The Hankyoreh newspaper (15/08/1991)
Was sold to Kisaeng of Pyongyang at the age of 14, by mothers living has become difficult.
BEHIND THE COMFORT WOMEN.
CONTROVERSY: HOW LIES BECAME TRUTH (Page 14) No longer able to make ends meet, my mother sold me to a kisaeng house owner in Pyongyang when I was 14. After living there for three years, I thought I had gotten my first job. But the place I was taken by the kisaeng house owner who had adopted me was a division of the Japanese Army in North China. There were more than 300 soldiers there. First I was sold for ¥40, then trained to be an entertainer for a few years, and after that I went to a place where Japanese soldiers were stationed. http://www.sdh-fact.com/CL02_1/39_S4.pdf Newspaper article
종군 위안부 참상 알리겠다/국내거주자중 첫 과거폭로 김학순씨
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[한겨레]|1991-08-15|14면 |사회 |해설
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◎언젠가 밝혀야 할 역사적 사실/아직도 일장기 보면 분노 치밀어 17살 꽃다운 나이에 5개월여동안 일본 군인들의 종군 위안부를 지낸 김학순(67·서울 종로구 충신동 1·사진) 할머니가 14일 오후 한국여성단체연합 사무실에서 당시 참상을 폭로하는 기자회견을 가졌다. 일제 강점 아래 종군 위안부 생활을 강요받았던 한국인 중 해방 이후 국내에 살면서 자신의 참담한 과거를 폭로한 경우는 김학순씨가 처음이다. “그동안 말하고 싶어도 용기가 없어 입을 열지 못했습니다. 언젠가는 밝혀져야 할 ‘역사적 사실’이기에 털어놓기로 했습니다. 차라리 속이 후련합니다.” 주름살이 깊게 팬 할머니로 변한 김씨는 50년 전의 떠올리고 싶지 않은 과거가 가슴 아픈 듯 연신 눈시울을 적시며 말문을 열었다. “지금도 ‘일장기’만 보면 억울하고,가슴이 울렁울렁합니다. 텔리비전이나 신문에서 요즘도 일본이 종군 위안부를 끌어간 사실이 없다고 하는 이야기를 들을 때면 억장이 무너집니다. 일본을 상대로 재판이라도 하고 싶은 심정입니다.” 현재 한달에 쌀 10㎏과 3만원을 지급받는 생활보호대상자로 생활을 연명하고 있는 김씨의 사연은 기구하다. 24년 만주 길림성에서 태어난 김씨는 아버지가 생후 1백일 만에 돌아가신 뒤 생활이 힘들어진 어머니에 의해 14살때 평양 기생권번으로 팔려갔다. 3년간의 권번생활을 마친 김씨가 첫 취직인 줄 알고 권번의 양아버지를 따라간 곳이 북중국 철벽진의 일본군 3백여명이 있는 소부대 앞이었다. “나를 데리고 갔던 양아버지도 당시 일본 군인들에게 돈도 못받고 무력으로 나를 그냥 빼앗기는 것 같았습니다. 그뒤로 5개월 동안의 생활은 거의 날마다 4∼5명의 일본 군인들을 상대하는 것이 전부였습니다” 김씨가 있었던 곳은 소부대 앞에 세워진 가건물로,5명의 10대 한국 여성이 함께 있었다. 쌀과 부식은 부대에서 제공됐고 24시간 감시상태에서 지냈다. 몇번이나 탈출을 시도했던 김씨는 그때마다 일본 군인들에게 들켜 두들겨맞곤 했다고 털어놓았다. 당시 우리나라와 중국을 오가며 ‘은전’장사를 했던 한국인 조원찬(31)씨가 마침 위안소에 들렀을 때 그에게 사정해 겨우 도망쳐나오는 데 성공했다. 