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SHIMIZU, Akiko

フェミニズムの主体の話。

フェミニズムの主体は女性である、ような気は私はするんですよね。というか、フェミニズムの主体は女だけではなくxxも○○もフェミニズムの主体であり得る、という言い方をするときに、フェミニズムとの関係において「女」が何であるのか(あるいは何は「女」ではないのか)、その時の「女」というのが何を指すのかがあらかじめ了解されているように思うのですが、それで良いのかな、というのが正直よくわからない。

もちろんそのような言い方がどのような政治的要請から出てくるのかはよくわかるし、その時の「女/xx/〇〇」をどのように理解するかによってはその表明に私も同意できると思うのですが。

ただ、個人的にはやっぱりフェミニズムの主体は「女だけではない」とした上でそこに新しい項目を足していくよりも、フェミニズムの主体は(少なくとも基本的には)女であるとした上で、その時の「女である」が何を指しうるのか、あるいは何を指させないことによって成立しているのか、そこを考える方が良くないかしらと思ってしまう。

→ つまりこれはものすごく単純化して言えば、それこそ脱構築理論の影響を強く受けた90年代のバトラー的な見方を取るのか(「女」というカテゴリー自体を開く)、その方向と非常に意図的な決別をして複数性の豊穣を強調する議論を展開した2000年代のセジウィック的な見方を取るのか、ということなのかな。

でもそう考えてしまうと、セジウィックの情動への注目と多文化主義的なカテゴリー並列の政治との区別がつかなくなるかな…(というかそもそもそこそんなに明確に区別できるのかな…

→ 脱線したのでフェミニズムの主体に戻ると、フェミニズムの主体は女であるというときに、その「女」は医学的あるいは法的なカテゴリーに限定されなくてはいけないわけでもなく、特定の「経験」を裏付けとするカテゴリーあるいは階級でなくてはならないわけでもなく、ある一つの(例えば「女」という)アイデンティティに限定されなくてはならないわけですらないのではないか、というような気がしている。

なんらかの形で「女」というカテゴリー(それ自体ひとつではないわけだけれど)のどれかに掠った人々がフェミニズムの主体となるような、そういう感じ。

→ ただそうなるとそのような多様な人々を「女」という言葉で括ることの意味って何、という話に当然なるわけで、それに対して唯一あり得る(のかな?)答えは「女という言葉(あるいはより正確にはそれを成立させる区分法)のもとで不当にまとめられたり排除されたりする構造的な位置にある人々だから」という感じになりそうなのだけれども、それはバトラーがすでにGTで言っていたように堂々巡りになってしまう気もする。

Do the exclusionary practices that ground feminist theory in a notion of “women” as subject paradoxically undercut feminist goals to extend its claims to “representation”? (GT. p.8)

→ それでもやはり:

"What relations of domination and exclusion are inadver- tently sustained when representation becomes the sole focus of politics? The identity of the feminist subject ought not to be the foundation of feminist politics, if the formation of the subject takes place within a field of power regularly buried through the assertion of that foundation." (GT. p.9)

@akishmz ノンバイナリーの方はフェミニズムの主体じゃないってことですか?

@anarchist_neko いや、そういう話ではまったくないです。

@anarchist_neko

すみません、言葉足らずでした。

うまく言えないのですが、フェミニズムの主体に女性だけではなくノンバイナリーの人も含まれると言うとき、この「女性」「ノンバイナリー」は例えば現在の日本であればアイデンティティを指す(法的にノンバイナリーという性別カテゴリーのある社会なら法的なカテゴリーも指すかもしれない)わけですよね。で、それ自体は別に構わないというか、構うも構わないも実際にノンバイナリーのフェミニストたちは過去にもいたし現在もいるわけです。

ただ「フェミニズムの主体」として持ち出される「女性」を私たちはそのようにアイデンティティのあるいは法的なカテゴリーだけを指すものとして理解しなくていけないのか、それとも「この文脈で」「女性」という言葉をより開くことができるのか(例えばアイデンティティとしては「女性」のカテゴリーには入らないけれども法的にはそのカテゴリーに入る、あるいはその逆、というような人々を含むような形で)、それによって何が達成される/されないのか、ということが気になっています。