1973年8月21日、アメリカ・ボストンで生まれる。父が外交官であったためニューヨーク、サウジアラビアで幼少時代を過ごし、4歳の時にはじめて日本の地を踏む。小学3年の夏に再び日本を離れてエジプトへ、その後中学、高校は立教英国学院に入学。
しかし勉学に熱中できず、荒んだ日々を過ごし、自他共に認める「落ちこぼれ」であった。そんな時、先輩との喧嘩で1ケ月の停学処分を言い渡される。学校から自宅謹慎を命じられ、日本に帰されるが父の助言により、一人旅に出て、その時、偶然に書店で手にした植村直己氏の著書「青春を山に賭けて」に感銘を受け、登山を始める。
ヨーロッパ大陸最高峰モンブラン、アフリカ大陸最高峰キリマンジャロなどの登頂を果たし、登山に自己表現の価値を見出し、世界7大陸最高峰登頂という目標を自らに課す。この時、野口は16歳であった。
高校卒業後、亜細亜大学国際関係学部に入学。
登山に必要な資金集めなど自らでこなし、1999年3度目の挑戦でエベレストの登頂に成功し、10年の歳月をかけて7大陸最高峰世界最年少登頂記録を25歳で樹立する。
1999年 エベレスト登頂 その後、以前から気にかけていたエベレストのゴミ問題を解決するために、4年連続世界各国の登山家たちと5000m~8000mの清掃活動に尽力する。
一方、富士山のゴミの多さに心痛めた野口は、2000年から「富士山が変われば日本が変わる」をスローガンに富士山清掃活動を精力的に行う。
2006年からは、富士山・エベレスト同時清掃活動を実施し、エベレスト側の隊長を野口が務めている。
2002年に、日本隊に参加し遭難したシェルパ(登山隊の案内人・荷役人)の遺族を補償するために「シェルパ基金」を設立、シェルパの子女への教育援助を行っている。
さらに、環境教育の必要性が訴えられている中で、次世代の環境問題を担っていく人材育成の必要性を痛感して、小・中・高・大学生を対象とした「野口健環境学校」を開校。環境の大切さを訴え、実践していくメッセンジャーを日本全国に育てている。
また、2008年にはネパール・サマ村の子どもたちのために学校を作るプロジェクト「マナスル基金」を立ち上げ、校舎、寮、グランドなどの建設を行っている。
毎年ネパールに行っている野口はヒマラヤ地域の氷河融解に危機感を持ち、温暖化について現場からの声を積極的に訴えている。また、世界各国の国立公園や観光産業を数多く目にしてきた経験から、日本の国立公園や環境保護や観光振興(エコツーリズム)のあり方について、行政サイドから意見も求められ、環境省や東京都の委員も務めた。
2005年、ヒマラヤの8000m峰に挑戦中に天候が急変し「死」をも覚悟した中で、先の大戦で戦死した方々のご遺骨が収集されずに各地に放置されたままであるという話が頭をよぎり、日本に帰れたらご遺骨収集を決意する。現在は沖縄での活動を中心に行っている。 環境問題に関わっている野口にとって、日本固有種の動・植物を守ることに深い関心もっている。そのような中で、我が国固有の領土である尖閣諸島魚釣島にはセンカクモグラやセンカクツツジなどの固有種が確認されているが、いまそれらの存続が危ぶまれている。
2010年に「センカクモグラを守る会」を立ち上げ、生物多様性の価値と保全の緊急性を訴える活動をしている。
2015年4月、ネパール滞在中に大地震に遭遇。エベレスト街道の村々を歩いて調査し、その被害のあまりの大きさに心を痛める。すぐさまヒマラヤ復興支援を決意、「ヒマラヤ大震災基金」を立ち上げた。全国各地の個人・団体から寄せられた多くの寄付は、仮設住居としてのテントや各家庭への見舞金として野口の手により直接ヒマラヤ地域の人々に届けられたほか、村人の心の拠り所でもあるゴンパ(寺院)の再建も進められている。
2016年4月、熊本地震が発生、多くの家屋が倒壊、破損した。体育館などの避難所に入れず車中泊を余儀なくされた人々にエコノミークラス症候群の危険も迫る中、野口はテントの支援を決意。「熊本地震テントプロジェクト」を立ち上げる。全国から寄せられたテントや寝袋、寄付金を元に、岡山県総社市などの自治体や多くのボランティアの協力を得ながら、熊本県益城町にテント村を開設した。最大時で156世帯、571人が入居という規模の災害時におけるテント村は国内では前例がなく、国交省などからの視察も受けた。また専門家からも「今後の被災地のモデルケースにすべき」との評価を得た。このテント村を1ヶ月以上にわたり運営した経験を元に、自治体などに向けて災害時の避難所のあり方についても提言を続けている。
