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お品書き

「シュガーはお年頃」(二宮ひかる)

相当古い物件なのでまずは粗筋から。
「シュガーはお年頃」(二宮ひかる)というのはこんな話です。
同世代の友人から微妙に浮いていると感じている恵子は、微妙にいずらい教室から昼ご飯を食べる場所を探して図書室へ。そこで図書委員をしているクールな美女、アサミに興味を持つ。アサミも恵子と親しくなって二人は親密さを高めていく。実は恵子は娼婦になりたいんだ、だって誰も私を愛してくれないだろうから、体を売って愛してもらいたい、とポロっと漏らすと「やりたいなら今すぐ♂呼ぶよ」と苛立つアサミ。あんなもん、絶対そんなんじゃない!と言うアサミ。ますます距離が近づく二人。
一方でアサミを追いかけて来た本田(♂)を知り警戒心を高める恵子。二人は「私/俺が一番アサミを知っている」と張り合うのだった。
しかし教育実習でアサミの過去を知る男が登場すると一変。アサミは突如として行方不明に。アサミを探すその過程でアサミが何を抱えていたのか、その一端を知る恵子。
時が過ぎてもアサミが死んでいるかもしれない、と心の中にずっしりとアサミへの思いを抱える恵子は夢の中でアサミと会い、アサミが微かに「愛しているよ、恵子」と言うのを聞いた気がした、というところで終わりなのです。

・・・・・えー、粗筋で書くと細かいニュアンスが全部ぶっ飛んでるんで、是非是非手にとってお読みください。ラストでもう切ない気持ちで一杯になると思いますよ。カミさんも大層感動して小僧に読ませた位なので。

で、意匠としては普通の♀同士友情物語で、最後にアサミが「愛しているよ」とは言いますが、それは夢の中の話。読者は「これは恵子の願望が言わせた台詞」として取れるようになっています。そしてこのラストの為にこの作品は丁寧に伏線を作っています。歌をやたらと口ずさみ、娼婦になりたい、娼婦になって愛してあげると、その人も私を愛してくれる、という願望を持つ恵子の人物造形が無いと最後のシーケンスが成立しない。
が。
(1)そもそもラストシーンの夢でなぜアサミはドヤ顔で「絶対会える」と言うのか。二宮ひかるの作家的資質ならアサミは死んでいる位の事は平気で書ける筈ですし、であれば切ない顔で言うはず。つまり二人の再会自体は「ある」と二宮ひかるは考えている筈。
(2)じゃ、なんで過去の所行を恵子に知られた途端にアサミは失踪するのか。大体恵子はある程度は既に知っているので、過去が明確になっても恵子がアサミに対して失望する筈がないのはお互いに知っている筈。
(3)それに恵子は本田(♂)とヤらなかったんだ?二宮ひかるだったら絶対お互いアサミの事しか眼中にないからこそ、いないアサミを求める為に心の通わない交流を、とか描きそうじゃん。
(4)大体アサミとの再会妄想は何故妄想なのだ。ドヤ顔で「再会出来る」というシーンを描く位だったら、ストレートに再会すればいいじゃん。それでも二宮ひかるの力量なら十二分に感動出来る話に出来るでしょう?
(5)しかもラストシーンから逆算してこの話が作られているのに!
で、この疑問は「アサミは性愛的な意味で恵子を愛していた」とすれば全て解ける。惚れた女に自分の汚れた姿を見られたくないから失踪してしまうし、妄想で再会を描くのは二人を「純潔」にしておきたかったらからですよ!
結局、アサミが恵子に『愛している』というファイナルワードを言うためにはどうしても、現実ではなく夢かも、という状況が必要だった。本当に本当に真摯な思いであるからこそ、夢の中でしか言えない、描けない言葉だった。
つまり、これだけ持って回った状況を作り出さなけれ言えないからこそ、その思いは本当に真摯なものだったのです。
つまり「シュガーはお年頃」は凄い直球な百合物件だったのです、というのが2012年の今の私の見解です。

「ミカるんX」(高遠るい)

百合として、ワイドスクリーンバロックとして、怪獣モノとして、SFとして、萌えマンガとして、世界に出して恥ずかしくない一大叙事詩「ミカるんX」!
話はというとこんな感じ。

