2007年 02月 06日
Re: ごめんなさい
Re: ごめんなさい 幽霊食口 - 2007/01/05(Fri) 02:42 No.5318
>ふみさん
おはつです。
>知らずに神様を何度も何度も叩いてきたのは、外の誰よりも
>私たち食口ではなかったかという気がします。
私は、あまり内とか、外とか概念に分けたく思いません。より神の摂理を担う者・神の心情を思わないといけない者という意味での”神により近い者”、”神により遠い者”というように捕らえています。
そういった意味で、ふみさんの先の言葉を捉えなおし、私たち食口を今現在、お父様に従う群れであるという一点でもって、最も神に近しい者の集団と捕らえたとき、ふみさんの意見に賛成です。
確かに、公平性という観点から見るとき、どんな人物でも同じ過ちを犯す場合、罪の大きさは同じかもしれません。しかしながら、神の観点から見るとき、より近しいものが犯す過ちのほうが心情の蹂躙度が大きいものだと思います。人は、全くの赤の他人が犯罪を犯せば憤りを覚えます。しかし、自らの子が同じ犯罪を犯すとき、その罪の大きさを思う前に非常な悲しみを覚えます。そのような人の親である神もまた同じ性質をお持ちです。そうであるとき、私たちは心しなければならないと思います。私たちは神の喜びとなるか、神の悲しみとなるかは私達の責任分担であると。
ですから、私は”神により近い者”に警告を発します。イスラムよりアメリカに、反対の立場の人より食口に。
何故なら、”神により遠い者”の最初の使命は”神により近い者”を打つことだと思うからです。神はその人の心霊の状態により、より適した立場と使命を与え、それにより復帰節理を進めようとされます。”神により遠い者”はこの行動を通して、”神により近い者”の現実面での過ちを正す・神により近い者のとしての証明をさせる・堕落性本姓を分別させる等の共助をなすと考えています。
私たちがそれを理解し、そして、正しく歩むとき私たちは、この世の終わりに、統一教会の傘の下ではなく、神の元で真実の兄弟姉妹として巡り合えるのだと信じています。
Re: ごめんなさい ゆきっち - 2007/01/05(Fri) 05:56 No.5319
幽霊食口さん
>この世の終わりに、統一教会の傘の下ではなく、神の元で真実の兄弟姉妹として巡り合えるのだと信じています。
私はこの意見に全く賛成です。
って言うか何で統一教会にいる人って、自分達は素晴らしいけど、それ以外の人間は堕落圏なので罪深いんだ、みたいな意識の人が多いのか疑問です。(当然そんな意識じゃない人もいますが)
私には統一教会の婦人部長さん達も、親戚の創価学会の叔母さんも、同じような人間としか思えませんでした。
Re: ごめんなさい 幽霊食口 - 2007/01/06(Sat) 18:25 No.5325
>ゆきっちさん
>私はこの意見に全く賛成です。
ありがとうございます。
>って言うか何で統一教会にいる人って、自分達は素晴らしいけ
>ど、それ以外の人間は堕落圏なので罪深いんだ、みたいな意識の
>人が多いのか疑問です。
これは選民意識です。だけど、選ばれたこと自体を誇りにしてはいけないのです。勝利するために選ばれたのですから、勝利するまで誇れる内容はないんですね・・・。
選民とは悲惨な立場です。現実的な面においても、霊的な面においても・・・。こういう立場にいるものにとって、この選民意識は慰めと力を与えるものとしてある意味有効ですが、度が過ぎればそれは傲慢となったり、心情的境界を形成させたり、失敗の原因となり、更に悲惨な立場になってしまいます。
歴史は学び、同じ轍を踏まないようにしなければならないはずなんですが・・・・・
Re: ごめんなさい ゆきっち - 2007/01/06(Sat) 23:29 No.5326
>選民とは悲惨な立場です。現実的な面においても、霊的な面においても・・・。こういう立場にいるものにとって、この選民意識は慰めと力を与えるものとしてある意味有効ですが、度が過ぎればそれは傲慢となったり、心情的境界を形成させたり、失敗の原因となり、更に悲惨な立場になってしまいます。