그뒤 조씨와 함께 만주로 가 중국 상하이 등지를 전전하면서 살다가 해방 뒤 조씨와 서울로 와 정착했다. 아들 딸 1명씩을 낳고 살던 김씨는 6·25직후 아들 딸을 잃고,53년엔 남편마저 세상을 떠나 식모살이,날품팔이 등을 하며 어렵게 살아왔다고 목이 메어 말했다. 김씨는 최근 취로사업을 나갔다가 만난 원폭 피해자 이맹희(66·여)씨와 한국 정신대 문제대책협의회의 권유로 사실을 밝히기로 결심했다는 것이다. 김씨는 “정부가 일본에 종군위안부 문제에 대해 공식 사과와 배상 등을 요구해야 한다”고 힘주어 말했다. 한편 정대협은 “김씨의 증언을 시작으로 생존자,유가족들의 증언을 통해 역사의 뒤안길에 묻혀 있던 정신대 실상이 밝혀져야 한다”고 강조했다.<김미경기자> |
(私の訳)
従軍慰安婦の惨状を知らせる/国内居住者のうち、最初の過去の暴露金学順さん[ハンギョレ] 1991-08-15 / ハンギョレ新聞 14面(社会面)
17歳の花のように美しい年齢で5ヶ月余りの間、日本の軍人たちの従軍慰安婦を務めた金学順 (キム ハックスン 김학순) (67歳、ソウル市鍾路区チュンシンドン(忠信洞)のおばあさんが14日午後、韓国女性団体連合オフィスで、当時の惨状を暴露する記者会見を行った。日帝強占下、従軍慰安婦生活を強要された韓国人のうち、解放以後、国内居住者で、自分のひどい過去を暴露した例は、金学順さんが初めてだ。
「これまで言いたくても勇気がなかったが口を開けました。いつかは明らかになければならない "歴史的事実"なので打ち明けることにしました。いっそ気分がすっきりします。」
シワが深く愛らしいのおばあさんに変わったキムさんは50年前の思い出したくない過去が胸が痛むようすでずっと目がしらを濡らして話し始めた
「今"日の丸 "を見ると、悔しくて、胸がムカムカします。テレビや新聞で、最近も日本が従軍慰安婦を集めた事実がないという話を聞くと胸が崩れます。日本を相手に裁判でもしたい心情です。 」現在の月に米10㎏と3万ウォンを支給される生活保護対象者として生活を延命しているキムさんの事情は数奇である。
当時、我が国(韓国)と中国を行き来して‘銀銭’商売をした韓国人ゾ・ワンチァン(31)さんがちょうど慰安所に立ち寄った時彼に頼んでやっと逃げて出てくるのに成功した。その後、ゾさんとともに満州に行って中国、上海などの地を転々としながら生きて解放の後ゾさんとソウルにきて定着した。息子と娘1人ずつを生んで暮らしていたキムさんは、6.25(朝鮮戦争)直後に息子と娘を失い、53年には夫までこの世を去り、家政婦肉*、日雇などをして苦しい生活だったと喉をつまらせた。
<キム·ミギョン(金美景)記者>
*권번 グォンボン[券番]
キーセンを養成したり紹介したりしていた中間業。置屋。
*家政婦肉(?)
식모살 シンモサル - 辞書には載っていません。
식모 は家政婦, 植毛, という意味で、살 は肉,魚肉,果肉;身,中身, 肌, …歳, といった意味です。で、直訳すると「家政婦肉」となります。
これを単に「家政婦」と訳すのはちょっと納得いかないので、検索してみたのですがはっきりしません。性的奉仕をすることもある家政婦のようなのですが、
韓国ドラマの紹介ブログなどでは、このシンモサルを「植毛歳」と訳したものを見かけます。でも、これでは意味不明です。
「植毛歳」という訳は、真実を隠すためのもののように感じます。
78歳のおばあさんから聞いたという、こんな悲しい身の上話もあります。
우리와 동석이 된 78세의 할머니는 자신의 옛날 이야기부터 현실의 문제를 숨김없이 말씀하십니다.어린나이에 고아가 되버려 먹고 살기 힘든 때라 근처 동네에 입양을 해서 먹고 살았는데...
결국은 식모살이었습니다.
그래서 한글을 모르고 지금까지 살아왔답니다.
韓国ドラマの紹介ブログなどでは、このシンモサルを「植毛歳」と訳したものを見かけます。でも、これでは意味不明です。
「植毛歳」という訳は、真実を隠すためのもののように感じます。
78歳のおばあさんから聞いたという、こんな悲しい身の上話もあります。
우리와 동석이 된 78세의 할머니는 자신의 옛날 이야기부터 현실의 문제를 숨김없이 말씀하십니다.어린나이에 고아가 되버려 먹고 살기 힘든 때라 근처 동네에 입양을 해서 먹고 살았는데...