近未来。異星人たる航海者による侵略が日常茶飯事になった地球。彼ら航海者は自らの肉体により銀河系間を又にかけ宇宙を渡っているのです。宇宙の支配の為に。
その中で、福井より東京の全寮制中高一貫校・聖アグリッパ学園に入学した南るんなは中等部首席鯨岡ミカと出会う。
ミカは一目見てるんなを気に入りちゅーを。
その時航海者の操る怪獣に襲われ、ミカは上半身を吹っ飛ばされる。その時るんなは過去に願いの叶うブレスレットにより、ミカを蘇らせる。二人は合大(合体+巨大化)し、マッパな女性の姿、ミカるんXとして、航海者や怪獣たちと闘うのだ!
で、この戦闘シーンが凄く良くできてる。あのウルトラマンタロウのダサい怪獣デザイン、兵器デザインを見事に真似ていて、劇中歌まで出てくるしで(笑い)。
で、るんなのブレスレットは実は地球人類が滅ぼした原始人類の王が残したアイテムで、とか、時間と空間を又にかけた一大闘争になってるんで、読んでいた人間全員「ああ、このミカの♀好きなのは理屈嫌いの読者の為のサービスシーン(マッパ)の方便なんだろ」とか思っていたらですね。
最終巻で物凄い百合的攻撃が炸裂するのです!こんな感じで。
地球崩壊の時は刻々と迫り、人類を全員航海者とする、という計画に対して、るんなは「航海者となる事は人類でなくなること、今までのほんの些細な喜びを捨てること」と考え、地球と共に滅びることを決意。るんなを愛しているミカはなんとしてもるんなに生き延びてほしく、故に人類は航海者になるべきだ、という。その結果るんなはミカとの仲直りのしようがないケンカに突入。
ここに至って、るんなの「小さな物語」(目玉焼きに醤油垂らして食べるの美味しいよね、みたいなささやかな幸せ)が「大きな物語」によって粉砕されてしまう、という展開に。
つまりはるんなの代表する「小さな物語(日々の暮らし)」とミカの代表する「大きな物語(人類の進化)」の対立がこの巻の主題。
でもミカとるんな二人とも「どっちも手に入れることは出来ない、どちらかを取ればどちらかを捨てるしかない」という事は分かっている。
そして、最終的にるんなは「大きな物語によって、小さな物語を取り戻す」という決意を、そして、ミカは「るんなが取り戻した小さな物語の中に生きたい」という決意を示すのです。
このミカの決意の表明は銀河の命運を決する「大きな物語」を「小さな物語」が飲み込む、という感動的な瞬間なんです!!大半の百合ヲタさんがあんまピンと来ないでしょうけどこういう解法って今までどこにも無かった凄い解法ですよ!!・・・・・・・多分。
つまり銀河系の運命よりも目の前にある恋が大切なんだ、そしてその恋を成就させるために私たちは大きな物語を語り続けよう、という、大きな物語と小さな物語を対立するものではなく、表裏一体のものに出来るし、それを目指すんだ、という感動的なラストです。
・・・・・・・・・・というネタバレを避けつつ、しかしラストの百合的感動を伝えようとして婉曲話法を駆使して語ってみましたが、どんなもんでしょうか。わはは。
とにかくラストの感動的なミカの言葉を聞くためだけに、この全8巻を買え、位の勢いですよ。素晴らしい!
百合として、ワイドスクリーンバロックとして、怪獣モノとして、SFとして、萌えマンガとして、世界に出して恥ずかしくない一大叙事詩「ミカるんX」の最終話を刮目せよっ!
いや、マジで傑作ですよ、傑作。

という感じでどうでしょうか。
同時期に完結した「ささめきこと」よりもこっちを取りたいという所にSFヲタの性が。わははは。

「淀川ベルトコンベア・ガール」(村上かつら)