確かに選民…統一教会の人って教会以外の世界の人に比べたら、遥かに苦労し惨めな立場の人も多いですよね?経済的にも家庭環境的にも。
私の母の知り合いの食口の人も大袈裟じゃなく、癌や白血病を発症する人が多いのです。
まだ40代とかで子供も小さいのに…。
教会的には先祖の因縁のせいとも言いますが、私はその一つの原因としては過度の過労やストレスもあるんじゃないかとは思っているんです。
教会系の企業に勤めている人は、けして収入も言い訳じゃないしノルマもあって家族を養うために、殆ど休み無く働いている人もいるそうです。
そう言う立場の人の事を思うと本当に心が痛いですが、苦労して犠牲の立場になったとしてもそれを恨まないで、自分の苦労が報われることを望まないでいられるとしたら、それが天使長の越えられなかった堕落性を脱ぐ事になるのかな…とも思います。
天使長は自分はこんなに苦労してきたのに…って言う思いがあったから驕慢になっちゃったんだろうし。
でも、私の本音としてはそんな風に犠牲になっている一般の食口の人達こそ早く報われて欲しい気持ちもあります。
Re: ごめんなさい 幽霊食口 - 2007/01/08(Mon) 16:33 No.5328
>ゆきっちさん
>私の本音としてはそんな風に犠牲になっている一般の食口
>の人達こそ早く報われて欲しい気持ちもあります
そうですね。その早道は、やはり勝利するしかないんですね・・・堂々巡りのようなんですが。。。
何せ、神様は世界で一番あきらめるのが嫌いなお方ですから。
統一教会もこのままでは絶対無くなりません。勝利してないから無くなりません。勝利しないと無くならないんです。勝利しないままで無くなると、神様は負けたことになります。勝利してから無くなるのです。未勝利のまま無くなることは神様が許しません。と確信して言えます。無くなるときは、勝利し発展的に解消するときだけです。
そのときこそ、食口は報われるのでしょう。神様の目から涙が完全にぬぐわれる・・・それこそが私たちの最高の報いだと思います。
>天使長は自分はこんなに苦労してきたのに…って言う思い
>があったから驕慢になっちゃったんだろうし
傲慢とは神と自分を入れ替えること・・・と考えています。
ルーシェルは、愛の減少感が起点が引き金となり、神様の立場と自分の立場を入れ替え、公益よりも自己益を求めてエバを誘惑したのです。
私は、散々少々不謹慎な発言をしています。”叩き返すのは本来善なる行為”とか・・・・これは、読まれる方に本来何を分別すべきなのかを考えてほしいかったからです。ルーシェルは自己益を求めてエバを誘惑し、エバも自己益を求めてアダムを誘惑しました。
つまり、自己益を求める心にサタンは相対基準があうのです。だから、自己益を求める心こそ分別のしなければならないのです。それが自己否定の根本です。
自己益とは、物理的なものだけではなく、心情的なものも含めてです。
今まで、統一教会で言われてきた自己否定・・・・はこれではなかったように思えます。自分のすべてを否定する・・・これこそが自己否定と捉えられてきました。それでいて、自己益を求める心のことは分別されてきていません。実績・・・実績・・・実績・・・・認められたい・・・愛されたい・・・愛してほしい・・・・お父様のことを出汁にして、自己益を求めて奔走してきたように思えます。分別しないでいいものを分別し、分別しなければならないものを分別せず・・・・・いったい何をやってきてたんでしょうか・・・。
私は原研出身です。万物復帰のとき、よく自己否定といわれました・・・だけど・・・あれは間違っていたとしか言いようが無い・・・・。実績を出さんがための自己否定・・・に何の意味があったのか・・・実績は神が司るもの。実績よりも御言葉を実践し、愛する訓練をする。買わせることが愛の実践ではない。それは一旦条件としてたっても、サタンが少し讒訴すれば、すぐさま奪われてゆく条件。人を愛し、人から愛された証明である実績でなければ何の意味があろう・・・・・。自己否定とは自らの実績を求める心をもっとも否定しなけばならなかったはず・・・馬鹿踊りをすることが本当の自己否定ではない・・・・
