたアンデッドも『六腕』も全て倒したぜ。モモンがな」
椅子を軋ませながら座るガガーランの顔にはいつもの豪胆さはなく、どこか神妙な面持ちをしているように見える。それはラキュースも同様だ。
「これも全て、モモンさんのおかげ。あの人がいなかったら、きっと私達もこの王都も完全に落とされていたわ。逆に私達『蒼の薔薇』やリ・エスティーゼ王国は、無様を晒してしまったわね。情けない話だわ」
ラキュースは下唇を噛みながら、胸の内に悔しさを滲ませていた。彼女は自らが『六腕』に追い詰められていたことも語りながら、救世主モモンの功績について滔々と並べ始めた。
アンデッド達の掃討。
ガガーランとティアを相手取っていた謎の女戦士を撃破したこと。ラキュースとティナを追い詰めていた『六腕』を一挙に叩き潰したこと。イビルアイの救出。ズーラーノーンに与する高弟達の撃破。それから、アダマンタイト級以上の難度と取れる強大なアンデッド達の討伐。
枚挙に暇がない、というのはこのことだろう。
英雄とは、救世主とは、まさしくモモンの存在そのものを指す言葉だ。
語るラキュースの表情は複雑なものだった。
モモンにこれほどの開きをまざまざと見せられたことは、同じアダマンタイト級冒険者チームのリーダーとしては思うところがあるのは間違いない。しかしその言葉の端々には、確かにモモンに対する敬意が満ちみちている。
「私達は……そしてこの国は救われたの。『漆黒の美姫』によって」
「……そうか」
「それからこれ、モモンさんから貴女にだそうよ」
「え……え!?」
ラキュースの手から渡されたのは、指輪だった。ないはずの心臓が、再び跳ね上がる。
「こ、ここここ、これは……!?」
「日光下でのペナルティを緩和する指輪、らしいわ。安心してイビルアイ。モモンさんは貴女の正体を知っても、目の色を変えることは全くなかったわ。寧ろ吸血鬼であることを匿ってくれたばかりか、貴女を慮ってこうしてマジックアイテムまでプレゼントしてくれたの。本当……敵わないわね……」
「そ、そうか……」
掌の上の指輪が、きらりと光る。
イビルアイはほう、と小さく息を吐いて、それを左の薬指に通した。魔法効果のある指輪は、自動的に細指に合う大きさに変化すると、まるで彼女の体の一部であるかの様にそこに収まった。
「へへ……」
少しだけ、顔がにやけてしまう。
イビルアイは指輪をつけた手を愛おしそうに握って、それを胸に抱いた。
初恋を覚えたばかりの様な、見たままの幼い少女の姿。
今まで見たこともない仲間の姿に、ラキュースとガガーランは不思議そうに顔を突き合わせた。
「ありがとう、モモンさま……」
上気した顔で、イビルアイは小さくそう零す。
瞼の裏には、今もあの漆黒の鎧を纏った英雄の姿が焼き付いていた。
「ご苦労様でした」
月が真円を描く夜。
窓から差す月光を受けながら、ラナーは小さく微笑んだ。
その視線の先には、闇に溶ける様な装束に身を包んだ男女が数名佇んでいる。目を離した瞬間に、たちまち認識できなくなる様な存在感だった。
「……終わったな」
その中の女が、小さくそう零す。
一国の王女に対するには、聊か砕けた口調だ。ラナーは薄く笑んで、言葉を返す。
「これも全て、『イジャニーヤ』の皆様方の助けがあったからです。感謝しております」
「……計画通り、か」
「ティラさん、どうかされましたか?」
「この王都で起きた今までの全てがお前の計画通りなんだと思うと、寒気がするだけだ」
忍装束に身を包む女──『イジャニーヤ』の頭領たるティラは、抑揚のない声で自身の気持ちをはっきりと吐き捨てた。『蒼の薔薇』のティナ、ティアと瓜二つの彼女は、眉間に皺を寄せてラナーを見据えている。