とにかくもう自分はノックアウト食らいました。
話はというと、故郷の福井から遠く離れ、大阪に住み込みで工員としてはたらく16才の「かよ」。ある日「この電車が陸橋のすれ違う真下で大声で三回言うと願いがかなう」という言葉を聞き誕生日の前日に「友達が欲しい!友達と言えば最初に私の事を思い浮かべてくれて、ファッションや雑貨の話をしあう、そんな友達が!」と叫びます。
工場の中にはよくしてくれる人はいっぱいいますが、同年齢の娘はおらず、故郷から遠く離れ友人とも連絡が付かない、そんなある種の切羽詰まったかよの行為。
そしてその願いに応えるかのように誕生日にバイトとして工場に勤める事になった、と紹介される女子高校生、那子。
最初はまったく慣れ合う所作の無かった那子ですが、サイフをギったんじゃないの、という濡れ衣を晴らした事をきっかけにツンドラがツン位にはなった。
そして、突如、那子から「私たちのパーティに来ない」と誘われてホイホイとついていくと、エリカという那子のクラスメイトの家に。これが物凄いゴージャスな家。もう露骨に貧乏人鑑賞パーティかつ那子もビンボー人だよね、という様な状況でたまらず、かよは逃げるように抜け出ます。(このあたりまでが第一巻)
一方で那子は「私はエリカに気にいられたいが為にかよを『売った』」と自責の念に。実は那子の学校ではかよが一種珍獣の様に見られている事をしって自分からは知り合いだ、と言わないようにしていたのでした(最初のツンはその性だという説明)
しかしとうとうエリカに知られてハブにされるのが恐くて「売って」しまった、と凹む那子。
その事がきっかけでエリカと、ひいては学校から孤立する那子。同時に孤立する穴を埋めるようにかよと親しくなっていきます。
一方で那子が学校で孤立していると知らされたかよは「うちは自分のしてほしい事をしてもらうばっかりで」と愕然。
何か出来る事はない?と言うも「何でも言い合うのが友達じゃないでしょ」と応える那子(このあたりまでが第二巻)
で、これは三巻の後書きに書かれていた状況描写なんですけど

・存続した所で赤字が累積していくだけのはせ食品
・シャッター通りの片隅でなす術もなく朽ち果てていくテーラーハセガワ(かよの実家)
・高三から勉強した所で医学部には入学できないであろう那子
・報われる事のないヒロキの那子への恋心
・そして進学してしまえば那子との繋がりは切れてまた孤独に戻るかよ
勝算は無い、退路もない。
「いっそ諦められたらどんなにラクか!」・・・・・・しかし決定打もない。

この抜き差しならない状況でしかしかよが那子がお互いの友情の為にふんばる訳ですよ。
でですね、最期のかよが願うシーケンスがもう悶絶もんですよ。お前どんだけ那子が好きなんだ、という・・・。
そして最初のシーンにこう繋がるんだ、という感動。
この切なくしかし真摯な願いが読者の胸に刺さります。
凄く良い話だし、素敵な友情物語なんです。
なんですけど。
那子がかよの為にエリカに頭を下げて、つまりはその時に初めてちゃんとエリカに向かい合ったシーンも「那子、お前どんだけかよが好きなんだ」と思って私は百合的に悶絶。
・・・・・それに本来友情の意味でかよが「那子ちゃん・・・・・・大好き」という台詞に百合萌えしてしまう自分がちょう恥ずかしい。
この作品が百合ヲタ万人に受けるかというと非常に疑問です。だってこれ友情物語なんで百合的エモーションは全然無いんで・・・。
が俺の中では今年の収穫ですよ、これ。いや、マジに。
という訳で皆さん騙されたと思って、ものは試しで購入してみてはいかがでしょうか。

「わたしたちは皆おっぱい」(東風実花)

私は魂が震えるくらいに感動しましたよ!
これは本筋だけを追うとただのOP(おっぱい)スキーな少女のドタバタ劇なんですけど、1巻の巻末にある短編が作者曰く「本編と同じテーマを扱っているものだ」という言葉が凄い示唆的なのです。
つまり「わたしたちは皆おっぱい」は青春の欝屈と自己肯定を描いた話だった、と見てよいはず。そう考えると2巻に登場した新キャラは皆奇矯な人でありましたが、その奇矯さを含めて最終的に自己を肯定できたし、あるいは、どんなに奇矯であっても自己を肯定していいんだよ、という話に読める訳ですよ。
貴子が樹里に「OPは素晴らしい」と説く所は凄過ぎますヨね。あれは樹里に「あなたは自分が自分であることを肯定していいんですよ」という事を説教がましくなく説く素晴らしいシーンですよね。「あなたは自分のOPを、自分の肉体を、自分を圧倒的に肯定していいんだ!」という事をこれほど説得力をもって訴えかけた漫画を私は知りません。