なんか最後は独り言のようになりましたが・・・公益よりも自己益を求める心情からくる言動は、それがどんなに正しく見えようとサタンに付け入られます。どんなに御言葉を語っても、語る人の自己益のために語られるときは間違いが進入してきています。
分別すべきは、自己益を求める心・・・報酬・代償・栄光を求める心です。
Re: ごめんなさい ゆきっち - 2007/01/10(Wed) 20:36 No.5331
>神様の目から涙が完全にぬぐわれる・・・それこそが私たちの最高の報いだと思います。
私もそうだと思っています。
少し話はオカルトっぽい話になりますが、私は数年前初めて靖国神社に参拝した時に、その日から毎日三日間深夜に白い包帯でグルグル巻きになった二十歳前後と思われる若い兵隊さんの幻を見るという経験があったんです。
その兵隊さんは何にも話さなかったけど、不思議と怖いと言う感じは無くて、恨みや悲しみの表情も感じられなかったけど、とにかく苦しそうでハァハァと息が荒い様子がはっきり感じられたんです。そしてその人が現れると真夏だったのに氷の中にでもいるような寒さを感じたんです。
私は三日目に自分の所に来られてもどうしようも無いので、韓国のチョンピョンと言う所に行けば何とかなるかもしれないので、そこに行ってくださいと心の中で話しました。
その後その兵隊さんが現れる事はありません。
この体験は単なる私の想像と自己暗示が創り出したもので、本当には霊なんていないのかもしれません。
でも、そんな風に若くして死んでいった人達が存在していたのは事実だったとは思うんです。
自分は現代と言う時代にたまたま生まれたから、戦争も経験してないだけだし、日本と言う国にたまたま生まれたから、取りあえず裕福とは言わなくても飢えて死ぬなんて事は無いだけだと思います。
だけどそうじゃない人達はたまたま生まれた時代、場所が悪かっただけで、その人達に何の落ち度も無い筈です。
特攻隊や回天で死んで行った人達は、自分達が命を失くしても、それがその後の日本人の幸せに繋がると本気で思っていたと思うんです。
自分はそんな風に犠牲になっていった人達に対して、何も出来ないけど献金や清平でのカイオンがそんな人達の救いに繋がるのなら、これ以上の恩恵は無いと思うんです。
仮にその献金の使い道が、幹部の人達の不正蓄財だったとしても、それが無意味なことであるとは思っていません。
Re: ごめんなさい ヒロシ - 2007/01/11(Thu) 20:39 No.5334
◎幽霊食口さん
初めまして、ヒロシと申します。92年の祝福を受けた信仰二世で
二児のパパ。一般企業でサラリーマンしてます。(^-^)
>認められたい・・・愛されたい・・・愛してほしい・・・・お父様のことを
>出汁にして、自己益を求めて奔走してきたように思えます。分別しないでい
>いものを分別し、分別しなければならないものを分別せず・・・・・いった
>い何をやってきてたんでしょうか・・・。
「認められたい!愛されたい!」この言葉は私にとって特別な意味を持っています。
と言うのはずーと長い間、ある面病的と言える程、この想いに執着して来たからです。
三十路を幾らか過ごしたこの年になって漸く、執着から解放されて来たかなと感じて
ますが、そこで思うのはこの想い自体は大切ではないかと言うことです。で、私個人
としては「分別」するのでなく「成熟」させることが大切ではないかと思うのです。
私自身のことを振り返って見ると、こと幼少期において、親から「そのままの自分で
在ることを、認められなかった。」という体験があり、それが大人になってからも、
満たされていないままの状態にあったんだと思います。つまりその部分だけは、幼児
のままであったとも言えるのでしょうか。
想いを分別すると言うのは、分別しても問題ないという安心感が自身の内にあって
初めて可能になるんじゃないかと思うのですが、それは幼児の状態であった自分に
とっては、不安と恐れでしかなりませんでした。頭では解るんですよ。でも、駄目
