特集

COLUMN 2022.12.18

教えて! 時代考証・木下竜馬さん

~『御成敗式目』ってどこがスゴいの?~

そもそも、『御成敗式目』とはどのようなものなのでしょうか?

『御成敗式目』は、幕府が裁判で使うルールです。51箇条あり、「こういうときはこういう罪にしますよ」ということが書いてあるものです。

武士の心得を説いているものではなく、裁判のルールが書かれたものなんですね!

はい。例えば、「文書を偽造したら所領没収の罪にする」という刑事的なことや、「妻が夫から所領を譲渡されたのち離婚した場合どうする」といった相続法的なことなどが書かれています。北条泰時はこれにかなり気合いを入れていたようで、『御成敗式目』を作った際にはその写しを各国の守護に送り、さらに「写しを各国で作って御家人たちに配布しなさい」と指示しているんですよね。

刑事的なものや財産法といったもの以外のことも書かれているのでしょうか?

もちろん裁判に関するルールについても書かれています。例えば、召文めしぶみという「あなたは裁判所に出頭しなさい」という文書があるのですが、「何回無視したら罰する」というルールが明記されていますね。

やはり、無視する人が多かったのでしょうか?

そうでしょうね。「俺、関係ねぇし」みたいな人たちをどのように裁くのかは、大問題というか大きな課題の一つだったと思います。

『御成敗式目』の対象者は御家人ですか?

基本的には御家人が対象ですね。

当初から『御成敗式目』というタイトルだったのでしょうか?

「式目」は泰時が付けたものですが、「御成敗」まではわかりません。制定年をとって『貞永式目』と呼ばれる場合もありますが。「成敗」というのは当時の政治・裁判的な判断のことなので、「さまざまな政治上で裁判を行っていくための法律」ということで、『御成敗式目』というようになったのだと思います。

泰時はどのくらいの時間をかけて作ったのでしょうか?

『吾妻鏡』によると、前々から作ろうとはしていたようですが、実際に着手したのは貞永元年(1232)5月で、同年8月に完成していますね。

泰時が作ろうとしたきっかけは、何だったのでしょうか?

『吾妻鏡』を読んでもあまり明確には書かれていないのですが、考えられるのは、承久の乱後に訴訟がとてつもなく増えたからということですね。西国のほうにも所領を手に入れた御家人たちが入り込んでいくわけですが、その土地を支配しているお寺や貴族が幕府に対して、「お前のところの武士たちがむちゃくちゃやってて困るんだけど」と訴えを持ち込んでくるわけですよ。そもそも、源平合戦が終わった時点でも源頼朝のもとには訴えがどっさりきていて、頼朝はもちろん、大江広元をはじめとした文官たちも忙殺されていました。承久の乱後は、それをはるかに上回る大量の裁判が幕府に持ち込まれたと思います。

なるほど!

加えて、頼朝のころは京から持ってこられるものについては、すべてあちらの言うとおりに裁いていたのですが、泰時のころになると、訴えられている側の言い分も聞いたうえで裁判を行うようになるんですよね。泰時は本当に大変だったと思います。

それはなぜ変わったのですか?

非常に難しい問題なのですけれども、片方だけの訴えをもとにして判決を下すと、もう片方が納得しないので、ずっと争いが続いてしまう可能性が高くなります。だから両方の言い分を聞いて判決を下すほうが、長期的には良いだろうということになったのだと思います。

だんだんと実態に合わせて変わっていったのですね。

はい。江戸時代でいう「お白洲」のような幕府の裁判所で、訴えている両者がやってきて互いに主張するわけですが、そういうときの判断基準として『御成敗式目』が作られたわけです。

基準があったほうがわかりやすいですよね。

基準が違って判決がまちまちだと信用に関わるので、それで判断基準のルールを作ったと『吾妻鏡』には書いてありますね。

何人くらいで作ったのでしょうか?

2人で、6人で、11人でなど諸説あります。これは余談ですが、当時の評定衆11人に、泰時時房を加えた13人が『御成敗式目』に署名しているんですよね。なので、これで「13人、そろいました」というドラマの最後もありなんじゃないか…と思ったりもしたのですが(笑)。

『御成敗式目』はいつまで使われていたのでしょうか?

「これから効力はなくなります」と宣言されたことはないんですよ。室町時代になってもふつうに使われているので。

室町時代になっても使われていたんですね。

『御成敗式目』の内容については、「悪口をいうな」「人を殴るな」といった正直しょぼいと感じる部分もいくつかあるのですが、武家政権が独自に作った最初の法律として、すごく価値があるんですよ。のちに戦国大名が独自の戦国大名法というものを作りますが、『御成敗式目』を丸っとコピーして法律を作っているものもあるんですね。例えば、伊達政宗の曾祖父・稙宗たねむねが作った『塵芥集じんかいしゅう』には、『御成敗式目』をかな書きにしただけみたいな箇条があったりします。このことからもやはり、武士にとって法律といえば『御成敗式目』だったのだと思いますね。

『御成敗式目』はどういう点が画期的だったのでしょうか?

画期性というよりは、“のちに与えた影響の大きさ”というのが、すごい点だと思いますね。それまでの古代の律令は、現在の目で見てもすごく細かくて体系的なんですよ。それは中世のふつうの人が使うようなものではないだろうということで、泰時が自分で式目を作ったのだと思います。

難解で複雑怪奇だったから、当時の実態に合ったシンプルなものを用意したということですか?

律令では、例えば人をあやめた場合は、故意なのか、過失なのか、計画的なのかなど、内容によって罪が分かれます。それは現代も同じです。しかし中世では、そういう細かい区分を必要とするような社会ではないわけです。なので、退化といえば退化なのですが、実質的には使われていないものよりは、自分たちで使えるものを作ったほうが良いだろうということで、泰時が作ったのだと思います。

一度ひも解いてシンプルにしたことが画期的というか、革新的なことだったのでしょうか?

日本の法律の歴史の再スタートだと思います。室町時代くらいになると、『御成敗式目』は法律であるとともに、学校における教科書のように扱われるようになるんですよ。手習いでは、『御成敗式目』の文章を書いて習字の練習もするというように。
鎌倉・室町時代までは、印刷というのは仏教や儒教の経典といった外国人が書いたものばかりでした。そんな中で、日本人が作った書物として初めて日本で印刷されたのが、『御成敗式目』だったんですよね。『源氏物語』や『伊勢物語』などの文学作品ではなく、初めて印刷されたのは『御成敗式目』だったんです。そのくらい社会的なニーズがあったということです。だから、『御成敗式目』がすごいものであったことは間違いないですね。

<