・・・・こ、こほん。
とにかく、この「わたしたちは皆おっぱい」、素敵な青春少女マンガで百合的にも楽しいマンガだったな、と思う次第。

「ネムルバカ」(石黒正数)

「ネムルバカ」は今度アニメ化される「それでも町は廻っている」の石黒正数が描いた青春マンガ(笑い)の傑作でありますが、しかしこれ、百合ヲタが見るともう強烈な百合マンガにしか見えません。
2008年3月の単行本発刊当時、結構百合ヲタの注目を集めたし、私凄く好きなんです。ただイマドキ(笑い)の百合ヲタさんにはもう存在すら知らないんじゃないか、と不安に思いまして今更「ネムルバカ」を騙ってみようかと。多分「それ町」のあおりで再刊される率が高いと思いますので、未読の方はこの機会に是非!

さて「ネムルバカ」というのはこんな話です。
主人公をどっちに置くかというのも難問ですが、とりあえず大学の女子寮での同室である先輩の鯨井ルカと後輩の後輩の入巣柚実、二人を巡る話。
話のタッチはまんま「それでも町は廻っている」で、柔らかい描線でオバカな日常生活を淡々とコメディタッチで描きます。・・・・・後半ちょっと派手な事件もあるんですが、描写はあくまで淡々と日常的な視点から描写されるのでリアリティが維持されています。
で、彼女たちはこの年にありがちな「何にでもなれる」という希望と「何かになれる才能など無いかもしれない」という不安と戦っています。その戦いが鯨井センパイのバンドであり、入巣コウハイの恋愛だったりするのです。
恋愛ったってコウハイちゃんの恋愛なんてカワイイもんで、コウハイちゃんが三文ドラマもびっくりというようなアホな「出会い」を期待していることを告白すると、センパイががあきれ果てながらそれを叱りとばすというようなしょうもないレベルですけどね。
でも二人はなんちゅうか結構親密で「センパイにはバンドがあるけど私には何も無い」とぼそりと言うと「私はお前が大事だよ」とボソリと答えてくれたりするのです。コウハイちゃんはセンパイの事を何かしらひとかどの人間だと思っていますしね。前半はこんな感じで微温的な暖かさとマヌケさに満ちた二人の交流を描いています。
しかしセンパイはそのぬるま湯的な心地よい世界に浸るのは駄目だと思っているのですよ。そして何とかして「自分が何者であるかを証明したい」と思っています。で、突如スカウトされたのを機に大学を止めて、音楽アイドル(笑い)への道を突き進みます。
で、コンサートのチケットがコウハイちゃんへ届けられてコウハイちゃんがコンサートを見るのね。でコウハイちゃんはコンサートでセンパイの音楽を聴いて愕然とします。センパイの今までやっていたパンク系とは無縁のオシャレ音楽。なんなんだ!
「なんだかつまらない」「こんな事の為に私を捨てたのかよ」となんだかなー、と思っているコウハイちゃんの眼前で突如!
センパイの世界への、そしてコウハイちゃんへの「私はここにいる」という超強力なメッセージが!
ここからは皆様買ってお読みください。このラストのシーンはもう百合的にも作品的にも悶える悶える。
絶対買って損しませんよ!
・・・・・・・・・・多分。

なお発売直後に石黒さんが「タイトル名がしりとりになってる」「しりとりが最初に戻る様に話がループ構造になっている」と語っておりまして、そういう点で読んでみるのもまた楽しみではないかと。

「マルスのキス」(岸虎次郎)