でした。結果、「もっと自己否定をしなきゃ、もっと分別しなきゃ」と自分を追い
込んでしまいました…。
様々な状況があり一概には言えないとは思いますが、「認められたい!愛されたい!」
という想いが涌き出る時、自身のその想いを認めてあげる事もまた、必要だと思います。
で、認め肯定してあげた後は、他によってそれを得ようとするんでなく、神様・父母様
と共に、自分で自分に与える(ケアする)ことで、それを少しずつ満たす事が大事だと
私は感じています。それは、自分で自分を頼りに出来るようになること、つまり自信を
持てるようになることだと思います。それが核となり、人を愛する、人から愛されるに
も繋がると思っています。
実際の自分はまだまだ未熟です。それを受け入れ、一つひとつをしっかりと積み重ねて
行きたいと思います。
Re: ごめんなさい 幽霊食口 - 2007/01/16(Tue) 22:38 No.5345
>ヒロシさん
おはつです。信仰の2世の方が頑張っておられるのは希望が出ます。
30代だとすると、大先輩のご家庭の2世の方かと拝察します。
本当に先輩方のご家庭は犠牲になられ、2世の方々は十分な愛情を受けることが出来なかった事情圏を思うと胸が詰まる思いです。
ですから、ヒロシさんがそうお考えになるのは当然だと思います。
私の説明が不十分でした。
>認められたい!愛されたい!
これは分別すべきだと書いておりますが、この思いは実際は人の本性に属する思いですので、元来は分別は出来ないのが事実です。
公益よりも私益を上位におくことが正味の堕落性であり、これを分別しなければならないということなんですが、実は、これはもっと詳しく説明しないといけない内容です。
人には私益を優先しなければならない・・・というか・・・創造原理的に私益=公益である時期があります。神様は人の第一祝福に成長しなさいといわれています。そして成長するためには愛される必要があるのです。自己中心的でなければ、赤子はすぐに死んでします。子供は大人に愛情を要求しなけばなりません。何故なら、神様はお一人で成長されてきましたが、それは自分自身でご自分を愛されてこられ、成長されてこられたのですが、それがとてつもなく時間がかかることがおわかりだから、人が早く成長できるシステムを創造されたのです。だから、体の成長に追いつくためには子供は大人の愛情が必要であり、それを要求する事は創造原理的に公益なのです。
また、人の成長は神様の成長過程の表象であり、人が公的精神に目覚める時期は、神様が公的精神に目覚められる時期(人を想像しようと意志を持たれた時期に相当します)相当し、人は神様の相対でありますから、神様の結婚とは人が成長し一体化したとき・・・つまり祝福の時ですので、神様が被造物の創造をされていた時期というのは、人間の霊的年齢で公的精神に目覚めて祝福を受けるまでの時期に相当します。
しかしながら、人間は公的精神目覚めだしたちょうどそのときに、公益よりも私益を優先し堕落してしてしまいました。
ですから、創造原理的にもこの時期は、理想を持ち公益を追求する時期に当たります。
ちなみに、堕落によってわれわれ(1世ですが)が祝福を受ける時期は、霊的見たら堕落した年齢に当たります(と言う原則ですが・・・これまたこうなっていないので・・・かなり複雑なんですが・・・)。つまり、祝福後は堕落をしていないということを証明していかなければならない時期であり、つまり、創造原理的に見てもそうだったものが、堕落によって、公益を最優先にして歩まなければならない、この特徴をより顕著にして歩まなければならない時期が祝福後から人格完成まで来ると考えています。
つまり、”愛されたい、認められたい”という思いというのは、創造本性であり、これ自体は何ら悪いことでもないですが、分別しなければならない時があるということです。それは、復帰原理的に見たら、祝福後。ただ、個人の霊的成長段階もありますので、一概にすべてをこうだと言ってしまうわけにも行かないとは思いますが・・・。
