特集

COLUMN 2022.12.11

教えて! 時代考証・長村祥知さん

~承久の乱③ 政子の演説ってスゴかった?~

「承久の乱」では、御家人たちが政子の演説によってまとまったといわれていますが、文面は政子本人が考えたのでしょうか?

それはないでしょうね。誰かブレーンが文面を考えていると思います。

スピーチライターがいるということですね。

史料からはわからないのですが、ドラマで描かれたように大江広元あたりが考えたというのは、十分にありうる話だと思います。

演説は御家人たちを御所に集めて行ったのでしょうか?

『吾妻鏡』によれば、その場にいた何人かをある程度集めたようですね。

後鳥羽上皇から院宣をもらった8人の有力御家人は、この場に全員いたのでしょうか?

『吾妻鏡』とは少し違うのですが、院宣の本文をおさめる慈光寺本『承久記』によれば、北条時房三浦義村を除く6人はその場に集まったようです。ただ、彼らは、自分が院宣を受けとったことを政子義時には隠していて、密告するタイミングを逃したようです。彼らに比べると、三浦義村の判断の早さが際立ってますね。

やはり政子の言葉は効果絶大だったのでしょうか?

そうだと思います。政子源頼朝の妻ですし、当時は三寅がまだ幼くて実質的な四代鎌倉殿政子でしたから、政子の言葉は義時よりもはるかに重みがあります。

執権義時でさえも政子はないがしろにできないということでしょうか?

そうなんです。ドラマでうまく描けているなと思うのですが、歴史上でも政子が本気を出したら頼家にしろ実朝にしろ抑え込むことができてるんですよね。政子の判断として自分が前面に出てあれこれ言うのではなく、頼家実朝鎌倉殿としてきちんと政治をしてほしいということで一歩引いていますが、本気を出したら抑え込めちゃうんですよ。まさにこんな感じだったと思います。

夫が亡くなり代替わりをしても力を保持していたんですね。

はい。当時は、一門の長が亡くなったら、残された妻がその代行者とみなされました。政子のほかにも平清盛の妻・時子が有名ですね。時子は清盛の死後に壇ノ浦の戦いで源氏に敗れると、安徳天皇三種の神器とともに海へと身を投げ、これに知盛ら平家一門が続いていきます。亡き清盛の子で跡を継いだ宗盛は海を泳いで生き延びたのですが、清盛の妻である時子が一族の滅亡という重い決断をこのときに行って、周囲はそれに従ったんですね。政子の演説もそうですが、それだけ強い権限を認められていました。

<