不器用な雪掻き道
僕の家に隣接する古い長屋には、高齢者の方が、数人暮らしている。
みんな、とてもいい人達で、我が家の子どもたちの、容赦ない喧噪にも「元気になるよ」と言ってくれ、助かっている。
家に一番近い部屋の、一人暮らしのおじいさんとは、窓越しによく話をする。
職人気質な感じで、凛々しく優しい人だ。
工具を持っているので、たまに借りにいく。
病気療養しており、様態はあまりよくなくて、たまに入院する。
そのたびに「なんかあったら頼む」と言っていく。
いつも気丈にしていても、やはり心細いのだと思う。
奥の部屋の、やはり一人暮らしのおばあちゃんは、たまに脱水機を借りにくる。
いつも子どもたちにケーキや果物をくれる。
子どもらの学習発表会も見に来てくれた。
ひっそりと暮らしている、真ん中の御夫婦も、子どもたちの姿を微笑ましく眺め、よく声をかけてくれる。
てるてる坊主を軒先に下げた時には、思わず声を出して「かわいい」と、とても喜んでくれた
立派な家が建ち並ぶ、住宅街の隙間。
まるで隠れるように、ひっそりと建つ長屋で、静かに暮らす人たち。
ふと、子どもらを見守ってくれるその目線は、とても静かで、温かい。
僕らは、そんな優しい目に見守られ、安心して子育てができている。
今年も雪の季節が来た。
大雪が降った夜。
窓から長屋の方を見ると、10センチほど積もっていた。
ふと、真ん中の部屋の玄関先に、おばあさんが立っていて、先の方を見ていた。
見てみると、おじいさんが、暗闇の雪の中を、杖を突きながら、ゆっくりゆっくり歩いていており、それを心配そうに見守っていた。
朝起きると30センチほど積もっていた。
僕は、長屋の、それぞれの部屋の入り口まで雪かきをして、仕事に向かった。
夕方頃、妻からメールがあった。
「長屋のご夫婦が、雪かきありがとうって、うどんくれたよ」
「逆に気を使わせたかな」
「喜んでたよ」
数日後の日曜日、また雪が20センチほど積もった朝。
「雪かきしたい!」
と長女が珍しく言い出した。
しておいで、と言うと、雪用の服に着替え、スコップを持って、長屋の方へ向かった。
そして、先日僕がやったように、長屋の各部屋の入口から、道路まで雪を掻いていた。
実に根気強く、昼食をはさんで、やり切った。
面倒くさがりで、インドア派の長女は、雪かきなど、頼んでも普段はやってくれない。
この日も、自分の家はやらなかった。
しかし、長屋の雪掻きをやり切り、「楽しかった」と言った。
長女自身、自分にそんな力があったとは、知らなかったのではないだろうか。
道が出来ていくのが、うれしいようで、実に活き活きとやっていた。
こうやって子どもは、本能的に自分の力を引き出していくのかもしれない。
長女を動かしたのは「関わり」の力だったのではなかろうか。
親が人との関わりの中で、主体的にとった行動と、それに対する周囲の反応を受け取るのを、彼女なりに感じ取り、自分もその「関わり」を実践してみたのではなかろうか。
人のためならば、自分の力を試せたのかもしれない。
あれなら自分にも出来るかも、と思ったのかもしれない。
なんにせよ、達成感があったようだ。
助け合う機会があったことは、とても幸せなことだと思った。
子どもの成長にとっても、安心できる暮らし方という意味でも。
その晩、その長屋の地主の方が「すみませんね、雪かきしてもらったみたいで」といろいろとお礼をくれた。
地主さんも、とても良くしてくれる方で、いつも気にかけてくれ、お世話になっている。
僕は、地主さんの責任を追及する意図は、皆無だったし、雪かきの時、地主さんのことなど想像もしなかった。
しかし、近所の目やら、対面やら、地主さんは地主さんで、いろいろ大変なんだろう。
僕がやりすぎるのも、良くないかなと思った。
その夜も大雪だった。
明日も、朝は雪かきかなと思い、寝た。
次の日の朝、カーテンを開けると、長屋の周りは、きれいに雪掻きがしてあった。
先に起きていた長女に「雪かきしてあるね」と言うと「うん。おじいさんがやったんじゃない」と言った。
しかし、おじいさんは、こんなに大がかりに雪掻きはできないだろう。
きっと地主さんだと思った。
子どもたちが作った、不器用な曲がりくねった雪掻き道は、きれいで完璧な雪掻き道になっていた。
それは、良い事のはずだが、 僕は、それを見ながら、少しだけ、寂しかった。