口足らずで・・・不愉快な思いをされた事をお詫びいたします。
>ふみさん
おはつです。
>知らずに神様を何度も何度も叩いてきたのは、外の誰よりも
>私たち食口ではなかったかという気がします。
私は、あまり内とか、外とか概念に分けたく思いません。より神の摂理を担う者・神の心情を思わないといけない者という意味での”神により近い者”、”神により遠い者”というように捕らえています。
そういった意味で、ふみさんの先の言葉を捉えなおし、私たち食口を今現在、お父様に従う群れであるという一点でもって、最も神に近しい者の集団と捕らえたとき、ふみさんの意見に賛成です。
確かに、公平性という観点から見るとき、どんな人物でも同じ過ちを犯す場合、罪の大きさは同じかもしれません。しかしながら、神の観点から見るとき、より近しいものが犯す過ちのほうが心情の蹂躙度が大きいものだと思います。人は、全くの赤の他人が犯罪を犯せば憤りを覚えます。しかし、自らの子が同じ犯罪を犯すとき、その罪の大きさを思う前に非常な悲しみを覚えます。そのような人の親である神もまた同じ性質をお持ちです。そうであるとき、私たちは心しなければならないと思います。私たちは神の喜びとなるか、神の悲しみとなるかは私達の責任分担であると。
ですから、私は”神により近い者”に警告を発します。イスラムよりアメリカに、反対の立場の人より食口に。
何故なら、”神により遠い者”の最初の使命は”神により近い者”を打つことだと思うからです。神はその人の心霊の状態により、より適した立場と使命を与え、それにより復帰節理を進めようとされます。”神により遠い者”はこの行動を通して、”神により近い者”の現実面での過ちを正す・神により近い者のとしての証明をさせる・堕落性本姓を分別させる等の共助をなすと考えています。
私たちがそれを理解し、そして、正しく歩むとき私たちは、この世の終わりに、統一教会の傘の下ではなく、神の元で真実の兄弟姉妹として巡り合えるのだと信じています。
Re: ごめんなさい ゆきっち - 2007/01/05(Fri) 05:56 No.5319
幽霊食口さん
>この世の終わりに、統一教会の傘の下ではなく、神の元で真実の兄弟姉妹として巡り合えるのだと信じています。
私はこの意見に全く賛成です。
って言うか何で統一教会にいる人って、自分達は素晴らしいけど、それ以外の人間は堕落圏なので罪深いんだ、みたいな意識の人が多いのか疑問です。(当然そんな意識じゃない人もいますが)
私には統一教会の婦人部長さん達も、親戚の創価学会の叔母さんも、同じような人間としか思えませんでした。
Re: ごめんなさい 幽霊食口 - 2007/01/06(Sat) 18:25 No.5325
>ゆきっちさん
>私はこの意見に全く賛成です。
ありがとうございます。
>って言うか何で統一教会にいる人って、自分達は素晴らしいけ
>ど、それ以外の人間は堕落圏なので罪深いんだ、みたいな意識の
>人が多いのか疑問です。
これは選民意識です。だけど、選ばれたこと自体を誇りにしてはいけないのです。勝利するために選ばれたのですから、勝利するまで誇れる内容はないんですね・・・。
選民とは悲惨な立場です。現実的な面においても、霊的な面においても・・・。こういう立場にいるものにとって、この選民意識は慰めと力を与えるものとしてある意味有効ですが、度が過ぎればそれは傲慢となったり、心情的境界を形成させたり、失敗の原因となり、更に悲惨な立場になってしまいます。
歴史は学び、同じ轍を踏まないようにしなければならないはずなんですが・・・・・
Re: ごめんなさい ゆきっち - 2007/01/06(Sat) 23:29 No.5326
>選民とは悲惨な立場です。現実的な面においても、霊的な面においても・・・。こういう立場にいるものにとって、この選民意識は慰めと力を与えるものとしてある意味有効ですが、度が過ぎればそれは傲慢となったり、心情的境界を形成させたり、失敗の原因となり、更に悲惨な立場になってしまいます。
確かに選民…統一教会の人って教会以外の世界の人に比べたら、遥かに苦労し惨めな立場の人も多いですよね?経済的にも家庭環境的にも。
