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COLUMN 2022.12.18

教えて! 時代考証・長村祥知さん

~承久の乱④ 承久の乱の合戦と戦後って?~

官軍と戦うため、まずは北条泰時率いる18騎が鎌倉をちました。源義経が鎌倉から京へ向けて出陣した際もそうですが、初動の人数が少ないですね。

最初はやはり様子見をしていたのだと思います。流れができてしまえば、早く行って戦功を挙げれば土地がもらえるので、「さぁ行け!行け!」となったのでしょうけれどね。

苦しいときに真っ先に出陣すれば評価が上がり、褒美が増えるという考えはないのでしょうか?

戦場で先陣を切って戦えば評価されますが、出陣のときに先発してもあまり評価はされないと思います。やはり実際に戦ってこその恩賞なので。

後鳥羽上皇が坂東の動きを把握するのは、泰時が出陣してからどのくらいあとのことでしょうか?

5月下旬に駿河国、現在の静岡県あたりを幕府軍が進軍していることを知らされて、「これはえらいこっちゃ」となったようです。

慌てて諸国に命じたと思いますが、後鳥羽上皇はどのくらい軍勢を集められたのでしょうか?

残念ながら正確な数字を出すのは難しいです。ただ、『吾妻鏡』では計算すると2万7千となるのですが、2万でもだいぶ盛っていると思うんですよね(笑)。平安時代の終わりのころの貴族の日記を見てみると、保元元年(1156)に起きた「保元の乱」では何百騎という数字ですし、治承4年(1180)に平維盛源頼朝追討のために出陣した際も2千騎という数字です。「承久の乱」が起きたのは承久3年(1221)で、たぶん5千は超えているでしょうけれど、短期決戦の経過を考えても2万を超えるような数字になることは、まずなかったと思います。

『吾妻鏡』には幕府軍は19万騎に及んだと書かれていますが、これも怪しいですよね?

かなり怪しいですね(笑)。

数の信ぴょう性はともかく、坂東からたくさんの軍勢が出陣しました。鎌倉を守る兵は減っていると思いますが、この隙を狙って義時を討つという考えはなかったのでしょうか?

基本的には政子義時を守ると決めて動員をかけているので、この時点でそのようなことは誰も考えなかったのだと思います。義時を討つと政子を敵に回すことになりますから。

なるほど。やっぱり政子、強いですね。

強いですね(笑)。それに、北条に次ぐ有力者の三浦義村も出陣していますしね。もし、不意を突かれて鎌倉のなかで襲撃される危険を回避するために義村も出陣させたのだとしたら、巧妙だなと思います。

ドラマの中では、泰時が活躍した宇治川の合戦が描かれました。この合戦が「承久の乱」の勝敗を大きく左右したのでしょうか?

史料の残り方を見てみると、宇治川の合戦が一番大きかったと思います。先祖の功績として宇治川の合戦の勲功を挙げている御家人の子孫がかなりいるんですね。なので、この合戦に関わった御家人がすごくたくさんいて、鎌倉方は主力を配置して戦ったと考えられます。

『吾妻鏡』に泰時がイカダを用意して川を渡ったとありますが、実際にこのようなイカダだったのでしょうか?

絵図なども残っていませんし、鎌倉時代にどんなイカダを作っていたのかは正確にはわかりません。

民家を壊してイカダを作っていますが、住人たちはどうなってしまったのでしょうか?

財産を隠して逃げ惑うとか、怒りを心に秘めるとか…。

補償はしてくれないですよね。

たぶんないでしょうね。

ちなみに、ドラマでは時房、朝時、義村らも宇治川の合戦に加わっていますが、実際にはいませんよね?

いないですね。本来であれば朝時北陸道にいて、時房は勢多(滋賀県大津市瀬田)、義村は淀(京都市伏見区)で戦っているはずなので。
「鎌倉殿の13人」は大枠で史料に忠実に、そして、史料からわからないことは大胆に創作されていて、研究者仲間からも「時代考証、しっかりしてるね」とかなり褒めてもらっているのですが、それは脚本の三谷幸喜さんとチーフプロデューサーの清水拓哉さんはじめ制作関係者の皆さんが我々考証チームの意見をきちんと聞いてくださるからなんです。ただ、このシーンに関して言えば、最後の最後で創作に振り切ってこられたなと(笑)。

合戦に勝利した泰時らは、整然と入京したのでしょうか?

まず六波羅に入りますが、流れでわらわらと入ったと思います。

京の人たち大混乱ですね。

そうですね(笑)。実際にその過程で略奪行為なども結構あったようで、やっぱり京都の人たちからしたら「たまったもんじゃない」という空気だったと思います。

後鳥羽上皇が「私は悪くない」と弁明していましたが、苦しい言い訳ですよね。

本当に。『吾妻鏡』に気になることが書いてあって、六波羅に入る前の日の夜に泰時が16騎を引き連れてひそかに西園寺公経さいおんじきんつねの使者と話をしたとあるんですね。そこで誰に責任を負わせて、どのように落とし前を付けるかの裏交渉が行われたのではと想像されます。そして、次の日に後鳥羽から使者がやってきて、「これは私が悪いんじゃなく、悪い臣下が勝手にやったんだ」ということにしたようです。

「承久の乱」は日本の歴史において、どのような出来事だったといえるのでしょうか?

「武家が優位に立った転換点」といえると思います。頼朝の時代に幕府的なものが確立できていたとしても、それは上皇の下にある一地方軍事政権のような位置付けでした。しかし「承久の乱」に勝利したあとは、日本国内のすべての舵取り、実質的な決定権を持つことになりました。明治維新まで武士が世の中の支配者集団となるわけですけれども、その構造が確定したのが「承久の乱」なのかなと思います。

大きく変わったことはあるのでしょうか?

基本的に朝廷が主導権をもてなくなっていきますね。誰を天皇にするのか、上皇にするのかについて幕府の発言力も大きくなりますし。それから土地の支配については、西国のほうにも御家人が進出し、潜在的な支配権が鎌倉幕府に移ります。後鳥羽が持っていた土地の支配権も一度鎌倉幕府が没収して、後鳥羽のあとに上皇となった後高倉に「必要があったら返してもらうよ」と確認したうえで渡しているんですよ。けれども、これに伴い現地の住民と御家人とのトラブルが増加し、幕府にたくさんの訴えが持ち込まれることになるんですね。鎌倉幕府としては勢力が拡大したともいえるのですが、その一方で、国家の支配者としての義務・責任も増えているんです。これらの深刻な問題に対応していくために、『御成敗式目』を作ろうというようになったのだと思います。

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