旧川崎球場(富士通スタジアム川崎、川崎市川崎区)で、残っていた球場時代の照明塔が撤去された。プロ野球、社会人野球、高校野球で数々のドラマの舞台となってきた同球場。その歴史を記憶に残そうと、撤去前日の1月29日、1993年夏の高校野球神奈川選手権決勝を振り返る座談会が、富士通スタジアム川崎の主催で開催された。
川崎球場で夏の高校野球決勝が行われたのは、原辰徳(巨人監督)擁する東海大相模高が決勝最多得点記録を作った76年、翌年の77年。そして、雨続きで日程が押して横浜スタジアムから移った93年。中でも同年の横浜商大高-横浜高の決勝は、名勝負として高校野球ファンの間で語り継がれている。
泣いたのはこの時だけ
座談会に参加したのは、当時の横浜商大監督・金沢哲男さん(64)、商大の名ショートでオリックス、阪神、横浜ベイスターズなどで活躍した斉藤秀光さん(47)、横浜のエース左腕で関東学院大から中日に進んだ白坂勝史さん(47)、2年生捕手で出場した若杉聖一さん(46)の4人。商大出身のアナウンサー黒沢幸司さんの司会で、試合の映像を見ながら当時を振り返った。
「前の日が雨で、当日は快晴でものすごく暑かった」と4人。特に金沢さんの記憶は鮮明で、二回の先制点につながる場面は「あの頃の横浜は、ウエストボールもそんなには外してこない。だからここはエンドラン。でもランナーがサインを見逃してるんだよ(笑)」。若杉さんは、中堅の守備位置を少し前に出した直後にそこに打球が飛んだ場面で“小倉ノート”に触れ、「(当時の)小倉清一郎コーチのデータで、いろいろ聞いていた」。斉藤さんはゲームセットの瞬間を「2アウトでもう大丈夫だろうと思っていて、野球をやってて泣いたのはこの時だけ。負けて泣いたことはなかったし、プロでも泣くことはなかった」と懐かしんだ。
きれいだったカクテル光線
この年、夏の決勝3連敗の屈辱を味わった横浜は、翌年の夏を制し、その後98年に春夏全国制覇の黄金期を迎える。白坂さんは「改めて試合を振り返ると、全力を出して、勝負は時の運。とても勉強になった」。関東学院大に進み、今は会社員生活(松浦企業・横浜市鶴見区)を送る若杉さんは「下級生で出た試合で負けてしまったが、翌年は先輩方や保護者の気持ちと一緒に優勝させてもらった。その後の横浜の歴史を作っていけた」と感慨深げだった。
最後は4人が川崎球場に感謝のメッセージ。鎌倉学園高時代、社会人東芝時代も同球場でプレーした金沢さんは「小学生の時にここで初めてプロ野球を見て、カクテル光線がきれいだったのを今でも覚えている。思い出深い照明塔がなくなるのは残念ですが、本当にありがとうございました」と話した。(和城 信行)
1993年夏の高校野球神奈川大会決勝
横 浜
000010000─1
01100000×─2
横浜商大
93年7月31日(土)。雨天順延が重なって川崎球場で行われた決勝戦。商大は27年ぶりの優勝で、甲子園では優勝した育英(兵庫)に3回戦で敗れた。横浜は3年連続の夏の神奈川決勝敗退だった。
商大の斉藤に加え、横浜からは3年の白坂、高橋光信、2年の多村仁志、斉藤宜之、矢野英司、紀田彰一、1年の横山道哉が後にプロ入り。3年の平馬淳は現東芝監督を務めている。