「アート・フォト」と「写真」の違い
額に入れたこの写真は、もちろん写真だ。アートといってもいいだろう。しかし現代美術ではない。コンテンポラリーアートとするには、美術館に所蔵してもらうか、ギャラリーと契約して、アート・フォト市場にデビューしなければならない。本来、この写真をどのように、解釈、感じるかは見る側の自由だ。しかし、現代アートでは、この写真を作者が、見るがわにどのように見て欲しいかを明確にする必要がある。しかもその見方が、オリジナルでなくてはならない。それがコンセプトだ。バラ板の印画紙を使うことではない。デジタルプリントはもちろん、デジタルカメラで撮っても関係ない。(デジタルを使う理論武装ができていれば)
写真が芸術かどうかなんていう議論はいまや意味をなさないが、なにしろ芸術、ART自体が変容したわけだし、写真が芸術に含まれることはたしかだ。<だから僕は、写真が芸術かどうかなんて議論に興味はない。
それは表現、創造物ということでは、異論はない。
僕は、これまで写真を撮ってきた。それでも大きな意味のアートだと思っていはいるが、ことさら明確に考えていたわけではない。写真は写真でいいじゃないかというのが僕の考え方だった。それは、雑誌や広告、ファッション、ドキュメンタリーなど、写真というメディアをつかい、発表することで、ことさらアートを意識することもなかった。
ところが、ひとたびオリジナルプリントを売ると考えたとき、写真はアートであるか、いなかを突きつけられた。なにしろ、写真のプリントを売るということは、写真をアートと位置づけなければ、市場価値がないことを知ったからだ。
今まで僕は直接個人にオリジナルプリントを売っていた。
しかしそれは、僕がかってにつけた価格で、適当にこれぐらいなかとかってに設定したものだ。単発の需要と供給だから、ある意味問題はないが、ただ残念ながらそれがシステムにはなりえない。あくまで個人的な自己満足の作業でしかない。
それでは、写真を売るシステムはどこにあるのか。正直に日本にはごく一部のギャラリー以外ほとんどないといえる。美術館が買い上げるか、圧倒的には、個人的な売買があるぐらいだろう。
しかし、海外では、しっかりとした売買のシステムがある。
それは、写真をアートとして位置付け、ギャラリーが扱い、戦略的な価格を設定し、継続的に、写真家がアート・フォトを供給することだ。
それには、アート市場に参加しなくてはならない。
写真がアートとしてアート市場に常時取引されるようになって30年だ。
バブル期には、多くの企業が、そのシステムを利用して、海外の作品を日本に持ち込み、売った。しかしバブル崩壊後、ほとんどすべてが撤退している。しかもインターネット時代になり、海外の作品をかいつけにいかなくても買える時代になったこともある。
いまや、アート・フォトビジネスは、海外の作品を売るということでは、ほとんどなりたたなくなってしまった。
さて、そこで、BLITZのようなギャラリーが、日本の作家の作品を売ることを考えはじめた。
日本の作家を海外に売るのではない。まずは、日本の作家を日本で売ることに力を入れている。しかしそれには、日本には作家がいないと、BLITZの福川氏はいう。
写真家はたくさんがいるが、アート・フォト、写真をコンテンポラリー・アート・フォトグラフィとして販売することを目的に制作する作家がほとんどいないというのだ。
いや、そういう人はたくさんいるのだろう。しかし、福川の言う、「アート・フォト」を理解する人は少ないという。「アート・フォト」と「写真」は何が違うのか!
