「AVやります、と言わないと帰れないような雰囲気もありました」…元セクシー女優・麻美ゆま(35)が「想像もしていなかった」デビューを決めたワケ
人気絶頂の20代半ばで境界性悪性腫瘍と診断されてから今年でちょうど10年。元セクシー女優の麻美ゆま(35)の歩みは、波乱に満ちたものだった。日本初のフィリピンパブを実家が経営し、裕福だった子ども時代。バブル崩壊と共に苦しくなる生活、突然の兄の自死、大人になるまで知らなかった複雑な家庭環境。そして留学を夢見ていたはずが、気づけばセクシー女優として名実ともにトップの座に君臨することに――。(全2回のうち1回目/後編を読む)。
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撮影 鈴木七絵/文藝春秋
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日本初のフィリピンパブを経営していた実家
――麻美さんは群馬県高崎市のご出身ですが、ご実家は、日本で初めてフィリピンパブを経営されたお店だったそうですね。
麻美 私が大人になって母から聞いた話ですが、当時は週刊誌の方がよく取材にきていたみたいですね。お店も繫盛していたらしく、4店舗くらい出したのかな。子どもの頃は、自宅兼店舗に住んでいましたが、夜になると1階のお店から笑い声とか、カラオケの歌声がよく聞こえてきましたね。
――麻美さんもお店に顔をだすことはあったのですか?
麻美 親に用があるついでに、お客さんと喋ることもありましたね。お客さんと一緒に歌を歌うと、みんなが喜んでくれたんですよ。今は全てお店を閉じていますが、いつも賑やかで楽しかった記憶があります。
今思えば、子どもながらに比較的裕福な生活をさせてもらっていたと思います。携帯電話も今ほど普及していなかったんですが、小学生のときに持っていましたし。
ただ、バブルがはじけて、私が小学校高学年くらいのときから徐々に閉じていったのかな。気づいたら、お店のドアが板でふさがっていたので、え、なんで……? って、思ったような。お店を閉じてから、家も引っ越したんです。3階建ての、わりと大きな一軒家に住んでいたんですけど、小さなマンションに引っ越しました。
そして何不自由ない裕福な生活が一変し……
――麻美さんは、高校1年生で退学されましたが、家庭の事情と関係しているのでしょうか?
麻美 私が私立の学校に通っていたこともありますし、それとは別に、子どもの頃から英語に興味があったんです。県内でも英語に力を入れている高校に入って、お金を払えば1年くらい留学できるシステムを利用して、海外に行きたいなって思ってました。
でも、その頃には父が経営していたお店、4店舗全て閉店していたし、母もリウマチを患いながら近所の工場で働くような状態で。家の経済状態が厳かったし、自分でアルバイトを掛け持ちしながら休みなく働いていたんです。そしたら、今度はバイトが忙しすぎて、学校が留年の危機になってしまって……。「留年」で1年、「留学」で1年となると、高校生活が5年になってしまう。お金も時間ももったいないので、辞めました。
――ご両親は、麻美さんの退学について何か仰っていましたか?
麻美 両親は、「あなたの人生だから」みたいな感じで、特に反対もされなかったですね。わりと自由というか放任主義な家族でもあるし。
「今の時代は、バツの1も2もないとやっていけない」
――ご家族のお話が出ましたが、麻美さんのご家族は、ご両親と3人兄弟の5人家族で、ご兄弟でお父さまが違うとのこと。どういった経緯で家族の関係がわかったのでしょうか?
麻美 私が20歳くらいのときに海外に行こうと思って、パスポートを作る準備をしていたんです。そのとき、なんとなく戸籍を見ていたら、姉と兄とは父親が違うようなことが書いてあって、もうびっくりして!すぐに母に電話したんですよ。「お父さん、違うじゃん……!」って。
――お母さまはなんと?
麻美 「今の時代は、バツの1も2もないとやっていけないし、いずれ、あなたがわかるときがくると思ってたから。あなたのためを思って、言わなかった」って言ってましたね。たしかに、苗字が違う郵便物が届いたりしてたんですけど、後から考えたらそういうことだったんだねって。
それに、大人になった今も会ったことはないですが、フィリピンには父が認知している子どもがいるみたいです。
――麻美さん以外のご家族は、その事実について知っていたのでしょうか?