ある種の畏れや軽蔑を孕んだその視線を受けても、ラナーは無垢なお姫様の皮を被ったまま、にこりと微笑んだ。
ティラにとってはいつからか──或いは初めて目にしたその時から、この黄金と称される美しい姫が悪魔にしか見えなくなっていた。
そう……王都で起きた事件の全ては、ラナーの手の内で起きた出来事だった。
クレマンティーヌの身柄が容易に『八本指』に引き渡されたのも、『叡者の額冠』で『死の螺旋』の真似事が出来る様にゼロに唆したのも、ラナーが
『蒼の薔薇』とガゼフ率いる王国兵士が近いうちに『八本指』の拠点を襲撃するという情報を横流しし、モモンが王都にいる間に事を起こす様に急かしたのもラナーの思惑通りだった。
ゼロにとっては、カウンターを狙えるあのタイミングがまさにベストに見えていたのだ。それが掌の上で転がされているということにも気がつかないで。
全てはラナーの計画通りだった。
モモンがクレマンティーヌを下したあの日から。或いは、『ズーラーノーン』のある男がエ・ランテルで死の儀式の準備をしていると知ったその日から。
「面白いくらいに、思惑通りに事が運んでくれましたね」
ラナーは薄く笑む。
悪魔とは、そういう笑みを浮かべるのだろう。彼女は機嫌が良さそうに、窓の外に視線をやった。
「『八本指』はよく働いてくれました。彼らが起こしてくれた混乱のおかげで、バルブロお兄様も怪しまれることなく暗殺できましたし、『八本指』に与していた反王派閥の貴族達も一斉に粛清できるのですから」
騒動の裏で『イジャニーヤ』に暗殺されたバルブロは、アンデッドに殺されたという事実にすり替えられるだろう。蘇生ができぬよう、焼死体で見つかるはずだ。
それもやはりラナーの計画の一端。
兄を殺したというのに、ラナーは笑みを保っていた。
「これでザナックお兄様の王位継承は確固たるものとなりました。これからは邪魔者がいなくなったこの王国を、レエブン侯と共により良く、より強い国にしてくれることでしょう」
第一王子バルブロの暗殺。反王派閥の貴族達が『八本指』に関与していた資料の差し押さえ。『八本指』の完全撲滅。
この三つが、秘密裏にこの一夜だけで遂行されたのだ。ラナーの綿密な計画と、彼女の指示を受けていた『イジャニーヤ』の暗躍によって。そして王子暗殺の責任は全て愚かな『八本指』に転嫁される。
ティラは鳥肌が立つのを感じていた。
これほど完璧な暗殺は『イジャニーヤ』をして完遂することは難しい。ラナーの指揮は何もかもが完璧だった。
(……驚くのも今更か。ティアとティナと少し言葉を交わしただけで『イジャニーヤ』の存在に気づくばかりか、隠匿している私達の拠点に手紙まで寄越してきたこの化け物相手には)
『イジャニーヤ』に関する情報は完全に封鎖している。暗殺稼業をしているのだから当たり前の話だ。しかし彼女達とラナーのファーストコンタクトは余りにもなものだった。手紙を目にした時のあの衝撃を、ティラは忘れない。
「……ティラ様、やはりこの女ここで殺しておくべきでは」
「……やめておけ。猛毒を持った虫を素手で潰す様なものだ。こいつを殺すことで我々の存続が危うくなるかもしれん。この化け物がそれを想定していないわけがないからな」
耳打ちしてきた部下の言葉は尤もだ。ラナーは存在そのものが危なすぎる。しかしこの知謀の化け物がただで殺されてくれるわけがない。
殺してしまえば、その返り血が毒の様に『イジャニーヤ』を蝕んでいくことは明白だった。何か仕掛けを施しているはず。そうでなければ、無策でラナーが彼女達にこれだけの依頼をしてくるはずがない。
「利口な人は助かります」
「……ちっ」