「マルスのキス」は素晴らしすぎる!
お話しはこんな感じ。
「偶然マルスの彫像にキスをしている所を見かけたギャル娘の由佳里。キスをしていた美希は優等生。お互い興味が無かった二人はその事をきっかけに、様々な悩みを打ち明ける仲に。しかし由佳里は美希へのキモチが単純な友情でない事を徐々に自覚していき・・・」という様な話。由佳里のゆっくりうねる気持ちを丹念に追いかけている作品。
♀同士で結ばれない、という所から敬遠する向きもあるかもしれませんが(オレがそうだった)そういう漠然とした感覚で敬遠するには勿体ないですよ!
(1)♂を経験しているにも関わらず♀を選ぶ。
(2)報われない事をしっていつつ、それでも一生好きでいる、と誓う。
という自分の2大ツボを押しまくられですよー。ま、この二人、二年後位にハッピーエンドになる事を想像するのは容易。この程度のラストじゃ全然へこまないよ、俺は。
というか、個人的にはハッピーエンドと言ってもいいんじゃないかな、と思うくらいで。だって別に不幸になってないじゃない。

つまりはこういう事です。
♀同士のハッピーエンドにならなかった事で落胆した方も多いでしょう。俺もちょっとがっくり。でもですね。あそこでもし結ばれてしまったら由佳里の今までの恋とどう違うんだ?という話になりますよね。「報われなくてもずっと好きでいる」という事を選択したからこそ、彼女の心性が美しく見える。ただ美希の幸福を願うことを選ぶからこそ彼女のつらい選択が光り輝く。だから、お話しとしてはどうしてもあそこで結ばれる訳にはいかなかった。
さて、ここで唐突にカミュの「シジフォスの神話」に移ります。
シジフォスは神々からの刑罰として与えられたのは、休みなく岩をころがして、山の頂まで運び上げる、というものでした。一たび山頂に達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちるのです。無益で希望の無い労働ほど恐ろしい刑罰はない、と神々は考えたのだ、と。
しかし、とカミュは言います。
「かれが山頂をはなれ、神々の洞穴のほうへと少しずつ降ってゆくこのときの、どの瞬間においても、かれは自分の運命よりも勝っている」と。
そして最後にカミュはこう宣言します。
「ぼくはシジフォスを山の麓にのこそう!人はいつも、繰り返し繰り返し自分の重荷を見いだす。しかしシジフォスは神々を否定し、岩を持ち上げるよりも高次の忠実さを人に教える。
かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛ともくだらぬものとも思えない。この石の上の結晶一つ一つが夜に満たされたこの山の鉱物質の輝きの一つ一つが、それだけで、一つの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争それだけで、人間の心をみたすのに十分足りえるのだ。いまや、シジフォスは幸福なのだと思わねばならぬ」と。
だから我々も美希の幸福のみを願った、由佳里のその選択こそを「どの瞬間においても、彼女は自分の運命に勝っている」と思うべきだ、と思うのです。確かにあの瞬間、世界の運命に彼女は勝っているじゃありませんか。
まぁ現実的に美希さんも二年後位には真実の愛に目覚めていると思いますが。<いままでの論考が台なし。わはは。

余談ですが、二年後、こういう感じだと思えばいいんじゃないの?という作例がsmallcallさんとこにありました。これ
まー、こういう将来が待っているのだよ、きっと。むはははは。

「ヴィオラートのアトリエ きてれつ村おこし」(越智 善彦)

もはや古本でも入手困難なんで紹介する意味はあんま無いんですが、一応ゲーム自体の大ファンなので触れないわけにいかないでしょう。むふふ。
自分で入れ込んでいるゲーム「ヴィオラートのアトリエ」の・・・なんというのかな、忠実なコミックというのでしょうか。過不足無くアトリエの世界を描写しつつ、ヴィオラートのブリギットイベントを中心に据えて描写しています。
恐ろしいことに、ブリギットは最初はほのかな恋慕の気持ちをロードフリードに向けているのですが、後半、この思慕の気持ちは急速に消え、ブリギットの気持ちはヴィオラート中心に回り始めます。なので、読んでいると「ツンデレキター」という感じ。わはは。ラストも友情なんですけど、最初はしっくりと行かなかったブリギットとヴィオラートは非常に親密になって、見ている自分は非常に微笑ましい気持ちになります。ブリギットのために真摯に困難に立ち向かうヴィオラートの思い入れにちょっと涙ぐんだりしましたよ。・・・・ちょっと思い入れが強すぎか?
アトリエファンは随所にニヤリとする描写がありますし、作者はアトリエ世界に強い愛情を持っているのが分かります。
機会があったら是非。無理してまで入手するほどでは無いと思いますが、アトリエファンで百合スキーであれば是非。


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