私の母の知り合いの食口の人も大袈裟じゃなく、癌や白血病を発症する人が多いのです。
まだ40代とかで子供も小さいのに…。
教会的には先祖の因縁のせいとも言いますが、私はその一つの原因としては過度の過労やストレスもあるんじゃないかとは思っているんです。
教会系の企業に勤めている人は、けして収入も言い訳じゃないしノルマもあって家族を養うために、殆ど休み無く働いている人もいるそうです。
そう言う立場の人の事を思うと本当に心が痛いですが、苦労して犠牲の立場になったとしてもそれを恨まないで、自分の苦労が報われることを望まないでいられるとしたら、それが天使長の越えられなかった堕落性を脱ぐ事になるのかな…とも思います。
天使長は自分はこんなに苦労してきたのに…って言う思いがあったから驕慢になっちゃったんだろうし。
でも、私の本音としてはそんな風に犠牲になっている一般の食口の人達こそ早く報われて欲しい気持ちもあります。
Re: ごめんなさい 幽霊食口 - 2007/01/08(Mon) 16:33 No.5328
>ゆきっちさん
>私の本音としてはそんな風に犠牲になっている一般の食口
>の人達こそ早く報われて欲しい気持ちもあります
そうですね。その早道は、やはり勝利するしかないんですね・・・堂々巡りのようなんですが。。。
何せ、神様は世界で一番あきらめるのが嫌いなお方ですから。
統一教会もこのままでは絶対無くなりません。勝利してないから無くなりません。勝利しないと無くならないんです。勝利しないままで無くなると、神様は負けたことになります。勝利してから無くなるのです。未勝利のまま無くなることは神様が許しません。と確信して言えます。無くなるときは、勝利し発展的に解消するときだけです。
そのときこそ、食口は報われるのでしょう。神様の目から涙が完全にぬぐわれる・・・それこそが私たちの最高の報いだと思います。
>天使長は自分はこんなに苦労してきたのに…って言う思い
>があったから驕慢になっちゃったんだろうし
傲慢とは神と自分を入れ替えること・・・と考えています。
ルーシェルは、愛の減少感が起点が引き金となり、神様の立場と自分の立場を入れ替え、公益よりも自己益を求めてエバを誘惑したのです。
私は、散々少々不謹慎な発言をしています。”叩き返すのは本来善なる行為”とか・・・・これは、読まれる方に本来何を分別すべきなのかを考えてほしいかったからです。ルーシェルは自己益を求めてエバを誘惑し、エバも自己益を求めてアダムを誘惑しました。
つまり、自己益を求める心にサタンは相対基準があうのです。だから、自己益を求める心こそ分別のしなければならないのです。それが自己否定の根本です。
自己益とは、物理的なものだけではなく、心情的なものも含めてです。
今まで、統一教会で言われてきた自己否定・・・・はこれではなかったように思えます。自分のすべてを否定する・・・これこそが自己否定と捉えられてきました。それでいて、自己益を求める心のことは分別されてきていません。実績・・・実績・・・実績・・・・認められたい・・・愛されたい・・・愛してほしい・・・・お父様のことを出汁にして、自己益を求めて奔走してきたように思えます。分別しないでいいものを分別し、分別しなければならないものを分別せず・・・・・いったい何をやってきてたんでしょうか・・・。
私は原研出身です。万物復帰のとき、よく自己否定といわれました・・・だけど・・・あれは間違っていたとしか言いようが無い・・・・。実績を出さんがための自己否定・・・に何の意味があったのか・・・実績は神が司るもの。実績よりも御言葉を実践し、愛する訓練をする。買わせることが愛の実践ではない。それは一旦条件としてたっても、サタンが少し讒訴すれば、すぐさま奪われてゆく条件。人を愛し、人から愛された証明である実績でなければ何の意味があろう・・・・・。自己否定とは自らの実績を求める心をもっとも否定しなけばならなかったはず・・・馬鹿踊りをすることが本当の自己否定ではない・・・・
