動物に幸福・不幸はあるか

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野良犬や野良猫の問題を見ていて思うのだが、そもそも動物に幸/不幸はあるのだろうか。幸/不幸というのは人間的な物語である。不幸のポイントを貯めて、その分だけ幸福を要求できるみたいな、そういうのは人間だけの発想である。動物には当然ながら快楽と苦痛があるわけだが、幸/不幸という自意識ではないはずである。いい人生だったとか、最悪の人生だったとか、そういう自意識はないはず。犬の幸せ、猫の幸せと言われると、われわれはなんとなく人間的な物語で了解してしまうのだが、ネズミや蛇の幸/不幸など気にしてないわけだ。知能云々でいうなら、猿やチンパンジーでもいいが、猿やチンパンジーだって「幸福な人生だった」とか「俺は不幸だ」という自意識はないはずである。ネズミや蛇はともかく、猿の人生とかチンパンジーの人生くらいは、もう少し心配してあげたらどうか、ということである。われわれが猿やチンパンジーの人生の心配をしないのは、やはり彼らは完全な野生で、福祉の対象外と考えているからであり、それに対して、犬猫は福祉の対象内なのである。犬猫は本人に自意識がないのに、幸福追求権があるらしい。なんにせよ、実のところ人間本位であり、犬の人生、猫の人生という物語(フィクション)を作り、愛情を注いで幸福を作り上げるゲームなのである。生きていて、快楽や苦痛の凸凹がたまたまあるのではなく、債権・債務のような意識があるのは人間だけだと思うが、その権利意識の傘に犬猫を入れているわけである。おそらく、恩の売り買いが可能な相手と考えている。「猫は3日で恩を忘れる」なんて揶揄されるが、さすがに人間の騙し騙されとは違うし、裏切らない存在であるわけだ。人を愛して裏切られるとか、あるいは愛されれば嬉しいとは限らず、ストーカーに追い回されて地獄ということもある。人間と人間の愛情は厄介である。犬猫が愛玩動物であるのは、愛情の貸し借りが確実な桃源郷だからであろう。もし犬猫に幸/不幸の権利意識があったら「別の飼い主がいい」と乗り換えることもありそうだが、そういう権利概念もないので、人間都合の物語に組み込める。
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