編集委員 森田 清策
「見るのも嫌だ。隣に住んでいるのも嫌だ」――荒井勝喜前首相秘書官が同性婚に関して行った性的少数者(LGBT)に対する“差別発言”だ。筆者の周囲には「オレも嫌だ」「オフレコだろう」と、多くはないが、彼を擁護する声もある。しかし、それには同意できない。
荒井氏は政権の中枢で国民全体の幸せを考えるべき立場の公人。たとえ「嫌だ」という感情が内心にあってもその言葉を口にしてはいけない。オフレコでも差別発言を行えば記者に書かれ、LGBT運動を煽(あお)る結果を招くことに思いが及ばなかったのは首相秘書官としての資質に欠ける。更迭は当然のことだ。
案の定、与党内からも2年前、国会提出が見送られた「LGBT理解増進法案」の今国会提出を求める動きが活発化する。野党からは「主要7カ国(G7)で同性婚を認めないのは日本のみ」と、同性婚の法制化を求める声も上がる。伝統的な家族形態を崩したがっている左派陣営を勢いづかせた荒井氏の差別発言の「罪」は大きい。
一方、“荒井発言”には考えさせられる部分もある。差別と「内心の自由」の問題だ。筆者の取材経験からすると、荒井氏のように同性カップルが同棲(どうせい)することに嫌悪感を覚える人は少なからず存在する。これは内心の問題で、それをすべて「差別」「人権侵害」と断罪できるのか。
同じ「嫌だ」という感情でもその根底にあるものは人それぞれで一様ではない。偏見に根差した差別意識もあるだろうが、価値観から湧き出る敵愾(てきがい)心、性被害体験から生まれる生理的な反発などもあるようだ。
だから、他者の性の在り方に嫌悪感を持つことは一概に断罪できるものではないが、荒井氏と違う一般人であっても、当事者がいる場で嫌悪感を口にすれば「差別」「人権侵害」となるのでそれはやってはいけないことだ。結果的に、そうした差別発言が理解増進法制定や同性婚運動を煽ることになる。
ただ、現下の論議で問題だと感じるのは、荒井発言をきっかけに、理解増進法案論議が政権への逆風を避けるための対症療法的に突如として現れることだ。広島市で5月に開かれる先進7カ国首脳会議(G7サミット)までに成立させるべきだ、という声も出ている。
しかし、「理解増進」と言われても「理解できない」人は内心を否定されるようで反発を感じるだろう。ましてや法に「差別禁止」の文言が入れば「同性婚ができないのは差別だ」として、同性婚の法制化運動が勢いを増すのは必至だ。
G7で同性婚を認めないのは日本だけだと言っても、日本以外はキリスト教文化圏の国。近年まで聖書と関わりがある「ソドミー法」で、同性愛行為を「犯罪」として禁じていた国もある。そのような歴史を持たない日本は、他の6カ国と同列に同性婚を考える必要はない。事ほどさように、LGBT問題で考えるべきことは数多い。荒井発言はそのきっかけにすべきなのである。