결국은 식모살이었습니다.
그래서 한글을 모르고 지금까지 살아왔답니다.
>私たちと同席になった78歳のおばあちゃんは、自分の昔の話から現実の問題を隠さずに語ってくれました。
>幼いころに孤児になってしまい、食べていくのが苦しい時だから、近くの町内に養子に入って暮らしたんだけど...
>結局は「家政婦肉」でした。
>それでハングルを知らずに今まで生きてきたそうです。
・・・隠さなければならないような存在の家政婦、まったく教育も受けさせてもらえない・・・普通の家政婦とは思えないんですが。
養子に入って「植毛歳」でした、というのではまったく意味不明ですし。
(他の方の訳)
従軍慰安婦の惨状を知らしめる国内居住者中 初 過去暴露 金学順さん
いつかは明らかにしなければならない歴史的事実未だに日章旗を見ると憤怒する
17歳の花のような歳の5ヶ月間余りの間、日本軍人たちの従軍慰安婦をした金学順(김학순67歳・ソウル鍾路区チュンシン洞1・写真)婆さんが14日午後 韓国女性団体連合事務所に当時の現状を
暴露する記者会見を持った。日帝強占下、従軍慰安婦の生活を強要受けた韓国人中、解放以後国内で活しながら自身の惨憺(さんたん)とした過去を暴露した境遇は金学順さんが初めてだ。
『これまで言いたくても勇気が無くて口を開くことが出来ませんでした。いつかは明らかにしなければならない「歴史的事実」なので打ち明けることにしました。かえってすっきりしています。
しわが深いおばあさんに変わった金さんは50年前の思い出したくない過去が胸を痛むかのように目頭を濡らすと話し始めた。
『今でも「日章旗」を見ると悔しく、胸がむかむかします。テレビや新聞で近頃も日本が従軍慰安婦を引っ張って行った事実はないという話を聞く時は胸が崩れます。日本を相手に裁判でもしたいくらいの心情です。』
現在ひと月米10kgと3万ウォンの支給を受け生活保護対象者として生活を延命している金さんの事情は数奇だ。
24年満州 吉林省で生まれた金さんは父親が生後100日で亡くなられた後、生活が苦しくなった母親のために14歳の時、平壌妓生(キーセン)検番(置屋)に売られて行った。3年間の検番生活を終え金さんが初就職と思って検番の養父について行ったところが北中国鉄壁の日本軍300余名がいる小部隊前だった。
『私を連れて行った養父も当時日本軍人たちにお金も貰えず無力に私をそのまま奪われたようでした。
その後5ヶ月間の生活は殆んど毎日4~5名の日本軍人達を相手にするのが全部でした。』
金さんがいた所は小部隊前に建てられた建物で、5名の10代韓国女性が一緒でした。米とおかずは部隊で提供され24時間監視状態で過ごした。何度も脱出を試みた金さんは、その度に日本軍人たちに見つかって叩かれたと打ち明けた。
当時我が国と中国を行き来し「銀銭」商売をしていた韓国人ジョ・ウォンチャン(조원찬31歳)さんが慰安所に来た時に頼んでようやく逃げ来ることに成功した。その後ジョさんと一緒に満州に行き
中国上海などの地を転々としながら住み、解放後ジョさんとソウルに来て定着した。息子と娘1名ずつ産んで住んでいた6・25(朝鮮戦争)直後、息子と娘を失い、53年には夫もこの世を去り女中奉公、日雇いなどをして貧しく生きてきたと喉をつまらせ言った。
金さんは最近就労事業に出て出会った原爆被害者イ・メンヒ(이맹희66歳)さんと韓国挺身隊問題対策協議会の勧めで事実を明らかにする決心をしたという。
金さんは『政府が日本の従軍慰安婦問題に対して公式謝罪と賠償を要求しなければならない』と力を込めて言った。
http://exposethelies.web.fc2.com/news19910815kimhs.html