決定的に違うのは、アート・フォトとは、コンテポラリ・アートの一部だとうことだ。
現代美術だ。その部分をきちんと理解しないといけない。
ただ現代美術だからと、コラージュや、引用で、どうみても写真に見えない難解なものばかりが、けっして現代美術ではない。きちんとプリントした一枚の写真でも、現代美術になりえる。
写真とアート・フォトグラフィの違いは実は明確にある。
額に入れて壁に飾ることではない。
「現代美術としての写真」とは、アート市場に参入することだ。
そうやって初めて、市場価値が生まれるからだ。
市場価値があるものが、「アート・フォト」だ。
それは、メジャーリーグに入らなければ、メジャーリーグとして表現することができないのと同じで、野球のように、日本だけでも大きな市場があれば、別にメジャーに行かなくても、プロの野球をすることには違いがない。
残念ながら、日本にはコンテンポラリーのアート市場は現在存在していない。
さて、これまでは入物の話で、内容的には、何が「写真」と「アート・フォト」は違うのだろうか。
それは、コンテンポラリー・アートが何かということになる。
易しく言えば、コンテンポラリーアートは、新しい価値の提案、創造、クリティック、等々が大きなテーマである。オリジナルな提案だ。コンセプトともいえる。
写真は、心のなかを撮るものではない。レントゲン写真だって、こころは写らない。
写真は、世界を複写、写す機械。広い意味では、それさえも芸術「アート」といえる。
しかしそれでは「コンテンポラリーアート」ではない。
コンテンポラリーアートとは、そのそこに明確なルールがあるからだ。
それは「あたらしい、オリジナルな価値の提案」、コンセプトが必要だということになる。
写真の解釈は、写真を見る側の自由だ。それが本質だ。
特に写真は、存在する世界を記録するメディアだから、切り取られた写真をどのように、感じるかは、それを利用する側にゆだねられている。
本当の写真の見方は、見る側の自由だ。
しかしほとんどの写真は、送り手や利用者が、あるメッセージをこめている。
一番きちんと考えているのが、広告だろう。広告は、商品を売るためにその写真をどう見てほしいのか、コピーをつけてたりして、明確にしている。決してあいまいではない。そんなふうにわかりやすくなくても、裏ではしっかりと考えられている。
グラビア写真や、ピンナップ写真は、やはり明確メッセージがある。
それは見る側を欲情させることが目的だ。もしくは報道写真のように、出来事しらせるという目的もある。ほとんどの商業的もしくは、報道写真には、実際は明確なコンセプトある。その写真をどのように見てほしいのか、意図がある。
ところが、ひとたび、写真を額に入れて飾ると、みな、その明確な目的を失う。
いいでしょう。こんな素敵な写真。どんなふうに感じてもらってもいいですよ。
見る側の自由だから。写真てそいうものですよ。……。
と言葉がなくなる。写真にことばはいらない。
もっと、もっと自由に僕の写真を見て、感動してほしい。
ずっと見ていると、いろんなことを感じるでしょう。……。
そう。この意見は、写真を撮っている側からみるととても正しい。
カンファタブルだ。素敵な写真を、壁に貼れば、その部屋の雰囲気もかわる。
だからこそインテリア・フォトが必要なんだ。
だからこの素敵な写真は、アートだ。
しかし、それはファインアートではない。
美しい風景写真は、「美しい写真」かもしれないが、それは現代美術ではない。
それは、単に写真だ。個人的に売ることはできても、アート市場で市場価値はない。
「アート・フォト」とは、その作者(キューレーター、ギャラリーのように作者以外がすることもある)が、その写真をどう見てほしいか、を提案することだ。
その写真の新たな意味づけた。現代において、新しい価値観の創造。美の創造だ。
美しい風景写真は、誰でもすでに認知している「美」だ。だから、ファインアートになるわけはない。そこには主張がないから。
現代美術はあるいみ、言葉とくっついている。それは決して、自分の作品を評論するという意味ではない。
そうではなく、提示した写真を、どう見てほしいか、明確にすることが、コンセプトなのだ。
ファイン・アート・フォトグラフィは、制作した写真を、どう解釈、どうみてほしいのか、作者が明確にすることなのだ。
それを見る側にゆだねたら、それはもう、現代美術ではなく、ただの写真だ。
誤解してほしくないのは、「写真」が悪いわけではない。写真が写真であることは、まったく間違っていない。
しかし、オリジナルプリントを売るというときに、そこにはファインアート市場という、システムが厳然とあることを、知らなくてはならないことだ。
それには、写真をどう見てほしいのか、作者は明確にする必要がある。そしてそのコンセプトがオリジナルでなければならないということだ。
The comments to this entry are closed.
Comments
大変興味深くこの記事を読まさせていただきました。単なる写真とアート・フォトの違いは何かが少し理解できました。私の写真はファインアートにはとうていかないませんが、まず、インテリア・アートになりうる写真をめざして、これから頑張っていきたいと思います。あなたの言われるように明確なコンセプトを持つことは大切なんだということを改めて知らされました。
Posted by: 片田 護 | 2005.05.12 10:41 PM