ヘンテコを探す
小学校入学。
おめでたい日なんだろうが、僕は素直にそう思えなかった。
大きい声で返事。はっきりと挨拶。よくできました。
そういう学校の「正しさ」や「評価」が苦しくなる。
早く帰りたい。そればかり考えた。
本当は、小さい声でもいいんだよ。照れながら挨拶しても素敵な君だよ。
式典だから、恰好をつけたいから、今日は大きくした方がいい、という事なんだよ。
そんな補足ばかり、頭に浮かんで苦しかった。自分でも面倒な性格だと思う。
社会というのは、嘘の中で動いている。
嘘だと知りながらも、それを便宜上了解し、自分もその中に投入しながら、折り合いをつける。そういう高度さの中で運営されている。
見えないものを無数に理解していかなければいけない。
「正しさ」なんかいくらでも変わる。
僕もそうしてきた。そして心のどこかで冷めた部分も持つようになった。
どうせ本当のことじゃない。
そんな風に冷めた部分を確保することで、自分を保っていたように思う。
そんな僕の目を温かくしてくれたのは、いつも「外れた」人だった。
ホームレスのおっちゃんとか、まじめではない先生とか、パンクロッカーとか、そんな感じの人たちが多かった。
学校でいうところの「不真面目」な人たち。
そんな人たちの中に僕はいつも「本当の真面目」を感じたし、温かさを感じたし、生きる勇気をもらった。
今もそうだ。
僕たちはこの高度な社会に身を投入する過程で、何かを封印したり、諦めたり、無理やり納得したりしている。
時に、自分の核になる部分を、守りきれないような気持ちになるときがある。
その防衛的反応が僕の場合「冷め」だったと考えられるし、不登校の子にも同じような一面があると感じることが多いのだ。
僕にとって大人になるという事は、温かな人になることだ。
つまり「冷め」なくても自分の核を大事にできる力を持つこと。
そのために唄ってるんじゃないかと思う時がある。
自分の核を守るために唄うことが必要なのかもしれないと。
唄わなくてもよくなれば、それが一番いいのかもしれない。
つまり、未だにちゃんと大人になり切れていない僕は、学校に足を踏み入れた瞬間から帰りたくなってしまうのだった。
子どもにしたら迷惑な話だ。
素直にお祝いもできない。情けない親だ。しっかりしてくれよと思う。すまないと思う。
でもミキはそんな親をよそに。ドキドキ。友達をキョロキョロ。
帰ってから、どうだったと聞いたら「うれしかった」と言った。
僕はミキが愛しくてならなかった。
嫌なことがあっても、いいことがあっても、みんなパパやママに言っていいからね。
パパたちはミキの味方だからねと伝えた。
それから、ヒソヒソ声で「あと、学校のヘンテコなことがあったら、帰ってからパパに教えてね」とニヤリと笑ってみせた。
ミキもニヤリと笑った。
僕はある意味でまじめ過ぎた。ゆえに苦しかった。
我が子らも、とてもまじめだ。
だから心配も大きく、素直に喜べなかったのかもしれない。
僕はミキとヒソヒソ話をしながら、大人の世界のバカらしさを笑ってほしいと思った。
一緒に笑いたい。
陰で茶化して、ミキらしく生きてほしい。
そして、そう思う事で僕自身も救われるような気がした。
僕よりも遥かに大人で、力強くて、温かなミキに、僕は助けられている。
登校初日。
「ミキ一人で行く」
そう言って、小さい我が子は、大きなランドセルを背負って玄関に立った。
「ミキ、帰ったら学校のこと教えてね。ヘンテコなとこも。あったらね」
僕はそう言って笑った。
「うん」
ミキも少し笑った。
どんなところにいても、この子が幸せに生きていけるよう、僕も一緒に幸せを探したい。
心配するより、その方がいい。
学校だろうが、社会だろうが、地獄だろうが、一緒にヘンテコを探したい。
一緒に茶化して笑いたい。
それが、ダメな僕なりにできることかもしれない。
一度だけこちらを振り返って、その後、ランドセルはどんどん小さくなった。
心配ばかりして、頼りない親の手を引くように。
小さく揺れながら。
どんどんどんどん進んでいった。