西暦 | 年齢 | 学年 | 出来事 |
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1973 | 0歳 | 8月21日 ボストン(アメリカ合衆国)で生まれる。6ヶ月でジッダ(サウジアラビア)へ引っ越す | |
1977 | 4歳 | 日本に帰国 | |
1978 | 5歳 | 東京都世田谷区立池尻幼稚園入園 | |
1980 | 6歳 | 小学1年生 | 東京都世田谷区立駒繋小学校入学 |
1982 | 9歳 | 小学3年生 | カイロ(エジプト)へ引っ越す。エジプト日本人学校に転入 |
1986 | 12歳 | 小学6年生 | イギリスへ引っ越す。全寮制の立教英国学院小等部に転入 |
両親が離婚。成績が落ち始める | |||
1989 | 15歳 | 高校1年生 | 立教英国学院高等部仮入学。 |
先輩を殴り、1ヶ月の停学処分を受ける。停学中、日本へ帰国し、一人旅に出た際、植村直己の「青春を山に賭けて」に出会う | |||
登山家、岩崎元郎氏の主催する山岳会「ピッケル&アイゼンと友達になる会」に入会。冬休みの富士山での訓練を経て、「八ヶ岳天狗岳」登頂 | |||
1990 | 16歳 | 高校2年生 | 夏休みに「モンブラン」(スイス)登頂 |
17歳 | 「キリマンジャロ」登頂。7大陸最高峰の登頂を決意 | ||
1992 | 18歳 | 高校3年生 | 亜細亜大学国際関係学部入学の一芸一能入試を受け、合格。日本に帰国する |
2月「メラピーク」(ネパール)に登るが悪天候のため断念。シェルパと交流が始まる | |||
19歳 | 大学1回生 | 9月「コジアスコ」(オーストラリア)に登頂 | |
12月「アコンカグア」(南アメリカ)登頂 | |||
1993 | 大学を休学 | ||
4月「アイランドピーク」(ネパール)登頂 | |||
6月「マッキンリー」(北アメリカ)登頂 | |||
1994 | 21歳 | 12月「ビンソン・マッシーフ」(南極)登頂 | |
1995 | 22歳 | 9月「エルブルース」(ロシア)で高山病にかかり登頂ならず | |
1996 | 1月「エルブルース」(ロシア)登頂 | ||
1997 | 23歳 | 5月「エベレスト」(中国)山頂まで1000メートル地点で登頂を断念 | |
1998 | 25歳 | 10月「エベレスト」(ネパール)に国際隊で挑むが天候悪化のため登頂を断念 | |
1999 | 5月「エベレスト」(ネパール)登頂。7大陸最高峰登頂の世界最年少記録を樹立(当時) | ||
2000 | 26歳 | 3月「エベレスト清掃登山」を実施 | |
「富士山清掃登山」をスタート | |||
大学8回生 | 亜細亜大学国際関係学部卒業 | ||
2001 | 27歳 | 3月「エベレスト清掃登山」を実施 | |
2002 | 28歳 | 3月「エベレスト清掃登山」を実施 | |
「シェルパ基金」設立し、ヒマラヤ登山で遺児となった子供らの教育資金の提供を開始。 | |||
2003 | 29歳 | 3月「エベレスト清掃登山」を実施 | |
「野口健環境学校」をスタート | |||
2006 | 32歳 | 「マナスル清掃登山」を実施 | |
2007 | 33歳 | 「アジア・太平洋水サミット」に参加。氷河湖問題を訴える | |
2008 | 34歳 | 「マナスル基金」を設立し、サマ村(ネパール)に学校および宿舎を建立。 | |
「遺骨収集」活動を開始。 フィリピンのセブ島を中心に行われた遺骨調査団に参加 | |||
2009 | 35歳 | 「マナスル清掃登山」を実施 | |
2010 | 36歳 | 「センカクモグラを守る会」を設立 | |
2015 | 41歳 | 「ヒマラヤ大震災基金」を設立 | |
2016 | 42歳 | 「熊本地震テントプロジェクト」を立ち上げ、熊本県益城町にテント村を開設、運営にあたる。 |