麻美 私以外、全員知ってましたね。そこはちょっとむしゃくしゃしたというか、悲しいなとは思いましたけど。私と姉は10歳、兄とは7歳、年が離れているので、父と母が結婚するときに、既に理解があったんだと思います。私に事実を言わなかったのも、みんなの愛情の裏返しだと思うので。
――事実を知ったあとも、兄弟の関係がギクシャクすることはなかったですか?
麻美 特に変わらなかったですね。ただ、事実を知って色々納得することはありました。
父が私に対する接し方と、姉や兄に対する接し方が違うなっていうのは、ずっと感じてたんです。私はパパッ子で「パパ大好き!」みたいな感じだったし、父も私に優しくしてくれたと思います。でも、父は姉を「嫌いだ!」って怒鳴ってるし、お兄ちゃんに対してもあたりが強くて、時には手も出ていたと思います。
父が姉に向って「お前はうちの子じゃない……!」とか、兄に「(母の実家である)山梨に帰れ!」「川から拾ってきた」って叫んでるのを聞いて、兄に「お兄ちゃん、うちの子じゃないってホントなの?」って聞いたこともありました。当時は、どうして父がそんな態度をとるのか分からなかったけど、いろいろ確執があったんだなって。
その後、姉は私が8歳のときに東京に出てしまったし、兄は、私が16歳のときに突然亡くなりました。
――お兄さまがお亡くなりになったときの状況を教えて頂けますか?
午後、急に警察の方が家に来たんです……
麻美 私はすでに高校を辞めて、バイトが休みでたまたま家に居たのかな。兄が、これから仕事に行ってくるとかで、「今何時だっけ?」って聞かれて、私が「分かんない」って答えて。そのまま私は自分の部屋に戻ってくつろいでいました。
午後になると、急に警察の方が家に来たんです。「ご家族と思われる方が、隣の駐車場で亡くなっているので、身元確認のために来てくれませんか?」って言われて。
はっ? 何の話……? 意味が全然分からなかったんですけど、「ご遺体の洋服のポケットに、このマンションの鍵が入っていて、確認したらここの家だと思われます」って言われました。まるで状況を飲み込めなかったんですけど、言われた場所についていって、遺体を確認したら、兄でした。
――どうしてお兄さまは、そういった選択をされたんでしょう。
麻美 なんでしょうね……。遺書のようなメモ書きに「生きるのが疲れた」とだけ書いてあったんです。仕事も転々としていて、やっとパチンコ屋さんのお仕事が決まったのかな、仕事が始まって2,3日後くらいに自殺してしまったんですけど。きっと、社会に出るのもプレッシャーだったろうし、家が安らげる場所でもなかったから、本人なりに生きづらさとかあったのかもしれないですね。
――元々はどんなお兄さんだったのですか?
麻美 どちらかというと、落ち着いてる感じかなぁ。兄が中学生の頃は、野球部のキャッチャーをやったり、頭も良くて、一緒にゲームをして遊んでもらってました。決してモテるタイプではなかったけど、家に友達を呼んで、よく麻雀をしていたような。でも、私が中学生になったあたりから、兄がだんだん引きこもりになって、兄の部屋には拳で殴った穴があったり、壁がボコボコになっていました。優しかった性格も、変わっていったような気がします。家でも外でも上手くいかないことも増えて、イライラが募っていったのかな。
――麻美さんにあたることあったのでしょうか?
麻美 その頃には日常茶飯事でした。手がでることもしょっちゅうだったし、みぞおちにボーン! とかされたり。一番は、兄に拳で顔を殴られて、左耳の鼓膜が破れてしまったことですね。私も私で頭にきて、家のガラス割っちゃうとか、そんなお転婆なこともしてたんですけど。壁もよく殴っていたので、ポスターで隠してましたね。
ただ、途中から兄弟げんかの度を越えて、明らかに兄の言動がおかしいなって感じはしてきたんです。家の中に私と兄が二人しかいないときも、「あそこに誰かいるぞ」とか、「この家が、盗聴されてるのは知ってんだからな!」って、大声で叫びながら、外に飛び出しちゃったこともあって。
家で奇声を上げたり、突然テレビのボリュームを最大限に上げたり、理解ができないような行動が増えていって、母が病院に連れて行くと、「統合失調症」という診断がつきました。強い薬を飲んでいたのか、薬のコントロールがうまくいっていなかったのか、わからないですけど、立ち眩みをして倒れてしまったり、私も変わってしまった兄とどう接していいかわからないまま、そういった結末になりました。
昔からおっぱいが大きくって、すごいコンプレックスだったんです
――麻美さんは18歳のときに上京されて、グラビアのお仕事をはじめたそうですね。なにかきっかけがあったのですか?