なんか最後は独り言のようになりましたが・・・公益よりも自己益を求める心情からくる言動は、それがどんなに正しく見えようとサタンに付け入られます。どんなに御言葉を語っても、語る人の自己益のために語られるときは間違いが進入してきています。
分別すべきは、自己益を求める心・・・報酬・代償・栄光を求める心です。
Re: ごめんなさい ゆきっち - 2007/01/10(Wed) 20:36 No.5331
>神様の目から涙が完全にぬぐわれる・・・それこそが私たちの最高の報いだと思います。
私もそうだと思っています。
少し話はオカルトっぽい話になりますが、私は数年前初めて靖国神社に参拝した時に、その日から毎日三日間深夜に白い包帯でグルグル巻きになった二十歳前後と思われる若い兵隊さんの幻を見るという経験があったんです。
その兵隊さんは何にも話さなかったけど、不思議と怖いと言う感じは無くて、恨みや悲しみの表情も感じられなかったけど、とにかく苦しそうでハァハァと息が荒い様子がはっきり感じられたんです。そしてその人が現れると真夏だったのに氷の中にでもいるような寒さを感じたんです。
私は三日目に自分の所に来られてもどうしようも無いので、韓国のチョンピョンと言う所に行けば何とかなるかもしれないので、そこに行ってくださいと心の中で話しました。
その後その兵隊さんが現れる事はありません。
この体験は単なる私の想像と自己暗示が創り出したもので、本当には霊なんていないのかもしれません。
でも、そんな風に若くして死んでいった人達が存在していたのは事実だったとは思うんです。
自分は現代と言う時代にたまたま生まれたから、戦争も経験してないだけだし、日本と言う国にたまたま生まれたから、取りあえず裕福とは言わなくても飢えて死ぬなんて事は無いだけだと思います。
だけどそうじゃない人達はたまたま生まれた時代、場所が悪かっただけで、その人達に何の落ち度も無い筈です。
特攻隊や回天で死んで行った人達は、自分達が命を失くしても、それがその後の日本人の幸せに繋がると本気で思っていたと思うんです。
自分はそんな風に犠牲になっていった人達に対して、何も出来ないけど献金や清平でのカイオンがそんな人達の救いに繋がるのなら、これ以上の恩恵は無いと思うんです。
仮にその献金の使い道が、幹部の人達の不正蓄財だったとしても、それが無意味なことであるとは思っていません。
Re: ごめんなさい ヒロシ - 2007/01/11(Thu) 20:39 No.5334
◎幽霊食口さん
初めまして、ヒロシと申します。92年の祝福を受けた信仰二世で
二児のパパ。一般企業でサラリーマンしてます。(^-^)
>認められたい・・・愛されたい・・・愛してほしい・・・・お父様のことを
>出汁にして、自己益を求めて奔走してきたように思えます。分別しないでい
>いものを分別し、分別しなければならないものを分別せず・・・・・いった
>い何をやってきてたんでしょうか・・・。
「認められたい!愛されたい!」この言葉は私にとって特別な意味を持っています。
と言うのはずーと長い間、ある面病的と言える程、この想いに執着して来たからです。
三十路を幾らか過ごしたこの年になって漸く、執着から解放されて来たかなと感じて
ますが、そこで思うのはこの想い自体は大切ではないかと言うことです。で、私個人
としては「分別」するのでなく「成熟」させることが大切ではないかと思うのです。
私自身のことを振り返って見ると、こと幼少期において、親から「そのままの自分で
在ることを、認められなかった。」という体験があり、それが大人になってからも、
満たされていないままの状態にあったんだと思います。つまりその部分だけは、幼児
のままであったとも言えるのでしょうか。
想いを分別すると言うのは、分別しても問題ないという安心感が自身の内にあって
初めて可能になるんじゃないかと思うのですが、それは幼児の状態であった自分に
とっては、不安と恐れでしかなりませんでした。頭では解るんですよ。でも、駄目
でした。結果、「もっと自己否定をしなきゃ、もっと分別しなきゃ」と自分を追い