全てを見透かす様なラナーの笑みが、ティラは気に入らない。
「これだけの仕事をこなしたんだ。報酬はきっちりと用意してもらうぞ」
「……ええ。お任せください。お話していたとおり、少し時間は掛かりますがきっと金銭以上に『イジャニーヤ』に利益を捧げることはできますから」
依頼はこれにて達成された。
ティラは今すぐにでもホームに帰りたい気持ちだった。これ以上ラナーといると、気味が悪くて仕方がない。
そういう素振りを見せたティラを、ラナーは呼び止める。その表情には、先程までの安穏とした雰囲気は霧散していた。
「ティラさん。それで、モモンの暗殺の方は可能でしょうか? どちらかと言えば、私にとってはこちらの方が重要なのですけれど」
「……それは無理だな。これに関してはいくら報酬を積まれても受けることはできない」
「……理由をお聞かせ願えますか」
「奴は人間じゃない」
きっぱりと言い放つティラに、ラナーの目が僅かに見開かれる。そしてそれは、納得した様な反応へと変わっていく。
ティラは、鋭い視線でラナーを貫いた。
「ラナー、忠告はしておく。奴を相手取るのはやめておけ。モモンの怒りを買えば、この王都は終わりだぞ」
「……そうですか」
きち、とラナーの口内で何かが鳴った。
僅かに眉間に皺を寄せる彼女の表情は、初めて人間らしい感情を露わにしている様にも見える。それがたとえ、殺意だろうとも。
僅かに時を経て、ラナーは張りついた殺意の表情を解くと、今一度ティラに向き直った。その顔には既に、お姫様らしい仮面が張り付いていた。
「なら、別の暗殺依頼を一件お願いできますか?」
暗殺を依頼するにしては軽い口調だ。
ティラは沈黙を保ち、その先の言葉を待っている。
すると、ラナーの口からは予想もしない台詞が飛び出してきた。
「クライムを殺してください」
……は?
ティラは、憚らず素頓狂な声を上げた。
理解が追いつかない。
「……おい、どういうことだ? この王都での全ての計画は、そのクライムとかいう男とお前が結ばれる為だと言っていただろう」
「そうです。ですがこれも、私がクライムと結ばれる為……踏むべき一つのステップなのです」
「はぁ……?」
「躾と矯正ですよ。この王都には復活魔法が使えるラキュースがいます。彼女にクライムを復活してもらうんです」
まるで今日の献立を話しているかの様な呑気さに、ティラは戦慄する。この世のどこに、愛する者を殺してくれと言う人間がいるというのか。それがたとえ、冗談であったとしても、だ。
「死から復活した人間は生命力が落ちるのでしょう? クライムを殺したのはきっと皆『八本指』の残党のせいだと思うはずです。なら、クライムが殺された責任の所在は……? 誰あろう、作戦の指揮を取った私にありますよね」
ラナーは恍惚とした笑みを浮かべている。
ティラは、鳥肌が止まらない。
「命を落としたクライムをつきっきりで私が看てあげるんです。誰も文句はないでしょう。私は彼の身の回りの全て……そうシモの世話だって……。ひと月、いや、半月は誰とも会えない様に軟禁しましょうか。そうしてやがてクライムは気付くはずです。誰に真の愛を捧げるべきなのかを」
モモンを殺せないのなら、クライムを殺せばいい。
モモン暗殺の依頼に至った経緯を知っているティラからすれば、それは余りにも理解が及ばないものだった。
「……狂ってやがる」
「愛は人を狂わせるものですよ」
はっきりと言い放つラナーに、迷いはない。彼女はそうして、もう一度ティラにこう聞くのだ。
「……依頼、できますか?」
光が抜け落ちた瞳で、ラナーは真っ直ぐにティラを見据えている。
ティラの全身の産毛が、総毛立った。