麻美 私は昔からおっぱいが大きくって、すごいコンプレックスだったんです。でも、姉がせっかくだからグラビアの仕事をしてみるのもいいんじゃない? って言ってくれて。私も好奇心が強いし、興味本位で、バイト感覚ならって思って姉の知り合いの事務所を紹介してもらいました。
――胸が大きい方にも悩みはあるのですね……。
麻美 そうなんです。学校では男の子はからかってくるし、当時、初めてつけたブラジャーがFカップだったんですけど。友達にFカップっていう話をしたら、学校中に言いふらされちゃって。「Fちゃん、Fちゃん」ってからかわれたりして。当時のCMを替え歌にして、「FFFFFカップ~」とか、結構言われましたね。変な話、恋とかしても、「どうせ胸が目当てなんでしょ!」みたいな気持ちだったし。「おっぱい大きくていいじゃん!」って言われたりしたんですけど、自分では「おっぱいとしか見られてないんでしょっ」っていうのがあって、ちょっとコンプレックスでしたね。
それに、胸が大きいとお洋服選びも意外と大変なんですよ。あんまり胸元の開いた服は着ないようにするとか。普通にお洋服を着ただけでも、妊婦さんじゃないのに妊婦さんのようなボディラインが出たり、服によっては度を越してグラマラスに見えすぎちゃうとか。あとブラジャーも全然可愛くないとか、10代の頃はそんな可愛い悩みがありましたね。
「何いってんの? AVやんなきゃ、事務所辞められないよ」
――上京してしばらくは、グラビアのお仕事されていましたが、そこからどのような経緯でAV女優になったのでしょうか?
麻美 グラビアのお仕事は半年くらいやっていましたが、留学費用とか、思うようにお金も貯まらなかったし、当時付き合っていた彼氏がいたので、群馬に帰りたくなっちゃったんですよね。それで、事務所に「グラビアの仕事を辞めたいです」って言ったら、「何いってんの? AVやんなきゃ、事務所辞められないよ」って言われちゃって。もちろん「そんな話、聞いてません!!」「私は高崎に帰りたいんです!!」って泣きながら言ったんですけど、全く話にならないどころか、なんで泣いてるの? って雰囲気すらあって……。
思い起こせば、グラビアの事務所といいつつ、AVのポスターが貼ってあるとは思ってたけど、まさか自分にAVの話がでるなんて、全く想像もしてなかったし。でも、事務所の人と話しをしても、その場の空気がとにかく怖かった。「AVをやります……!」って言わないと、帰れないような雰囲気はありました。「留学もできるし、自分のやりたいこともできるよ」って言われて、当時の私は先のことを考えることもなく、じゃあ人生一度きりだし自分の夢を叶えるためにも、やってみようかなという気持ちになったんです。
はじめはあたふたして、収録後によく泣いていました
――誰かに相談などされましたか?
麻美 母には、今AV女優の話がきているって相談しましたが、ここでも「あなたの人生だから好きにしてください」と言われて。姉に相談した時、当日はものすごく反対されましたが、その後は応援してくれるようになりました。。
――その後、AV女優としてデビューすると、セル(販売)とレンタルでも1位になるなど、瞬く間に活躍されました。AV女優やグラビアアイドル、モデルを集めたグループ、恵比寿マスカッツにも加入され、テレビ番組に出演するなど活躍の場が広がりましたね。
麻美 初めてのバラエティーでしたが、パイ投げしたり、歌を歌ったり、グループで活動したり。AVの撮影とは雰囲気も違うし、はじめはあたふたして、収録後によく泣いていました(笑)。
――バラエティーとAVでは、求められるものもまた違うような?
麻美 これを勘違いしていて、バラエティー=自分たちが面白いことをしなくちゃいけないみたいって思い込んでいたんです。なにか笑わせないといけないのかと思って、女の子同士でこういうネタをやってみようとかして失敗したり。
でも、恵比寿マスカッツではアイドル活動をしながら、歌やライブも出させてもらったり、すごく楽しかったですね。昔、歌手にもなりたくて、アイドルのオーディションにも出たこともあったので、自分が歌って人前に出るっていうことがすごく嬉しくて。ライブは目の前でお客さんの反応もあるし楽しかったですね。(#2に続く)
撮影=鈴木七絵/文藝春秋
スタイリング=ZAKI
ヘアメイク=天野良美
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(松永 怜)