込んでしまいました…。
様々な状況があり一概には言えないとは思いますが、「認められたい!愛されたい!」
という想いが涌き出る時、自身のその想いを認めてあげる事もまた、必要だと思います。
で、認め肯定してあげた後は、他によってそれを得ようとするんでなく、神様・父母様
と共に、自分で自分に与える(ケアする)ことで、それを少しずつ満たす事が大事だと
私は感じています。それは、自分で自分を頼りに出来るようになること、つまり自信を
持てるようになることだと思います。それが核となり、人を愛する、人から愛されるに
も繋がると思っています。
実際の自分はまだまだ未熟です。それを受け入れ、一つひとつをしっかりと積み重ねて
行きたいと思います。
Re: ごめんなさい 幽霊食口 - 2007/01/16(Tue) 22:38 No.5345
>ヒロシさん
おはつです。信仰の2世の方が頑張っておられるのは希望が出ます。
30代だとすると、大先輩のご家庭の2世の方かと拝察します。
本当に先輩方のご家庭は犠牲になられ、2世の方々は十分な愛情を受けることが出来なかった事情圏を思うと胸が詰まる思いです。
ですから、ヒロシさんがそうお考えになるのは当然だと思います。
私の説明が不十分でした。
>認められたい!愛されたい!
これは分別すべきだと書いておりますが、この思いは実際は人の本性に属する思いですので、元来は分別は出来ないのが事実です。
公益よりも私益を上位におくことが正味の堕落性であり、これを分別しなければならないということなんですが、実は、これはもっと詳しく説明しないといけない内容です。
人には私益を優先しなければならない・・・というか・・・創造原理的に私益=公益である時期があります。神様は人の第一祝福に成長しなさいといわれています。そして成長するためには愛される必要があるのです。自己中心的でなければ、赤子はすぐに死んでします。子供は大人に愛情を要求しなけばなりません。何故なら、神様はお一人で成長されてきましたが、それは自分自身でご自分を愛されてこられ、成長されてこられたのですが、それがとてつもなく時間がかかることがおわかりだから、人が早く成長できるシステムを創造されたのです。だから、体の成長に追いつくためには子供は大人の愛情が必要であり、それを要求する事は創造原理的に公益なのです。
また、人の成長は神様の成長過程の表象であり、人が公的精神に目覚める時期は、神様が公的精神に目覚められる時期(人を想像しようと意志を持たれた時期に相当します)相当し、人は神様の相対でありますから、神様の結婚とは人が成長し一体化したとき・・・つまり祝福の時ですので、神様が被造物の創造をされていた時期というのは、人間の霊的年齢で公的精神に目覚めて祝福を受けるまでの時期に相当します。
しかしながら、人間は公的精神目覚めだしたちょうどそのときに、公益よりも私益を優先し堕落してしてしまいました。
ですから、創造原理的にもこの時期は、理想を持ち公益を追求する時期に当たります。
ちなみに、堕落によってわれわれ(1世ですが)が祝福を受ける時期は、霊的見たら堕落した年齢に当たります(と言う原則ですが・・・これまたこうなっていないので・・・かなり複雑なんですが・・・)。つまり、祝福後は堕落をしていないということを証明していかなければならない時期であり、つまり、創造原理的に見てもそうだったものが、堕落によって、公益を最優先にして歩まなければならない、この特徴をより顕著にして歩まなければならない時期が祝福後から人格完成まで来ると考えています。
つまり、”愛されたい、認められたい”という思いというのは、創造本性であり、これ自体は何ら悪いことでもないですが、分別しなければならない時があるということです。それは、復帰原理的に見たら、祝福後。ただ、個人の霊的成長段階もありますので、一概にすべてをこうだと言ってしまうわけにも行かないとは思いますが・・・。
口足らずで・・・不愉快な思いをされた事をお詫びいたします。
by frey2
| 2007-02-06 12:39
| 櫻井美佐子・早川トセイ